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まことを見に行く



 夕焼けが綺麗だったから、死のうと思った。
 美しさの前にはすべてが無力だ。憔悴しきったこの身体も、落胆を重ねたためにまともに働かなくなった頭も、あちこちが切り取られた制服も、いつかまでは友人と呼ぶことのできた彼らも、血は繋がらないがそれでもたいせつな家族も、希望と名の付くものも、絶望と名の付くものも、桟橋が水平線に手を伸ばすように、決して届かない夢、というものも、腕の中にある黒ずんだこのノートも。
 十五歳の少年の乱れた髪が、その微かに灰がかった水の色が、足元から吹き上げる風に呼吸めいた動きで揺れている。
 彼は人間の身体ではおよそ耐えられない高さから眼下を見下ろし、なんとなく、自分はこの大気の中を歩く方法を知っている気がした。それと同時に、そんなはずはないこと、そんな非現実はあり得ないということにも気付いていた。夢想とは聞こえのよい、現実逃避ばかりの自分の思考には、もう十二分に辟易していた。
 そして、或いはだから、彼は息を吸った。
 それは少年にとって途方もなく苦しい行為であった。呼吸をするたび、自身の肺が膨らむたび、血液の中に鋭い棘が混じったような心地がする。息をすると苦しいから、それを紛らわすために、彼は両耳に差したイヤホンから流れる音楽に耳を傾けた。
 そこから絶えず再生されているのは、少年が数ある劇団の中で最も心酔している劇団ロワゾの公演の一つ、『マ・メール・ロワ』の劇中歌集だった。彼の唇が微かに震える。それが苦しみのためだったかどうかは分からない。少年は手に持っていたノートを抱きかかえて、その場にしゃがみ込んだ。彼がいるのはとうに廃れた植物園の展望台であった。割れた窓硝子と転落防止の柵の向こう側で、少年は冷たい風に吹かれていた。
 鼓膜を突き抜けて心の琴線に触れる楽の音と歌声は、たとえ録音された過去の再生だとしても舞台上の光景をありありと──それはもちろん、実際の公演を目の前にしたときの方が圧倒的に鮮やかではあったが──瞼の裏に描かせる。伝承よりもずっとお茶目なアーサー王、天上できらきらと輝く名前も分からない星、赤いバラと優しい君、王家の家来でも元に戻せなかったもの、誰もが殺したクック・ロビン、石を投げられたから飛び去った小鳥、飛んでいけジャック、飛んでいけジル、戻ってこいジャック、戻ってこいジル……
 少年は両腕で膝を抱えた。その内側でノートがくしゃりという音を立てる。顔を上げても、ぼやけた視界では色彩だけしか目に映らない。彼の近眼用の眼鏡は、度の過ぎた──度などはとうの昔にとっくに過ぎていた──悪戯の皮を被った犯罪行為として、今日の朝方、道路脇の排水溝へと吸い込まれていった。けれど、少年はそれを追いかけなかった。泥にまみれて拾い上げたとしても、ひびの入った眼鏡などでは何も見えない。
 この歌が終わったら、と思う。
 この歌が終わったら。少年はそう思って、両足のつま先に力を込めた。歌が終わる。歌がまた始まる。この歌が終わったらと思う。少年は背後の柵を支えにして、そろり、と立ち上がる。この歌が終わったら。少年は廃植物園の向こうに見える、巨大な劇場の姿を見た。彼のぼやけた視界の中で、それでも堂々と鮮やかに色付く黒と白。それはワタリガラスの漆黒の壁と、白鳥の美しい純白の屋根と柱。孔雀色の垂れ幕に、様々な色で輝くライト。ぐるりの円形をしたそのオペラハウスは、少年の愛する歌の在り処であり、劇団ロワゾの始まりの劇場であり、鳥の王たちの大きな大きな巣であった。
 この歌が終わったら。少年の唇が震える。この歌が終わったら。少年の唇から一つ、音が洩れる。この歌が終わったら。それは歌だった。この歌が終わったら。少年は歌い出した。この歌が終わったら。少年は歌った。この歌が終わったら。枝の上で細く揺れる声が、次第に大きく、伸びやかに羽ばたいていく。この歌が終わったら。少年の両目から、歌と共に涙が溢れていた。この歌が終わったら。彼は絶え間ない歌を、遠い劇場に向かって伸ばした。この歌が終わったら。この歌が終わったら。この歌が終わったら。この歌が終わったら……
 歌はいつか終わる。
 息が続かなくなるのと同時に、歌は終わる。
