周囲は深い霧に覆われている。
 その白に勝るとも劣らない毛並みをした葦毛の馬に騎乗している一人の騎士は、その馬の色よりも遥かに真白な長髪と、赤いマントをなびかせて音も立てずに息をした。
 馬の蹄が下生えをさくりと踏む音ですらも今は忌み嫌い、騎士は馬の足を止めると、湿った草の上に枝葉の揺れよりも静かに降り立つ。
 葦毛の馬は、騎士の命に従うようにしてぴたりとその場で動きを止めている。葦毛に乗るは、〈ソリスオルトス〉の国土全域を警護する世回り&泊烽フ隊長である証。
 そのすぐ後ろからは銀色の甲冑に身を固めた、隊長よりも頭一つ分ほど背丈の小さな少年が歩いてくる。彼は栗毛の馬の手綱を引きながら音を立てないよう慎重に、けれど恐る恐るというよりは毅然と胸を張っていた。
「ゼーローゼ隊長」
 少年のものとするには少し高い声で彼は隊長──レースライン・ゼーローゼに声をかけた。
「カイメン、あまり音は立てるな」
「は。……いるのですね」
「ああ、まず間違いない。此処はあまりに静かすぎる」
 カイメンと呼ばれた少年──スタラーニイ・カイメンは、レースラインの率いる世回り十三番隊の副隊長を務める、未だ十五歳と若いが切れ者の騎士だった。
 研師の子として生まれ、生来刃≠フ力を借るカイメンの剣の腕は、隊に所属する大人の騎士にもほとんど引けをとらない。だがしかし、そんな彼の欠点といえば、それは少々情に駆られやすいところかもしれなかった。
 レースラインの兜のとさかで揺れる三本の尾羽と同じ赤をした尾羽が一本、彼のとさかでも揺れている。
 彼は、微かに腰を落として軍刀の鍔に手を掛けているレースラインの少し後ろで彼女と同じ体勢をとると、音もなく息を吸い込んではその焦げ茶色をした瞳を閉じた。
 ──静かだ。
 静かすぎる。
 けれどもカイメンは静けさの中に何か空気の揺らぎのようなものを微かに感じて、その薄気味悪さに彼は薄目を開いた。
 ──いる。
 あちらにも、こちらにも、無数に。
「十三番小隊、全員いるな」
「は、此処までの行軍で負傷者は出ておりません」
「では得物を取れ。もう相手方には勘付かれている。……どうやら、盛大なお出迎えをしてくれるそうだよ」
 レースラインは静かに言うと、軍刀の柄に当てていた左手の親指を微かに押し上げて、自身のすべての感情を霧に包むように息を殺し、その水色の瞳を細める。
 彼女の横顔は最早殺気はおろか、その他どのような感情をも読み取れなくなっていた。そこここに生い茂る草木も、まるで息を潜めているようだった。
「──来るぞ!」
 鋭く言い放つと同時に、レースラインは軍刀を黒の鞘から引き抜いた。
 深い霧の中で騎士と志願兵たちが抜いた刃と、森の中に潜んでいた無数の眼光がちかりと煌めく。
「一匹足りとも逃すな! こいつらは血に飢えている。町が近い。今逃せば犠牲が出る!」
 赤の布を翻して真っ先に霧の中に飛び込み、巨大な山猫の魔獣の一匹を斬り伏せたレースラインは叫んだ。
 体躯が長身の男ほどもあり、体毛すべてが鋭い針のようになっている山猫の魔獣ハリヤマ≠ヘ霧に閉ざされた森の中に群れを成しては息を殺して潜み、迷い込んだ獣を人間含め血祭りにあげ、そののちに喰らうと云う。
 近くの町からは、子どもが行方をくらました、宿屋に泊まっていた旅人が出たきり戻らないなど、数件の報告が上がっている。
 町人たちはそういった行方不明者に対して、十中八九この森に迷い込んでしまったのだろうと見定めをつけていたが、まさかわざわざ死地に乗り込む怖いもの知らずの勇者などいるはずもなく、今の今までなんの手もつけられずにいたのだった。
