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奈落の最果てをゆるさない



 雨だ。くるおしいほどの雨。
 いつからこのような惨状になったというのだろう。予報もされなかった灰色の雲からは突如として叩きつける勢いの水、水、水が溢れ出し、それからすぐに横殴りとなった雨はばたばたと音を立てて、先ほどまでの美しい夜空を、建ち並ぶ家々の屋根を、月明かりに黒く光るコンクリートの地面を、人の髪を、肌を、目を、そこにあるすべてのものを暴漢のごとく殴り倒している。家の窓から歩道へと洩れる明かりですら、草の下生えを守るために枝葉から差し出される木陰ですら、そういう光と呼ばれるもの、影と呼ばれるものでさえすべて、雨は自身の拳で押し流そうと躍起になっていた。
 そして、それは息を上げて駆けるガーネットに対しても、当然等しく降り下ろされていた。
 平常通り彼の高すぎるヒールはいつもであれば攻撃的な音を足元のコンクリートに響かせていただろうが、今夜はそういうわけにもいかず、彼の勝ち気は轟轟と鳴る雨音と流れる水に連れ去られている。それでも、彼は脚を動かし、前へと走った。どこに行こうとしているのか、どこに行くべきなのかも分からないまま、彼はひたすらに駆けていた。薄く開いている唇から雨が入り込んできて不味い。瞼に何滴かの水が当たって瞬く。冷たい雨が身体を濡らすのは不快で堪らないはずなのに、反して頭はわんわんと鳴って熱かった。いつからこのような惨状になったというのだろう。前は闇で、後ろは影だ。或いは、黒く濡れたコンクリートだけは家々の明かりを受けてちらちらと輝いていたかもしれないが、ガーネットの目には最早その様子は映り込みもしなかった。
「……やあ、ガーネット?」
 頭の中、それとも耳の中、いいやもっと奥の方だろうか。ガーネットの身体の中で自身の恩師──とは呼びたくないが、致し方ない──のルビーが発した言葉がこだまを続けている。正しくは、言葉を発するその声の奥に滲んだぎりぎり聞こえるか聞こえないかほどの、ガーネットには確実に聞こえる程度の悪戯で湿度の高いルビーのわるぎが、彼の中で反響をくり返している。こちらよりもずっと鮮やかで毒をはらんでいるルビーの真っ赤な瞳が、うっそりと弧を描くさまを思い出して、ガーネットは顔を濡らす雨をまるで粘着性であるかのようにぐい、と片手で拭った。
「先生、」
 次いで、鼓膜の内側で響いた声に、ガーネットのこめかみで名状しがたい色の光がちかちか弾ける。言葉の主は、声とその瞳の中に困惑と、後悔めいた色を浮かべていた。後悔! 拭ったところから、馬鹿の一つ覚えみたいに降る雨が文字通り全身をたこ殴りにしていた。痛い。何もここまですることないじゃあないか。たかが隠し事の一個、十個、百個だろう? 紛うことなき最悪の気分。洪水みたいな雨音のせいで、辺りの音は何一つ聞こえない。ああ、これほどまでに天へ唾を吐いた犯人は誰だ? 文句の一つも言ってやりたいが、責め立てるつもりは起きない。気持ちは分かる。
 だって。
 だって、俺が悪いのか? 自分の楽屋の扉を開けたら、そこに自分の元担任と元教え子がいるなどと、一体誰が想像できる? あれがもっと別の組み合わせならばまだ良かった。とにかく彼と話をしていたのがルビー・ルージュ以外であれば、後はなんでも良かったのに。こちらの顔に人間失格のラベルを貼って、この方は恥の多い生涯を送って来ているのですよ、とありあり話してしまうようなあいつでさえなければ! 僅かに脚がもつれかけ、ガーネットは空を掴んだ。ルビーは彼に何を話したのだろう。どれほどのことを話してしまったのか? そもそも自分は何を隠していたのだっけ? 息をするように部屋を散らかしてしまうこと? 隠していない。片付いた部屋では一人で眠れないこと? そういう、くだらない、取るに足らない、先生≠轤オくないことのすべて? 