レイピアとホローポイント弾


 少しおかしな世界だ、と思う。
 おそろしく長い睫毛を伏せて、少年はこんにちのニュースペーパーを眺めた。灰色のかさついた紙に記された、インクの独特な温度を保つ匂いに混じって、肩に引っ掛けているブランケットから甘やかで柔らかい香りが微かに漂っている。浅くくわえた細い煙草の先から、灰がぱらぱらと新聞紙の上へと落ちていた。記事に目を落とす。有名舞台俳優の熱愛発覚、御年八十を迎えていた著名歌手の死、花屋はここ三十年ほど盛況だ、世界的な賞を受賞した伝記映画、社会現象化したハイ・ファンタジー小説の新刊、ストレスの多い日常生活について問題視する声明、子どもたちからの疑問に大人が答える味気ないコラム、小さな求人広告。
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 それと同じ大きさで載る殺人、自殺、事故。ペトゥル通り三番地では一家全員が細い刃物によって殺害され、同じ通りでテントを張っているライトトラップ大サーカスでは、見物客が公演中に銃によって自殺を計り、ステム横町ではブレーキの効かなくなった乗用車が電柱にぶつかり大炎上。いずれも現場には種類の違う花が血まみれで残されており、捜査は難航、遅延しているとのこと。
 世情はといえば、少年が物心つく以前よりずっとこの様子である。彼はぱらりと新聞紙を捲り、それからその形の良い小さな唇であくびをした。
 いつ頃からか人の出生率はさながらハーブが土地を占拠するが如く大幅に上昇し、しかしそれと似た速度で彼らは死んでいくようになった。事件、事故、病気、自殺。そして、人が死んだ場所にはいつでも花の痕跡が残されている。あまりにも犯罪が多いために警察と裁判所は毎日総出で働き詰めであり、その割には検挙率も被疑者の有罪判決率も低かった。彼らは何か脳に重大な損傷を引き起こす花が麻薬として出回っているのではないか、と睨んでいるらしかったが、睨むばかりで獲物は捕らえることはできずに死人の数は増す一方である。変わらず、花屋は黒字のままで。少年は唇の端から煙を淡く吐き出した。
 或いは、花が進化したのかもしれない。それとも、人類が退化したのか。花の一輪に手玉に取られるほどに。
「エテ、今日の新聞も代わり映えしないね。朝食はなんだい」
 言いながら、少年は新聞紙を閉じ、それを脇に抱える。性と死が根を張る世界の有り様は、彼にとってはさほど重要な事象ではなかった。壁を背に座っていた少年は、清潔でありながらも彼を甘く包むように設えられつつある部屋の中で立ち上がり、ダイニングの方へと歩を進める。
「──平和なのは良いことだよね」
 そう発して振り返るのは、フライパンを片手にした青年である。キッチンからは柔らかく鼻腔をくすぐる、魅惑的な蜜の香りが漂っていた。少年は煙草の灰を依然ぱらぱらと床に落とし、青年のすぐ隣に近付いてその手元を覗き込もうとした。少年が小綺麗に纏められた部屋へ頓着なく灰燼を振りまいていくさまは、彼の見目が美しいだけにまるで鱗粉を落とす蝶のようでもあったが、青年は仕方なさそうに苦笑して、こらこら、と小さな唇に挟まっている煙草を取り上げるばかりである。
「朝ごはんはパンケーキ。蜂蜜もバターも生クリームもあるよ」
「パンケーキ! それは素敵だね。蜂蜜をかけてもいいのかい」
「もちろん。どれでも好きなのを好きなだけどうぞ」
 頷いて、青年は少年の吸っていた煙草を自身の口にくわえて、甘い声を発しながらその苦いものを深めに吸い込んだ。少年は、煙草を取り上げられたことには特に不満もないようで、青年の細い指で大人しく金糸の髪を梳かれている。視線がかち合えば、青年は永遠みたいな緑色をした瞳を細めて穏やかに微笑んだ。
「ロロア、今日は公演日だね。サーカスの方に行くんでしょ?」
「うん。エテも観に来る?」
「行くよ。ロロアがくれたチケットもあるからね」
 その言葉を聞くと、少年は機嫌良さげに口角を上げた。そうしてふんふんと鼻歌を口ずさみながら、フライパンの上で輝きながらふわりとひっくり返される黄金のパンケーキを見つめる。
「……ふふ、今日もたくさん驚かせて差し上げよう」
 青年の持つフライパンから、ふかふかに焼き上がったパンケーキが純白の皿へと移される。少年もマジシャンとして一度くらいはパンケーキをひっくり返すという手品に挑戦してみたいものだったが、青年はどうしてだろう、彼に火を扱わせることをあまり好ましく思っていないようだった。自分は火に飛び込む愚かな蛾や、誘蛾灯に釣られる馬鹿な蝶でもないのに。更に言うなら、少年にとって火の上で踊る手品は十八番中の十八番といっても過言ではなかった。
「エテ、今日のステージも瞬きをしてはいけないよ」
「楽しみだな、どんなことが起こるの?」
「たくさん花を使うよ。美しすぎて、また誰かが死にたくなってしまうかもね」
 胸を張り、自信に満ちた様子でそう言ってのける少年に、青年はくすりと笑った。ロロアは綺麗だからね、と彼は微笑み、少年もまたその言葉に満足そうに頷いている。そうして、エテもお姫様みたいで綺麗だよ、と目を細める彼は、自身のお気に入りである青年の長髪に指先で触れて、鈴の音に近い鼻歌を再び響かせた。
「使うのは、全部エテの花だ。あなたが育てた花がいっとう美しいから」