 その報告を王都からの伝令で受けたレースライン率いる世回り十三番隊は、上からの命でその問題の魔獣ハリヤマを討伐しに、この霧の森まで赴いたのである。
 成果を上げる前から町の人間にレースライン含む世回り隊はえらく感謝されたものだったが、しかし行方不明者が生きている可能性は皆無に等しい。町の者もそれは分かっていることだろう。けれどもこの霧。これでは骨すら見付けることも難しいかもしれない。
 レースラインは霧の中から不意に繰り出されるハリヤマの鋭利な爪を避け、それから続けざまに三頭斬り捨てた。
「隊長! あまり一人で斬り込みすぎるのは危険です、後方からの援護が届かない!」
 近くからカイメン副隊長の声がする。
「援護? こんな霧の中で弓を使う死に急ぎが、この中にはいるのか!」
「隊長が一人で進みすぎれば、あなたの背を護る者がいなくなるということです!」
「ああ、おまえは戦いの最中に人の背中を気にすると言うのだな!」
 依然霧は深く、視界は白く覆われている。カイメンには声と時折見える光の反射でしか相手のいる位置を測れない。
「人の背を心配する前に、己の置かれている状況を把握しろ!」
 レースラインの白い長髪がふわりと浮かび上がる。
 それと同時にどさり、と音を立ててハリヤマの首がカイメンの背後に落ちた。この巨大な山猫は今にも、カイメンの甲冑に包まれた身体を打ち砕いて切り裂こうと跳び上がっていた最中だったのだ。
 身を低くして、カイメンを裂こうと降ってきた山猫ハリヤマを屠ったレースラインは立ち上がった。辺りに散らばる紅水晶を踏みしだきながら、彼女は振り返らずに声を上げる。
「そんなに私が死ぬのが怖いか、カイメン! 甘ったれるなよ、私は一匹足りとて逃がすなと言ったんだ!」
 彼女の踏み付けた紅水晶が砕け、赤の輝きを発しながら霧の中を舞う。
「いいか、誰が!」
 宙に舞った水晶の欠片が刃に貼り付くことを嫌って、レースラインは軍刀を鋭く払い、顔だけでカイメンの方を振り向いた。
「──誰が倒れようが、一匹足りとも魔獣を逃がすな!」
 剣戟よりも鋭いレースラインの声にカイメンは振り返り、そして自分に襲い掛かろうとしていたハリヤマの亡骸を目に映して微かに顔を歪めた。唇をきつく噛む。これに押し倒されては、細身の自分にはひとたまりもないように彼には思えた。
「隊長……」
「まだそこここに敵が潜んでいる。死にたくなければ、もう無駄口は利くな。私が斬り進む。おまえたちは取りこぼしを拾え。いいな、これは命令だ」
「……は、お任せください」
「この森に棲む魔獣をすべて斬り伏せろ。どんな小さなものも生かすことを許すな。この森には貴重な水源も未だ多く在る。ここらを一掃すれば、町の人々も魔獣の影に怯えることなく暮らすことができるだろう」
「は……」
 背後で隊の誰かの悲鳴が上がっている。
 レースラインはそちらを振り返ることはせず、ただ魔獣を殺す機械人形のようにひたすらに霧の中で軍刀を閃かせていた。何も読み取らせようとしないその表情は、非情と言うよりも最早無感情のようにも見える。
 彼女は何頭かのハリヤマの首をあまりに素早い身のこなしで斬り落とし、そのハリヤマが育てていたのだろう子どもの山猫の魔獣をも他となんら変わらずに斬り伏せた。
 霧の中、紅水晶を散らして進むレースラインの、野に咲く勿忘草の色をしたその瞳は、けれども花の彩りを香らせない。
 彼女の瞳は、恐ろしいほどに静かだった。


*



 ──どれくらい、魔獣を斬っただろう。
 じっとりとした濃霧の中を、獣のにおいと混じって血のにおいまで漂ってきた。
 血のにおいにひどく敏感な魔獣たちは、そのにおいに誘われるようにしてそこかしこから仲間を引き連れ、わらわらと十三番小隊が剣を振るっている処まで空腹よろしくやってきている。