 少年は鳴り止んだ歌に反して零れて止まらない涙を拭うこともせず、片手にしていた、鉛筆の黒鉛汚れで黒ずんでいるノートを展望台から宙へと放り投げた。今もきっと絶えず歌と物語が鳴り止まない劇場へと向かって、できるだけ高く、少年はノートを放り投げた。どこにも届かないことが分かっていながら、彼は投げたのだった。それは願いめいた諦めであった。まさしく彼は、そのノートを発端としてすべてを、何もかもを捨てようとしていた。身体からふっと力が抜ける。視界は傾き、どこかへ落ちようとしていた。鳥であったら。目を閉じる。鳥であったなら、歌は終わらない。鳥であったなら、落ちることもない。鳥であったなら。
 鳥に、なれたら。 
「えっ──」
 それから突如、身体が後方に吹き飛ぶ感覚がして、少年は瞑っていた目を見開いた。
 そして瞬間、鈍く重たい衝撃。
 少年は、身体を何か平たいものに思いきりぶつけたらしいことに気が付いて、低く呻いた。いや。いや、あんなに飛び降りたのだから、地面にぶつかるのは当たり前なのだ。問題なのは、問題なのは、何故自分にここまで鮮明に痛覚と意識があって、まだ生きているのか、ということだった。両目の端から、先ほどとは別の理由で涙が滲む。痛い。もう、もう、くるおしく身体が痛い! ここはどこだ。一体自分はどこに飛んだというのだろう。少年はずきずきする腕でずきずきする歯を噛み締め、ずきずきする身をどうにか少し起こした。どうやら、まだ自分は展望台の中にいるようだった。それも柵の随分と内側に。どうして? 視線を柵の外へと向ける。植物園も劇場も見えなかった。代わりに、白。夕暮れ空を翼の形に切り取った白が見えた。
「あ──ああ!」
 白い翼から声がして、少年は数回瞬いた。よく見ると、それは、白い服を着た一人の人間だった。
「届いた、よかった!」
「え、あ……」
 喜色ばんだ声に言葉もでない。白い服の人は、少年の方をばっと振り返り、片手に何かを掲げている。僕のノートだ! 少年は頭の中身を鈍器で殴られるような衝撃に、身体の痛みを瞬時に忘れた。
 白い人は今にも折れそうな柵を片手で掴み、腕を指先が外れるぎりぎりまで伸ばして、片足は宙に、もう片足のつま先は展望台の端と宙のはざまに置いて、生命の綱渡りをしながら降ってくる一冊のノートを掴んだらしい。少年はそのさまに、機能しない唇をぱくぱくと動かした。相手の掴んでいる柵が、そのおそろしい力に、みし、と鳴った気がする。はっとして、少年は喉から声を絞り出した。戻ってください。落ちてしまう!
 白い人は、震える人間が出したものとは思えないほど場を揺るがした少年の声と言葉ににっこり微笑むと、大層大事そうに今しがた掴み取ったノートを抱えながら、ひょい、と柵を飛び越えて少年のいる方へとやってきた。
「きみ、お怪我は? きっとしていますね、すみません、私も動転していて。思いっきりぶん投げてしまいましたから、きみのこと」
 そうして少年にかけた言葉は、このようなものである。
 度肝を吹っ飛ばされた身体よりも遠くまで抜き取られた少年は、自身の鴨の羽色の瞳を目いっぱい丸くしながら、ぐるぐると逆流する血液と頭まで心臓になってしまった感覚に、危うく気を失いかけつつもひゅうっと息を吸った。
「なっ、何を考えているんですか……! あ、あなた、もう少しで死──落ちるところだったんですよ!」
「落ちる? ああ……」
 少年の言葉に白い人は背後を振り返った。相も変わらず風は下からびゅうびゅうと吹き付け、少年と白い人の靴の裏では、硝子の破片がジャリ、という音を立てている。
「でも、落ちなかったでしょう?」
 あっけらかんと白い人は笑って首を傾げた。少年は呆然とするより早く、ついに身を起こして立ち上がった。
「そういう問題じゃあありません!」
「いえいえ、そういう問題なのですよ。何事も結果が大事! 落ちなかったのだからそれでいいんです、私も、きみもね」
 言いながら、彼は手に持ったノートを少年に向かってぱらぱらと捲ってみせる。輪郭の曖昧な視界では、文字がびっちりと書かれたそれはただ真っ黒な空間にしか見えなかった。暗やみの話を書いたわけではないのに。
「僕……?」
 少年は呟き、自身のノートと白い人の顔を交互に見やった。どうしてだろう、彼の言うきみ≠フ中に、ノートまでもが含まれている気がしたのだ。少年が一度瞬き、それとほぼ同時に白い人もその瞼をぱちりとする。
「……このノートが落ちたら、きみまで失ってしまう。なんだかそんな気がしたんです。だから、よかった」
 そう言う相手の顔は逆行と近眼のためによく見えなかったが、それでも声色から彼が柔く笑んだらしいことは分かった。少年は眉根を寄せ、怪訝な表情をする。どうして?
