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めそめそするには明るい月だ



 ダンスルームはまったくの無音であった。
 そして彼は、ただそこに立っていた。
 ガラス張りの出入り口の他に外の光を受け入れないそこは、立つ者があれば常に明るく、そして白い明かりに満たされている。出入り口の扉から差す光は、そろそろこんにちの日が暮れようとしていることをダンスルームの巨大な鏡に向かうガーネットに伝えてはいたが、けれど彼はそんな一切を取り合うつもりはないらしく、何かを掴むように鏡面の前で息を潜めていた。
 時は四月八日の夕暮れ。春めいた気候と共に、前日まで教師たちがばたばたと準備に駆り出されていた入学式は午前中につつがなく終了──レッドアップル学園長の話は相変わらずそこらの政治家よりも長かったが──し、各クラスでのホームルームもまた、数時間前にはどのクラスも本格的な授業が始まる明日に備えて今日はきちんと休むように=Aという結び言葉で締め括られていた。ホームルームを終えた直後はさっそくできた友人と校内を見て回る新入生や、上級生たちに明日からの授業内容を質問する者たちでどこもかしこもがやがやと賑わっていたが、しかし四限のチャイムが鳴り、各々が寮塔の食堂で昼食を摂ってからというもの、校舎内はまるで眠る前のような静けさをすっかり取り戻していた。無論、校舎内が静かであることなど滅多にお目に掛かれるものではなかったが。
 新入生たちは寮の部屋で荷物整理や明日の予習、或いは極度の緊張状態から解放されて今頃惰眠を貪っているのかもしれない。上級生たちは学期の中でほとんど存在しないといっても過言ではない半日授業を楽しんでいるか、自主練習、またはマドンナやアンチック辺りに見付かって、入学式の後片付けを手伝わされていることだろう。けれど、そのどのような音もここには入ってこなかった。ここには声の一文字、音楽の一音も存在しなかった。ダンスルームは、まったくの無音であった。
 ゆえに、彼は待っていた。頭の中で音楽が流れ、それらが指先とつま先の先の先にまで充ち満ちることを。
 ゆえに、彼は聴いていた。流れ出した楽の音と、それらが指先とつま先の先の先にまで充ち満ちる音を。
 だから、彼は踊り出した。おのれの中に音楽が聴こえたから、彼は踊り出したのだ。
 ガーネットはその場でふうわりと舞い上がり、指先の更に先まで神経を行き渡らせ、夜風に揺れる天鵞絨のごとく踊った。どこか透明な天幕のようにも映るこんにちの彼のダンスは、まるで実態などは持ち得ないといった様相を成している。ダンスルームの床に反響するガーネットのヒール音だけが、彼が今この場にいて、生身の人間として踊っていることを孤独に証明し続けていた。時折床を音もなく滑る移動の仕方をするそのダンスには、そっと香る程度の和の要素が取り入れられている。それは明日から始まる新人公演へ向けた授業で使うための、新入生用のダンスではなかった。かといって、新人公演で新一年生のサポートとして舞台に上がる上級生たちのためのダンスでもなかった。もちろん、前年度の卒業公演でのダンスでも、それより前の公演で使用したダンスでもなかった。それは、彼が二ヶ月後にナイチンゲール・スワンとして出演する劇団ロワゾ公演での、彼のソロ・ダンスであった。彼は今、物語の中に在る傾国の幽霊女であった。つまるところ彼が踊っているそれは、ここにいる誰のためでもないダンスだった。彼、ガーネット自身のためのダンスであった。