舞台でも稽古場でもボールルームでもない、ただの一人が眠るための部屋に空白があるのが雷雨や洪水よりもおそろしい。煙草の香りがする香水はあまり好みじゃない。あれだったら、煙草を吸う方がずっと良い。更に良いのは酒を浴びるほど呑んで脳みそごと踊らせること。玉ねぎが嫌いだ。切ると笑えるほど涙が出るから。才ある人間はいつでも喉から手が出るほど欲しい。嘘。欲しいのはその才だ。喉から手が出るほど。だから彼らのことが憎らしいほど愛おしく、そして綺麗に整った一人部屋よりもずっと、ずっとずっとずっとおそろしい。自分には才能がない。それは初めて踊ったときから知っている。俺などはもう、努力と呼ぶのも烏滸がましい悪あがきで、舞台から蹴落とされないよう帳尻を合わせるしかないのだ。アンチックは天才だった。天才だ。だから。なのに。ルロを演じたときから、車いすのことがずっとこわい。脚が動かなくなったらどうする? 腕まで失ったらどうしよう? 奈落に落ちたら? 踊れなくなったら? 氷山の上で踊らされるようだった学生時代のこと。じつのところ、自分は家族を語る資格を持ち合わせていない。そも、俺が先生らしかったことなんてただの一度だってあっただろうか? お前のことは俺が選んだ。他でもないことの俺が。有無を言わさず、ほとんど拒否権もなく、この俺が。踊るべきだと決めつけたのは俺だ。踊ってほしいと思ったのは俺だ。踊れと言ったのはこの俺だ。なあ、真実お前から歌を奪ったのは……
 ふと、ガーネットは戻ろうと思った。
 戻ろう。こんな雨の中を彷徨ったって仕方がないのだ。移ろい易いローレアの天気のことだ、この暴力的な雨はどうせもうじき止むだろうが、だからといって何が変わるというわけでもない。起こったことは、すでに起こった。過去というものは清算できない。決して。
 戻る。
 戻って、まったく何事もなかったかのような──先生に見てもらおうと思った資料を寮に忘れてきたから取りに戻ろうとしたら馬鹿みたいに雨が降ってきたから死ぬかと思ったとりあえずタオルを取ってくれますかそしたら麻雀くらいは付き合ってやりますよ──顔をして、平然と楽屋のソファーに腰掛ければいい。まだそこにいるかも分からないが、教え子の目に困惑や落胆や失望や、或いは悲憤、厭忌、そして後悔が浮かぶのなら、それを甘んじて受け入れよう。正直、そのやり方はよく分からないが。毒刃の躱し方なら嫌というほどルビーから教わったが、しかし彼はその受け止め方を教えはしなかった。おそらく、考え得る限りで最も美しく見える表情でにっこり微笑むだけでは足りないのだろう。ならば、頭でも垂れてみようか。首を落とされる前の罪人のごとく。
 ガーネットはほとんど機械的に動いていた足を止めた。それから猛攻を続ける曇天を少しばかり見上げて、脱力感と共に踵を返した。
 冷たい雨ではなく、自身の中でぷっつりと切れた何かによって多少頭が冷えたガーネットの瞳が、先ほどまで背後であった眼前の暗やみを睨む。家の明かりだけではなく、街灯もまた毎夜のようにきちんと足元を照らしていた。耳を澄ませば、雨音に混じってどこかで車が走る音、自分のヒールがコツ、と地面を叩く音も聞こえる。思えば世界はそう暗くはなかった。そして。
 そして、ふと、音が一度聞こえる。
 一度、二度、三度四度、幾度も。ガーネットはなんだか聞いた覚えのあるそれに、怪訝な顔をしてきらりともしない紅の目を細めた。誰かが必死に走るときにだけ立つ、靴底が地面を強く蹴る音と一緒に、コンクリート上に張られる水の膜がばしゃりと鳴る音がする。それから、大音声の雨音に混じって聞こえる、怒鳴り声とは少し遠い大声。何か、同じ言葉を何度も言っているようだ。一歩進んで、耳を傾けてみる。せ。せ、い。せ、ん、せ、い。先生? 誰のことだ。ガーネットは前方の暗がりを睨み続ける。そして、その最果てで、ちか、と緑色が閃いた気がして、
 先生。先生? 先生! 俺のことだ! 俺のことじゃあないか!