「そんな、たかがノート一冊で……」
 どうして。どうして。彼には今起きているすべての事象が理解できなかった。もちろん納得も。そんな少年に歩み寄りながら、白い人はノートの表紙をそっと撫でる。そうして、高い腰を折って、少年の瞳を覗き込んだ。
「──私たち、そんなたかがノート一冊に、いつも命を賭けていますから」
 吸い込まれるように目が合う。はっきりと確かにそう言いきった白い人に、少年は初めて相手の姿をしっかりと目に映した気分になった。
 青年だ。白銀に近い金髪に、左右微かに色の異なる黒い瞳。目の奥にいつもちかちかとした鋭い光を宿しているのを、柔和で甘い顔立ちに隠している。背後から吹く風に彼の着ている白いローブが波のようにはためき、こがねに縁取られたその輪郭の中で金髪と目の光ばかりが爛々と輝いていた。
 たかがノート一冊に、いつも命を賭ける。そんな人間が一体どこにいるのだろう? 問いが自分の中に浮かぶのと一緒に、少年はまさしくその瞬間、鮮明な答えを得ることとなった。
「……レッドアップル・レグホーン?」
 少年は目の前の人間の名前を呼んだ。それがすべての答えであった。
「はい、こんにちは!……って、あれ? きみ、私のことをご存じなんですか?」
「え? いや……もちろん、演劇が好きなら誰でも知ってます、よ……?」
 名前を呼ばれたレッドアップルはほとんど反射的ににこにことした笑みを浮かべて、こっくりと頷き、それからおやと首を傾げた。少年は目の前の光景がいよいよ、もしくはますます信じがたくなって、尻すぼみに言葉を発する。だって、レッドアップル・レグホーンだ! レグホーン! こんなところにいるはずもない。ここはいわゆる天国とやらで、やはり自分は死んだのではないだろうか? 少年は思わず遠方に映る劇団ロワゾのエクラン劇場を見た。
 レグホーン。それは、劇団ロワゾの初代座長兼主演男役にして、ルニ・トワゾ歌劇学園の創立者、初代学園長。歌劇界では伝説と化した人間、レイヴン・レグホーンの血を受け継ぐ者だけがもつ姓だ。いま目の前に立つレッドアップルもまた、それにたがわず、レグホーンの家系の一員である。そうだ、ルニ・トワゾ時代の彼の舞台ならば観られる限り何度も観た。レイヴンとして舞台上で羽ばたく彼の演技と、ココリコ生として響かせる彼の大きく広がる強固かつ調和を描く歌声はいつ如何なるときでも自由に見えた。彼はレグホーンの名を冠するレイヴンとしていっとう相応しいように映った。彼がルニ・トワゾの卒業公演を終えて三ヶ月ほどか。劇団ロワゾで多忙を極めているはずのレッドアップルが、ああ何故こんなところにいるのだろう? どうして? 何もかもが合点がいかない。一体何を言ったらいいのかも分からない。少年は気を失いそうになった。失いそうになりながら、天国でも意識を断たれることはあるのだろうか、などと思った。
「……あ。え……ええっと、ロワゾでのデビュー、おめでとう、ございます、……? ルニ・トワゾでの卒業公演も拝見しました」