 けれども、踊る彼の眉間には皺が寄せられ、鏡に映っているその表情はどこか不機嫌そうにも、また苛立っているようにも見えた。頭のてっぺんから足の先まで彼は今まさに物語の中の住人であるというのに、ただ表情ばかりが何か閉塞的に、ガーネット・カーディナルという役者の苦悩めいたものを鏡に向かってだけ伝えていた。そして、それは当然、自分の元に跳ね返ってくる。今回の舞台はソロ・ダンスがある。いつだって、ソロはある。それは主演ないし主演級の役を演じる人間にとって、当然について回る権利と責務なのだ。自由に踊ってはいけない。昔のようには踊れない。自分の表現を汲み取って観客たちへと伝えてくれる役者はいない。アンチックはもう舞台にはいない。俺の自由は、その表現は観客には伝わらない。共に演じる役者にさえも。考えて踊れ。考えて踊れ。考えて踊れ。舞台のために。役者のために。観客のために。ガーネットは踊った。まったく人を寄せ付けない気配を纏って、鬼気迫るように、くるおしくおそろしく彼は踊った。額に浮かんだ玉の汗がいくつも床に落ちる。彼は踊った。踊った。踊った。
 そして、不意に、
「──入ってきたなら何か言いな」
 意識を取り戻すように瞬きをして、ガーネットは鏡の端に映っている背の丸まった人影に向かってそう発した。
「それとも、見惚れていたのかな? 俺のダンスはどうだった、お客さん?」
 今しがた浮かべていた表情とは異なって、そう言うガーネットの声色というものはまったく平坦なものであった。彼は冗談めいた言葉──声色よりも瞳の方が悪戯っぽくちかりとしていた──と共に、その場でくるりと半回転をしてみせる。そして、日常生活から時には練習、本番までをハイヒールで苦なく踊りこなすガーネットの踵が、けれども音を立てずにそうっと床に着地をすると、彼は腰に片手を当てて首を傾げたまま、向かい合っている相手の返答を待った。たっぷりと十秒間。
「す、……」
「す?」
「すみま、せん……」
 そうして、かろうじて聞き取れた言葉がこのようなものである。
 ガーネットは俯きがちに時折こちらの顔を窺っている少年の方を見て、傾げていた首を元の位置に戻す。溜め息も吐かず、怪訝な顔もせず、疑問符さえまなざしに浮かべないまま、しかし彼は少年──ガーネットが担任するクラスの新入生の一人、オリーブ・オーカーへと問いかけた。
「何が?」
「え?」
「お前、何か悪いことでもしたのか?」
 それは最早質問とすら呼べないほどに、すっぱりとした切り口で放たれた言葉であった。そんなガーネットの物言いにオリーブの柳色をした瞳がちら、と一瞬相手の方を向いたが、けれども彼の視線はガーネットのそれと鉢合わせする前に弾けるふうに逃げ出して、ダンスルームの低いところを為すすべもなくうろうろと彷徨っている。
「オリーブ」
 そう名を呼んでから少しあって、ガーネットは息を吐いた。溜め息とはまた違う、ダンスを終えたときの呼吸であった。それでもオリーブはびくりと肩を震わせて、どこか怯えたみたいに相手の顔色を窺ったが、ガーネットはそんな相手の表情などお構いなしといった様子で、少年の緑がかった金髪をじいっと見下ろしていた。
「何が悪いのかも分からないのに謝んのはやめな。癖ンなる」
 視線がかち合わないことが分かっても尚オリーブのことを見つめて、ガーネットははっきりとそう言いきった。頬に掛かった自身の髪を耳の後ろに引っ掛けて、彼は腹の位置で組み合わせているオリーブの両手をとん、と叩く。 
「いいか、それが癖になると最悪のフルコースだ。俯く。視線が下がる。背が丸まる。姿勢が悪くなる。ついでに視野も狭まる。クーデールにいるには、随分とお行儀が良すぎる格好になる」
