HOUSTON



 青年は、たとえば目の前で輝く光には興味がなかった。
 きんと冷たい冬の夜だった。星は町の明かりが消えていくのにつれて次々にその姿を現し、紫から青、青から漆黒へと色を深めていく空に彩りを与え、満天の煌めきを形づくっていく。雲は昼間に吹いた風によって遥か遠くへと追いやられて気配もなく、また、風も今は鳴りを潜め、どこかで目を閉じて休んでいるようだった。時刻は午前二時をまもなく回ろうとしているところ。辺りは雪の降る前夜のごとく静まりかえり、時折聞こえる車の走行音ばかりが、けれど人々がまだ眠りについていないことを知らせてくる。
 そしてそれは、ちょうど彼らのように。
「そういえば、あとりくんってさ」
 がらりと掃き出し窓が開くのと同時に声をかけられて、あとりと呼ばれた青年は声のした方に視線を向ける。石油ストーブにやかん、スツールに折り畳み式テーブル、極めつけに天体望遠鏡を設置されて小キャンプ場の様相を呈しているベランダに、彼女はマグカップを二つ持って慣れたふうに部屋の中から出てきた。青年は相手がマグカップをテーブルに置くのを眺めながら、ストーブの上でぴいぴい泣き出したやかんを持ち上げて、マグカップの隣へ置く。
「なんで犬、飼おうと思ったの?」
 相手のその問いかけに、彼はああ、と呟いて、今は間接照明だけが点いている部屋の中を見た。つい先日突如同居を始めた黒いフレンチブルドッグの仔犬は、青年のベッドのすぐ隣、紺色のペット用クッションの上で丸くなっている。かわいいよね、あの子、と笑う眼前の来客にすぐ懐き──ほんとうにすぐ懐いた。二秒くらいで──その周りを飛んだり跳ねたりぐるぐる回ったりしていた仔犬は、満足したのか疲れたのか、すやすやと眠りに落ちているようだった。
「まあ、べつに……好きで飼おうと思ってたわけじゃないですよ。実家に帰ったときに押し付けられただけで」
「あとりくんちの子?」
「いや、隣の家」
 それに緩く頷きながら、彼女は教えた記憶がないのに居所の割れているスティックココアをカップの中にさらさらと流し込む。相手に触らせるのが危なっかしく感じるやかんは、青年がほとんど無意識に担当した。それから穴の開いた取っ手に刺さっていたスプーンが甘い茶色を白く混ぜ、顔の近くにだけ眠る前の柔い香りが立ち上る。彼はそれを口に含む前に、テーブルの上に載っているスマートフォンのロック画面を見た。午前一時五十五分。流星群のピークはおおよそ二時過ぎからだとされている。
「……それで、なんで飼おうと思ったの?」
 画面を消す。真っ暗になったそこに星は映らない。青年はココアを飲みながら、ストーブ前のスツールに腰掛けた相手の再度の質問にちょっとだけ眉根を寄せた。
「話聞いてました?」
「聞いてたよ?」
 彼女は首を傾げた。そこにはまるで悪びれる様子もなければ、からかいの気配もなく、ただ純朴な疑問だけが浮かんでいる。そのさまになんだか気が抜けてしまって、青年は隠し立てもせずに短い溜め息を吐いた。昼間はワイシャツの内側に閉じ込めているそれを、ぼんやりと。そうしてココアを一口飲む。脱脂粉乳やら乳糖やらの配分が多いためにひどく甘ったるい上、少しばかり舌にざらつくそんなものが、けれど彼は嫌いではなかった。なんで? なんでと言われても困る。もう一口飲む。答えは出ない。スマートフォンは役に立たない。部屋の中では黒い毛並みが、心配事など何もないといった姿で眠っている。
「飼えるから……」
 そう呟きながら青年は、空を見ていた。星はまだ流れていない。シリウスが相も変わらず冬の空を支配し、一層煌めかせ、彼の目はそうとは気が付かないままおおいぬ座を描く。それから冬の大三角形をなぞってこいぬ座へ、追ってオリオン座へと。三つの星は今日も仲良く傾いて横並びだ。赤々しいベデルギウスに負けじと、アルデバランも輝いている。うさぎ座さえ、その輪郭がよく見えた。随分と星が綺麗に見える場所だと、この土地に越してきてから何度思っただろう。とくべつ空気が澄んでいるわけでも、人が少ないわけでもないのに。
 それから彼はまたシリウスへと視線を戻して、文字通り一等輝くそれをじっと見つめる。おおいぬ座が口にくわえる、ぴかぴかに白いその光のかたまりを。
