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や、ま、い、が聴き取れない



 彼が伏せていた睫毛を上げたのは、おそらく、インク壺が空であることに気付いたから、というだけではなかった。
「あ、やっぱり起きてた」
 予想通りといったその声に、ソナタ・ソレントゴールドはインクが空の万年筆と中身が空のインク壺をベッドサイドに置いて、手の中をすっかり空っぽにする。声の主がこの部屋に入ってくるとき、果たしてノック音は鳴っていただろうか。それが彼の心を鷲掴みにする音でなかったことは明らかであるが。
「オペラか」
 ソナタはやたら数の多いクッション──タッセル付きですこぶる触り心地が良いものはクラスメイトであるファインのお手製──美しい花の刺繍が施され、たっぷりと綿の詰められているものはフィルバートのチョイス──金糸で太陽のモチーフが刺されているものはロータスからの贈り物──等々──を背にベッドから半身を起こした状態で、膝の上に持ち運び用の電子ピアノを乗せながら相手の名前を呟いた。
「もうそんな時間?」
 訊きながら、ソナタはなんとはなしに電子ピアノで時計塔の鐘の音を鳴らした。校歌のメロディは毎年変わるのだから、チャイムだって毎年変わっても良さそうなものなのに。オペラはそんなソナタの収まっているベッドに腰掛けると、
「授業の方はね」
 と言って、鍵盤の上をするすると滑る相手の指先を見やった。ソナタは耳にすっかり馴染んだ鐘の音に少しだけ新たな風の気配を吹き込みながら、ちら、とオペラの方へと視線を向ける。
「ふふ、どうだかね。授業にはならなかったんじゃないか。お前が起きていたくらいだから」
「え、よく分かるなあ。透視能力?」
「ここ二年の経験による読解と予測能力。どうせ今になって眠くなったんだろう」
「う〜ん、お見それいたしました」
 そう肩をすくめたオペラに、ソナタは小さく笑って鍵盤の上で勝鬨を鳴らした。エレクトーンであればラッパの音を響かせているところである。肩に引っ掛けているブランケットは、彼の演奏に熱がこもるたびにずり落ちて本来の役目をほとんど果たせていない。芸術には常に大なり小なりの犠牲が伴うものなのだ。
 ソナタは窓の方を見た。カーテンが開かれているそこでは、誰に気を使っているのか、西日が控えめに部屋の中へと差し込んでいる。室内から息を吸うように楽の音がそうっと少しずつ消えてゆき、彼は鍵盤から離した指先で電子ピアノの手前に置かれている音楽帳を触った。頁ないしノートの余白はすでにすべて埋められ、書き込める箇所はとうにない。
「ダリア先生、何か言ってた?」
 その質問に、オペラは思い当たるところがあるようなないような顔で、ああ、と呟いた。
「寝言を少々ってところかな」
「だろうけどね。それ以外の方向性では?」
「いつもの言ってたよ」
「いつもの? ああ、即興の。大体にしてお前しか聞けないやつだね」
 ソナタは音楽帳の頁を捲った。五線譜の上には彼の身体がどんな状態であろうが、いつ如何なるときも力強い筆圧で無数の音符、無数の音楽記号が書き記されている。それは鉛筆であったり、鉛筆の芯が折れればボールペン、或いは黒いマジック──やたらと裏移りの激しい頁があるのはそのためだ──であったり様々だが、不格好な頁ほど美しい旋律を奏でるというのが作曲家としてのソナタ・ソレントゴールドを語る上で必要不可欠になる台詞の一つでもあった。
 さて、即興で鍵盤を叩いて世界を奏でるのと、即興で口を動かして世界を語るのでは、一体どれほどの違いがあるだろうか。立っているべき場所で微睡みながら物語を紡ぐのと、眠るべき場所でぱっちり瞼を上げながら物語を奏でるのとでは。
「今日のは速かったなあ。開始三分くらいで物語の幕が閉じてたよ」
 オペラがしみじみとそう言った。その輪郭も段々と曖昧になっていくような、どこか子守歌めいた即興物語をうとうととしながら発する担任教師の姿を思い浮かべて、ソナタは思わずくすりとする。