「ああ……随分な歓迎会だね。有り難すぎて涙が出てきそうだよ」
 レースラインはそうひとりごちると、乾いた唇を舌で湿らせて目を細めた。
 幾多もの魔獣を相手にし、その肉を裂いては骨を断った黒鞘の軍刀は未だ衰えを知らない。刃こぼれもせず、ただ霧の中で鋭く光を反射させている。
 それこそ、獲物を狙う獣の眼光のようだったかもしれない。
 飛び掛かってきたハリヤマの一頭を身を低くして躱し、その巨山猫がちょうど頭上を通ったときにレースラインは軍刀で猫の無防備な腹を裂いた。
 地に落ちるハリヤマと降り注ぐ紅水晶を転がって避け、立ち上がりざまそのついでに、仲間を容易く殺されて怯んでいたもう一頭のハリヤマの首を刎ねる。
 軍刀は恐ろしいほどに切れ味が鋭く、獲物を捉えれば相手にとってそれが最期、逃すことはない。
 ちかりと、刃の切っ先が白く輝いた。
 ──レースライン……
 ふと、レースラインの耳の中にしわがれた声が木霊した。
 しかし彼女は、それを気にも留めずに襲ってくる魔獣を次々と斬り伏せていく。或いは、気に留めているからこそ剣を振るっているのかもしれない。
 ──レースライン、殺せ……
 レースラインは一歩踏み込み、黒鞘の軍刀を斬り上げた。
 前と後ろ、こちらへ飛び掛かってくるハリヤマの前方からやってきていた片方の、その前足が地に落ちる。こちらはまだ息がある。振り返りざま手首を返してもう一頭の化け猫の腹を裂いた。こっちの息の根は止まった。
 全身が針の如くに鋭く硬い体毛に覆われているハリヤマだが、刃が通りにくいのはその背ばかりである。腹、首の内側、足など、地面に近い部位は比較的柔らかい。狙うならばそういった部分だった。
 レースラインは後方のハリヤマの腹を裂いた軍刀を持つ手首をそのまま水平に滑らせると、前足を斬り落とされて地に伏せているもう一頭のハリヤマの首を刎ねてとどめを刺した。
「ひとところに集まってくれるのなら話は早い。なんなら、纏めてかかってきたって構わないよ。どうだい……」
 鉄靴で森の下生えと散らばる紅水晶を踏み締めて、血に塗れ湿った空気を振り払うかのように、レースラインは手にした軍刀をひゅっと鋭く振るった。白い光が閃く。風は吹いていない。
 背後で上がる呻き声や怒号や悲鳴、打ち合わされる剣と化け猫の爪の音、恐慌を起こした志願兵を叱咤するカイメンや他の騎士たちの声はもう、耳には入れなかった。
 濃霧の森に生える木々の隙間から、飢えた猛禽類のような瞳がぎょろりと未だ無数に覗いていた。
 レースラインは、霧に潜むハリヤマたちを煽るようにわざと音を立てて、深く一歩を踏み出しては身を低く構える。とさかの尾羽と纏うマントの色が白の中に赤く浮かび上がった。
 霧は彼女の身に着ける銀色の甲冑に貼り付き、透明な水滴をつくっている。けれども当のレースラインはその顔に汗一つかかず、依然静かな、余裕のある涼しげな表情でどの魔獣に狙いを付けるでもなく一点を見るともなく見つめ、ただ全体をその身で感じていた。
 ──レースライン……
 レースラインのその冷えた水色の瞳から、今度こそほんとうに音が消えた。
 ──レースライン、殺せ……
 白と赤が舞い、
 紅の水晶が散っていた。
 ──殺せ……
 血は流れず、いずれ地へと還る亡骸も此処には残らない。
 一度地面へと流れた紅水晶は、まもなくして先ほどまで魔獣の躰だった黄金の砂と共に舞い上がり、淡く輝きながらいずこへと消え去っていく。
 自分が歩いた後には何も残らない。
 何も。
 それでいい。
 何も、残さない。
 レースラインは襲いくる化け猫たちを見据えると、黒鞘の軍刀を白く閃かせた。