「わあ、ほんとう! ありがとうございます。とっても嬉しいです。握手しましょう、握手!」
 己の意識の細い糸を精一杯手繰り寄せ、少年は訥々とレッドアップルに対して言葉をかけた。彼自身、何を言っているのか、そして言ったのか分からないまま、レッドアップルに両手を握られてぶんぶんと上下に振られる。力が強くて少し痛かった。少年は目まぐるしく変化する眼前の光景にどうも空中を歩いているふうな気分で、ちょっとだけぼんやりとした。それはおよそ目眩と呼ぶ代物であったかもしれないが。
「その、レッドアップルさん」
「ああ、レアでいいですよ。良い響きだし、ほら、レッドアップルっていう名前は呼びにくいでしょう?」
「えっと、レアさん」
「はい。なんでしょう?」
「どうしてこんなところにいるんですか?」
 レッドアップルは少年の問いかけに首を傾げた。まるで不思議なことでも訊かれたような表情で、彼は少年の青い瞳を見る。
「植物が好きだからです」
「植物……」
「そして、歌が聴こえた。だからここにいるんです。ロワゾの人間にそれ以上の理由が必要ですか? 植物と歌。それ以上に?」
 左右で僅かに色が違う両目を細めて、レッドアップルは当然のことであるといった様子でにこりとした。
 まさか、と思う。まさか、自分の歌声が聴こえていたわけでもあるまい。少年はそのような表情で相手の方を見れば、レッドアップルはざりざり鳴る靴裏で展望台の床を叩き、そこでくるりと一回転をした。彼の纏うローブがぶわりと風を含み、翼を広げたレッドアップルの存在はより大きくなって、その場を支配する。白鳥と、白い大烏のあわい。レッドアップルの唇が薄く開かれる。隙間から、音が一つ洩れる。それをきっかけとして、音はいくつもいくつも溢れ出す。レッドアップルは、歌を歌い出した。歌った。枝の上で身を休めていた声が次第に大きく、更に大きく、壊れかけの展望台を舞台として一周し、その翼は少年をふうわりと包み込んだ後、外へ外へと羽ばたいていく。
 伝承よりもずっとお茶目なアーサー王。この歌が終わったら? 天上できらきらと輝く名前も分からない星。この歌が終わったら? 赤いバラと優しい君。この歌が終わったら? 王家の家来でも元に戻せなかったもの。この歌が終わったら? 誰もが殺したクック・ロビン。この歌が終わったら? 石を投げられたから飛び去った小鳥。この歌が終わったら? 飛んでいけジャック、飛んでいけジル、戻ってこいジャック、戻ってこいジル……
 この歌が終わったら?
 少年はぼんやりとしていた目を今は真っすぐにレッドアップル、ないし彼の歌と演じる物語に向けていた。聴こえていたのだ! 少年の瞳の奥はきらりと瞬き、うっすらと水の膜が張られたその表面では、つるりとした鈍い光が輝いている。聴こえていた! 睫毛は淡く震え、唇は呼吸以外のために薄く開かれた。手。歌声めいた手を伸ばされているような心地だった。掴んだところから、鳥になれるとさえ思えた。少年は手を伸ばす代わりに、唇から歌を吐いた。気が付けばそうしていた。
 だって、彼には聴こえていたのだ!