「先生、最近いつにも増して忙しいみたいだからね。鬼のように忙しくてそのうちモモタロウに退治されちゃうよ〜って嘆いてた」
 万年筆を棍棒に見立ててぶんぶんと軽く振っていたダリアを真似て、ソナタは見えない指揮棒を音楽帳に向けて緩く振り下ろす。実際読んだことはないが、モモタロウ、というのが響きからして日本の有名な物語であるのだろうことだけは、その場でダリアの話を聞いていたソナタにも分かった。そういえば、和楽器を用いた音楽、というのはまだ作曲したことがなかったな。和楽器といえば、篠笛のあの透明で清らかな音色が特に好きだ。聴いていると、どこか清廉とした気分になる。学園に和楽器はあるのだろうか? 楽団ラマージュなら? ジャンル問わず無数の音楽を奏でる彼らならば、篠笛の一つや二つは必ず持っているだろう。ダリア先生にお願いして、ラマージュから借りてみようか……
「モモタロウって? 桃?」
 隣人はソナタの発した言葉に、首を傾げている。二人のいる室内に楽の音は響いていなかったが、ソナタの頭の中にだけは後ほど矯正すべきな、実際とは多少異なった日本のイメージから生み出される音楽が延々と鳴っていた。彼は手の中でペンを回したかった。それか指揮棒を。そのどちらも今は掌中にない。ソナタは再び鍵盤の上に指先を乗せる。
「さあ。鬼を退治できる人間のことなんじゃない?」
 ド、レ、ミ、ソ、ラ。ソナタは白と黒の舞台に視線を落としたまま、半ばぼんやりとそう呟いた。彼は何かを考えるように、何かを探すように、同じ音階をくり返し弾いている。ド、レ、ミ、ソ、ラ。それがヨナ抜き音階であることに気付く者はこの場にはいなかったが、けれどもその日本特有のスケールは、異国の情緒を部屋の中に漂わせた。楽譜と戯曲と楽器、それからクラスメイトたちが置いていく布製品だらけの狭い部屋に。
「桃なのに?」
 オペラはもう首を傾げてはいなかった。首は。代わりに、まなざしが未だ疑問符を浮かべている。
「そう、桃なのに」
「だって、桃って……」
「甘いにおいがするのかも。相手をくらくらさせてしまうくらい」
 ソナタは絶えず鍵盤を叩きながら、思い出したふうにオペラの方を見た。オペラはその少し灰がかった碧眼で、ゆっくりと瞬きをする。それから折り曲げた人差し指を唇に当てて、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
「……でも、柔らかすぎない? 鬼と戦うには」
 そんな相手の言葉に、ソナタは分かり易く溜め息を吐いた。もちろん、その指先を用いて。遠い国の一端が奏でられていた部屋には再び静寂が訪れ、彼らの視線はかち合う。そうして、ソナタの頭の中には音符ではなく、一つの疑問符がふわりと浮かび上がった。
「なあ、オペラ。柔らかいと弱いのかな?」
 彼の問いかけに、オペラは何が面白いわけでもないだろうに、あはは、と小さく笑った。あははじゃないよ、とソナタが自分の口から溜め息を吐けば、彼は悪びれた様子もなくごめん、ごめん、と口元を和らげる。彼はすっかりずり落ちたブランケットをソナタの肩に掛け直してやりながら、
「ソナタ。授業の間、ずっと何か弾いてた?」
 と、そんなふうに問うた。
「ご明察だね。ここ二年の経験による読解と予測能力?」
「ううん、透視能力かな」
「それはそれは。まあ、じつは僕にも使えるけれどね」
 ソナタは度の入っていない眼鏡を外して、それをくるくると手の中で弄んだ。そうして彼はその金縁の伊達眼鏡を音楽帳の上に置いてしまうと、音以外とはもう対話する気がないように瞼をそっと下ろしてしまった。
「教室の窓からさ、寮が見えるよね」
 そう言うオペラの声から、教室の中にいる彼の姿さえソナタには見える気がした。公演後の休み明けに無情にも詰め込まれたダンスレッスン、ダンスレッスン、ダンスレッスン。どうにかこうにかそれを終えた午後の座学。さながら勤勉が服を着て歩いているフィルバートや、ダリアから吸収できるものはなんでも吸収したがるイーゼルですら眠りの王国へ誘われる昼下がり。そもそも授業をする側の教師があまり睡魔に抗う気がないのだ。右下がりの板書。抵抗を諦めた教師による子守歌代わりの即興朗読劇。いつでもどこでも眠るくせして、何故だかこういうときにだけは目を覚まし、微睡む辺りを眺めている隣人……