 そう気が付いたガーネットは、あとさきの区別もつかないほどに混乱を極めた。せっかく冷えた頭が再びかっと沸騰するのだけ感じる。前後感覚を失いつつある彼は、一歩前に出た後に、また一歩後ろへと下がる、けれどもダンスと呼ぶには不格好な仕草を行ったのち、先ほど返したばかりの踵を再び返して、わけも分からないままにその場から脱兎のごとく逃げ出した。足音と声は、もう随分と近付いてしまったように思える。
「先生!」
 はっきりと聞き取れるほどの声が、背後で響いている。これが苛立った怒号であれば、悪役めいた高笑いを発して逃げ果せることができるかもしれないのに。たとえば、かつての公演後のように? ガーネットは振り返らなかった。ひたすら前だけを見て走っていた。前だけを見ているのに、どこを走っているのか分からない。そのうちに、どんどん息が上がっていく。苦しい。苦しい苦しい苦しい。一体全体どこで息継ぎをしろというのだろう。こんなに雨が降っているのに!
 ガーネットは前を見ていた。背後から追いかけられているのも、上から容赦なく雨が降っているのも知っていた。けれども、下は。街灯が照らす、心許ない明るさの足元のことは、見ていなかった。知らなかった。
 そこには、一つのマンホールがあった。地下への蓋が開いているわけでもない、たかがマンホール一つである。けれども、ガーネットはそこに滑りやすい円盤があることを知らなかった。気付けなかった。平衡感覚も前後感覚も失いかけた彼の歩が、その細く高いヒールごとマンホールの上に踏み出し、その瞬間、勢いよくガーネットの身体は後ろに傾いた。ずる、という音さえも鳴らなかった。
 あ、と思う。
 どうしてかゆっくりと倒れていく視界を、さながら俯瞰で見ているかのようにガーネットは思った。あ。そうか。これが奈落へと落ちていく気分なのか。縋るものは掴めない空気以外には何もない。今になってようやく、ほんとうの意味でルロの気持ちが分かった気がした。虚無だ。無。ここで終わり。自分はここで死ぬのだ。それだけがただ事実として在る虚無。ああ。この勢いのまま、コンクリートに背や腰を打ち付けたら……
「──せんせ、い!」
 耳元で大声がして、瞬間、ガーネットは本能的に閉じていた目を開けた。
 それから、目いっぱい見開かれた緑色と視線がかち合う。叫び出しそうな動揺を瞳じゅうに湛えたオリーブが、奈落の暗やみよりも先にガーネットの視界を支配していた。ぜえぜえと息を荒げている相手に反して、ガーネットは呼吸の仕方をほとんど忘れ、はく、と喉の奥を鳴らす。瞼にばたばたと水滴が降る感覚はあったが、彼は雨が降っていることを忘れ、ただ呆けた様子で自分のことを抱き留めているオリーブの方を見た。瞬きの仕方も思い出せない。今しがた見た、奈落の鮮やかな暗やみ、真にルロと一体化したあの感覚も。冷たいような熱いような、オリーブの腕が腹をぎゅうと締め付けている。あ、とガーネットは思った。あ。そうか、転ばなかったのか。彼はようやく、息の仕方を思い出した。
「……お見事」
 そして、ガーネットが喉から絞り出したのは、そんな力ない呟きだけであった。彼の発する微かな言葉に、けれどもオリーブは安堵感からか、それとも脱力感からか、ガーネットのことを抱えたままへなへなとその場に座り込んでしまった。
「よ、……よ、良かった……! 先生、怪我は……」
 その問いかけに、ガーネットは瞬きを思い出す。彼はぱち、と瞬きをした後、まなざしばかりでゆっくりとかぶりを振った。そうすれば、今度はオリーブの目が少しだけ三角になる。危ないじゃないですか、と言いたいのだろう。しかし、その目はすぐに軟化して、次の瞬間には彼の眉尻ごと困ったように下がってしまった。
