じゃんけんパーの人


 雨が降っている。明け方、太陽が光の尾を引くのと一緒に降り出した、長い雨だった。
 けれど、小雨だ。冬から春にかけて降る、まだ少し冷たい雨。部屋の中ではほとんど音も聞こえないような、気配ばかりの雨である。えながは出窓のすぐ下に腰掛け、外の景色を見た。日が暮れて数時間経つ空はもう薄黒く濡れ、灰色の雲もまたそれを助長している。早く雨戸を閉めなければ、と思いつつも、えながは冷えた窓に額を当て、ぼうっと雨音を聞いているのが存外嫌いではなかった。今日はもう、風呂も済ませた。やることも特にない。暖房を効かせた部屋は心地好く、気を抜くと次々にあくびが生成される。気を張る理由もないので、えながはそれを生み出されるままにしていた。
「えなが、風邪ひくよ」
 ほどなくして、特にノックもなく開かれたドアの方から、そのような呼びかけが聞こえてえながはそちらを向いた。ほとんど眠りかけていた思考をはっと浮上させ──感覚的には空から落ちるようなものだったが──部屋に入り込んできた友人の顔を見れば、相手の手にはどこから持ってきたのか分からない瓶飲料が握られていた。
「からくじ、何それ」
「これ? すずちゃんがくれた。コンビニで買ったんだって」
「ってことは不味いんだな」
「ええ、そんなことないと思うけど。普通に美味い」
 首を傾げてそう発するからくじに、えながは肩をすくめた。
 えながの四つ下の弟であるすずめは、コンビニやらスーパーやらで新発売された食べ物や飲み物をいち早く手に入れてくるが、それの味が気に入らないととにかくからくじの胃袋にすべてを押し付ける習性がある。食べられるものならなんでも食べ、飲めるものならなんでも飲むからくじは、新しいもの好きな割に味の好みがうるさい弟には格好の餌食なのだろう。からくじに至っても喜んで受け取っているから、両者大概ではあるのだが。
「えながも飲む?」
「え、えー……?」
 からくじは出窓のすぐ下にあぐらを掻いて、えながの方に瓶をずい、と差し出した。えながは目の前に迫ってきた透明な瓶と、その中に収まっている透明と呼ぶには少し濁っている、気持ち桃色をした液体を不審な顔で眺める。物凄く薄いヤクルトみたいな色だ。それだけでもうあまり美味しそうには見えないのだが、彼は差し出されたそれを何故か渋々と受け取ってしまった。
 そうしてえながはまず飲み口に鼻を近付けると、中身のにおいをすん、と嗅ぎ、それから無臭に近いそれを一思いに呷ってみる。一口分だけ。液体が喉を通る前から、彼の眉間にはぎゅうと皺が寄せられていた。
「……なんか、辛いんだけど……」
 からくじの方を心なしか乾いた目で見ながら、えながは相手に瓶を返して消え入りそうな声でそう呟いた。なんか辛い。それ以外に言うことはなかった。甘くもなく、酸っぱくも苦くもなく、炭酸でもない水。呻くほど不味くもないが、決して美味しいとは言えない味。というか、味がない。無味無臭の辛い水だ。しかも、これがめちゃくちゃに辛いわけではなく、やんわりと感じる程度の辛さなのだ。何これ。何がしたいんだ、この飲み物は。
「ああ、それね。なんだっけ……? あ、そうだ、それ、唐辛子の辛み成分だけを配合した水らしいよ。すずちゃんが言うには」
「いや馬鹿だろ……」
「まあ、炭酸水みたいな感じだよな、味」
「炭酸水を馬鹿にしてんのか?」
 そう言うえながが口をへの字に歪める間に、からくじの手に戻ってきていた瓶の中身は空になっていた。さながら丸呑みでもしたかのような飲みっぷりに、えながは緩くかぶりを振って溜め息を吐く。そこから少し重たい空気が口の中に上ってきて、彼はついでにそのあくびを噛み殺した。それから出窓に置いてある、やたらともちもちしたクッションを少し触って、こめかみの辺りを指先でかりかりと掻いた。
「えなが、もう寝る?」
 そして、そんな友人の様子を見て、からくじはちょっとだけ首を傾げながらそのように問いかけた。えながはぼうっと眺めていた空の瓶から視線を外すと、なんとなくむっとした表情でからくじの方を見やる。
「え、なんで」
「だって、眠そうだから」
 言われて、えながは窓にこめかみをぴたりと預けた。はあ、と吐く息が硝子を曇らせるから、呼吸の間隔がよく分かる。ゆっくり吸って、浅く吐かれる空気。ドライヤーでせっかく乾かした髪が、雨降りの窓に張り付いた湿気によってまた少し濡れていた。えながはぱちぱちと瞬きをして、出窓の前にいくつか積まれているクッションを足先で軽く蹴った。
