BPM:Rippling Wave


 なぜ、片耳しかイヤホンをしないのか、その理由を問われたことが何度かある。
 質問の出所は、大抵なぜなぜ盛りで調子の良い、一番下の弟からだ。心底身にならないそんな問いかけに気のない返事だけをして怒られたのが一度。兄ちゃんにも分からないな、となあなあの答えを返して拗ねられたのが一度。それから数度、左耳の方が聞こえが良いからだとか、声を掛けられたときに気が付けるようにだとか、あまり没頭していると事故に遭うかもしれないからだとか、それらしい返答を放り投げてみたが、弟はどれにもあまり納得した様子はなく、未だに攻防を続けている最中である。
 青年の左耳からはシャッフル再生で選ばれた音楽がランダムに流れている。冬休み中のよく冷え込む午後だった。夕食の買い出しから帰った彼は自宅の階段をぼんやりと上りながら、しかしふと、古い木造建築のためによく軋む床の上で足を止めると、そこで少し瞬きをした。洗濯物、取り込み忘れてたな。そうして青年は足早に階段を上りきり、自分の部屋とは逆方向にあるベランダへと向かうため、きしきし言う渡り廊下を小走りに渡った。
 窓越しに見える眼下のアスファルトでは、弟がサッカーボールでリフティングの練習に励んでいる。この寒いのによくやるものだ。風通しの良すぎるきらいがある家の中で、青年は未だコートにマフラーと外から帰ってきた格好のまま、思わずちょっとだけ身震いをした。
 渡り廊下の先には、マッサージチェアに座った赤ら顔の男性が、えながくんおかえりい、と缶ビールを持ったまま手を振っている。田舎特有のだだっ広さを持つ青年──えながの生家は、有り余ったスペースを有効活用するため、いつからかは分からないが旅館のないこの村で随分長いこと素泊まりの民宿を営んでいた。そして、目の前の男性もまた、そんな民宿で随分長いこと部屋を借りている人間の一人であった。
「ただいま。昼間っから飲み過ぎるなよ」
「いやあ、だいじょうぶだいじょうぶ。そういや、洗濯物ならすずめくんが取り込んでたみたいだけど」
「あ、ほんと。ならいいや、さんきゅ」
 男性の言葉にえながはほっとした様子でそう言うと、今しがた通ってきた渡り廊下へと再び戻るため、踵を返そうとした。彼の生活圏内はこの家の一階と二階で、基本的には渡り廊下を渡ったあちら側である。男性がいるこちら側は民宿用の客室が並び、必要な者は自分で料理が用意できるよう、宿泊客専用の調理場が設けられていた。ただ、洗濯物を干すためのベランダはこちらにしかないため、生家の人間も毎日来ることにはなるのだが。
「えながくん、えながくん」
「ん?」
 渡り廊下へ一歩を踏み出したところで男性に声をかけられ、えながはおやと振り返った。
「友だち、来てたよ。いつもの子」
「そう。俺の部屋?」
「うん」
「分かった」
「相変わらず仲良しだねえ」
「ああ、うん。まあ」
 えながは緩く頷いて、缶ビールを口に運んでいる男性を見る。お世辞にも暖かいとは言えない宿泊者用の休憩所で、彼だけが酒気を帯びて陽気だった。ビール特有の、あの鉛みたいな匂いが鼻腔をくすぐる。青年は笑った。アルコールの匂いは、そうするためにちょうど良かった。
「……おじさんとビールほどじゃないよ」
 左耳では音楽が鳴っている。右側からは男性の上機嫌な笑い声が聞こえていた。えながは今度こそ彼に背を向けて、自室へ向かって歩を進める。それはベランダへ向かおうとしていたときとどちらが早足だっただろう。分からないが、彼はちょっとだけ急いでいた。だって、ウォークマンの選び出す曲はいつも聴き慣れたものばかりで退屈だが、休む間もなく誰かの声に捕まるのはもっと憂鬱だったのだ。
 だから彼は自室のドアノブを捻って、ほとんど逃げ込むようにしてその中に入り込んだ。
「──あ、えながだ。おかえり」
 青年が一人、床に落ちている。正しくは上背のある同級生の友人が、床に敷いたラグの上にうつ伏せに転がっていた。青年は部屋の中に入ってきたえながに気が付くと、顔だけを彼の方へと向けて、なんだか久しぶりに実家の犬を目にしたみたいな顔でふにゃりと笑った。実際は昨日ぶりである。えながは相手のそんな様子を見て、気が抜けたふうにほうっと息を吐いた。
