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僕の灯台は元気か



 
 ラヴェンダーは青い ララ ラヴェンダーは緑
 僕が王様なら ララ 君は女王さ
 誰があなたに ララ そういったの?
 それは僕の ララ 心がいったのさ 
 〔ラヴェンダーは青い〕 -『マザー・グース』より



 果ての十二月、花を買った。
 自分の名前以外の花を。

 ルニ・トワゾ歌劇学園の敷地内には、授業の始業と終業、そして日の出と日没を告げるための時計塔が一基そびえている。
 ゴシック復興様式が採用されているこの時計塔は、学園の外からであってもその堂々たる姿を眺めることができ、中に取り付けられている大時鐘の音色がカッコウの鳴き声に似ているところから、グラン・ククという愛称で生徒のみならず、ローレアの国民たちにも広く親しまれている。
 そして、そんなグラン・ククの地上五十メートルの箇所に位置している時計の文字盤は、現在の時刻、午前七時四十五分を示して、眼下に灯るいくつかの明かりたちと共に、じっと日の出を待っていた。冬のローレアではいつも太陽は遅起きだった。
 十二月二十六日の夜明け前のことである。
 ダリア・ダックブルーは空を見ていた。教員だけが持てる鍵を用いて時計塔内部へと足を踏み入れ、空飛ぶ鳩と挨拶を交わせるほどの高さから、時計塔の展望台から、空を見ていた。
 ルニ・トワゾの冬公演を終え、一週間程度の冬期休暇に入った学園内は、生徒たちのほとんどが帰省を行っているために常と比べて随分と静かである。けれども、うるさいほどの静けさではない。少しだけ吹く風に混じって、早朝の鳥の声、木々の葉擦れ、列車が駅に到着し、ローレアの街が次々に目を覚ます音──これはダリアの想像力から鳴る音だった──が聴こえてくる。ダリアは両腕に抱えた花束を床に置いて、両腕を強固な柵の上に預けた。
 彼は太陽に反して早起きの花屋で、いくつか花を買った。
 白バラのアイスバーグとエーデルワイス、ガーベラは八重咲きのものと、あまり店頭では見かけないポンポン咲きのもの、冬の貴婦人であるクリスマスローズ、清らかな新雪のスノードロップ、美しいヴェールのラナンキュラス、それから季節外れの花もいくつか。グローリーオブザサンの別名を持つ白いリューココリネは確かに光冠のようだが、しかし空を彩る星々の輝きにも見え、更には甘いチョコレートの香りまでする。ユリは買わなかった。遠い時間を想起させるから。ラベンダーは青。それでも白い花ばかり。少し恥ずかしいくらい、白い花ばかりを何種類も買った。自分の名前以外の花を。何を買えばいいか分からなかったから。そういえば、好きな花を知らなかった。
 いや。
 いや、そういえば、ではない。普段は夢想めいた言葉を延々とどこまでも並べ立てているというのに、彼を前にした途端、ひたすら同じところをぐるぐると回り続けてしまうこの舌が未だ、相手の好きな花の一つさえ訊けていないだけなのだ。それを自覚した──自覚はずっとしている──改めて自覚したダリアは、もう笑うしかないような可笑しみのために少しだけくつりとし、はあっと冷たい冬の空に向かって白く息を吐いた。
 それから彼は、頭の中の音楽プレーヤーの再生ボタンを押し、そこから聴こえる旋律に合わせて歌を歌った。彼の愛する『マ・メール・ロワ』の中の一曲を。今ダリアの唇から紡がれるのは、舞台上で発するような、力強いそれではない。けれども、深くしなやかな表現力をもつ彼の声は伸びやかに、そして自由に空中を飛び回り、そんな歌声を風は自分のからだに乗せて、より高く、より透き色に舞い上がっていく。
 ダリアの内側に、心臓と肺の中に、歌と物語がみち満ちていく。それは言い換えるなら鼓動と呼吸、彼にとっての勇気に等しかった。
