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ファムファタル・ファミリア



 ドレスサークルから見える、奈落の話だ。
「すっかり静かだ、誰もいない」
 ルビー・ルージュは眼下を眺めてそう呟いた。
 彼はドレスサークルの最前列に姿勢悪く腰掛け、公演終了後の劇場──観客たちはとっくのとうに帰路に就き、役者たちもまた物語の手の届かないところへと逃げ去り、美術係や照明係どころか、公演毎に入る点検の業者すらも消え果てている──の一階席を見下ろしていた。ルビーは組んだ脚の上に売店から拝借してきたアイスクリームのカップを乗せ、時々思い出したみたいにそれをスプーンで掬って舐めている。その足元には、どこから持ち込んだのかも分からない林檎酒が一瓶、目もくれられずに佇んでいた。
 ひとけというものは毛ほども感じない。劇場には、ゴーストライトばかりが灯っていた。観客と共に劇場の活気を逃がさないための明かり。劇場に住み着いている霊の類を怒らせないための明かり。この薄ぼけた明かりこそが亡霊だと言わんばかりの光。
 彼はふと、物語の中にある或る一つの人格を演じるために被っていた、いやに重たい金髪のウィッグを自身の頭から外して、その長ったらしい髪の束をぎゅう、と握り込む。そして、まるでそれを何者かの生首であるかのように、ドレスサークルの縁からぷらりと垂らした。その先はまったくの暗やみに見える。けれど、この手を離したのなら、落ちた首は観客席のどこかを傷付けて、鈍い音を立てるのだろう。いや、果たしてほんとうにそうだろうか? だって、こんなに暗いのだ。一寸先の闇。落としてみなければ分からない。鳴るか、鳴らないか。吸い込まれるか、吸い込まれないか。落としてみようか? 予行練習も兼ねて。
「がらんどうを見つめていて楽しいのかな、ルージュ?」
 しかし、それよりも早く鳴る声というものがある。
 ルビーはすぐそこから聞こえてきた呼びかけに瞬くことも、また振り向くことさえもせず、眼下を眺めたままでふうっと息を吐いた。そのすべてが上向きになっているルビーの睫毛は最早伏せようがない。
「……ああ、サイアン、いたの?」
 ルビーは興味なさげにそう呟きながら、手元のウィッグを縁の向こうでゆらゆらと動かした。彼は視線を滑らせて、観客席の暗やみではなく、向かいのドレスサークルの底でぼんやりと光っているライトを見やる。陰気だ。陰気。この中途半端な明かり。光ひとつ差さない闇夜より、朧な明かりのある暗がりの方がずっと陰気なのを、この劇場の連中は二百年近くの時間、全く気付かずにいるのだ。活気を逃さないための明かり? 劇場の活気は公演毎に観客と共に出ていく。それが宿命だ。抗いようはない。霊を怒らせないための明かり? 霊? そんなものがどこにある。観客のいなくなった劇場、そこにあるのはいつだって……
 思い至ったように、ルビーは隣を見た。そこにはいつもと同じくうっすらとした笑みを口元に貼り付けたサファイア・サイアンが立っている。青白い肌に、青みがかった灰の髪。その長い前髪から覗く瞳もまた鮮やかな青で、口紅さえも似た彩度の青を引いている。ルビーは暗やみの中で青ざめた輪郭をぼんやりと保っている隣人の姿を目に映し、それからくつりと笑った。
「生きてる人間のが、よっぽど亡霊めいてるよなあ」
 なんのことだか、というふうにサファイアは目を細めた。視線は首を傾げていない。ルビーが脈絡のない言葉を宙に投げるのはいつものことである。それを問う気にもならないのか、問う必要もないのか、それとも答えを求めてさえいないのか、サファイアは面白げに唇を歪めるルビーのことを眺めていた。
「ねえ、これ持って。そうした方がそれっぽい」