「まあ、眠いけど。でも、まだ九時だろ……」
「寝たらいいじゃん」
「んー……いや、ゲームする。この前買ったやつしよう。せっかく風呂上がるの待っててやったんだから」
 眠たげな声で唸ってから、けれどもはじめから答えは決まっていたようにそう宣言して、えながはよいしょ、と出窓から腰を上げた。
 けれども、その瞬間、身体に引っ掛けていたブランケットの下から黒いトラベルポーチが転がり出て、蓋の開いていたそこからばらばらと中身が床に落ちる。それらがフローリングの上に散乱するであろうことを自覚したえながの顔が瞬時にげ、というふうに歪み、口からはうわ、という言葉が洩れた。ばら。ばら、ばら。床に散らばるのは、様々な柄の描かれたチューブボトル、銀色や青色をした丸缶、果物や動物の形をしているプラスチック容器……
「ん、何これ。いっぱい」
「あ、ああ……忘れてた」
 眠気に苛まれる前に膝の上でポーチをがさごそやっていたことを思い出したえながは、多少焦った表情であちこちに転がった中身をかき集めながら、その中から探し途中だった白いチューブボトルを拾い上げると、それをぽい、とからくじの方へ放る。
「これ、やるよ」
 からくじは放られた白いチューブを片手で受け止めて、手の中にやってきたそれをじ、と眺めた。それから視線だけで首を傾げながら、ちら、とえながの方を見やる。
「だから、ハンドクリーム。お前、手荒れやばいだろ。痛そうだし」
「……え、そう? あんまり気にしたことなかったなあ」
「痛覚あるか?」
「あはは、あるって」
 白けたような呆れたような目をして相手を見るえながに、からくじは可笑しそうにくつりと笑った。そうして彼は手のひらの上に乗っているハンドクリームのチューブを眺め、ひっくり返しては細かい文字でつらつらと何事かを書いてある裏面を見、元に戻して、その後はもう意味もなく手の中でころころと転がすばかりである。えながは相手のそんな様子には気が付かないまま、逃げ出したポーチの中身──すべてハンドクリームだった──をすべて回収すると、またぽいぽいポーチの中にしまって、今度はしっかりとそのチャックを閉めた。
 えながは、自分に巻き付けていたブランケットを畳んで出窓のところへ置き、そこに一緒に乗っているクッションの形も整えて、問題のトラベルポーチもその上に置いた。暁月家では兄弟ごとに一人ひとり自室が割り当てられ、皆それぞれの部屋に出窓が設えられているため、その使い方には個性が出るものだったが、えながは明らかに出窓付近へ布類とクッションを多く置きがちであった。曰く、ベッドの上に置くと布団を干すときに邪魔だから、らしかったが、しかし真意は不明だった。本人にもよく分からないのだから当然である。
 彼は出窓付近を心地好いように整え直すと、相手がそうしているように、自分もからくじの前にあぐらを掻いて座り直した。というか、何しようとしてたんだっけ。ハンドクリーム。トラベルポーチ。ブランケット。立ち上がって。なんのために? ああ、そうだ。ゲーム。コントローラー。えながは再び立ち上がろうとした。
「──俺、塗り方よく分かんないな。えなが塗ってよ」
 しかし、床に片手をついて立ち上がろうとしたえながを止めたのは、からくじのそんな言葉だった。彼は、気持ちだけ前のめりになっていたえながの、床へ向かおうとしていた指先をちょっとだけ引っ張って、手のひらを上へと向かせる。そして、はい、と言われたらなんでも受け取ってしまうその手の上に、先ほど相手から受け取ったばかりのハンドクリームをそっと乗せてしまった。
 えながはそんな友人の半ば強引とも言える行動に、ハンドクリームを最初に受け取ったときのからくじよりも随分困惑した顔色で、手の中の白いチューブと相手の顔を交互に見やる。それから、ぬるい溜め息。否定の空気を含ませていないそれは、ほとんど肯定に近かった。彼は眉間にぎゅうと皺を寄せながら、不機嫌そうに唇を歪ませる。
「……お前、子どもか?」
「え、うーん……? じゃあ、うん」
「あっそう……」
 諦めを体現するように、えながはかぶりを振った。そうして溜め息混じりにからくじの片手を取ると、がさがさというかざらざらというか、とにかく潤い不足で今にもあちこち割れて、重度のあかぎれを起こしてしまいそうな赤い手の甲を眺める。見ているだけですでに痛そうだ。本人は痛くはないと言っているが、もしかしたら痩せ我慢の可能性も──まあ、ないだろうが──けれどもやはりあるかもしれないから、できるだけ丁寧に触れた。