 ややあって歌い終えたダリアは、次の曲を歌い出すための呼吸のまま、それが続くうちに上着のポケットからスマートフォンを引っ張り出す。そして、あわや取り落としそうになりながらも、彼はロック画面を解除し、配役の相談をしたい座長、何か悩みごとのある生徒、脚本を取り立ててくる監督、物は食べているのかと心配する元役者仲間、始業時間を告げる生徒、特に用はないらしい学園長、生徒、生徒、教師、生徒と通話履歴の続く電話帳をスクロールして、目的の人物のところまで辿り着くと、歌を吐く息で思い切って発信ボタンを押した。このまま立っていたら、上空からスマホを落としてしまいそうだったので、柵を背に座り込む。
「──ダリアくん?」
 相手は数回のコールの内、すぐに電話に出た。
 電話口から聞こえる柔らかい声に、ダリアはなんだかほっとしながら心臓が一回大きく跳ねて瞬間的に鼓動が止まったふうにも感じた。それは決して冷や汗と耳鳴りが治まらなくなるような、そういった嫌な音ではない。こちらの名前を呼ぶ相手の声の中には、どこか気遣わしげな色が滲んでいた。ダリアは普段あまりかけないような時間に電話をしてしまったことを思い出し、背を丸めては、スピーカーに耳を押し付けた。
「マリア。眠っていた?」
 どうしてかひそひそ声でダリアはそう問いかけ、そんな彼に、電話口からは微かな笑い声が洩れていた。
「ううん。起きてたよ」
「そっか。じゃあ、おはよう、マリア」
「うん。おはよう、ダリアくん」
 その言葉に、ダリアはゆっくりと瞬きをした。目を閉じてしまうほどに、青みがかった睫毛を伏せる。電話の相手──マリアンヌはきっと、この微睡むような朝の中、天蓋付きの寝台に腰掛けて、その薄い肩にあたたかな上掛けを羽織っているのだろう。そうであることを祈った。そうでなければ、彼の暮らす地方はあまりにも寒いから。こちらの指先は少し熱い。ダリアはもう、吹く風の冷たさを忘れていた。
「……ダリアくん、外?」
 けれど、だからといって、緩やかに吹く風の音やそれによる葉擦れ、目覚めだした微かな街の喧騒がダリアの心に従って静まるわけでもない。問いかけるマリアンヌの声から、彼が電話越しにそっと眉尻を下げたのを受け取って、ダリアははたとする。
「グラン・ククのお腹のところにいるんだ。景色が見たくて」
 そして見えるはずもないのに、心配ない、と言うようにダリアはぶんぶんと首を振りながらそう答えた。それから彼は大時鐘のある方へと指先を向ける。
「嘴の方まで上っても、電波って届くのかな?」
「ううん、ふふ、どうかしら。僕、グラン・ククの中って入ったことがないんだもの」
「ほんとう? あっ、そうか……」
 マリアンヌの返答に、ダリアの中にふと一つの思い付きが浮かぶ。息を吸う。息を吐く。息を吸う。そうして彼は、一緒に、と言おうとした口で、何度か、い、い、と言葉になっていない声を発した。
 い、
 い……
「──いわゆる、大人じゃないと上れない階段というものだものね。自由に……」
 それを皮切りにして、ダリアは舌の上で言葉がぐるぐると走り出す感触を覚えた。彼は頭の中で自分の頭を叩いてみたり、或いは頬を抓ってみたりをくり返してみたが、けれど言葉の渦に呑まれはじめた己のことを止めることはできなかった。自分自身でさえ。
「生徒が自由に出入りするには、ちょっと危ないか。でも、中にも装飾が入っていてすごく綺麗だから、一回くらいはみんなにも見せてあげたいなあ。階段が長すぎるのにも、それはそれで趣があると思う。手すりのところどころに銀色の小鳥が留まってるんだ。オブジェだけどね。でも、ククが食べちゃったんだろうな。口が大きいし。嘴の方には鐘があるよ。鐘は目の前にするとおそろしいほど大きくて、でも彼の鳴き声はどこか懐かしくて、寂しくて……マリア、チャイムの音色をまだ憶えている?」
 訊いてしまってから、自分が何を口走っているのかよく分からなくなって、ダリアはぱち、と瞬きをした。
「ふふ、……うん、ダリアくん」
 片耳から、マリアンヌの小鳥のさえずりめいた笑い声が聞こえる。それから、少しの衣擦れの音。寝台から降りたマリアンヌが、柔らかい鳥の羽根のようなスリッパを履いた。静かな足音。カーテンレールの動く音。彼は新雪の降り積もる外の景色を眺めた。夜明けの気配と月光に照らされて、それは星空のごとくきらきらと光っている。花の香りがした。それは自分の隣に置かれている花束から香ってきているものだった。彼は息を吸ったらしい。なんだか、マリアンヌがいま目を瞑っている気がして、ダリアはそこからやってくるだろう歌の気配に耳を澄ませた。