「あの、先生、」
 オリーブは、何か言いたげに口の中でそう発した。ガーネットは未だ彼に身体の大半を預けたまま、ぼんやりと眼前の緑色を眺め、きっと雨には流されないだろうそれに多少安心して視線を逸らす。そうして、彼はばたばたと水滴に殴り付けられるコンクリートを見た。自分と同じく全身濡れ鼠のオリーブの身体は、それでもどこかあたたかいような気がした。
「水たまり」
「え?」
「水たまり、ってさあ」
 そんな突然の言葉に、オリーブは瞬きで首を傾げた。ガーネットはそれでも言葉を継ぐ。
「お前、水たまり、飛び越える派? 飛び込む派? 小さい頃、どうだった?」
 そのように問いながら、彼は辺り一面の水浸しにどこを示すべきか分からずに、目の前の地面を緩く指差した。彼の髪の毛先からぽた、と水滴が落ちて、闇の中へと消えていく。オリーブは相手の白い指先が示した先をじいっと見つめて、それからううん、と疑問混じりに小さく唸った。
「水たまりは……どうだろう。でも、たぶん、……遠回りしてたと思います」
「そうか。濡れるのが嫌だった?」
「と、いうより……」
 そして、そこで言葉が濁るのが、ガーネットにははっきりと聞こえた。猛威を振るっていた大雨が、その勢いをほんの少しだが削がれつつあったからである。彼は声が始まる場所で、くつ、と笑った。
「ああ、つまり。お前はいい子だったわけだな、昔から」
「臆病だっただけですよ。先生は?」
 顔を覗き込まれるより先に、ガーネットはオリーブの瞳を見た。濡れた睫毛の先がきらきら瞬いて、その光が目に入ったら痛そうだ。彼はオリーブの睫毛を拠り所にしている水滴を指先で拭ってしまうと、腹を締め付けている両腕をとんとん、と軽く叩いた。
「本性は、追い払ってもすぐに戻ってくる。雀百まで踊り忘れず。昔の俺も、今の俺も、そう大差はない」
 腕の力が緩まると共に、ガーネットは地面に片手をついて立ち上がろうとした。そのついでに、彼は履いていたパンプスのストラップをぱちんと外すと、それをぽいと辺りに向かって脱ぎ捨ててしまった。そうして、彼の親指が丸まったつま先が雨と水たまりのあわいで弧を描く。
「転んだふりして飛び込んでた。こんなふうに濡れるのが嫌い、なのにな」
 ガーネットはコンクリートの上に張られる水の膜を足先で掬いながら、ドレスの裾めいたそれと一緒にゆるりと不安定な回転をした。オリーブは立ち上がった。おそらく、ガーネットが倒れると思ったからではない。ガーネットが倒れないことを、きっと彼は知っていた。月の見えない夜の中で、紅が三日月を描いている。
「オリーブ」
 それから、彼はつるりと滑った。そういう足捌きを敢えてした。ガーネットは踊っていた。受け止めてもらえることを知っていたから、恐れもなく彼は倒れた。
「はい」
「風邪、ひくぞ」
 当然のように伸びてきたオリーブの片腕に身体を預けながら、ガーネットはぽたぽた水滴の落ちている相手の前髪を片手でそっと除けた。傘くらい、持ってくればいいものを。雨は未だ降り注いでいる。痛くはなかった。けれども、オリーブの目の中には明らかな痛みの色があった。水滴が入ってしまったのかもしれない。ガーネットは相手の瞼を少し撫でた。
「先生」
「ん」
「その、俺……」