 口調の割には至極真面目で淡々とした声色で言い放って、ガーネットはコツ、と一歩オリーブの元へと近付いた。そうしてずい、と音が鳴りそうな近さから彼はオリーブの顔を覗き込むと、瞳ばかりをにっこりとさせながら小首を傾げる。
「ところでお前、こんなところでどうした? 伝えた通り、本格的な授業は明日からだぞ。もちろん、自主練をしたいならそれも大変結構だが」
 オリーブはその場に両足を縫い止められでもしているのか、そこから一歩退くことも、それでいてガーネットと目を合わせることもできない様子で、相手の目と目の間辺りを曖昧に見た。それから組み合わせている両手の親指と人差し指の隙間に視線を落とす。
「ええ、と」
「ん」
「その……」
 はくはく、とオリーブの唇が微かに動いている。何か声らしきものは聞こえるが、それは言葉という形にはならないままでガーネットの耳に届いた。そんな相手の態度に、彼はにっこりした表情のまま眉間に皺を寄せる。ガーネットはオリーブから視線を外して、すっと背筋を伸ばしてまっすぐ前を見た。ルニ・トワゾ及びロワゾでは周知の事実であるが、ガーネット・カーディナルはあまり気の長い人間ではなかった。
「──あえいうえおあお」
「え、」
「あ、え、い、う、え、お、あ、お。くり返せ」
 戸惑う相手をよそに、ガーネットは淀みなく、つんざくわけでもないのにダンスルームに響き渡る声色でそう発しながら、オリーブの周りをコツコツと歩いてはその隣で足を止め、彼の肩に片手を乗せた。あ、え、い、う、え、お、あ、お。オリーブの肩で、ガーネットの指先がとんとんとリズムを取っている。オリーブはぱちぱちと瞬きをくり返しながら、
「あっ、あえいう、え、おあお……」
 と、固まった喉をどうにか震わせてみせた。
 オリーブはかの声楽一家、オーカー家に生まれである。発声練習など嫌というほどしたことがあるだろう、言葉の羅列を違えることはなかった。けれども、問題である声があまりに訥々として、絶望的に自信を感じられない。ガーネットは己の先入観を早々にびりびりと千切って捨ててしまうと、相手の横に立ったままオリーブの腹を手のひらでぐっと押した。
「腹に手ェ当てな。そう。一音ずつ区切って言ってみろ」
 おずおずと自信の両手をへその辺りに向かわせたオリーブに、依然ガーネットは片手の位置を動かすことなく、鏡越しにオリーブの顔を見た。オリーブはゆらゆらと瞳の奥に困惑を滲ませながら、未だ片方の肩でとんとんと音を取っているガーネットの指先に合わせて息を吸った。
「あ……え、い、う、え、お、あ、お」
「鏡に真っ直ぐ自分の声を向かわせる。返ってきた自分の声を聞く。あっ! えっ! いっ!」
「あっ、あ、えっ、いっ、うっ、えっ、おっ、あっ、おっ、……?」
「はい、止め。結構」
 そして、オリーブは突然ガーネットの両手から解放された。これから何時間も拘束されて発声練習をやらされるのだ、という覚悟めいた諦めを目の底に宿していたオリーブは、肩透かしにでもあったような顔で相手のことを見上げる。ガーネットもまた、当然だろう、といった表情をしてオリーブの方を見た。
「……と、いうのを明日から喉がぶっ壊れるぎりぎりまでマドンナさんにやらされる。もちろん、この五百倍はお厳しーく、な。そして、俺の出番はその次だ。どうしてかお分かりかな?」
 それから、ぱし、とオリーブの背を叩く。オリーブはぎょっとしてその緑色の目を見開き、ガーネットのきらりとする赤い瞳を見やった。
「──よし、やっと目が合ったな」
 視線がかち合うと、ガーネットは満足げに目を細めて笑った。オリーブはそんな赤色を視界に映して、ゆっくりと瞬いた後、もう一度相手の瞳を見た。ガーネットの喉が、くく、と鳴る。
「あ……」