「憶えているわ」
 長三度で鳴るグラン・ククの大時鐘は、まずはじめにシュトラウスのポルカ『クラップフェンの森で』のごとく、ソーミの音で鳴り、その次にベートーヴェンの『田園交響曲』のミードの音を奏でる。カッコウの鳴き声というものはじつに音楽的であり、それでいて恋占いをする少女のためのものであり、郷愁の寂しさをかき起こすためのものであり、牧歌的な喜びを確かめるためのものであった。一羽の鳥の歌声は、それを受け取る者によって如何様にもその姿かたちを変貌させる。
 マリアンヌはグラン・ククの鳴き声、学園のチャイム、美しい鐘の音を口ずさんだ。その透き通りながら大気を震わす歌声は、ダリアにとってはまさしく朝の訪れであり、行く道を照らす明かりであった。マリアンヌは歌っていた。彼が歌っていたから、ダリアはその声に耳を傾けた。そして、知らず知らずのうちに、ダリア自身の唇からも歌がこぼれ、溢れ出した。
「そちらの眺めはどう?」
 二人は笑い合った。
 マリアンヌの問いかけに、座り込んでいたダリアは立ち上がり、再び柵の手すりに両腕を預けた。
「うん。すごく良いよ」
 それは彼にしてはひどく単調で質素な、けれども真っすぐで純粋な愛情をもった言葉であった。ダリアは眩しげに目を細め、太陽が寝返りを打っては起き上がるのを渋っている空の下、星月と街灯の明かりに映る学園を眺めやる。
「校門前の庭園も屋上庭園も両方見えて贅沢だ、ちょっと大人の特権って感じかも。風がどこから吹いてくるのかも分かる。海も見えるよ。水平線はまだ眠ってる。星の光が強くなったり弱くなったりしているところには、きっとカモメが飛んでいるんだろうね」
「なんだか懐かしいなあ」
「いつだって帰ってきたらいいよ。ここは君の母校なんだから」
 まったくそれが自然なことであるかのように言いきってから、ダリアは思い至って睫毛を少し震わせた。それからちょっとだけわざとらしく咳払いをすると、
「な、なあんて、ちょっと先生みたいなことを言ったりして。若輩者ですけどネ……」
 そう呟いて、痒くもない頬を空いている方の指先でぽりぽりと掻いた。それから間もなく、ううん、ありがとう、と微笑むマリアンヌの声が聞こえて、彼の鼓動の輪郭は丸く和らぐ。ダリアは心の中だけで深呼吸した。けれど、それだけではやはり足りない。彼は誰も見ていないのをいいことに、緊張で震えだしそうな大のおとなの長い脚を抱えて、もう一度展望台の床に座り込んだ。息を吸う。花の香りはすぐそこにあった。
「……マリア」
「うん? うん」
「い、……い眺めだよ。その。だから、ええと、ね」
 言葉が喉につっかえる。はく、と空気を捕まえようとする。どくどく鳴る心臓のせいで、耳の奥まで鼓動が聞こえた。声を出す器官がからからで、舌の根までも乾ききってしまいそうだ。
 マリアンヌは、こちらの言葉が継がれるのを待っていた。彼はどれだけ待たされることになっても、いつも差し出すようなまなざしを自分の方へと送ってくれる。きっと今も。あたたかで、穏やかな笑み。ダリアは眉根をぎゅうと寄せ、それよりも強い力で心臓のあるところを握り締めた。息を吸う。息を吸う。言いたいことを、言わなくちゃ。言いたいのだから。
「つ。次、君が公演を観に来たとき、だけど──あ、そ、それ以外でもいいんだけどね、いつでも──上って、みる? グラン・クク……」
 すべて言い終えてから、ダリアは乞うような視線をもって足元の花束、その一輪の花弁に触れた。清廉とした、それでいて花特有の、強く、甘い香り。今、マリアはどんな顔をしているのだろう。笑っている? 彼の疑問は、次に発されたマリアンヌの声色によってすぐに答えを得ることになった。
「ダリアくんが連れてってくれるの、その大人の特権で?」
「えっ! う、うん。君がいいなら、もちろん……? うん。あっ、一段ごとに『マ・メール・ロワ』を歌おうか?」
「あはは、うん、楽しそう。夜が明けてしまいそうだけれど」