 オリーブは眉間に皺を寄せて、眉尻を力なく下げた。そんな相手の様子にガーネットは内心疑問符を浮かべながら、オリーブに預けていた自分の身体を元の位置に起こす。それから、靴を脱いだことによりおよそ同じほどになった目線で、彼はオリーブの顔を見る。その瞬間、オリーブはがばりと頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……!」
「ん?」
「ごめん……なさい、勝手に聞いて。俺、先生以外から先生のこと、聞くつもり、なかったのに……」
 訥々とそう発して、オリーブはおそるおそるといった様子でそっと顔を上げた。音もなく視線同士がかち合う。ガーネットは驚きで少し見開いていた目をはっと瞬かせると、ちょっとだけ困惑と呆れをないまぜにした表情をして、指先でオリーブの顎を上げた。その水晶体には、こぼれ落ちそうな透き色の膜が張られている。
「……泣くなよ、もったいない」
「も、……?」
「雨で濡れててよく見えない。泣くんなら、晴れてて嬉しいときにしとけ」
 ガーネットがふっと笑んでそう言えば、オリーブの眉間には更に深い皺が刻まれて、彼は涙を堪えるためにぐぐ、と顔を歪ませて、唇を引き結んだ。ああ、なんだかどこかで見たことのある表情。そう、たとえば散歩に行きたくない犬がこんな顔をしているのを、いくつかの動画で見たことがある。ガーネットはくすりとして、オリーブの頭を撫でた。
「それで、……ああ、とにかく、俺は怒ってない。どうせ悪いのは先生だろ。怒るつもりもないから、気に……」
 言いかけて、ガーネットはどことなく自嘲的な笑みと共にぬるくかぶりを振った。
「──違うか。そういうのが聞きたいわけじゃあないんだろ」
「……先生」
「ああ」
 言葉だけで頷いて、彼はつま先立ちをしながら薄い水上を踊った。街灯ばかりが照らす水飛沫を纏って、ガーネットは路側帯を示す白線の上に乗っている。
「先生、なんで。……なんで、逃げたんですか」
 呟きめいたその問いは、けれど雨には決して流されることなく、あやまたず確かにガーネットの耳まで届いた。彼は白線から落ちないよう、片足だけでくるくると回っている。蛾も寄らない光に片手を伸ばせば、爪のラインストーンがいくつか欠けていることに気が付いた。
「さあ、俺の方が訊きたいけどな。戻るつもりだったよ」
「でも、……戻らなかったでしょ、先生」
「オリーブ」
「はい」
「怒ってる?」
 ガーネットはオリーブの方を見なかった。彼はピアノの鍵盤を掴んで弾くグリッサンドのように、片足で水をざあ、と掬って蹴る。それから大演説者のごとく、両手を広げた。口の中には雨水が入り込んでいた。
「じゃあ、追いかけてほしかったから逃げた。そうだったら、お前、俺を許してくれるか?」
「絶対、嘘でしょ……」
「どうかな? 事実、俺はちゃあんと捕まっただろ、こうしてさあ」
 笑って、ガーネットはぼろのドレスの裾を淡く持ち上げる仕草をした。さながら断頭台の手前で処刑人の靴を踏み、それを詫びるアントワネットみたいに。明かりの届かないコンクリートの上で、雨に濡れるオリーブは相変わらず眉を下げていた。けれど、にこりともしていない。彼の靴は汚れていなかった。手に斧を持っているわけでもない。
「先生」
「ああ」
「どうしたらいいか。分からなかった、んですか?」
 だというのに、首が飛んだ感覚がした。
 ガーネットは思わず左手で自分の頭と胴が繋がっているのを確かめる。実際のところ、首は斬られていなかった。彼はオリーブの顔を見る。はっとした表情をしているオリーブは、すんでのところで首を刎ねるその手を止めたらしかった。