「そう、つまりだ。俺はお前らの背筋を伸ばしてくれるマドンナさんのスパルタ授業を、ダンスレッスンで存分に利用させて頂くというわけだ。発声練習というものは何も、歌うたうためだけに存在するんじゃない。声を出すと背筋が伸びる。何事も姿勢が悪くては始まらない。演劇は更に始まらない。クーデールはもっと始まらない。おかしな姿勢で踊ると怪我の元にもなりかねんしな」
 そう喋々と語るガーネットの声色には、なんだか悪戯っぽい笑みが滲んでいる。そのどこか楽しげにも映る相手の様子に、オリーブは少しだけ釣られたように表情を和らげたが、しかし眼前の鏡に映る自身の姿を目にすると、彼はまたすっかり萎縮した面持ちで視線の行ったり来たりをくり返していた。
「……まったく分からんといった顔だな、オリーブ」
 言いながら、ガーネットは再び俯きだしたオリーブの頭上で軽く指を鳴らした。オリーブのまなざしが反射的に上を向く。
「何が分からない?」
「その、俺……」
 相手の瞳に縫い止められたオリーブの瞳が、けれど不安げに揺らめいた。言葉に詰まった彼は眼前のガーネットから視線を逸らして鏡に映る自分の姿を見やり、当惑を極めた顔色でその睫毛を伏せた。
「なんで、受かったんでしょう? こんな……それに……」
「何故、クーデールなのか?」
 そう言葉を継いで、ガーネットは鏡の中のオリーブを見やった。オリーブははっとして顔を上げ、何か言いたげな表情を浮かべた後、ただこくりと頷いた。ガーネットはコツ、と一歩前へと踏み出しては、自分自身何かを考えるように腕を組みながら背後を振り返る。
「返事はきちんと、はいかイエス」
「は、はい。……すみません」
「はいだけで結構」
「は、い」
 最初に比べれば幾分か聞き取り易くなったオリーブの返事を聞いて、ガーネットは腕を組んだまま頷き、それからまなざしばかりで首を傾げた。
「では、お前は自分がどのクラスに組分けられると思ったのかな?」
 その問いかけに、オリーブは再び両手を組み合わせて、困ったみたいに視線を床の上で彷徨わせた。オリーブは自身の歌唱に何か致命的な問題があることを自覚している。ゆえに、まさか彼自身、自分がココリコクラスに選ばれるなどという楽観的な夢想をすることもないだろうが、しかしガーネットはその先入観も一応今だけは捨ててみることにした。ガーネットはオリーブの言葉を待った。やはり、たっぷり十秒間。
「え、と」
「ん」
「アトモス、とか……」
「アトモス、とか=H」
 けれども、オリーブの弱々と発した答えはガーネットにとって、ココリコ、と楽観的に夢想的にはっきり答えられる方がましに思えるような、不明瞭で中途半端で想像不足で輪郭のない言葉であった。ガーネットはオリーブの言葉をおうむ返しした後、再び一歩で相手の元まで舞い戻り、腕組みを解いては彼の微かに怯えた瞳をじっと覗き込んだ。
「オリーブ・オーカー。お前はどうも、何かを勘違いしておられるな」
 そうしてガーネットは、どうやら自分が失言をしたらしいことに早々に気が付いて顔色を青くしているオリーブに、かぶりを振りながらふっと目を細める。ガーネットは当然、怒鳴り散らすわけでも冷たくあしらうわけでもなく、ただとん、とオリーブの心臓の辺りを指先で押すばかりだった。
「いいか、少年。アトモスは結果として演劇初心者が組分けられることが多い、というだけで決して初心者用のクラスじゃあない。お前が想像しているほど、易々と選ばれる場所じゃあないんだ」
 その声色はオリーブを叱るものというよりは、さながら認識の間違いを正すために事実を述べているだけのように聞こえた。このルニ・トワゾでは、周りの何もかもを甘く見てはいけない、ほんの少しであっても。ただそれだけを伝えるために。