 ──レースライン、殺せ……
 そうして辺りにいる魔獣をすべて一掃した彼女の耳に、やっと背後の喧騒が戻ってくる。
 ──殺せ……
 彼女は振り返り、刃を払った。
 ──すべての魔獣を……
「終わったか……」
 ──殺せ。


*



 犠牲は三人。
 三人とも、志願で世回りの兵となった民間人の男だった。
 世回り小隊の中の戦闘員は、平常三十人程度の人数で國を魔獣と戦いながらまわり、〈ソリスオルトス〉の民の安全を保っている。普通、その三十人の中の十人ほどが國から正式に訓練を受けた精鋭の騎士であり、残り二十人ほどが國が募った民間人の志願兵であった。
 世回りに志願した民間人は、王都で身体能力や戦闘能力の試験、そして魔獣に関する知識の筆記試験を受け、それらに通った者のみが世回りの兵として隊へ配属される。
 実質的な志願兵の訓練は、彼らが配属された隊に所属する騎士たちの役目であり、その騎士たちを志願兵ごと取り纏めるのが、騎士隊長の役目だった。
 百近く存在する世回りの小隊の中でも、戦闘面に関して特に厳しいと言われるレースラインの十三番小隊が鍛錬を怠ることはなかったが、それでもこうして戦いのたびに犠牲が出るのは珍しいことではない。むしろあの濃霧の中、これだけの犠牲で済んだことの方が、世回り隊からしてみれば珍しかった。
 衛生兵が首を横に振るのを確認すると、レースラインは三人の亡骸を森に入る前に在る平地に横並びに寝かせ、彼らの前で片膝を突き、左手の拳は地面に、また右手の拳は自身の胸に押し当て、その瞼を閉じた。
「──スバトル一等兵、サルターレ一等兵、ラオフェン一等兵、彼ら三名は勇気と誇りを以って黄昏の獣と戦い、今此処に、夜明けに向かう眠りへと入った。友よ、汝らの名は我らの心に刻まれる。英雄たちよ、汝らの意志は我らの魂に刻まれる。汝らの意志は我らが確かに引き継いだ。たそがれの夜明けまで、今は安らかに眠られよ」
 レースラインは瞳を開けると、静かに立ち上がっては辺りの空気まで張り詰めさせるように姿勢を正し、その胸に再び強く拳を押し当てた。
「夜明けと共に在る、汝らの再びの旅路に、どうか光が在らんことを!」
 そう言い切ると同時に、衛生兵が三名の亡骸を担架に乗せ、世回りの衛生兵たちが張っている天幕の方へとそのむくろを運んでいった。
 三人が火葬となるか、土葬となるかは彼らの身内の心、或いは生前の彼らの言葉による。もう、自分たちが彼らにしてやれることはない。
 彼らの姿が見えなくなるまでレースラインと、彼女と同じ動作をしていた十三番隊の戦闘員たちは胸に拳を当てて騎士の敬礼をしていた。
 衛生兵と死した三名の隊員たちが天幕へと消えるのを見届けると、傾いた太陽と背後にレースラインは隊員たちの方を振り返った。
「本日の任務はこれにて完了だ。明日の早朝、次の町へ向けて出発する。それまで各々よく身体を休めておくように。──以上だ」
 レースラインは凛とした声色でそれだけ告げると、赤のマントと黄昏の中にも浮かび上がる白の髪を翻して、近くに待たせていた自身の葦毛の元へと歩いていった。
「──隊長!」
 背後でカイメンの声がして、彼女は顔だけで振り返った。
「ああ、カイメンか。ちょうどいい。今の見送りの最中、泣いた者がいたな」
「は、サペーレ一等兵かと。彼はスバトルと古くからの友人だったと聞いております。致し方ないことかと思いますが」
「外せ」
「……隊長」
 レースラインは困惑するカイメンを見やりながら、首だけで振り返っていたところを全身で彼の方へと振り返った。
「聞こえなかったか、カイメン。サペーレを十三番小隊から外せと言った」
「ですが──」