「……それで、きみ」
 そして、それからどれほど経っただろう。
 夕陽はすっかり地平線の彼方へと沈みゆき、辺りは薄暗がりの青紫に包まれていた。レッドアップルは少年の音楽プレーヤーに収納されている『マ・メール・ロワ』のサウンドトラック、その曲目をすべて歌い上げてしまった。それは少年も同様であった。
「ここから飛び降りる気なんですか?」
 レッドアップルの問いは明け透けだった。少年はしばらくの間、何を問われているのかが分からず、ゆっくりと瞬きをする。長い時間歌っていた少年は、はあふうと息を乱していた。彼はまた少しぼんやりとしていたが、目眩のためではなく、身体中を駆け巡る痺れにも等しい熱量のためであった。
「ここから飛んだら、死んでしまいますよ。鳥でもない限り」
 呼吸を行うばかりで物言わぬ少年に、けれどもそれが答えであるといわんばかりに、レッドアップルは眉尻を下げることさえなく笑んでいた。少年は恥ずかしかった。もう随分と晴れ晴れとした気持ちだった。明日も学校に行かなければならない、ということを思い出しさえしなければ。
「ところで、こちら。拝読してもよろしいですか? 誰かに見せたことは?」
 レッドアップルはまた別の問いを少年に向けて差し出した。彼は歌うたう最中も決して離さなかったノートの表紙をまた指先で少し撫でて、相手に向かって首を傾げた。
「見せたことは……ありません」
「そうか、そうか。では私が第一読者ということになりますね。幸運なこと!」
「……幸運なのは、僕の方ですよ。最初で最後の読者が、レッドアップル・レグホーンだなんて」
 少年の返答に、レッドアップルの黒目が三日月さながらに細められる。それはやはり、不思議なことでも言われたような表情であった。
 彼はローブの裾が砂埃で汚れることも厭わないようで、床の上にふわりと座り込んだ。烏としての荒々しさを削いだ繊細な所作は、どこか湖の上の水鳥を連想させるものだった。レッドアップルの手の中で、表紙がゆっくりと開かれる。少年は突然目の前にいる人間がロワゾの看板を背負うべく研鑽を積んできた役者であること、そして自分のノートに書かれている内容の拙さを思い出して、急速に喉がからからになるのを感じた。苦し紛れに、こんな暗いところで読めますか、と問えば、レッドアップルは笑った。ゴーストライトほどの明かりがあればね。
「……うん」
 ややあって、レッドアップルはそう洩らした。少年はどきりとする。レッドアップルの睫毛がほんの少しばかり上がって、彼はふと、エクラン劇場のある方角を見やった。
 どうやら彼はぼんやりとしているようだった。それはおそらく、目眩のせいでも、熱量のせいでもない理由で。そうして睫毛が再び伏せられる。視線がノートに戻されたわけではなかった。彼は目を閉じていた。まるで何かを聴いているみたいに。辺りには少年の緊張した息遣いと風の音、そして、植物たちの微かな葉擦れだけが漂っていた。少年も目を瞑った。そして、祈りに近しい気持ちで、もしかしたら、と考える。もしかしたら、波の音を聴いているのかもしれない。レッドアップルの指先は、たいせつそうにノートの最後の頁を撫でていた。
「……うん、面白いですね。これは舞台の話か。ああ、驚きました。きみ、やっぱり物語が書けるんだ」
「舞台の話……?」
「ええ。舞台の」
 レッドアップルの自信ありげな微笑みに、少年はなんとなく曖昧に頷いた。
 そんな少年がノートに書いたのは──この世界から消えてしまいたいと思いながらも、夢を見たくて筆を動かしていたのは──その果てに在ったものは──彼が紡いだのは──海の物語であった。しかし、少年は海が見たいわけではなかった。夢を見たかった。けれど、夢を残したいわけでもなかった。残したかったのは、海だった。それは何と言い換えることができただろう。
 レッドアップルは微笑んだ。それから少年にノートを手渡すと、緩やかにその場に立ち上がる。彼はまた古びた柵と硝子片の向こう、空の彼方、エクラン劇場の方を見ていた。
「きみ、……きみが飛び降りたい理由は、なんとなく分かります」
「……あなたに? 分かるはずがありません」
「すべてはね。でも、きみ、こう思っているでしょう」