「アトモスの役者は自らを大気と呼ぶ。大気とは、鳥を空に羽ばたかせる風。そして、風は自らがどこに向かうべきなのかを知っている。それがすなわちどういうことなのか、お前に分かるか? アトモスに選ばれるために最も必要なもの、それは──」
 ガーネットは息を吸い、オリーブのことをじっと見た。
「それは熱量≠セ。舞台に賭ける情熱。それがなくては、どれほどの実力や才能があろうともあのクラスに選ばれることはない」
 確かにそう断じて、ガーネットはようやく相手の心臓を自身の指先から解放した。そして、オリーブの言葉を失っている瞳と目が合うと、彼はおのれの赤色に弧を描かせてにっこりと笑む。
「……お前にそれがあるかな、オリーブ? アトモスを語るに足るだけの熱量が?」
 その問いかけでもない問いかけを聞いて、オリーブは先ほどまで指差されていた心臓の辺りを片手でぎゅうと握り込んだ。彼は相変わらずそこから一歩退くことも、また逃げ出してしまうこともできずに、何か言うべき言葉を探してはその渇いた喉を動かそうと唇を開いて、
「す、すみ、」
「返事ははいかイエス。この場合はいいえかノー」
「い、いい……いいえ……」
 と、力なくかぶりを振った。
 オリーブの返答にガーネットは承知の上だというふうに頷いて、その場で軸の一切ぶれない一回転をくるりとしてみせる。くるり。くるり。オリーブは、こんにち幾度もガーネットの揺らぎのない瞳に居たたまれなくなり、そのたびに自身の視線を行ったり来たりさせていたが、しかしいま目の前で踊るガーネットのことはほとんど視線を逸らすことなく見つめ、そんな彼の瞳には常時浮かべている萎縮した光は存在していなかった。ガーネットは回転を止めると同時に、背を反らすようにしてオリーブのことを見た。
「何故、クーデールなのか? つまるところ、俺は人の持つ熱量などというものにはさほど興味がなくてな。踊る、踊る、踊る。俺たちには時間がない。このクラスでは、どれほどの燃える情熱を持とうが、どれほど速く脳みそが回転しようが、まずはじめに身体が動かなければ意味がない。動けるか、否か、ここにあるのはそれだけだ」
 コツ、とガーネットのハイヒールが鳴る。彼の赤い瞳の中には当然に輝く光がちかちかと瞬いていたが、オリーブはその光を目にした途端弾けるようにそこから視線を逃がし、そうして鏡に映る自分自身からも目を背けた。
「……でも、俺。踊れません」
 呟くみたいにそう発するオリーブの伏せられた睫毛によって、彼の瞳に影が落ちた。ダンスルームの出入り口に差す光が翳り、瞬間、この場には再びまったくの無音が訪れる。ガーネットは笑みのためではなく自身の目を細め、苛立ちのためではなくその指先でおのれの脚をとんとん、と叩いていた。彼は息を潜めて呼吸をしていた。踊り出す前のように、彼は何かを考え、待っていた。
「──オリーブ、姿勢が悪い」
 ややあって、息を吸うのと同時にガーネットはそう言った。まるで、試験会場で言い放ったそれと同じ声色で。
「背筋を伸ばせ。首に力を入れろ。顎は少し引く」
 ぱし、とガーネットがオリーブの背を叩いた。歯切れよく、そして小気味よく言葉を発しながら、彼は自分が言った通りの動きを相手の隣でしてみせる。オリーブは突然のそれにやはり少しびくりとはしたが、有無を言わさぬガーネットの声を受けて半ば条件反射的に背筋を伸ばし、首に力を込め、顎を少しだけ引いた。
「そのまま視線を落とすな。遠くを見ろ。そう。遠く、遠く」
 ガーネットの指示は、どこか一歩一歩とリズムを取って踊るさながらであった。オリーブは指差されるままに眼前の鏡を見て、遠く、遠く、という言葉をどうにか追いかけるように、ガーネットが指差している、鏡の遥か向こう側の景色を眺めようと努めた。