「旧友同士を同じ隊に入れたのは上の失態だな。気の緩みに繋がる。他者を気にして戦い、他者の死を恐れる者は自分の背中を疎かにする。今日のおまえと全く同じことだ」
 言葉を詰まらせたカイメンに、レースラインは静かに息を吐いた。
「……サペーレは旧友を失ったばかりで魔獣化の危険性がある。十三番小隊から外れても、おそらく世回りから外されることはないだろう」
「隊長、もしかして……サペーレを斬りたくないの、ですか」
「おや、そう聞こえたかな。それならば、おまえは随分と優しいようだ」
 レースラインはふっと微笑んで、その勿忘草色の瞳を細めた。けれどもカイメンの瞳は翳る。
「……サペーレの反応は、人として真っ当なものでした。隊長、彼は魔獣にはなりません」
「ああ……確かに、人らしかったな」
 想い起こすようにそう呟いたレースラインの声は優しげな色を纏っていた。しかし、白い睫毛が掛かったその瞳は、どこまでも揺れることのない静かなものだった。それは、ぞっとするほどに。
「だが、人であってはならない」
 レースラインはどこか凍り付いたようにも見える瞳で、カイメンのまだ幼心の残る瞳を見た。
「──化け物と戦うのは、化け物でなければ」
 カイメンはレースラインの瞳から目を逸らし、少しばかり俯いた。
 彼女はそんなカイメンの様子を見て、先ほどよりも低い声を発する。彼女の腰では軍刀の鞘が、黒く光っていた。
「殺す覚悟と殺される覚悟、そして誰が殺されようが相手を仕留める覚悟をもつ人間以外、此処には必要ない」
「隊長、それではあまりにも……」
「そうだね、あんまりだ。けれど戦いというものはそういうものだよ、カイメン。戦いとは、命のやりとりに身を投じるしかできない者がすることだ。戦いを怖がる者が戦いに身を投じる必要がどこにある? 此処は、おまえのような優しい者にとってはあまりに危険な場所すぎるんだ」
「よもや……自分も暇乞いをしろと、そう仰っているのですか、隊長。それは私──私の身体が……」
 カイメンが片手をきつく握って、苦しげにレースラインを見上げた。
「──女、だからですか」
 その言葉に、レースラインは肩をすくめる。
「そうは言ってない。おまえは腕が立つ。その点では立派に化け物だ。容易にいなくなられては困るよ」
「自分は戦いを恐れてなどおりません!」
「そうかな。ハリヤマに殺されかけたときの自分の顔を覚えていない?……だがまあ、どちらにせよ、おまえは優しすぎる」
 レースラインは再びカイメンの瞳を見た。
「確かおまえは、私に憧れて騎士になったと言っていたね」
「……は」
「人を見る目はないようだが、騎士を見る目の付け所はよかったようだね。生憎私は贔屓をするたちだ、大いに技を盗んで強くなるといい。……けれどカイメン、おまえは私のようにはなるなよ」
 言って、レースラインは浅くかぶりを振る。
「いいか──魔獣と戦うことによって民を守る世回りの騎士というものは、結局のところ、突き詰めれば、限りなく魔獣に近い狂人に違いない」
 その言葉に、カイメンが少しばかり視線を下へと落とす。微かに息を洩らして、レースラインはどこか自嘲するように笑った。
「そら、どうだ。私はそれにかなり近いだろう? おまえはこうなりたいか?」
 言葉を失っているカイメンに、レースラインは真面目なやつだなと軽く笑って息を吐いた。カイメンがその笑いにつられて顔を上げる。 
「……ま、おまえが男のなりをしてまで選んだのはそういう道だが、けれどべつにわざわざ、憧れているからといっておまえが私のようになる必要もないだろう。この國にはおまえのように真摯な人間が多い方がいい」
 レースラインはその揺らぐことのない瞳で、しっかりとカイメンの瞳を捉えた。