 そこから先の言葉はない。彼らの視線は交わったまま、互いに逸らすことも逸らされることも、或いは逸らすこともできずに、ただただ暗い雨の中で立ち尽くしていた。どうしたらいい? 分かるわけもない。ガーネットは少しだけ天を仰ぎ、不気味なほどに静かな鼓動をかき消す驟雨の音を聞いた。
 そして。
「……踊ろうか、オリーブ? ろくな音楽もないが」
 そして、彼は白線から飛んで、ほとんど音もなくオリーブの手前に着地した。水がしゃんと跳ねる、鈴に近い音だけが鳴る。オリーブは、目の前に差し出された水浸しの冷たい手を取った。
 ガーネットは今にも倒れそうな、それでいて絶対に倒れないと相手に確信させるほどに安定した不安定な足捌きで水上を舞った。どこか混乱したままの紅い瞳が爛々と輝いて、オリーブの暗やみで輝く緑色を時折見る。狂気めいた足取りと、雨を蒸発させられない体温。肌に張り付いた服が重くて仕方がないから、すべて燃やしてしまいたくて、ガーネットは目の前の炎に手を伸ばす。からだの最奥で、笑い声がした。外に出たかは分からない。レイヴンとスワンのどちらを演じるべきか決めかねて、彼はその狭間でふらふらと踊り続けた。頭の中でははっきりと、あの曲が流れているというのに。始まりは激しく苛烈で、サビで変調し、静かに、もの哀しくなるあの曲。そうだ、哀しい。どうしてこんなに哀しいのだろう? エラキスの絶景は、確かにここにあるというのに。
「なあ」
「はい」
「この曲で踊るのは、随分久しぶりなんだ」
 相手に楽の音が聴こえているはずもないのに、ガーネットはそんなことを口に出した。それはおよそ願いといっても差し支えなかったかもしれない。なんだかもう、これが最後のような気がしていた。ガーネットはオリーブの腕を借りて、スワンの白い羽を広げた。
「俺がまだ二年だったときの冬にさ、公演で踊った曲。俺はスワンを演った。大敗を期した。先生曰く、最下位だったらしい。生徒に票数を教えるなって話だけどな」
 しかし、あの舞台のスワンは、自分の演じるべき役ではなかった。彼はその白を黒い夜の色で染め上げて、今度はレイヴンに転じる。同時に、歯車が逆回転をするようにオリーブも役を反転させた。ガーネットは片腕でオリーブのことをくるくると回し、そのほむらの美しさに自分の身がめらめらと燃えるのを感じた。レイヴンほどの豪気をもたぬ、己の矮小さをも思い出した。
「お前がどこまで先生から聞いたのかは知らないけど、たぶん、これは聞いてないだろ。俺はな、オリーブ、俺は……」
 ガーネットは、奈落に落ちるルロの気持ちはもう分からない、と思った。奈落とは、まさにこのことだと感じたためである。ゆっくりと、確かに、正体を失っていくこの感覚こそが、自分の奈落であるのだ。
「俺は」
 彼は燃える水の中で、溺れそうに息を吸った。
「──俺は、勝ったことがないんだよ。学生時代、自分が主演した公演で、ただの一度も」
 レイヴンでもスワンでもない姿で、ガーネットは自身の鳥を持たないままで踊った。踊り狂った。先生は、俺を主演しかできない役者、と学生時代に断じた。だとすれば、主演でない俺というのは、一体何者なのだろう。いま踊っている自分は一体誰だ? 彼の目は自嘲的に、そして攻撃的な色香を纏って弧を描いていた。
「だからさ、俺はお前らに勝ってほしかった。違うな、負けないでほしかった。俺はお前らを使って、自分の負けを清算したかっただけなのかもしれない」
 横殴りの風がざあ、と四肢を叩く。