 そして彼は少年の方へ視線を戻した。
「──飛びたい。夢は叶わない」
 レッドアップルはその顔から柔らかな笑みを失して、にこりともせずにそう発した。まるで事実を淡々と告げるような表情だった。少年はぎゅうっと握られた心臓がもがくこともできずに鼓動を止めるのを感じて、せめても反抗として下唇を少し噛んだ。かぶりを振る。
「そうじゃないって、言いたいんでしょう」
 その言葉に、相手もまたかぶりを振った。
「いいえ」
「え?」
「夢は叶いませんよ。夢はえてして手の届かないもの。いつだって眠っているときに見るものなのですから」
 足元の砂、或いは硝子片が音を立てたのは、レッドアップルがつま先の方角を変えたからであった。夢は叶わない。彼の発したその言葉は、それでも不思議と否定的な印象を少年には与えなかった。
「けれど」
 それから、息。呼吸をする音が、確かに一つ聴こえる。
「──けれど、それこそ。それこそ劇場と役者と物語の存在理由だとは思いませんか? 夢は叶わない。しかし、劇場に役者と物語があれば夢が生まれる。そして、劇場と役者と物語だけが、そこに生まれた夢を叶えることができるのだ、と」
 レッドアップルの白く縁取られた睫毛から、ちかりと光が洩れている。薄汚れた柵に片手の指先を置いて、彼は笑んだらしかった。まさしく夢でも見るふうに。
「きみには夢を叶えて差し上げたい人がいますか?」
 彼は振り返って、少年に問うた。陽が出ているときにだけ空気中に見える、太陽の粉にも似た細やかな輝きが、けれど陽光もないのに自分の元までやってきたような気がして、少年はほとんど無意識に口を開いていた。
「……数人」
「数人も! たいせつなことですね。もしいらっしゃらないようだったら、私の夢を叶えてくださいと言うところでした」
「あなたの夢?」
「うん、私の夢」
 少年の言葉を聞いて嬉しそうに笑みを広げたレッドアップルは、腹の上で両手を組んでは背後の柵に身体を預ける。
「役者はね、たくさんの夢を叶えるでしょう。人々を喜ばせたいと思う劇場の夢、こういった台詞、こういった結末に導きたいという物語の夢、そして、夢を見たいという観客の夢。それを一日に、何度も、何度も。だから、役者もまた、時々は……時々は、舞台の上でだけ、夢を叶えてもらうことを許されてもいい、と私は思うんです」
 彼のローブの裾が風に揺れていた。夜に塗れたそれは、もう純白には見えない。灰がかった生命の白色だけがそこにはあった。
 少年は風に紛れて、残り香の夢がレッドアップルの方から漂ってくることに気が付いた。叶えたい、叶わない夢の香り。だからかもしれない。少年の中でぱらり、と吹く風によって頁が一枚捲られる心地がしたのは。
「……誰に?」
 思わず、少年はそう問いかけた。レッドアップルは片腕を伸ばすと、その手のひらの上にエクラン劇場を乗せて──少なくとも少年にはそう見えた。誰にでもそう見えただろう──真っすぐ少年の方を見ながら微笑んだ。
「劇場から。物語から。そして、観客から」
 劇場から。物語から。そして、観客から? 少年は心の中でおうむ返しをし、半ば自嘲的に睫毛を伏せる。
「それと僕とに、どんな関係があるんです」
「大ありです!」
 レッドアップルはまさかという顔をして、両手をぱちんと合わせた。少年はちらりと相手の方を見る。
「だってきみは、物語を書くのですから」
「でも。もう、……書くことはありません、よ」
「そうですか? ほんとうに? 自分の限界を決め付けてしまうのはよくありません。あなたの未来のことは、あなた自身にも分からないのですから」
 合わせていた両手をぱ、と開いて、レッドアップルは人差し指でくるりと空気をかき混ぜた。そうして名残惜しそうに少年の腕の中にあるノートを見やった後、んん、と少し唸り、
「まあ、やりたいときにやるものですよ。なんでもね」
 のんびりとした声色でそのように言った。
 なんだかすべてを見透かされているような心地になって、少年はぎゅうとノートを抱き締める。レッドアップルは再び少年のすぐ目の前まで舞い戻り、ゆるりと首を傾げてみせた。
「さて、では……他にやりたいことはありますか? いいえ、あるでしょう? だからきみは物語を書いている」