「……だって、困るでしょう」
「うん?」
「居場所がなかったら。それに、俺のせいであの子が変なことになっても嫌ですからね」
 青年はちらと部屋の方を見てから、ぶっきらぼうにそう呟き、ココアを口に含んだ。ストーブを挟んだ向かい側で、声を上げるでも潜めるでもない、しかしこちらの態度にはもうすっかり慣れっこになってしまったというような笑い声が聞こえる。彼女は彼が声にしなかった言葉を肯定する。息を吸うと、冬の空気が喉を冷やして心地好かった。
「……でもあとりくん、早起きできたっけ? 散歩とかだいじょうぶ?」
「俺のことをなんだと思ってるんです?」
「さては、寝ないですっごい明け方に行ってるね……?」
 図星を突かれたが、特に繕いようがないので青年は口を結んだ。彼女はやっぱりね、と何故かちょっとだけ得意げに腕を組んで笑った。相手は特にこちらを責め立てる様子もないが、彼の頭の中では様々な言い訳があれこれと浮かんでは消えたりをくり返していた。たとえば、明け方には濃紺と桃色の空に浮かぶ月が見えるだとか、その月が朝陽に溶けていくさまがひどく綺麗だとか、なんなら金星もよく見えるだとか、人も車通りも少ないから落ち着くだとか、自分は散歩から帰った後に寝ているし、その後の仕事にも遅刻などしたことないのだから問題はないしべつにいいだろうだとか、子どもみたいに延々と。しかも最後のはおそらく顔に出た。
「流星群、そろそろ?」
 分かったみたいにふふふ、と笑って、彼女はこくりとココアを飲みながらそう訊いた。言われて青年はスマートフォンで時刻を確認し、すぐに画面の明かりを消す。この夜の寒さにココアはもう大分冷たくなっていた。
「たぶん。運が良ければ、一時間に二十個流れるかもしれませんね」
「じゃあ、三十個流れちゃうかもね?」
「なんで?」
「ほら、私。すっごく、運が良いから!」
 彼女はそう言って自信ありげに胸を張った。わくわくと光る黒い瞳に平たい声でそうですか、と呟いた青年は、呆れた様子でかぶりを振る反面、内心では一時間で三十個もの流星が降る空の姿を想像していた。
 星は、宇宙は、人々が叩き出した予測の外をいつも超えてくるものだ。二分に一度、星が降る空。きっと、綺麗だろうな。星を見るためにいろんなところに赴いたが、結局、この町の空がいちばん綺麗だったから。青年の瞳の中で、目に見えないものがちかちかと輝いた。気が付かない内に、彼はまた空を見ていた。夜が深まるごと、青が黒に染まるごと、シリウスの光は強く眩しくなり、目の奥を刺すようだ。それが少し痛くて、瞬きをする。視線を逸らして、オリオン座を見た。リゲルの青い光。そう、シリウスでは眩しすぎる。これくらいがちょうど良かった。明るい青色。触ったら冷たいだろうか、それとも熱いだろうか?
「そうだ、あとりくん」
 ふと呼びかけられた彼は、はたとして顔を相手の方へ向けた。いや、そもそも最初から向けていたのかもしれない。何か、ひどく短い時間だけ眠っていたような気もする。ぱちぱちと何度か瞬き。青年の心の中にはその瞬きよりも多くの疑問符が浮かんでいたが、相手には特にこちらへ思うところがないようだから、或いはほんとうに短い間だけ眠っていたのかもしれない。たとえば、二秒くらい。仔犬が彼女に懐くのと同じくらいの時間。そんなことを思いながら、彼は半ばぼんやりと相手の言葉を待った。
「わんちゃんの名前、なんて言うの?」
「え?……ああ」
「あ、やっぱ待って! 当ててみるから」
「……どうぞ」
 彼女の宣言に、青年は平穏そうに眠る仔犬の方を見やった。それからどうしてか行き場をなくした片手を、テーブルの上にある天文手帳へと伸ばして、読む気も特にないのに今日の頁を開いた。辺りが暗くてよく見えない。顔を上げる。相手は身体にぐるぐると巻き付けていたブランケットを探偵のケープマントふうに引っ掛け直すと、親指と人差し指を顎に当ててうんうんと唸っていた。
「アポロ?」
 ややあって、彼女は小首を傾げつつも、顎に当てていた片手を矢印のかたちにしてそう答えた。青年は口の中だけでちょっとだけ笑うと、開いていた手帳を閉じてかぶりを振る。
「言うと思った。違います」
「なら、11号とか」
「人造人間じゃないんだから……」