 そうして、つと、全身がざわりと粟立った。ガーネットは目の前の緑色を見る。そして、すぐに逸らした。そうか。そうなのか。そうかそうかそうか。俺はまた、性懲りもなく殺されたがっているのか。飛ぶのも鳴くのも下手くそで、不格好なナイチンゲールの姿で。オリーブの手に導かれて、彼はぱしゃりと水に円を描いた。レイヴンもスワンも、こんなところにいたのだ。ああ、これは、これこそ奈落。現実というものだ。レイヴンはナイチンゲールとずっとは踊ってくれない。スワンだってそうだ。踊れない。踊りたくない。踊れない。一人では。どこにも行けないように手を握っていてくれ。どこかへ消えてしまう前に助けてくれ。いつもそうだ。そうでないのなら。それができないのなら……
「先生」
「うん」
「時々思うんですけど。そういうの、……あんまり、効果ない、と思いますよ」
 ガーネットは困ったように発されたその言葉に、思わずオリーブの方を見た。あ。あ、だめだ。彼はそう思ったが、すでに手遅れであった。
「俺は、先生が先生でよかったです」
 当然の事実として発された言葉に、ガーネットは息の仕方を忘れた。
 彼は息を吸いたかった。雨の中でも絶えず燃え上がる火と、充満する黒煙が視界を焼き、喉を焼いている。ガーネットはどこか低いところで、この場に残った微かな空気を吸おうと思った。しかし何かに喉が圧迫されて上手くできなかった。オリーブの両手は今どこにあるだろう? ガーネットは首が絞まる感覚に、自分の両手を喉元に運んだ。そこには自分の肌以外、何もなかった。苦しい。どうして? レイヴンやスワンならば、こんなに酷い殺し方はしない。すんでのところで手を止めるなど、そう何度もくり返しはしない。目の前に立っているのは一体誰だ? ああ、違う。それだけは盲いても分かる。その名前は。
「……オリーブ、俺はどうしたらいい?」
「踊ってください。そうしたらすべてが良くなる。それを教えてくれたのは先生ですよ」
「踊れなかったら?」
 ガーネットは乞われるままに踊りながら、見えない奈落に落ちていく自分の姿を想像して、無様なナイチンゲールのごとく、短い銀のナイフを振り回そうとした。
「踊れなくなったら? 手も脚もここにあるまま、踊れなくなったら」
 当てつけのような言葉に、それでもオリーブは彼の刃を避けようとはしなかった。微かにナイフの先が相手の頬に触れ、皮膚を薄く裂いた気がする。降る雨にも似た、湿度の高い赤の飛沫。裂いたのは相手の肌であるはずなのに、ガーネットは全身を切り裂かれるにも等しい痛みを感じた。ナイフを取り落とす。音も鳴らなかった。
「……なら」
 そう呟くオリーブは少し笑っていた。笑顔と呼ぶべきなのかも分からない顔で、少し。ほんの少しだけ。
「──なら、そのときは。俺が殺してあげますよ」
 そして、彼はそのたった一言だけで、ただの一言だけで、降りしきる雨音をすべて殺してしまった。
 ガーネットは溢れそうなほどに両目を見開くと、全身を打ち砕かれたような衝撃にふらり、と一歩退こうとした。痛みはなかった。痛みが感じられるほど、柔な衝撃ではなかった。人が銃で心臓を撃ち抜かれたとき、死ぬ前に痛みではなく爆風だけを感じるように、ガーネットの中には尋常ではない無痛の衝撃ばかりが残され、反響を続けている。最早、自分の身体がどうなっているのかすら分からなかった。足が思うように動かない。塀に向かって串刺しにでもされているのだろうか? すぐそこにある白いものは? ガーネットはかろうじて動く右腕で、そこにぎり、と爪を立てた。視線を上げる。緑色と目が合った。塀だと思っていたものはオリーブの片腕で、刃だと思っていたのは彼の胴だった。
 ナイチンゲール!