「……ただいま」
 えながはそう呟き、首に巻いていた厚手のマフラーをようやく取る。ぱちぱちと弾ける静電気のせいで、左耳が少しだけ痛んだ。そうして彼は床に転がっている友人の方をちらと見やりながら、何をやってるんだか、とその眉根に多少皺を寄せた。
「からくじ。お前、なんで床に転がってんだよ」
「ええ? だって、この前えながに怒られたから」
「はあ?……怒ったっけ?」
 言いながら、えながはポールハンガーに脱いだマフラーとコートを引っ掛けた。それから、財布と数枚のエコバックしか入っていないリュックサックも一緒に。イヤホンは未だ左耳に収まっている。彼は友人──からくじのが発した言葉に思案しながら、なんとなく視線を彷徨わせ、ややあって合点がいったように瞬きを一つした。
「あー……それは、布団干すっつってるのにお前がいつまでもベッドで寝てたからだろ」
「あれ。そうだっけ」
「そうだよ」
 えながは溜め息混じりにそう言ってぬるくかぶりを振った。きちんと整えられたベッドには、グレーをした枕の隣に四つ下の弟からもらった、ウサギとハムスターの間くらいの見た目をしたぬいぐるみがちょこんと置かれている。それは、手芸の得意な弟の処女作であった。えながはあくびを噛み殺して、ベッドの上に軽く腰掛ける。ヘッドボードの棚に収まっている本を一冊取り出して、彼はおおかた中身を暗記したそれを開こうとした。
「えなが、えなが」
 けれども、つと、からくじにそう呼びかけられて彼は顔を上げる。相手は依然ラグに横たわったまま、えながに向かって片手を伸ばしていた。
「俺、寒くて死にそう」
「……あのなあ。いま帰ってきたとこだぞ」
 えながは開きかけていた本をベッド前のテーブルに置いて、伸ばされた片手に指先でちょんと触れた。暖房も入っていない部屋は、外の寒さと大差ない。それでも今しがたまで外気に晒されていたえながの手の方が、からくじの肌の温度よりきんと冷えきっている。
「あ、ほんとだ。冷たい」
 言って、からくじは目を細めながら少しだけ笑った。仕方なさそうな、それでいて面白がっているような瞳。えながは視線だけで、だから言っただろ、という顔をした。彼はテーブルに乗った暖房のリモコンを取るために、友人の手に触れていた指先を引っ込めようとし、
「じゃあ、こっちおいで」
 けれども、そう発するからくじに手を引っ張られて、否応なしに転がっている相手の上に被さることになった。事実、えながが言葉にできたのは、うお、だとか、うえ、だとかいうあまり意味を成さないものだけだった。それから、危ないからやめろ、と言う代わりに友人の胸板を握り拳で軽く叩く。いたた、と笑うからくじに、えながは嘘つけ、と呟いた。
「……てかさ、暖房つけろよ。どうせ居座るつもりなんだから」
「電気代、気にするかなあって」
「俺、そこまでけち臭く見えんの」
「んー? ううん」
 からくじは緩く首を傾げて、ようやくその身体を起こした。彼はえながの腰を両腕で抱え、自分の脚と脚の間に座らせる。からくじの背もたれはベッドだったが、えながの背もたれはからくじといった様相だ。えながは、自分は五歳児か何かなのだろうか、と思いつつも、しかしこんなことは日常茶飯事なので、からくじのされるがままになっている。
「えなが、今日は何聴いてんの」
 頭上から声が降ってくる。からくじの指先が、左耳のコードを少し遊ばせた。音が揺れる。気がした。えながは振り返らず、見上げず、慣れた手つきで右側のイヤホンをからくじに渡した。それからふう、と息を吐く。音楽が流れていることなど、今の今まですっかり忘れていた。
「あ、ビートルズだ。えなが、これ好きだよな」
「……カビの生えた音楽と発酵食品は最高」
「そういえば、えなが。もう弾かないの?」
「だって、発酵食品は自分で作ろうと思わないだろ」
 えながは、ぐ、と自分の背をからくじに預けた。ちょっとだけ睫毛を伏せて、それからぼんやりとクローゼットの方を睨む。高校生特有の症状をご多分に漏れず発症したえながは、一年生のときにエレクトリックギターとアンプを購入した。そして、コードを覚えたところで飽きてしまった。現在は両名ともクローゼット暮らしを満喫中である。からくじはそんなえながをよそに、何やら自分の鞄をがさごそとやっていた。
