道の先に広がるのは深い緑。
 アインベルは震えて力の入らない脚を何とか前進させながら、まるで身体中から血を流しているかのように苦しげな表情をして、己の視界に立ちはだかる森を映していた。
「……」
 アインベルの、痛みを堪えるようにしてきつく噛み締められた唇から洩れるのは、途切れ途切れの吐息ばかり。
 少年は眉根を寄せ、憎々しげに前方の森──樹海≠見やっては、その入り口を目指して使い古された街道をゆっくり、恐ろしくゆっくりと進んでいく。
 アインベルがかつて住んでいた砂浜の辺りから、樹海を経由していちばん近くの町まで伸びている白の民@pの街道を彼はひた進んでいた。
 この街道の上を行けば、町から樹海まではそう遠い道のりではない。どんなに足の遅い大人でも二刻とはかからない程度の距離であった。けれども、アインベルがその樹海に一等近い町を出てから、もう半日は経過している。彼の足は町が遠ざかり、樹海が近付くにつれて速さを失い、それと共に力も失った。
 彼は今、自分が宙を歩いているのだか地面を歩いているのか、それすらもよく分からない。
(なんで……)
 ──何故、来てしまったのだろう。
 少年は力なく歩を進めながら、今更ながらにそう後悔した。
 何故、自分はこんな処を歩いているのだろう……
 それもそのはず、孤児院に入ってから、少年はこの辺り一帯を自分から遠ざけて暮らしてきたのだ。
 アインベルは、背後の町も、前方の樹海も、あの海も、白の民も、立ち上る渦潮≠焉Aなるべく自分から遠ざけて、そういった話題からは目を背けて生きてきたつもりだった。
 決して、あの海辺で過ごした家族との日々を忘れたいわけではなかった。しかし、想い出したくはなかったのだ。想い出せば、渦潮の前から真っ先に逃げ出して、のこのこと今日まで生き延びた自分の卑しさも共に思い出すことになるから。そして、海に残してきた家族のことから目を背けてきた自分のことも目に映る。家族があの渦潮の後、どうなったのかは想像したくなかった。
 ……だというのに何故、自分はこの道の上を歩いているのだろう。
 海のような見た目の騎士に会ったからか、魔獣遣いの少女に自分の妹の姿を見出したからか、失くしたものを、失くしたままにしておいている自分にとうとう嫌気が差したからか──或いは、そのすべてか。
 ぐるぐると頭の中で糸を絡ませながら、それでもアインベルは樹海の入り口まで辿り着き、その前で力の入っていない足を止めた。
 森の入り口からは、冷えた風がこちら側へと吹いてきている。
 その風は、海に吹く乾いた風とは明らかに異なっており、ましてや渦潮が巻き起こす風とは欠片ほども似てはいない。しかしそれでも、此処はあの日、自分が通った場所である。
 唸る風、軋む家、荒れる海に殴り付ける塩、渇いて痛む身体に張り付く喉──そのすべてを、アインベルは未だ鮮明に想い出せた。
「あ……」
 樹海の前に立って、あの日の記憶が彼の目の中で鮮烈に蘇る。
 身体中の肌が粟立ったアインベルは一歩、また一歩と森の入り口から身を引いていった。
 視界がぐらぐらと揺れ、自分が今何を見ているのか、何を見ようとしていたのかも分からず、彼は地面の小石に躓いて道の上に尻もちをついた。
 少年の唇が開かれ、そこから熱い息が幾度も吐き出される。
 外へ出ていく息の温度とは打って変わって冷えていくアインベルの顔を、樹海の口から吐き出される細い風が、更に冷たく撫でていった。傾いた陽が、短く息をするアインベルの横半身を、その怯える少年の姿を無慈悲に暴いている。
 ──何も考えることができない。
 何も見ることができなかった。
 アインベルはついに背を丸め、前のめりに地面に片肘をつくと、ひゅうひゅうと喉を鳴らして荒い呼吸を繰り返しはじめた。
 彼は地面に接していない方の手のひらを自身の喉の辺りにやって、なんとか己の呼吸を鎮めようと試みるが、けれどどうすればいいかも分からずに自分の呼吸はその間隔を狭めるばかり。
 地面に膝を突き、折っていた身体を更に折り曲げて、アインベルは乾いた地面にざり、と爪を立てた。目尻に溜まった涙が、額の汗と一緒にぽたりと道の上に落ちていく。
 海。
 渦潮。
 砂浜。
 樹海。
 召喚師の杖。
 忘れもの……
 少年の意識は、そこで途絶えた。