「だけど、……」
「でも、だけど。勇気を阻むのはいつもその言葉ですね。そしてその言葉を発せさせる原因は、きっときみの服装にある」
 そう断じた彼の指先が、少年の羽織っているブレザーを示した。少年ははっと動揺の色を目の中に浮かべ、対するレッドアップルの黒目は光っていた。そこに在るのは鋭い光ではなかった。丸い光でも。
 少年は片腕を握った。転んだために空いたと言うには鋭利な切り口の穴と、経年劣化による擦り切れと呼ぶには着た日数の浅い破れ方をした生地。彼のブレザーが負った傷は、鋏でなければあり得ない、人の手による犯行だとすぐに分かるような杜撰な代物だったが、それでも少年の心は切迫していた。まるで傷を受けたのは自分の罪だとでもいうように。
「そんなふうに、言って」
 少年はレッドアップルの瞳から顔を背けた。
「……一体、何が楽しいんです。シャーロック・ホームズでもないのに」
「アン・ヴェリテ=I その通り。私が演じたことがあるのはポアロだけ。どう考えたって、ホームズはレディバグの方がハマり役でしょう?」
 レッドアップルは、几帳面に整えられた口髭を指先で触る仕草をして、少しだけ身体を重たそうに、かつ右脚を痛めた様子で少年の周りをゆるりと歩いた。少年は困った顔で自分の周りを行き来しているレッドアップルの方を見る。なんだか通行止めを食らっている列車の中にいる気分だった。それはきっと、自分がすべての答えを知っているから、なのかもしれないが。
「では、ポアロらしく問題の解決を行いましょうか。灰色の脳細胞を使うまでもありませんがね。その件を誰かに話したことは?」
「……ありません」
 つと、エナメル靴が立てていたコツコツという音が止む。レッドアップルが足を止めたのだ。見れば、彼はエナメル加工をしていない白の革靴を履いていたし、その上、口髭も重い身体も痛めた右脚もここには存在さえしていなかった。
「きみは存外秘密主義なのですね。内包する言葉や物事が多いということは、役者にも作家にも向いているということ。ですが、あえて訊きましょう。どうして?」
 早々に役を脱いでしまったレッドアップルに顔を覗き込まれて、しかし少年は、殺人現場に居合わせた探偵に質問をされるのと同じほどに怯んだ。
「どうして、って……?」
「分かりませんか?」
「分かりません。どうして、だろう。怖い……?」
「ここから飛び降りるほうがよほど怖いですよ」
「それは怖くないんです。僕は……」
 少年ははく、と息を呑んだ。或いは言葉を。何を言うべきなのか分からなかった。何を言おうとしているのかも。レッドアップルは淡く笑み、そうっと少年の心臓の辺りを、ノートの上から人差し指でとん、と叩く。
「恥ずかしい?」
「え?」
「違いますか?」
 探偵の指ではなかった。探偵の言葉とも違った。それは役者の指だった。役者の言葉だった。そう理解した途端、少年の表情がゆっくりと歪み、そこには今にも泣き出しそうな笑顔ばかりが残される。
「……つまらないプライド、ですよね。毎日こんなふうにいじめられているのに、家族の前では格好をつけたい、だなんて」
「いいえ。誇りがなくては、人は生きてはいけませんよ」
「誇り……」
 そう言いきったレッドアップルに、少年は目を伏せたまま、言葉を口の中で反芻した。足元はもう暗やみそのものだった。自分の靴はそこに呑まれていた。嫌だ。夜が来たら朝が来てしまう。のに。
「きみはその誇りを失おうとしているんです、今まさに。それは、おそらく、隠し通すことができそうもない、という理由から」
 レッドアップルの言葉が耳から入り込み、それは衝撃もなくすとんと肺の方へと落ちていく。事実だった。事実なのだろう。腹痛さえ感じなかった。腹痛も頭痛も空腹もずっと、何日も感じていない。投げ飛ばされた身体の痛みはあった。喉の渇きも。喉が渇いていた。ずっと喉は渇いていた。
「でも、きみは隠したい。死を選んでも怖くないと思うほど、事態は切迫している」
 喉が渇いた。からからでへばりついて、呼吸がしにくかった。息がしにくい。息ができない。息ができないと。息が。そう。そうだ。だから死のうとしたんじゃあないか!