「……ところで、そんなえながにキャンディチーズがあるよ。食べる?」
「食べる」
 声は小さいが、即答だった。左側では聴き古されてカビの生えた、それでも未だ遜色なく聴ける味わい深い音楽。右側では最高の発酵食品であるキャンディチーズの個包装が剥がされる、ぱりぱりとした音が聞こえる。一呼吸。口元にチーズが差し出され、唇に触れた。えながはそれを疑うことなく、また躊躇いもなく口に含み、咀嚼する。たぶん、背後の青年は笑っていた。
 そうしてかなり長いことチーズをもぐもぐ噛んでいたえながは、満足げにそれを飲み込むと、ちら、と後ろを見やってまなざしだけで首を傾げた。
「からくじ。今日、夕飯食べてくだろ。鍋にする。キムチの」
「え、やった。えながのキムチ鍋、美味いからなあ。豚と白菜?」
「そう。ミルフィーユ」
「鍋の素?」
「や、キムチで作るよ。そっちのがたくさんできるし」
 腕を組んで、えながは先ほど買って帰ってきた夕食の材料を頭の中で数えてみた。上背があるからなのか、そもそもそういう性質なのかは分からないが、人に比べてかなりよく食べる友人と、育ち盛りの弟三人。上に一人兄がいるが、兄は一人暮らしをしているため実家にはいない。両親もしばらく海外だ。ただ、たとえそんな兄と両親の分を差し引いても、土鍋一つではとても足りそうに思えない。二つだな。米はもちろんたくさん炊くにして、それでも足りなければ冷凍のうどんが何袋かあったはず。まあ、いけるか。だいじょうぶだろう。最悪はもやしでかさ増しをする。そのように考え終えた彼は腕組みを解き、テーブルの上の本へと手を伸ばした。
「ちょっと勉強する」
 それだけ言って、えながは飾り気のない付箋がそこここに貼られている、医学部入試攻略本と銘打たれた教本を開いた。重要でありそうな項目や、暗記の取っかかりになりそうな部分に蛍光色のマーカーが引かれているそれを後ろから眺めて、からくじはそこに書かれているややこしそうな文章に多少目が滑った。
「えなが、医者になるの?」
「え?……うん。そのつもり。なれたら」
 視線を本に落としたまま、えながは言葉ばかりで頷く。何度も読み返して頭に叩き込んだ内容を、取りこぼしのないよう再び頭の引き出しに突っ込む。そも、彼はまだ受験の年ではないのだが、えながは様々な面ですこぶる心配性であった。
 しかし、えながのまなざしは本の上をぴくりとも動かない。いま見つめている一点を凝視して、次の行に移ることも、頁が捲られることもなかった。彼は本を押さえている両手の親指にぐっと力を込めると、睫毛を伏せながらゆっくり瞬きをした。
「……べつに、」
「ん?」
「べつに、理由とかはないけど。たくさん稼げたら、みんな楽だしさ。もし……なれなくても、そういう知識はあるに越したことはないだろ」
 それだけ言ってしまうと、えながは何かに安堵したように息を吐いた。頁はようやく捲られ、彼の視線は文字列の上をするすると走り出す。背は未だからくじへとすっかり預けたまま、えながはあくびを口の中だけでして、どうにか目の前の教本に集中しようとした。
「えなが」
「ん、なに」
「こっち向いて、口開けて」
「チーズはもういい」
「じゃあ、これあげる」
 えながは友人の呼びかけにちょっとだけ眉根を寄せながら、それでもからくじの方を見て言われたように口を少し開く。そうして、目が合って数秒。相手の青めく水面にも似た瞳が、えながの怪訝な視線にたったいま気が付いたようにふっと弧を描いた。そんな相手へ、さっさとしろと言わんばかりに、えながはぱくぱくと自分の口元を動かした。
「ほら。好きでしょ、どうぶつヨーチ」
「……まあ」
 呟いて、えながはやっと口の中に入ってきたビスケット菓子をもぐもぐやる。動物型のビスケットに平たい甘さの砂糖がコーティングされた、薄っぺらで素朴な味の駄菓子だ。たったいま口の中に放り込まれたのは、たぶん、おそらく、小鳥の形をしたビスケットだった。