「それじゃあ、少し歩いてみな。まずつま先で床を蹴る。膝は曲げず、踵で着地」
「つま先で蹴って、膝は曲げずに、踵で……う、……」
「リズムに乗せよう。イチ、ニイ。イチニ、イチニ……」
 口の中で相手の言葉をくり返し、指示通りに歩こうとしてふらふらとした足取りになっているオリーブに、ガーネットは両手を鋭く打ち鳴らしながらこの辺りではあまり聞き慣れない、独特な言語で数を数えた。
「イ、イチ……?」
 思わずオリーブは両足を止め、首を傾げる。そんな相手に、ガーネットもまた首を傾げ返した。
「ああ、ワン、ツーがいいか? それともアン、ドゥ?」
「い、いえ。ガーネット先生の、好きなように……」
「どうも。ではその歩き方のまま、前に二歩、右に一歩」
 満足げににっこりして、ガーネットは両手を鳴らしながら大きく前に二歩、そして柔らかく滑るように横へ移動した。ドレスを纏っているわけでもないのに裾が広がるさまが目の前に見えるその上品な動きとは裏腹に、ガーネットは素早く反転してオリーブの方を向くと、軍人が笛を吹くような顔つきでパチと指先を鳴らす。
「イチニのリズムで前、前、右」
「はっ、はい。前、……前、右」
「次。後ろ、後ろ、左」
「後ろ、後ろ、左……」
 オリーブは再度口の中でくり返しながら、ガーネットが行ったそれよりは随分とゆっくりとした速度で、しかしきちんと相手の動きを追いかけた。そして、オリーブがガーネットの拍手の音に合わせて動けるようになるまで二人はその移動の練習をくり返すと、つとガーネットの方が足を止めて、す、と右手を前に伸ばした。オリーブも倣って足を止める。
「お次は右手を伸ばす。見ての通り、真っ直ぐにな」
「真っ直ぐ……」
「伸ばした手を柔らかく曲げる。球体を抱えるイメージだ」
「は、はい」
「余った左手は横に伸ばして、間接を上に。そう、その格好で、前、前、右。後ろ、後ろ、左」
 オリーブは片腕の中に見えない球体を抱えながら、片手を不可解な位置に上げ、けれど導かれるままに前に、横にと移動をくり返した。それを数度くり返したところで、オリーブが何かに気付きかけ──しかし彼がその何かに閃くより先に、ガーネットが最も衝撃的な形で相手に答えを叩き付けた。
「さあ、では、先生と手を繋ごう」
「えっ」
「ステップを止めるな。左手は俺と繋いで、右手はこっちの腰」
「えっ?」
「よし、踊ろう!」
 そう高らかに宣言して、ガーネットは先ほどオリーブに刷り込ませた移動方法で否応無しにステップを踏んだ。相手が目を回している内にすっかり片手を握り込み、今しがた見えない球体の居場所だったところを乗っ取って、ガーネットは楽しげに前に、横に、とオリーブを引き連れて歩を伸ばした。
「前、前、右、後ろ、後ろ、左! どうした? くり返せ」
 ガーネットに半ば無理やり連れ回されていたオリーブが、しかしその言葉にはっと意識を取り戻して、ぱちぱちと瞬きをしながら慌てて息を吸う。
「まっ、前、前、右。後ろ、後ろ、左……!」
「そう、その調子。ほら、鏡を見てみろ。姿勢はどうだ?」
 オリーブの発声に合わせるように鼻歌を口ずさみながら、ガーネットは顎をしゃくって鏡の方へと顔を向けた。オリーブもつられてそちらの方向を見やり、そこに映る自分の姿を見やって、ほんの少しばかり頷いたらしい。
「良く、なってます」
「だろう? ところで俺たち、何をしているように見える?」
「えっ? あ、ダ、ダンス、ですか……?」
 その言葉に、ガーネットはあはは、と声を上げて笑った。