*



「……この台の上に収まるのは……」
 鮮やかな紅の瞳を石の台座へと向けて、折り曲げた人差し指を唇に当てながら彼女は呟いた。
「──杖、かも。かなり短めの」
 言いながら、彼女は背後を振り返る。
 ふんわりとした橙の髪と、首に巻いた虹色に光さざめく薄布が、その動きに合わせて揺れ動いていた。
「杖、ね。ってことは、この床に描かれてるのは魔術師のまじない言葉かしら」
「……にしては、紋様より文字が多すぎる気もするけれど……」
「そぉよね。じつは、古い魔術の陣は書き文字が多かったり?」
「いいえ。むしろ、文字どころか陣はほとんど描かなかったと聞くわ。まじない言葉の大抵を今より多く口で言っていたと」
「……よねぇ。知ってる」
 そう言って肩をすくめた薄布の代わりに首からハーモニカを下げた女は、どこか落ち着きなくそのつり目がちの黒目の先を、ちらちらと石造りの部屋の入り口へとやっていた。
「この遺跡はこれだけよ。このちいちゃな部屋だけ。小さすぎて遺跡と呼べるかも微妙なところだけど──ね、それより……もうよくない? 町の人に言われたらなんて言われるか……ただでさえあたし──あたしたちは、町で昔っから不良扱いされてんのに、これ以上評判落とされたらたまったもんじゃないわよ」
「此処、出入り禁止なの?」
「町のじいちゃん──長老の許可なしではね。昔はよく四人で忍び込んでたけど……それがばれたときは、持ってた楽器をしばらく取り上げられたっけな」
 言いながら彼女はその黒目を懐かしげに細めて、困ったように黒みがかった短めの赤毛を軽く掻いた。
「……ハル」
「え、何?」
「その楽器がないと、此処には入れないのよね」
 赤目にハルと呼ばれた彼女は、首から下げたハーモニカを少しばかり持ち上げて頷いた。
「そうね。あたしらの故郷で作られた楽器がないと、この遺跡の中には入れない」
「……手、痺れたわ」
「あは、そりゃあいきなり突っ込んでいくあんたが悪い」
 言われて彼女は、その紅の瞳をハルから外して痒くもない頬を掻いた。
 ハルに故郷の近くに小さいけれど古い遺跡が在ると聞いた後、好奇心のままにハルの案内で此処までやってきた彼女である。
 彼女は未知の宝に目を輝かせながら遺跡の中へ入り込もうとして、相棒の青毛から降りて飛び出したのち、入り口の見えない壁に弾き飛ばされてその手首をびりびりやられてしまった。
 そのときの衝撃を思い出して苦笑いしながら、黒い手袋をした手首を彼女は緩く振る。ちなみにこの遺跡の中へは、ハーモニカを持つハルと手を繋いで入り込んだ。
「そのハーモニカに描かれている模様と、この床に描かれている陣は同じものよね?」
「うん。あたしらの町では昔っから、この紋様を自分の子に持たせる楽器に刻むのが慣習になってるみたいでね」
「何か、たいせつな意味がある紋様なのかしら。或いは何かを守っているとか」
「さあ……。あたしたち、ちっちゃい頃何度も此処へ楽器を持って忍び込んでるけど、これといって変わったことは起きなかったわね。危険があるなら、長老ももっと厳しく取り締まるだろうし」
 ハルの言葉を聞きながら、彼女はふむと息を吐く。
 ──この小さな石室は、かなり無骨な出来だった。
 大人が十人立って入れるか入れないかの広さの石造りの小部屋の中心に、これまた石でできた、特に装飾も施されていない台座がぽつんと置かれている。祭壇と呼ぶには味気なさすぎるその台座の上には、何か細長い窪みが彫られているが、しかしそこには何も置かれてはいない。
 そこに在るはずのものは長い年月を経る内に何者かに盗まれてしまったのか、或いは元々何もなかったのか。
 紅の瞳を台座の上に走らせて、彼女はその指先を軽く台の上へと滑らせた。
「なんのための、遺跡なのかしら……」
 見たところ、台座は風化の形跡がそれなりに激しい。余所者が入り込めないよう、遺跡に何かしらの術は張ってあるようだったが、けれども外からの影響は他のものと同じように受けるらしかった。
「……なんか分かったの?」
「そうね……ちょっと待って」
 台座が視線を上げると、虹色を揺らめかせて彼女は石室の全体をぐるりと見回した。
 長方形の石が積まれてできた石室の壁には、特にこれと言って装飾や壁画は施されていなかった。天井も同様。この部屋は、ただ無骨な四角い部屋に思える。それは、床全体に刻まれた、巨大な円形の陣がなければの話だが。
 この遺跡の入り口は、人一人通れるほどの大きさのものであり、そこを通って真っ直ぐに伸びていく廊下を歩いていくと、その先に在るこの石室に辿り着く。
 他に分かれ道はなく、この二人──様々な遺跡を渡り歩くトレジャーハンター二人組の嗅覚を以ってしても、隠し扉や隠し通路のようなものの存在は感じられなかった。
 この石室の入り口も遺跡の入り口と同じくらいの大きさで、扉などは存在しない。そのため石室の入り口から外れてみると、ほんの少しだが遺跡の出入り口の方から、外の光が台座へ向かって差し込んでいる。