 呟いて、ルビーはサファイアの両手に今しがた縁向こうで揺らしていた金髪のウィッグをとんと乗せる。そんな相手にサファイアは、ええ、これ重いから嫌だなあ、などと毒づきながらも、しかしその両の手のひらにルビーのウィッグを律儀に乗せていた。ルビーはアイスクリームを一口舐める。それから、自身の瞳にサファイアの姿を映しては、何が可笑しいのか赤みがかった灰の髪を揺らして笑った。サファイアはそっと、けれども慣れたように溜め息を吐いている。その仕草にもルビーは笑った。亡霊! 女の首をもった亡霊! もしもこの劇場に霊が住み着いているとして、そいつらがこのぼやけた暗やみの中でもすっかり身を隠して怯えているのは明らかにこの男が原因だろう。だって、ウィッグを持って立っているだけでこんなに寒気がするのだ。ああ、おそろしい男。それに気付ける者があまりにもこの世界には少なすぎるけれど。
「おや?」
 瞬きを一つ。ルビーははたとして、相手の目を見た。随分近いところにある。ルビーがひとしきり笑っている間に彼の隣の席へと腰掛けたサファイアは、依然として金のウィッグを手放さず、膝の上に乗せていた。ルビーのアイスクリームのごとく。甘ったるくて喉に絡むそれをもう一口舐めて、ルビーは首を傾げる。そういえば、目の前のサファイアは常日頃の見慣れた姿となっていた。先ほどまで自分と同じく金髪を演じていたはずなのに。先ほど? 一体いま何時? どうでもいい。彼は細い指先でサファイアの頬の輪郭を撫でた。
「まあまあ、すっかり着替え終わって」
「お前のせいで衣装係が帰れないって嘆いていたよ。かわいそうに」
「かわいそうなのは俺の眼球だ。こいつのせいで自慢のおめめが台無しよ」
 言いながら、ルビーはこれといった躊躇いもなく自身の瞳に指先を押し当てた。そうして目の表面を覆っていたカラーコンタクトを外してしまうと、彼は指の腹にその青い虹彩を人工的に演じるための薄い膜を乗せて、サファイアに向かってにっこり微笑んだ。いま彼の双眸の片割れは紅く、もう片方は青い、あべこべでいびつな様相を成していた。
「ルージュ、お前は青が似合わないね」
「お前は存外赤が似合うよ、サイアン。ま、生きて死ぬまでの間はみんなそうだけど?」
 似合わないと言いながらもどこか満足げに相手の青い片目を眺めるサファイアに、ルビーは半ば仕方なさげに息を吐いている。手持ち無沙汰に指先のカラーコンタクトをくしゃりと握り潰し、彼は冷めきった劇場の中、はっきりとした色彩をもってちかりと輝いている眼前の青をじいっと見つめた。
「サイアン、お前、俺の好きな色を知っているかなあ」
 ひとりごちるようにそう呟く。隣のサファイアは膝上の金髪をするすると指で梳きながら、ルビーの瞼で未だきらきらと輝いている、何色とも形容しがたい光の粒子を目に映したらしかった。彼はこてりと首を傾げて、
「さてね。赤じゃないのかい」
 と、密やかに笑んだ。ルビーは肘掛けに頬杖をついて、ひらひらと片手を振る。
「凡庸な回答。手応えというものが全くないわ。さすが、おさすが。ちなみに青でもないから自惚れンなよ」
「なるほど。つまり、ルージュは青が私の色だと思ってるんだ」
「ああ、そう来んのね。自惚れも度が過ぎるといっそ清々しいったらないわ」
 ルビーはわざとらしく肩をすくめた。アイスクリームを掬って、舌の上で転がす。カップの中のそれはもうほとんど溶けていた。冷たいような、ぬるいような舌触り。甘く、甘すぎることだけが確かなその液体が、ゴーストライトの明かりに緩く照っている。
「サイアン。俺、黄色が好き」
 手の中にある乳白色の水面を揺らめかせ、ルビーの紅色と青色が何かに見惚れて弧を描く。サファイアは手元の金髪を相手に示した。けれどもルビーはかぶりを振り、こくりと喉を鳴らす。彼はカップの縁に口を付けて、アイスクリームの溶けた部分を飲み干していた。
「そんなに淡い色じゃあない。俺が好きなのは黄金の黄色だよ。とろとろと甘く輝く、林檎の黄色……」