「──ですから、隠しましょう」
 少年は思わず声よりも早く顔を上げた。
 相変わらず息はできなかったが、代わりに心臓がどくりと鳴る。隠す。隠す? もうこんなにぼろぼろなのに。隠す? 辺りはやはり夜の暗やみに包まれていた。けれども、その中でレッドアップルの着る白と、瞳の光だけはありありと浮かび上がっていた。
「そ……ど、どう。どう、やって……」
「ええ。まずきみは、きみの通っている学校を辞めるのです」
 きっぱりと、そしてはっきりとそう発したレッドアップルに、少年はいっとう目を見開いた後、あり得ない、信じられない、問題だらけだ、という言葉をないまぜにして、自身の顔に書いてみせた。首が上手く動かない。かぶりを振ったのはレッドアップルの方だった。
「いいえ、全く問題はありません。レッドアップル・レグホーンにスカウトされた。この一言だけで根本の問題は解決します。セ・フィニ=Bこれでおしまい」
「しっ、し、しませんよ……! しません! それじゃあ、に、逃げたのと一緒……」
「その通り。きみは逃げるのです。或いは逃がす。同じことでしょう。ポアロだって犯人をあえて逃がしたことがある。自らのエゴによってね」
 同じこと? 今度こそ少年は首を左右に振った。レッドアップルは首を傾げ、それから口元ばかりに弧を描いた。
「いいえ、同じこと。些細なこと。私はきみを諦めません。ですから、諦めてください。それか覚悟をお決めなさい。役者などは皆、こんな二重思考の持ち主ですよ」
 風が吹いていた。夕焼けはとうに姿を消していた。夜がそこにあった。星は見えなかった。月光はほとんど差していなかった。廃植物園には電気は通っていなかった。劇場にはきっと明かりが灯っていた。夜だった。
「はっきり言いましょう」
 目の前に立つ人はやはり、白かった。それは朝の色ではなかった。呼吸の音が聞こえていた。自分の。
「きみには才能がある。私に見付けられたことも含めてね。つまらない連中に構ってやる時間は、正直きみにはないのですよ」
 レッドアップルが事もなげに言い放ったそれは、少年のブレザーに刻み付けられた傷や、ぱっかりと空けられた穴よりも遥かに鋭く、底の見えない言葉だった。少年は後退らなかった。後退ることができなかった。背後に奈落がある気がしていた。
「さあ、おいで。私はきみを死なせはしません、決して。再度言います。きみは見付かった。諦めてください。それか覚悟をお決めなさい」
 白い手のひらが目の前に差し出される。
 怖い、と思った。狂っているとも思った。この手を取れば、どこか、ここではない、夜でも朝でも、ましてや学校でもない、なにか別のおそろしいところへと連れていかれることも分かっていた。生きている心地はしなかった。けれど、呼吸だけはできていた。少年は手のひらを見つめた。そうしてしまった。そうしたから、美しいと思った。美しいと思ってしまった。その手のひらを。人間であることをとっくにやめた、鳥の手のひらを。
 少年は手を取った。言葉もなかった。ただ涙だけが、一粒その瞳から零れ落ちていた。
「……ああ、そうだ! たいせつなことを忘れていました。きみ、お名前は?」
 レッドアップルは少年の手をぎゅっと握り、自分の腕の下で嬉しそうに相手のことをくるりと回した。どこか危なげな足取りで、少年は導かれるままに回転する。風はまだ吹いていた。夜に飛ぶ鳥のからだを持ち上げていた。随分と長いあいだ風に晒されたために冷たくなったレッドアップルの手を、それでも彼はもうおそろしいとは思わなかった。
「──ダリア」
 少年はレッドアップルの目を見た。
「ダリア・ダックブルー」
 そして、当然のように呼吸をし、ほんの少しだけ微笑む。それからすぐに、身体が風に乗ってふわりとするのを少年──ダリアは感じた。それは、レッドアップルがまだ幼さの残るダリアの身体を思いきり抱き締め、その場でくるくると回り出したからであった。
「ダリア! 素敵な名前ですね。それではダリア、きみのしたいこと、を片っ端からやってみましょう。すべてはそこから。きみがその中から道を見付けるのか、それともロワゾで大役者になるのか、或いはファザー・ダックになるのか? すべてはそこから始まります」
「ファザー……?」
「あ、いま考えたんです。マザー・グースに掛けてみました」
 回転を止め、明らかに得意げな表情でそう言ってのけるレッドアップルに、ダリアはあはは、とほとんど無意識に笑いを洩らした。それはいいなあ。とても素敵な響きだ。レッドアップルもまた笑った。物語から生まれる夢は永遠だと、彼の瞳が物語っていた。
「あの。僕からも一つ、訊いていいですか」
「ええ、もちろん。答えられるかは分かりませんが」
「レッドアップルさん。あなたの夢って?」
 手を引かれて歩きながら、ダリアはそう問うた。レッドアップルは白い羽を広げ、レアでいいですよ、という用意されていた台詞を、たとえばこんなアドリブで上書きしてみせたのだった。
「ほんとにお話なのよ。何だってかんだって物語だわ。あなただって一つの物語だし――私も一つの物語よ=v


20210603 執筆

- ナノ -