 微かな陽光は台座全体を包むようにして石室の中に入り込み、淡く橙色に台座を照らし出していた。
「……ハルが小さかった頃、この台座の上には?」
「え? いや……何もなかったわよ」
「この遺跡を造っている石と台座を作っている石、同じものね」
「うん、そうだと思うけど」
 ハルの言葉を聞いて、彼女は再び台座へと視線をやった。
 黒っぽい灰色の石で形づくられているこの遺跡は、台座もどうやら壁や床と同じ石で作られているようだった。石の台座の前に彼女はしゃがみ、微かに陽光が当たっている台座と当たっていない床の石を見比べる。
「……少し、退色してる」
 そう、床の石と比べて台座に使われている石の方が、長年当たり続けている陽光によって多少退色をしているのだった。
 彼女の言葉を聞いたハルが、同じように床にしゃがみ込んで床石と台座を見比べる。
「まあ、若干陽が当たってるもんね」
「ええ。……あ、この陣……」
「ん?」
「ここ、見て」
 ハルは彼女が指し示した場所へと目をやった。
 床の上に刻まれた円形の陣には、円の中には先がすぼまった楕円形。その楕円の中には無数のひし形に似た紋様が描かれている。その楕円形の周りにもまた、無数の紋様。それはひどくごちゃごちゃしているといった印象で、見ていると軽く眩暈を起こしそうだった。
 円の内外には、円に沿うようにしていにしえの言葉が並べられている。きっちりと同じ間隔を取って整列しているように見えるそれは、しかし内側の或る一部分だけぽっかりと隙間が空いているようだった。
 円のてっぺんからぐるりと円の周りを一周する言の葉たちは、その終わりの言葉とはじまりの言葉までの間隔が、他と比べて異様に空いている。
 他があまりにきっちりと整列されているため、この遺跡に陣を刻んだ者の計算違いとは考えにくかった。けれどもこの陣は、上手く結ばれていない。それはまるで、この陣に必要な言葉がもう一つ、刻み忘れられているようだった。
 そう、終わりからはじまりへと向かう間に空いたこの隙間──その大きさからして見ても、ここに何かもう一語、文字が刻まれなければならないことは明白に思える。
「あれ、ここ──なんか足りてないわね」
 彼女がハルに指し示したのも、まさにその言葉の空白だった。
 ハルが空いた隙間の前で首を捻っている間、橙色の髪を揺らして彼女は立ち上がり、今度は台座の上を検める。
 そうしてみると、台座の窪みの内側と外側は、退色具合が全く一緒だった。つまり、この窪みの中に何かが長いこと置かれていた可能性はかなり低い。かなり初期に持ち去られたか、或いはやはり、元々何もなかったか。
 ただ、台座の上に彫られているのは風化でできた窪みではない。明らかに人の手によってしつらえられたものである。
 この台座の上に置かれるべきものは、確かに存在するはずだった。
「──瞳の、ようね」
 石室の入り口まで下がって、陣の全容を今一度目にした彼女はそう呟いた。
 それを聞いたハルも立ち上がって彼女の隣まで下がり、陣の姿をその漆黒の瞳に映す。
「瞳の?」
「そう、何かを探す巨大な瞳──」
 そこまで呟いて、彼女ははっとその紅の瞳を微かに見開いた。それからハルの方へと振り返ると、小さく微笑んでその瞳をちかりと閃きに煌めかせる。
「これ、召喚陣かも」
「え……じゃ、ベル坊が遣うようなあれってこと?」
「ええ、もしかしたら」
 彼女は足早に進み出ると再び床の上にしゃがみ込み、今度は両膝を突いて、床の上に描かれた巨大な陣の紋様を検めはじめた。
「召喚師の呼びかけ言葉だったら、アインベルが遣っているから多少は解る」
「なるほどね。それで、ここいらのはどう、お姉ちゃん?」
「そうね、ええと──この黒目のような楕円形の中に描かれている、星みたいなひし形……これは目≠フ意味があったはず。楕円の外側──白目の部分にたくさん描かれているこれらは、鎖≠ニ力の渦≠ニ……この狼の足跡のようなものは、悪いものが入ってこないようにという意味の魔除け」
「うん、つまり、どういうことよ?」
「これを仮に召喚陣だとすると、何かを喚び出すために無数の目と鎖と力と魔除けが必要だったということね。それを喚ぶための圧倒的な力と逃さないための監視の目、そして鎖、邪を払う魔除け……この陣が喚び出したかった何かは、もしかすると命あるものかもしれないわ」
 ハルはそれを聞くと、緩くかぶりを振っては溜め息混じりの乾いた笑いを上げた。
「でもこれ、未完成よね?」
「ええ、おそらくは」
「じゃ、役立たずじゃない。結局はずれってことね、ならさっさと次に行きましょうよ」
 言いながら、ハルが赤目の着ている服の裾を引っ張った。ハルに引っ張られながら彼女は、しかし未だ床上の陣を見つめ、その円に沿うように刻まれている言の葉を目線で追いかける。
 それからふと、彼女の唇が薄く開かれた。