 それが当然であるといった声色で、少年はそう言いきった。彼は青年から手渡された、分厚いパンケーキが三枚も乗った皿をテーブルにつれていきながら、その途中で片手をさりげなく動かした。微かに、自分以外には気付かれないような密やかさで。
「金色の花もつれていく?」
「うん、持っていくよ。あれがあると安心だもの」
「……ロロアのせいじゃないからね」
「分かっているさ。そんな当たり前のことを言うなんて、エテもまだまだお子様だね?」
 瞬き一回分にも満たない時間で、少年はその指先一つでパンケーキのデコレーションを完ぺきに済ませ、席に座った。大きめに切ったバターをてっぺんに、生クリームはたっぷりと絞り、蜂蜜はそれよりもたくさん、パンケーキが光るほどに垂らしてやるのが素敵なデコレーションだ。青年もきっとそう感じているはず。少年はそんな心のままに再び片手を動かして、青年が運ぼうとしていたもう一つのパンケーキをも自分好みにデコレーションした。彼の手の動きは、よく見ると何かの引き金を引く仕草にも似ていたかもしれない。
「……ロロア?」
 ほんの一瞬目を離した隙にシンプルさの欠片もなくなったパンケーキに、振り返りながら青年はちょっとだけ悪戯っ子を見るような顔で笑った。少年はそんな青年の様子にはどこ吹く風で、椅子に座ったままぱたぱたと両脚を動かしている。
「お客人、種も仕掛けもございませんよ」
「貴方は魔法使いなのかな、マジシャン」
「まさかまさか。しがない手品師でございます」
 優雅に片腕を前に出すお辞儀をしながら、少年はくつくつと喉の奥で笑った。そうして膝の上に乗せていたこんにちのニュースペーパーを相手の方へと差し出すと、新聞紙を受け取った青年はどことなく皮肉っぽい微笑みを湛えながらふうっと紫煙を少年に向かって吹きかける。それを可笑しそうに吸い込む相手に、青年はそのどこか浮き世離れした目を細めて笑んだ。
「エテ、ペトゥル通りで一家殺人事件だって。おそろしいね」
「……そうだね。でも、いつものことだよ。彼らは幸せすぎたんじゃないかな」
「へえ。幸せすぎると死ぬのかい」
「そうすると、よく話すようになるからね。仕方がないよ」
 青年は上品なステンドグラスふうの灰皿に、煙草を押し付けてつまらなそうに火を消した。いつの間にかパンケーキを食べはじめていた少年は、きちんとした所作の割によくぽろぽろと食べこぼしをしながら、うっとりとした表情でもぐもぐとこがね色の好物を頬張っている。青年はそんな相手を穏やかに見守りつつ、時折その口の端についたパンケーキの欠片を指先で取っては自身の口内に放り込んでいた。
「エテは物知りだね。花屋だからかい」
 ややあって、思い出したように少年が呟く。それなりの頻度で少年から発される、花屋だからかい、という問いかけに聞くたび、青年は普段隠しているぎざぎざの歯を見せるほど、あははと声を上げて笑うのだった。そして、きっとそんなわけはないのに、そうかもね、と毎度答えてやる青年に、少年はやっぱりと頷いて、心底納得したという表情を浮かべるのだ。
「ロロア、それより。貴方がいま呼ばれているサーカスでも自殺者が出ているよ。ロロアも気を付けなくちゃあ」
「おや、僕の心配をしてくれるの?」
 青年の憂いているようで、しかしどこか芝居がかっても聞こえる声色に、少年もまたその豪華な顔立ちを面白げに歪めては、相手へ向かって囁きついでに小首を傾げた。
「ありがとう、相変わらずエテは優しいね。けれど、だいじょうぶさ」
「どうして?」
「だって僕は、マジシャンだもの。いつだって仕掛ける側の立場にいる」
 長い睫毛に隠されているまあるく暗い色をした瞳を悪戯っぽく煌めかせて、少年はにっこりとした。青年は、唇だけで笑う。彼は先ほど消した煙草を片手で意味もなく触ると、それから少年の金髪をそうっと撫でた。
「だめだよ、ロロア。そんなことを言ったら」
 時が止まるみたいな緑色の瞳を、目の前のか弱い少年だけに向けながら。
 少年はパンケーキを貪る手を止めて、一度だけ瞬きをした。そのさまにも青年は柔く微笑み、だめだよ、と囁いて、相手の小さな耳朶に触れる。少年の薄い唇が、味のない空気を食んだ。青年は、その長い髪がパンケーキの完ぺきなデコレーションを崩すことも厭わずに、テーブルに手をついて身を乗り出した。
「ほら、前にも教えたでしょ? マジシャンの合言葉。ね……」
 耳元からぬるい湿度と脈をもって確かめるように入り込む青年の声に、少年はゆっくりと頷く。持っているのが億劫になったナイフとフォークは手の内から滑り落ち、からん、と小気味良い音がテーブルの上で響き渡った。皿の上を覆う青年の髪が、自分の大好きな蜂蜜でべたべたになっている様子を恍惚と眺めながら、少年は頬に添えられた手のひらにすり寄ってくつりと笑った。
 少しおかしな世界だ、と思う。
「──種も仕掛けもございませんよ=v
 だって、こんなに美しくて甘い手品の味を、自分たちの他は誰も知らないのだから。



EteLoa
20210307 執筆

…special thanks
エテ・ディアンス @stardust_26_

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