 想像に易い。公演後、久しぶりにぱったり倒れ込んで三日間の養生を余儀なくされた自分の空白すらも。ソナタは鍵盤の上で最も高い音を小指で鳴らした。それは頷きであり肯定であった。
「お前、だから僕の部屋まで見えるって言うのかい。末恐ろしいな」
「どうだろう。でも、なんだか音楽が聴こえた気がしたから」
「へえ、珍しいね。どんな?」
 澄み渡った興味に、ソナタは淡く目を開けた。オペラは天井を見上げて、ううん、と少しだけ唸っている。ソナタは待った。音が鳴りはじめるのには時間、もしくはきっかけが常に必要だった。
「そうだなあ。たとえば、水の中にいるみたいな……」
 その答えを、ソナタが予想していたわけではない。けれども想像通りといえば想像通りの答えであった。彼は鍵盤の高い音を無意識に二回鳴らし、伏せていた睫毛をまた閉じる。
「それは、お前の中にある曲だろうね」
 楽譜と会話をしているわけでもないのに、ソナタはひとりごちるようにそう呟いた。
 夕暮れの陽が撫でるみたいに頬に当たっている。昼下がりの教室はもう、随分遠ざかってしまったのだ。もう少し耳を澄ませないと聴こえない。もう少し耳を澄ませても、聴こえない? 波打ち際に立ってすらいない。ソナタは断絶的に、ゆっくりと鍵盤を指で押し込んだ。それについて、特に意味はなかった。少なくとも彼はそのつもりであった。
「ソナタ」
 ふと、名前を呼ばれる。ソナタは静かな音階で短く返事をした。
「──君の中にはなかった?」
 オペラの言葉に、ソナタは目を瞑ったままでふっと密やかに笑った。喉元にやってくるのは苛立ちでも怒りでもなかったが、けれど、それから彼が口にした言葉は、いっとう穏やかな否定の言葉であった。
「まさか。お前の中にもあるのに」
 ソナタはこれが、人の予想の範疇を超えて得意であった。自分のためだけに吐かれる嘘偽り見栄強がり、その類のもの……
 その類のものを、まことにすることが。
 結局、結局だ。ソナタは諦めめいた覚悟をもって、鍵盤──そのはじまりの位置に両手を置き直した。結局、自分の中にも、そして外にも存在しない音楽は、それでもやはり自分で生み出すしかない。彼は少しだけ目を開け、瞑っていたことによりぼやけた視界でオペラの方を一瞥した。そうしてすぐに鍵盤へと視線を戻し、砂浜に立ち、寄せては返す波の音を耳にし、歩を進め、足首を海水に浸し、沖へと進み、
 そして、水の中へと沈んだ。
 今、間違いなく、部屋の中は海であった。そこは深い青ではない。藍でもない。紫でも。ましてや黒でもなかった。そこは、白昼の青空、その水色を垂らした、あたたかく澄み渡った海であった。目も鼻も痛くならない、息が苦しくなることのない心地が好い海。誰もが、いいや彼自身がいま最も欲しがった水の音が、耳の中で反響をくり返している。沈んでしまえば荒々しい波に怯えることも、びくりともしない水平線に落胆することもないのだ。ただ、魚がひれを動かすのを追いかけて指先を動かす。呼吸は忘れた。必要もなかった。右手は海で、左手はそこに細かく浮かぶ泡だった。白いクラゲ、色とりどりの珊瑚、目には見えないプランクトン、名前も知らない尾びれの美しい魚たち、大きくはないクジラは仲間には聞こえない周波数で歌をうたい、それが聞こえた人間だけが彼に手を伸ばすことができる。これはお前を孤独にしないための海だ。そのための音楽だ。お前とは一体誰のことだろう。ああ。それは。それは、僕以外のすべてのことだ。そして、すべて以外の僕のこと。海が在る限り音楽は続く。違う、音楽が続く限り、ここに海は在るのだ。もうどれほどの時間、指を動かしているのだろう。いい加減、息が苦しくなったから呼吸をした。転調する。クジラと共に水から顔を出すと、海面は金色に染まっておそろしいほどに美しく輝いていた。
 金。
 金。
 金色? 夕暮れの?