 我は瞳。
 我は鐘。
 我は見付ける。
 我は見付かる。
 我は知らせる。
 我は知られる。
 我は瞳。
 我は鐘。
 我は此処に在り。

 ──汝よ、此処へ至れ。

「……ハル。この遺跡──」
「……何よ、はずれでしょ? 絶対、ぜーったい、お宝ちゃんは出てこないって。此処って金銀財宝その他諸々の気配、昔っからぜんぜん感じないし」
「宝は、ないかもしれない。けれど、此処……何か在るわ。在るような、気がする」
「……そうだとしても、お金にはなんないんじゃないの? あたしたち、当てのない流れのトレジャーハンターなんだからさぁ、お金になるお宝ちゃんを探さないと、明日の食いぶちも怪しいってもんよ」
 ハルは呆れたように肩をすくめてかぶりを振った。
 けれども彼女の頭の中にも、先ほど目の前の連れが声にした、床の陣に描かれた古代語の言葉が、幾重にも幾重にも木霊しては鳴り響いている。この時点でもうこのじゃじゃ馬の歩調に乗せられてしまっていると言っても過言ではないことは、浪漫と現実を今まさに天秤に掛けているハルも一応自覚してはいた。
 しかし、天秤に掛けたのはいいが、困ったことにこちとらトレジャーハンターである。そも、浪漫が現実のようなものだ。我ながら馬鹿々々しいが、自分たちは浪漫がなくては生きていけない。そう、現実を見ることができていたら、いつまでも流れのトレジャーハンターなどやってはいないのだ。
 そうして天秤は簡単に、かなりあっけなく傾いた。
「ま──まあ、もしかしたら時代の大発見になるかもしれないし? そしたら、その情報だけでがっぽり稼げるかもしれないし? そうそう、ハンター足る者、面白そうな方に賭けてこそよね……」
「──ええ。それに、この謎だけでもう十分お宝よ」
「はいはい……参るわ、ほんと」
 ハルはその赤毛を短く揺らしながら、未だ床にしゃがみ込んで何か考え込んでいる彼女の肩を軽く叩いた。
「それで、さ……」
 そうして振り返った彼女に、ハルはどこか悪戯っぽく笑いかける。それからハルは、がき大将顔負けのにやりとした笑みを唇に浮かべ、ハンター特有のぎらりとした光をその黒い猫目の中に宿して言った。
「──何が見えたの、イリス?」
 問われたイリスは立ち上がり、目の前の狩人の瞳を見た。それから彼女は満足げにその紅を微かに細め、どこか楽しげに小さく笑う。
「話すわ。そのために言葉は在る」
 外からは、橙色の陽光が差し込んでいる。
 そう言う彼女の瞳の中には、虹色の炎が立ち上っていた。



20170716

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