 彼はそう叫び出したくなった。ナイチンゲール! ナイチンゲールだ! だというのに、飼い犬に噛まれた気すら起きなかった。寝首を掻かれたとも思わなかった。だって、俺はずっと彼がナイチンゲールであることを分かっていたのだ。それを見出したのは、紛れもない俺だったのに! 一歩間違えたら愛の告白にさえ聞こえる相手の宣言に、けれど誘われて一歩踏み出したくなるのは、紛れもないオリーブの才であろう。頭を垂れて殺してくれと言えれば良かった? 刃を突き返して戦う気概があればよかった? 自分にその才はない。真っ直ぐに貫ける才は。才能がなくて良かった、と思ったのは生まれて初めてだった。ナイチンゲールはナイチンゲールとしか踊れない! 目が潰れた気がしたから瞼を閉じた。額からどくどくと流れる血が口に入り込んだ気がしたから唇を舐める。ガーネットは乱暴にオリーブの片手を取ると、半狂乱のまま、再び踊り出した。それから彼は、相手にだけ聞こえる声で楽しげに笑う。
「じゃあ、オリーブ。踊れる間は?」
「もちろん。ずっと踊ってもらいます」
「お前、継母を焼けた鉄板の上で踊らせるタイプ?」
「ええ? それとは全然違うと思いますけど……」
「どちらにせよ、ちょっと怖いぞ」
 その言葉に、少しだけ肩をすくめたオリーブは、けれどもちょっと悪戯っぽい、それでいて柔い表情で笑っていた。そして、ガーネットは気が付いた。いま自分たちはまさしく奈落の上で踊ることができている、ということに。踊りというものは、いつもがらんどうの暗い穴の上で、底も見えぬ狂気の割れ目の上で踊られるものなのだ、と。
「でも、先生が言ったんですよ。いい子は天国に行けるけど、悪い子はどこにでも行ける。でしょ?」
「それを言ったのはメイ・ウエストだけどな」
「でも俺は先生から聞きました」
「詭弁もお上手になっちゃって。これは俺の責任だな」
 思い出したように、ガーネットは二人にしか見えないナイフを手の中でくるくると回し、それをまどろっこしく光っている街灯の方へと投げ付ける。そうしてみれば、ちか、と明かりが揺らいだ気がして、ガーネットは思惑通りのさまににっこりした。
「ところで、オリーブ」
 ぬるくなった雨と薄暗い夜、そのほとんど静寂と呼んでも過言ではない暗やみの中で、ガーネットはそう相手の名前を呼んだ。オリーブは呼ばれる前から彼のことを見つめていた。
「俺は明日、たぶん風邪をひく。いいか?」
「え? よくは……ないですけど。先生が苦しいのは嫌ですし……」
「いや、苦しまないとだめだ。いい加減」
 彼の言葉に、オリーブは首を傾げたらしかった。それでよかった。ガーネットは自身の喉元と心臓の間に片手を置いて、薄い唇で密やかに微笑んだ。
「ちゃんと苦しみたい。ナイチンゲールには苦悶が付き物。だめかな?」
 オリーブは傾げていた頭を元に戻して、じいっとガーネットの方を見た。そんな相手の様子に、ガーネットは片手の手首で口元を抑えて、やはりくつくつと笑うのだった。細くなった紅に、緑色がぱちりと瞬く。オリーブはへにゃりと眉尻を下げて、片手を受け皿にしては止みかけの雨を確かめてみせた。
「……じゃあ、もう少し濡れて帰ります? 踊りましょう、先生」
「そうだな。どっちみち傘なんてないんだ」
「水たまりは?」
「遠回りする。迂回しすぎて振り出しに戻る。面倒になって飛び越えようとして、足が滑って飛び込む羽目になる」
「そういうふり?」
 あはは、とガーネットは心底楽しげに笑い声を上げた。それからオリーブの腕の下でくるりと一回転をし、一面の水たまりをぱしゃりと蹴飛ばす。
 彼は、オリーブの頬に片手を伸ばした。そしてその輪郭をなぞり、前髪の水滴を拭い、瞼と睫毛を撫で、唇を指先で二回叩いたのち、鼻をつまんでほっぺたを少し引っ張れば、いたた、と発したオリーブが、どこか仕方なさげに、ここにいますよ、と呟いていた。
「俺たちは悪い子だからな。どこへでも行ける。そうだろう?」
 永遠というものに姿かたちがあるとすれば、きっと手触りはこのようなものだろうと思った。こうでなければ、と思う。これ以外を、永遠とは呼べない。これこそが。これこそ。
 雨は、いつしか止んでいた。
 それはそれは、おそろしい夜だった。


20210523 執筆

- ナノ -