 はっとしてソナタは顔を上げた。窓を見やれば、先ほどよりも随分と傾いた光が視界を刺す。もうほとんど、気を失いながら弾いていたのかもしれない。彼は唐突に熱かった身体が冷え込むのを感じて、ぶる、と身震いをした。それから視線を鍵盤の方へと戻して、ぼうっと顔を上げ、
「……オペラ?」
 未だに友人がベッドに腰掛けてこちらを見ていたことに気が付いて、思わずそう呟いた。
「え? うん。どうしたの?」
「いや、……まだいたのかと思って」
「酷い言いぐさじゃない? それ……」
 べつに悪い意味じゃあない、という言葉の代わりに、ソナタは弾けるようにしてベッドサイドの引き出しを勢い良く開け、その中から何かをさながら引ったくり犯みたいに取り上げてみせた。
「……あれ、ソナタ? 君はなんでペンを持ってるんだろう」
 わざとらしく瞬きをしたオペラの問いかけに、ソナタはにこりともしなかった。目の奥だけが爛々と輝いている。ともすると、それは笑顔だったのかもしれない。彼は口の中でうん、うん、と頷いていた。
「よし。ちょっと顔を貸してみろ」
「答えになってないよなあ」
 あーあ、といった様子で身体を縮めたオペラは、それでもペン先を自分の方に向けるソナタに向かって頬を近付けた。
「うん、そう言いつつ書かせてはくれるらしい。オペラ、お前は案外これが好きなのかい」
 不幸なことにインク切れを起こしていないのは油性マジックペンだけである。ソナタは一切の躊躇や迷いやおそらく罪悪感さえなく、オペラのきめ細やかな肌に五線譜を慣れた手付きで描き込んだ。オペラはくすりとする。そのため多少線が歪み、けれどもソナタは気にしなかった。
「まあね。これって要は、音楽の女神様からのキスマークみたいなものだから」
「はは、女神とはね。僕はしがないクロウですよ」
 するりするりと喉より浅いところから言葉が出てくる。自分の口から発されるものは、もうあまり意味を持たないようにソナタは感じた。いま意味を持つべきは音符だけ。必要なのは三小節分の旋律のみだ。最初の三小節があれば、後はすべて思い出せる。頬に楽譜を描き込まれているオペラは目を細めていたが、きっとそれはくすぐったさのためではなかった。
「ふふ、ソナタは嘘吐きだからなあ」
「牧場生まれだもの」
「ああ、オオカミ少年?」
「なるほど、なるほど。そういう考え方もあるね」
 砂浜を歩く感触と、波が足首を撫でる肌触り、それから、水の中に沈む瞬間の恐怖と安堵がないまぜになる感覚がオペラの白い肌に描かれていく。すこぶる視力が良いくせに、どこか近眼めいた表情で油性の五線譜に向かうソナタに対して、オペラはなんとなく黄金の差し込む窓の方を眺めていた。
「ソナタ、……書き終わった?」
「ああ、うん。あと一節」
 間もなくして、ソナタが長く息を吐く音と、オペラがあくびを噛み殺す音が交差した。マジックペンのキャップが閉まる音と、それから。
「俺も眠いなあ」
 オペラの呟きと、もぞりとした衣擦れの音、ソナタの指先が滑ったせいで電子ピアノが立てた、なんだか少し間抜けな音。突如としてベッドの毛布に身体を滑り込ませてきた相手に、ソナタはむっと眉根を寄せた。えせ近視の表情とはちょっと違う、呆れ果てた色が目の奥に浮かんでいる。
「いや……入ってくるなよ、仮にも病人のベッドだろう」
「と、言いつつ入らせてくれる。ソナタは案外これが好きなのかな」
 相手の悪戯っぽい言葉に、ソナタはにっこりして両手を顔の横に上げた。こういうオペラをまともに相手をすべきではないことは、ここ二年間の読解と予測能力、そして透視能力が教えてくれている。
「抗うすべがないだけ。こっちは病人のクロウですから」
「あはは。絶対思ってないよね」
「知らないのかい。嘘を吐きたいやつほど、名曲を書くんだよ」
 ソナタは言いながら、くあ、とあくびをしながらぐい、と身体を伸ばした。なんだかひどく疲れた気がする。実際、一日中ピアノを弾き続けていたのだから疲れてはいるのだろうが。水の中を泳いだことなど生まれてこのかた一度もないが、そのときの疲労感というのはきっとこういうものなのかもしれない。音と対話をするためではなく、眠気という霧に隠れている魔王がこちらを掠おうとするために瞼が呪われ重くなり、今にも駆ける馬から落ちようとしている。しかし、しかし。そろそろ夕食の時間ではなかっただろうか……
 そうしてすっかり目を閉じてしまったソナタは、そこから先にオペラと交わした会話を、たった三小節分も覚えてはいられなかった。
「君が旋律なのは、オオカミ少年だから?」
「ここだけの話ね。そんなふうに言っておこうかな」


20210520 執筆

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