 くつくつとルビーの喉よりも浅いところで笑い声が鳴る。彼は何気なく足元の酒瓶──そういえば、瓶の王冠はどこに行ったのだろう──を取り上げると、その中身をカップに残ったアイスクリームの小山めがけてとくとくと注いだ。とろりの黄金。ルビーは上機嫌にそれを舐める。舌が甘いまま少し痺れた。
「どう?」
 それからつと、ルビーはまなざしを傾げる。カップの縁に付いた自身の赤い口紅の跡を拭うこともしないまま、彼はサファイアの青い唇に向かって、その紅の跡をぐい、と押し付けた。
「妬けちゃう。……だろ?」
 ルビーの視線はもう問いかけてはいなかった。代わりに、相手の口元に押し付けられたカップがぬるく傾いていた。サファイアはそこから流れ込んでくる甘ったるい、彼にとってはほとんど毒めいたものを一口分だけ含んだらしい。喉が少し上下する。酒気の類にすこぶる弱いサファイアのまなざしが、どこか曖昧に揺れ動きながらルビーの方を見る。ルビーはそんな隣人の様子を見て楽しげに笑った。
「それで、ああ、なんだっけ? 脱げって?」
 サファイアは相手にアイスカップを戻しながら頷いた。
「楽屋でね。衣装係がお待ちだよ。沈黙の責め苦からの救済を、今か今かと待ち望んでる」
「責め苦も救済もワタクシの手の中。まったくナイチンゲール以外の役はやる気が起きないねえ」
「伝えておこうか? 救世主は郷愁に浸っているので今しばらくは帰れません」
「だってドンレミはもう遠いのよ、あんなにも」
 痛々しげな表情で幕の下りた舞台へと手を伸ばして、しかし次の瞬間、ルビーは表情を反転させるように瞳に笑みを浮かべてサファイアの方を振り向いた。
「さて。俺のジャンヌはどうだったかな?」
「素敵だったよ。まさしく精神病患者そのものだったね」
「まあ! どうもありがとう」
 彼はサファイアの言葉に、椅子に座ったまま恭しくお辞儀をした。彼はカップの中に残った白いアイスクリームとこがね色の林檎酒を一息に呷ってしまうと、空の容器をサファイアの持つウィッグの上に置き、両腕をドレスサークルの手すりに預けて前のめりになった。
「ごらん」
 そして彼は、ゆっくりと確かめるように話し出す。
「ゴーストライトだけが灯っている。観客どもに空いた風穴だけが、亡霊みたいに残っている。身を乗り出せば、底が見える程度の暗やみ。ここは奈落に似ている。観客席は暗ければ暗いほどいい。舞台が燃えて光って、燃え尽きて、光りきった証になる。光。声は右手の、教会の方から聞こえてきて、それにはいつも光が伴っていました。光と声は同じ方からやって来ます。とても、とても強い光です。′は全部俺のもの。息ができないほどの光。息ができないって素敵。息がなければ、息が上がることもない。止まることも。ずっと踊り続けられる。ずっと歌い続けられる。ずっと笑い続けられる。ふ、ふふっ……」
 瞳のうつろのなかに爛々と光を宿して、ルビーは喉の奥で笑った。それはまさしく、こんにち彼が演じたジャンヌ・ラ・ピュセルが処刑台で燃え上がる瞬間、舞台上で微かに上げた笑い声そのものであった。高らかなものではない。けれども、観客席の一番奥、そしてバルコニーの神々の鼓膜にまで確かに轟くその声はたがわずサファイアの耳にも届いただろう。彼は観客たちと異なって、はっと息を呑むことはしなかったが。サファイアは困ったふうな微笑みで、眉尻を下げてやれやれと溜め息を吐いている。
「ああ、怖いなあ。さすがだね。だいじょうぶかな? 変になっちゃってるよ。ルージュ、役抜けしてる?」
「役抜け?」
 アハハ、と今度は声高くしてルビーは笑った。
「……馬鹿々々しい。俺の演じた役だって、みいんな俺のモンになるんだよ。ずうっと俺の中で住み続けるの。そんで、時々動くことを許したげる。もぞもぞしてくすぐったいけどなあ」
「ううん、……私、そろそろ帰っていいかな。眠たくなってきたよ」
 人差し指で自身の唇の端をとんとんと叩いているルビーに対して、くあ、とあくびを噛み殺しているサファイアは、しかし言葉に反して席を立つ気はないようで、組んでいた脚を入れ換えただけだった。ルビーはそんな相手の右肩を左手で掴んで、