「アームストロング? や、ガガーリンかな」
「人の名前は付けませんよ」
「ライカ……は違うね。あとりくんだもん」
 そうしてまた唸りだした相手に、青年はなんとはなしに月の方を見た。
 そういえば、今日は満月だった。シリウスや太陽が発するそれとはまた別の白い光が、ベランダ全体を淡く照らしている。ココアを飲む。もう冷えきっていた。流星はまだ見えない。半ば頭を抱えて考えている彼女の髪色は、暗やみの中に埋もれるこちらの赤茶とは全く別物の、夜に浮かぶ不思議な青をしていた。月光を朧に浴びるその色を眺めながらつと、何故だろう、同時に月から見た地球はどのようなものだろうと思う。焦点の揺らがない水晶体に映る、丸い青。この夜よりも更に静かで黒い空に、目を刺さない鮮やかな青が浮かんでいる。くっきりと足跡が残る塵の月面に、恐ろしいほど軽い身体。そして、光と目が合った。
「ボイジャー?」
 視線がかち合ったのは、目の前の黒い瞳とだ。彼女は今度もこれこそ、という表情をしながら、空を指差して青年に答えを差し出した。その答えを見つめながら、彼は緩くかぶりを振った後、自分がベランダの基地にいることを確認するために自身の足元を盗み見る。
「それじゃあ、ナサ?」
「いや。ちなみにロスコスモスも違いますよ」
「なら……あえて、はやぶさ!」
「あえなくていいです」
「ベデルギウス?」
「オリオン座が崩れない内は有り得ないですね。少なくとも六百年」
 互いに種類豊富なはずれ≠聞きながら、片方はああだのううだのと呻き、もう片方は想像よりも引き出しの多い相手に、心の内では微かに驚きを感じていた。別段、これといって天文学や宇宙に興味があるわけでもないだろうに。そして、しばらくの間唸っていた彼女は、ついに眉間に皺を寄せると、前屈みにじいっと石油ストーブの中で燃える火を見つめた。
 それから、数呼吸分。彼女はそうっと睫毛を上げ、確かめるように或る星の名前を編む。
「……シリウス?」
 その答えに、思わず笑い声が洩れた。まさか、と思うのと共に、確かに数年前の自分であったら付けていただろうな、という思いが身体の同じところで交差して、青年は奇妙だが悪くはない気持ちでかぶりを振る。そうして、それを見たブランケット探偵が、ストーブの向こうでがっくりと項垂れた。
「探偵さん。そろそろ、答え合わせします?」
「う、うーん……まだなんか出てきそうなんだけどな……」
「むしろ、よくそんなに色々出てきましたね」
「あはは、でしょ? あとりくんにたくさん教えてもらったからね!」
 ふふんと誇らしげに笑った相手に、自分自身気付かないほどの密やかさで目を細めると、彼はまだまだ眠りの国を漂っている仔犬の方を眺めた。その近くに転がっている月を象った犬用の丸いボールが、間接照明の光を受けて橙色の輪郭を帯びている。そこから視線を動かさないまま、青年は少しだけ息を吸った。だって、ここまで引っ張ってしまったのだ。最早答えを言う側の方が緊張していた。
「ヒューストン」
「ヒューストン?」
 ややあって、彼はそっと、ほんとうにそうっと口を開いた。ヒューストン。テキサス州にある大都市の名前。答えを聞いた彼女は、その名前をおうむ返しするのと同時に、やはり小首を傾げて青年の方を見た。
 また、青年もこの言葉だけで相手がなるほどと納得するとは考えていなかった。それに、いつでも答えには解説が必要不可欠なものだ。全部言わなければ。彼は眉間に皺を寄せて、仔犬を見るか空を見るか迷ったのち、結局自身の睫毛を伏せるだけに留める。それから、またすうっと息を吸った。緊張のためではない。これは、紛れもなく気恥ずかしさのためであった。
「──ヒューストン、こちら静かの基地。鷲は舞い降りた=v
 そうして、寒さのためではない微かな震え声で発されたのは、アポロ11号の船長、ニール・アームストロングが、月面着陸の瞬間に月から地球へと発した最初の言葉だった。
 これで呼びかけるたびに宇宙飛行士気分だなんて、小学生でも薄ら笑いを浮かべるものだろう。青年自身その自覚はあったが、それでも彼にはこれ以上の名前は思い付かなかった。