「……とりあえず、大体これくらい出す」
「うん」
 言いながら、からくじの手の甲へとえながはいつも自分が出しているのと同じ量のクリームを出し、けれど出してから、いや、と思う。からくじは自分に比べて一回りは手が大きい。今出したこれだけだとなんだか心許ない気がして、彼はもうちょっとだけクリームを追加でからくじの手の甲に足してみた。人の手にクリームなんて塗ったことがないから、どうも不思議な気分だ。えながはクリームを手全体に広げる前に、自身の手のひらでからくじの手の甲を緩く覆った。
「肌を先に温めたり、化粧水を塗っておいたりすると効果が高まるらしい」
「そうなんだ」
「ちゃんと全体に馴染ませるんだぞ。爪にもな」
「うん」
 クリームを広げると、鼻腔を少し薬っぽい香りが擽った。よくあるフローラルやムスクのそれとはまた違う、なんとも形容しがたい、いわゆる生薬みたいな香りだった。緑っぽいと表現すべきか、それとも植物っぽいと表現すべきか。先ほど飲んだ辛いだけの水ほど特殊ではないが、けれども普段あまり嗅ぐことのない、無骨といえば無骨な香りである。
 えながは曖昧な相槌を打っている相手には構わず、或いは気付かず、効果的なハンドクリームの塗り方を大真面目に説明しながら、からくじの爪の先にまでクリームをすりすりと塗り込んでいる。爪の横にところどころ見え隠れしているささくれが大事に至らないことを祈りつつ、彼は手を負傷した後の水仕事がいかに辛いかを脳内で思い出していた。 
「で、乾燥を感じたらそのつど塗る」
 ややあって、からくじの片手にハンドクリームを塗り終えたえながは、つと顔を上げてそう呟いた。そのためにぱち、と目が合ったからくじは、しかし少しばかり自分の手の甲を眺めると、再びえながの方へと視線を戻して、柔く笑みながらちょっとだけ小首を傾げる。そんな相手にえながは、ふう、と息を吐いて、もう片方の手を取った。
「……手を洗った後と、寝る前と、水仕事の後」
 そう呟いたえながはからくじの片手にクリームを出し、先ほどと同じ要領で温め、それを全体に広げて塗りはじめた。真剣な面持ちで友人の手にハンドクリームを塗るえながは何も言わず、その様子を眺めるからくじも特に何か言葉を発することはないまま、ただ黙って息だけを行っていた。雨音。暖房の音。呼吸音。部屋の外の足音と、指先が手の甲をそっと擦る音。そうして、また雨音。暖房。息。雨。それから、やがて。ややあって。
「はい、終わり」
「ん……ありがと」
「ちゃんと塗れよ。悪化したら痛いんだからな、ほんと」
 ハンドクリームのチューブをからくじの手に戻しながら、えながは呆れ半分、心配半分といった顔つきで膝の上で頬杖をついた。からくじはまったく一仕事を終えたといった表情であくびをしているえながに曖昧に頷いて、出窓のクッションの上に置かれたトラベルポーチの方を指差した。
「えなが、たくさんクリーム持ってるな」
「ああ、てか、母さんが使わないやつ置いてくんだよ。なんでか知らないけど俺のとこに。ちなみにからくじのそれは、エステサロンで買ったけど匂いがだめで一回しか使わなかったってやつ」
「ああ、はは。ちょっと分かるかも。やりそう」
「だろ」
 笑いを洩らしたからくじに対して、えながもつられてくすりと笑った。彼はぐぐ、と腕を伸ばして身体をほぐしながら、さてそろそろ本題に入ろう、と据え置き型ゲーム機が鎮座している、決して大きくはないが小さくもない液晶テレビの前までのそのそと膝立ちで移動した。
「ね、えなが」
 そんな相手に対して、またしても待ったをかけたのはやはりからくじだった。なんとなく自分の両手を眺めていた彼は、ふと、あることに気が付いたようで、えながに向かって両手を突き出し、困ったみたいに少しだけ笑っている。
「なんだよ」
「この手でコントローラー触ったら、えなが。怒る?」
 広げられた手のひらに、チョキをくり出す発想はえながにはない。
 そのために彼はホラー映画のゾンビ顔負けの呻き声を発して、ぶつくさと文句を言いながらベッドに転がり、手が乾くのを待つ間につい眠ってしまう他なかったのだった。



KaraEna
20210222 執筆

…special thanks
空鯨出雲 @slhw_abyss

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