 マリアンヌは電話の向こうで、口元に手を当ててくすりとしたらしい。それだけでもう、ダリアはほうっと胸を撫でおろした。その勢いで、ごろりと仰向けに寝転がる。
「そうしたら、空が見えるよ。今みたいな」
 ダリアは口ずさむようにそう呟いた。
 天上、彼の視界には、白みはじめた夜空ばかりが映っている。水の色に透き通りつつある空。月は未だ駄々をこねる太陽に向かって、静かでしなやかな瑠璃色の帳を下ろしてやっていた。水平線では、今にあくびをしながら太陽が諦めと共にそのからだを伸ばすだろう。夜の中に朝がやってくる。月は淡く真白を纏って、波打とうとしている空の中を漂っていた。満天と呼ぶにふさわしい星空が、瞬きをくり返しては日の出のあたたかな光を受けて、眠りに落ちるときを待っている。
「銀河みたいな朝だよ、マリア」
 呟いて、ダリアは頭上に手を伸ばした。自分の身体がここにあることを確かめるためだった。或いは彼は、ほんの少しだけおそろしかった。
「何もかもここにあるのに、なんだかひどく透き通って、世界から一人きりみたいでさ。風って、いつもこんな気分なのかな。だとしたら、風は……」
 彼は言いかけて、けれども目を瞑った。
 吹く風は冷たかったが、どこか夜明けの気配も宿している。ダリアの灰みがかった青い前髪が風に揺れ、彼はとくとくと言う自身の鼓動を聞いた。瞼の裏に、いつかの情景が水彩画のようによみがえる。
「寒い、」
「え? ダリアくん、だめだよ、ちゃんと上着を着ないと……」
「ううん、違うんだ。ありがとう」
 彼はうっすらと目を開けて、密やかにそうっと微笑んだ。
「寒い日、だったなあと思って。君が発った日」
 それはひどく柔く、そして繊細な音の色をもって紡がれた言葉だった。
 そう、寒い日だった。心のかたちが分かると思えるほど、寒い日だった。だからこそ、彼はその日を選んだのかもしれない。長く過ごした場所を発つ日を、そんな門出を、心の在り処が分かるような寒い日に。ダリアの唇から白い息が洩れる。もう彼は視界一面の星空ではなく、ただマリアンヌの方を見つめて笑んでいた。
「マリア」
「うん」
「そっちは晴れてる?」
「うん。綺麗な朝よ」
「よかった」
 ダリアは身を起こし、柵の間から水平線を眺めた。ようやく顔を出した太陽が、地上の様々な隙間を縫って、あちらこちらに光を差し出しはじめている。彼は隣の花束を愛おしげに指の腹で撫でた。指先は熱かった。指先はずっと熱い。
「今日ね、いくつか花を買ったんだ。同じような色ばかりなんだけど……」
「あら? そうなのね。それって白? 青?」
「えっ、どうして分かるんだろう」
 ぱちりと瞬いたダリアに、きっとマリアンヌも瞬いていた。そうしてやはり、二人は声を揃えて笑い出す。それからひとしきり笑い合った後に、光の洩れる睫毛を拭いながら、ダリアは顔を上げて目を細めた。
「今さらだけど、……ほんとうに今さらなんだけど、訊いていいかな」
「うん。なあに? ダリアくん」
「マリア。君の──」
 好きな花はなんですか?
 そう問おうとした瞬間、しかし鳥の歌声が大音声で鳴り出した。
 それも、頭上から! グラン・ククの声だ! 堪えきれなくなって、ダリアは大口を開けて笑い声を上げた。その声も、朝の訪れを告げる、美しいカッコウの鳴き声にかき消える。マリアはどんな顔をしているだろう。きっと笑っているといい。ダリアは笑って、笑いながら、鐘の音に溶ける歌を一曲歌い出した。それはもちろん、彼の愛する『マ・メール・ロワ』の中の一曲である。
 この歌が終わったら。
 この歌が終わったら、彼に好きな花を問おう。そして次に彼がここにやってくるとき、或いは自分が彼に会いに行くとき──ひょっとすると、もしかしたら、彼が来るより早く、自分が彼に会いに行く機会が与えられるかもしれない。可能性というものは常にはかり知れない──とにかく、彼に会えたとき、その花束を渡すのだ。勇気があれば。いや、勇気がなくとも。そう。そうだ。そう。ダリアは歌った。
 そう、この歌が終わったら。
 この歌が終わったら!



20210610 執筆

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