 そして、予想通り彼女は笑った。けれど、そこに軽蔑やからかいの色はなく、ただ心底納得したという表情をして、彼女は笑っていた。そんな相手の反応こそが予想通りだった青年は、それでも安堵感に少しだけ息を吐くと、すっかり冷め切ったココアに口を付ける。
「あとりくんってさ、なんだかんだ宇宙飛行士に憧れてるよねえ」
「まあ、憧れはしますよ。なりたくはないですけど」
「やっぱり、宇宙には行きたくない?」
「ないな……」
 まなざしだけで首を振って、青年はちらりと相手の方を見た。彼女は彼の答えを聞くと、ふむ、とまた親指と人差し指を顎に当てて、まじまじと青年の方を眺める。ブランケットは未だ、探偵ふうに巻き付けられたままだった。
「……分かる。あとりくん、けっこう寂しがりやだもんね」
 その言葉が発されるや否や、青年はげほ、と噎せ返った。
 飲みかけていたココアと相手の言葉が入ってはいけないところに入り込んで、反論する余裕もなく何度か咳き込んだ彼の前で、心配半分、悪戯半分の笑い声が聞こえてくる。彼はその眉間に今日いちばんの皺を刻むと、さながら彼女と出会った頃によく見せていたじとりとしたあのまなざしで顔を上げた。相手は、ちょっとだけ焦った様子でまあまあ、と眉根を下げて笑っている。そうして、目が合った。黒い瞳。それが今まさに星空みたいに白く煌めき、光の尾を引いて、
「──流れた!」
 青年は突然そう言って、立ち上がりながら後ろを振り返った。彼は素早くマグカップをテーブルの上に置くと、ベランダの柵に駆け寄って無数の星が輝く夜の空を見つめる。手招きの代わりに柵をとんとんと叩き、腰を上げた際に勢いでスツールがひっくり返ったことにも気付かない青年は、子どもみたいだ、というよりは子どもそのものであった。
 そんな彼の様子を見て、あはは、と小さく笑った彼女は、理不尽にも倒されたスツールを元に戻して、自身のスマートフォンで時刻を確認した。何時何分に流れはじめたかなんて、きっと今の彼は覚えていないだろうから。そうして、掃き出し窓の近くに真っ黒だけれど柔らかい気配。唐突にがたがたばたばたと物音を立てはじめた飼い主に、どうもこの仔犬も平穏を崩されたらしい。彼女は膝を軽く折って、自分の方を見上げているもう一つの黒い瞳を見て微笑んだ。
「ごめんね、ヒューストン。起こしちゃったね」
「ヒューストン?」
「あとりくん、今にヒューストンだけじゃなくて隣の人にも怒られちゃうぞ……」
「おいで。おまえも見よう」
「聞いてる?」
 青年はどこ吹く風で、掃き出し窓をからからと開け、ひょいと小さなヒューストンを抱えた。つい先ほどまで眠っていた彼は、冬の夜の冷たさとぴかぴか光る空を受けて、そのまんまるの瞳を戸惑ったように何度か飼い主の方へと向けたが、相手がすっかり星空に夢中であることに気が付くと、諦めた様子で大人しく抱えられながら青年の手の甲をぺろぺろと舐めていた。 
「二、三……すごいな、もう三つも。ほら、ヒューストン、綺麗だろ」
「うわあ、一個目見逃したなあ。あとりくんは見えたの?」
 ヒューストンの額を指先で撫でながら、瞬く間に過ぎ去っていく光の尾たちを数えていた彼は、そんな相手の問いかけに自身の目を細めた。
「──俺、目だけは良いんですよ」
 青年は、たとえば目の前で輝く光には興味がなかった。数年前までは。
 今、彼はベランダにある静かの基地で、小さなヒューストンに呼びかけながら、すぐ隣で光る目を見た。なんだか、一時間に三十個の流星など、ここでは容易いことのように思える。ヒューストン、こちらロケットにも乗らず、月面にも立たない宇宙飛行士。静かの基地は、全く静寂に包まれていない。鷲の代わりに、石油ストーブが着陸している。身体は重いが悪いところではない。冷めたココアはすぐに新しくて熱いものに入れ替えられるし、外は肌が凍るほど寒くはない。それに、星がたくさん見える。ほんとうにたくさん見える。
 青年は流星が過ぎ去った後の軌道を指先でなぞった。そんな彼の目もまた、光っていた。それは懐かしくも新しい、夢の香りを纏って。




AoiTori
20210117 執筆

…special thanks
菫あおい @stardust_26_

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