「おまえはおまえの心を貫け、ステラーニャ=v
 スタラーニイ・カイメンの真の名前を呼んだレースラインに、しかしカイメンは眉根を寄せてその視線を地面に落とした。斜陽に照らされた影がカイメンの目の中に色濃く映る。
「……ですが私は、私のままで強くなれるでしょうか。やはり、隊長のようにならなければ強くは……」
「おまえがおまえのまま、優しさの中の甘さを断つことができたならば──そうだね、少なくともこんな私よりは強くなれるだろう」
「まさか……」
 カイメンは、隊長がどうせ冗談を言ったのだろうと隠しきれていない呆れ顔でレースラインを見上げる。しかし顔を上げた少女の瞳に映ったのは、ひどく真剣な顔をしたレースラインばかりだった。
 カイメンはそんな彼女の表情に言葉を詰まらせると、それを見て取ったのかレースラインはからかうようにして小さく声を上げて笑う。
「何、心配することはない。おまえの甘さは私が斬ってやろう。まあ、それは私が生きている間ばかりだけれど」
「隊長、縁起でもないことを……」
「うん、冗談の通じないところは直した方がいい」
 レースラインは今にも怒り出しそうな表情をしたカイメンに困り顔で肩をすくめると、しかしかぶりを振って今度は命令を出すときと同じ、有無を言わせぬほど屹然とした表情をして言った。
「けれどカイメン、やはりサペーレは外せ。もしも彼が黄昏に呑まれてしまったときに、私は魔獣となった部下を斬りたくない──というのは冗談だが、なんにしても彼は十三番小隊には向いていない。この隊には、他より危険な任務が付き纏うからね。
 ……彼の今までの戦いぶりは、明らかにスバトルを頼ったものだった。他の隊に移るのが妥当なところだろう。人員の入れ替えは行うぞ、王都へ伝令を飛ばす」
 今度はカイメンが顔を上げ、レースラインの瞳を見つめた。彼女のその目がレースラインへと向けて何を問うていたのかは、誰の目から見ても瞭然だった。ほんとうに冗談ですか?
 レースラインは微かに溜め息を吐く。
「……戦場で最後に頼れるのは、結局自分自身だけだということを忘れないことだな、カイメン」
「は……」
「よろしい。では戻ろうか」
 そう言うと葦毛の馬に騎乗して、レースラインは町へと進みはじめた。その横へとカイメンの栗毛が歩を進め、二人は夕暮れの街道の上をゆったりとした速度で歩いてゆく。
 ふと、夕陽の光を半身に受けているレースラインがカイメンの方を振り返って微笑んだ。
「カイメン、おまえはなんのために騎士になった?」
「私、ですか? それはもちろん、黄昏と戦うためです」
 カイメンは真面目な顔で、背筋を伸ばしてそう答えた。
「隊長は?」
「うん、私も似たようなものだよ」
 レースラインの腰で軍刀の黒い鞘が斜陽を受けていた。
 彼女は口の中だけで時折耳の中を木霊する言葉を呟くと、少し切なげな光をその、青空を映した水面のような瞳に宿してカイメンに問いかける。
「……魔獣は、何処にでもいるな」
「そう、ですね……」
「きっと、海を越えた先にも魔獣はいるのだろうね」
「……或いは、そうかもしれません。あまり想像したくはありませんが」
 レースラインは軽くかぶりを振ると、海の中へと沈みゆくのだろう太陽の方を見やって微かに目を細める。それから静かに息を吐いて、どこかおどけるような調子で彼女は呟いた。
「この世界は、少しばかり広すぎるな……」
 その声は、彼女だけに聞こえる言葉だった。
 大地はもう、暮れの色に染まっていた。



20170701

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