 そして、何が楽しいのか、からくじは鼻歌混じりにえながの頭を撫でている。シャッフル再生を強いられているウォークマンが先ほど選曲し、自分の左側で流れているのは、そういえば相手の好きな曲だった。
「えながは内科の先生かなあ」
「は、なんで?」
「え? あはは。えなが、人のこと切れないだろ」
 その言葉に、えながは口を噤んでちょっとだけへの字に歪ませた。確かにそうかもしれない。そうかもしれないが、図星であることを認めるのはなんだか悔しい。ただ、沈黙は肯定とほとんど同じであるため、からくじは堪らず喉の奥で笑っていたが。
 えながははあ、と分かり易い溜め息を発して、ぱら、と意味もなく教本の頁を捲った。カーテンが開けっ放しの窓から、気持ちばかり傾いた陽が差し込み、手の甲がじんわりと暖かかった。読んだはずの行を、読み終わったと分かっていながらもまた追い直す。視線が上手く言うことを聞かず、中々次の行へと進めない。えながは本に貼られている付箋を指先で触った。なんだっけ。片耳だけにイヤホンをする理由? そんなの。そんなの、なんだっけ。左側で、友人の好きな歌が流れている。なんだか気分が好くて、少しだけ唇を動かした。ゆっくりと瞼が落ちる。それから、そうっと上がる。一度、二度、三度。
「──えなが」
 はっとして、彼は顔を上げた。視線の先にいたからくじは、ちょっとだけ眉を下げて微笑んでいた。
「眠いんならさ、ちょっと寝たら?」
「……あ、いや……あと少ししたら、飯作るから」
「はは、もう? だいじょうぶだって。ほら、まだ三時だし」
 柔らかく笑んだまま、からくじは時計も見ずにそう言った。えながは軽く首を振ると、ヘッドボード上にあるデジタル時計を見ようと身体を動かす。動かそうとしたが、からくじが腰に回している両腕に阻まれて、よく見えなかった。
「三時は嘘だろ……」
「そうかなあ。でも、大体それくらいだよ」
「だから、お前の体内時計は当てにならないんだってば……」
 息を吐くのと同時に疲れた声で発して、えながは窓の方を見やった。兄のように天体には詳しくないが、あの太陽はきっと三時の位置にはいない。ズボンのポケットに入っているスマホを見て確認する気力はなかった。西日が眩しい。えながは諦めに近い声色で呻くと、相手の身体の上でごろ、と寝返りを打った。
「……五時」
「うん」
「四時、半には起こせよ。ぜったい」
「うん、分かった」
 心得たように相手は呟いたものだが、どうだろう。それでもえながは目を瞑って、すぐそこの水流に身を任せるままにした。
 手から重みがなくなったのは、教本をからくじがテーブルの上に置いたからだろう。音楽が唐突に途切れたのも、きっとイヤホンを外されたから。思えば、結局暖房をつけていないから、珍しく目の前の体温があたたかく感じる。いや、どちらかといえばぬるいような。そう、たとえば夏のプールみたいなものだ。暑い日のプールに満ちる、生ぬるい水。授業の中では、流れるプールがいっとう好きだった。何もせず、ぼうっと浮かんでいるだけでも咎められないあの時間が好きだった。沈んでいても、浮かんでいても自由なあの時間。それに、その後の脱力感も嫌いじゃなかった。たとえば、今みたいな。そう。そうだ。今日は疲れたんだ。朝は四時に起きた。兄弟の朝ごはんを作って、食べさせて、片付けて。民宿の掃除をして、タイマーにしておいた洗濯物を干して、それから。それから、サッカークラブで弟が仲間を泣かせたとかなんとかで謝りに行って、帰って、今度はふらふらとどこかへ行ってしまった別の弟を探しに走って、帰って、夕飯の買い出しをして。だから。だから……
「……からくじ」
「ん?」
「眠い……」
 そうして降ってきた柔い笑い声が、彼が触れている辺りでぬるく反響した。だから深く息を吸って、けれどそれを吐いたかは覚えていない。抵抗もできずに掠われる感覚が心地好かったから、ただ、目を瞑った。
 そういえば、イヤホンもなく、窓も開けていないのに海の音がしていた。さざ波の音が、微かに。ここで。




KaraEna
20210206 執筆

…special thanks
空鯨出雲 @slhw_abyss


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