 イチニのリズムで前、前、右、後ろ、後ろ、左。たったこれだけのことだというのに、鏡に映ってしまえばそれはもう踊っているようにしかみえないのだ。ガーネットは面白げにダンスルームの床をハイヒールで打ち鳴らし、緊張も忘れるほど必死なオリーブの腕の中で今しがたつくり上げたものをすべて壊すようにくるりと回転してみせる。オリーブはどうして手を繋いだままガーネットが回転できたのか分からない様子で、困惑を浮かべながら相手の方を見ていた。ガーネットはまた笑い、その答えを教えてやるようにオリーブのことを回転させてみる。オリーブは驚き、足がもつれてぐらりと傾いた。ガーネットはその軽い身体が床と激突する前に片腕で支えてやると、また元の位置に戻って、また先ほどのステップのくり返しで踊った。
 それは明日から始まる新人公演へ向けた授業で使うための、新入生用のダンスではなかった。かといって、新人公演で新一年生のサポートとして舞台に上がる上級生たちのためのダンスでもなかった。もちろん、前年度の卒業公演でのダンスでも、それより前の公演で使用したダンスでもなかった。そしてそれは、ガーネットが二ヶ月後に劇団ロワゾ公演で踊る予定のソロ・ダンスでもなかった。つまるところ彼が踊っているそれは、ここにいる誰のためでもないダンスだった。彼、ガーネット自身のためのダンスであった。真実、そうであった。ああまったく、今は自由だった。
「ああ、それで、なんだったか。俺、踊れません?=c…」
 ガーネットが眉根を寄せたのは、二人が踊っている最中ではなく、彼がオリーブのことを解放し、オリーブがぜえはあと肩で息をしている真っ最中でのことだった。ガーネットは心底楽しげで悪戯な笑みを顔に浮かべながら、眉間に皺を刻んでいる。オリーブはなんだか少しばつが悪くなって、ええと、その、と曖昧な言葉をいくつか浮かべてみせた。
「共通点」
「え?」
「共通点ならあるぞ、クーデールに選んだ連中の」
 ふうふうと息を整えようとしているオリーブに、ダンスルームの端に常備しているペットボトル水を一本渡して、ガーネットはたったいま思い出したみたいに宙を見た。
「試験のとき。お前らは俺のダンスを見て目を逸らさなかった、一度たりとも。とにかく一つでも多く盗もうと足掻いてこっちを見ていた。俺のダンスってのは、人によっちゃ見てると怖くなって逃げ出したくなるらしいからな。ま、それだけ」
 それは淡々とした声色で、突き放すような意味にも聞こえたかもしれない。
「──クーデールに必要なのは、それだけだ」
 けれども彼は確かめるようにそうくり返して、眼前の鏡に向き直った。それから、差し込む光の明度が随分と低くなったダンスルームの出入り口を鏡越しに見やって、ガーネットはひらりと片手を振る。
「さ、こんな話した手前で出ていきにくいだろうが、もう日が暮れる。帰って休みな。見学をしたいっていうんなら、それも大いに結構だが」
 オリーブはガーネットから受け取ったペットボトルの蓋を開けずに両手で握ったまま、ほとんど休憩も入れずに再び踊り出した相手のことをじっと見つめていた。ガーネットは、ここから二時間はぶっ通しで踊り狂うことをオリーブに伝え忘れたな、と思いつつも、動き出した身体を止めることは最早叶わず、鏡の前で劇団ロワゾ公演のソロダンスをひたすらに踊り続けていた。オリーブがそこにいるのかも、或いは出ていったのかももう彼には分からなかった。
 ただ、頭上に光る蛍光灯はこんにちの月の訪れよりも早く、彼のことを照らしていた。照らし続けていた。そこに在り続けた。彼が踊る、その限りは。



20210718 執筆

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