「ああ、陛下、シャルル、ジューダス! すべてはお前のせいなのに?」
 サファイアの青い瞳を片側の紅色で覗き込んでは、瞳孔を開いてそう笑った。彼ではなく、彼の口元が。そんなルビーに対して当のサファイアといえば力なく首を振り、愉しげな相手の睫毛を柔く撫でている。
「生憎、もう脱いでしまったんだけどね」
 舞台衣装を着込んでいるルビーに反して──むしろ未だに衣装を着ているのはこの劇場においてルビーただ一人であったが──先ほどまでシャルル七世として舞台上に君臨していたサファイアは、自身の身から化粧も衣装も役もそのすべてを引き剥がしており、かつての王としての輪郭は最早見る影もない。
 そしてこの事実は、ルビーにはあまり関係がなかった。彼は未だ舞台の熱狂を身に宿し、冷めた席からいつでもそれを眺めやることができた。ルビーはサファイアの青灰の髪を爪を立てるようにして梳く。相手の肩口に顎を乗せてくつりとした。台詞は続く。
「ジャンヌを導いたのは本当に神様だったかしら? ジャンヌの中に入っていたサタンではないかしら? ジャンヌを見殺しにしたのは本当に神様だったかしら? シャルル、お前の中に入っていたかのサタンではないかしら?」
 ルビーは唇を動かし続けながら、首を傾げる。台詞は続く。
「あら? だとしたらそれって誰の心の中にもいるんじゃないかしら?」
 すう、と呼吸音が一つ。ルビーは思い付いた分の台詞を唇から垂れ流して満足したのか、ゆっくりと瞬きをして、突如正気を取り戻したかのごとく、もう片目のカラーコンタクトを外しはじめた。瞳の紅がシンメトリーとなり、彼の目からちかちかと輝くものが過ぎ去っていく。ルビーはあくびをした。滲む視界に、ゴーストライトの明かりが更にぼやけて見える。
「……だとしたらお前が死ぬのは私のせいじゃあないね、ルージュ」
 ふと席を立った隣人に、サファイアがそのような言葉を呟いて、ルビーはドレスサークルの縁に身体を預けながら、ぐ、と伸びをした。そうして相手の方を振り返らずに、ルビーは明かりを手の上に乗せる仕草をする。
「俺、死の話をしてたかな?」
「してたんじゃない?」
「そう」
「うん」
 息を吐いた。それがどちらのものだったのかは分からない。ルビーは観客席の暗やみを眺めて、笑みもなく目を細める。
「──サイアン。すべての国のすべての劇場ですべての観客を殺したら、俺はドレスサークルから飛び降りて死ぬよ」
 そう。そして背もたれや床に身体中をぶつけ、折り、真っ赤な血を噴き出して死ぬのだ。真っ白に青ざめて、青ざめて、青ざめて、死ぬ瞬間、やっと同じ色になる。なあんて。背後で、うん、と言ったサファイアが微かに呼吸をする音が聞こえた。だから、ルビーは少しだけ笑った。
「ルージュ。お前の死に顔はちゃんと見てあげるね」
「ああ、いいよ」
 悪戯っぽく口角を上げて、ルビーはサファイアの方を振り向いた。そうして相手の首に両腕を回してそれを柔く抱きながら、ルビーは自身の唇についた紅を音もなく舐める。そこは苦く、不味かった。
「じゃあ……その代わり、お前は首を吊って死になね、真っ青のまま。ああ、でも、有り金を教会だか神殿だかにぶち込むのはナシ。ぜえんぶ俺の死体にばら撒いてよ」
 それからルビーはサファイアの瞳をじいっと見つめて、
「ね? サフィー……」
 そんな呼びかけと共に、うっそりと、愛おしげに笑う。
 ドレスサークルから見える、奈落の話だ。しかし、じつのところ、ルビー・ルージュは知っていた。人生は舞台ではない。それは観客もいなければ、照明も美術も存在しない、いつも不愛想な何かだった。舞台とは違う。違う。違うのだ。何もかも。
 故に、彼は知っている。
 満ちなければいいのだ。満ちもしなければ、欠けることもないのだから。



20210614 執筆

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