「……お兄さん」
 少女の声。
「──お兄さん、聞いてるの?」
 その声に、はっと顔を上げる。
 アインベルは瞬きを幾つかして、老竹色の丸い瞳を微かに見開き、そうして少しばかり驚いたような顔をした。
 少年の口から小さく言葉にならない声が洩れる。
 アインベルは口の中に塩の味を感じたが、しかしこれは紛れもなく気のせいというものだった。辺りに塩の姿など一粒足りとて存在せず、もちろん此処は陸の上。
 彼は朝、寝台から起き出しては宿屋を出て、それから大通りの樹の下でいつも通りに失せ物探しの仕事をしていたのだった。
 そう、自分がいるのは街の中。海は遠い。
「ぼうっとしてどうしたの? やるなら早くしちゃってほしいんだけどな」
「あ──ああ……うん、ごめん」
「うん? なーんか、変なの」
 そう言って笑い、それから肩をすくめる少女を見やりながら、アインベルはぼんやりと、ああそうか、自分は喉が渇いていたのだったと思い至った。それから彼は、地面に置いた自分の背負い鞄から水筒を取り出すと、それの中身を一気に半分ほど飲み下す。
 喉が潤うと共に、口の中にこびりついていた塩の味も消えていった。やっと、街の喧騒も耳の中に戻ってきたような気がする。
 ぼんやりする頭を落ち着かせようと、アインベルは少しばかり辺りを見渡した。
 アインベルが本拠点としている工房都市〈スクイラル〉。その街の大通り横に在る、この大きな樹の下は、もっぱら彼の仕事場となっていた。
 その樹の下で、アインベルに背を向けて地面に座り込んでいるのは、大きな黒い獣を二匹連れた、十五のアインベルよりいくらか年下の少女である。
 二匹の獣の、少女の横で寄り添うように伏せをしている片方は大山犬のルミノク。もう片方は少女にいちばん近い樹の枝に鎮座しており、そちらは大鷲のアウロラという名前だった。
 驚くべきことに彼らは二匹とも、普通、人類の敵として人々から恐れられている魔獣である。
 その魔獣を怯むこともなく連れ歩くのは、紛れもなく今、アインベルの目の前に座っている少女だった。名前は、フローレ・アド・アストルム。
 さながら夜明け前の空のように微かに赤みがかった煤色の髪をした少女は、宝貝、或いは雫のような形にも見える、涙滴状の笛を首から引っ提げている。額や腕、そういった肌が覗く部分には何か、不可思議な刺青が入れられていた。
 布を巻いたフローレの頭には二本の角が子鹿の如くに飾られており、彼女のものよりも鮮やかな金色をした角が彼女の連れる二匹の魔獣にも飾られている。
 今はどこか少年のような恰好をしているが、街の外で会ったときは赤い上着を纏った少女のなりをしていたはずである。かわいらしい顔立ちをしているが商魂逞しい少女だ、男装の方が上手くやれるということもあるのだろう。かくいうアインベルも、気が付いたらフローレの話に乗っていたということが度々あった。
 アストルムの民、アストルムアド=B──それが、彼女である。
 アストルムの民について、アインベルにとって彼らの存在は噂で聞くばかりだが、一族が拠点とする街がその街ごと移動し、星を追うように、或いは夜明けから逃げるようにして流星の如く、彼らは魔獣と共に生きる。それがアストルムアドという魔獣遣いの一族らしい。
 目の前の少女は大きな二匹の魔獣を堂々連れて、アストルムと名乗った。
 少女が時折噂で聞くあのアストルムアドであるということを、少年に疑う余地はない。アストルムの民が皆入れているという不可解な刺青も少女の肌に違わず描かれていたし、自分の姉にアストルムアドの友人がいるというのは姉自身から聞いていたから、魔獣を連れた男装の少女に街中で話かけられたときでも、アインベルはそれほどおっかなびっくりすることもなかった。いや、多少はした。
 ──目の前に、魔獣がいる。
 その事実に、アインベルは最初から全く怯まないというわけではなかった。と、いうより、彼はまだ、そこまで世間を広く知っているわけでもない立派な子どもである。アストルムの民だけではなく、魔獣遣いという職業のこともよく知らず、正直はじめはかなり怯んでいた。
 けれどもアインベルはしばらく前に、トレジャーハンターである彼の姉が自らの相棒と謳っている馬の魔獣に乗って、姉と共に世界を駆け、このフローレという魔獣遣いの少女とも幾度目かの邂逅である。少年も、流石にそろそろ慣れてきた頃だった。
 フローレが肩越しにこちらを振り返る。少女の目は、魔獣の紅水晶のように真っ赤な色をしていた。
「それで──なんで急に三つ編みなの?」
「ああ……えっと、前にその首に掛けてるのが、魔獣を調律できる──魔獣遣いの笛だって教えてくれただろ。だから僕も召喚師の秘密……って言うほどのものでもないけど、教えようかなって」
「召喚師の三つ編みに何か意味があるの? そういえばお兄さんも三つ編みをしてるよね」
「召喚師っていうか……まあ、召喚師もそうだけど、魔術師とか錬金術師とか──そういう術師のことなんだけどね」
 アインベルは先ほど水筒を取り出した背負い鞄の中から、今度は豚毛の櫛と細い革紐を取り出した。
 胡坐を掻いていた脚を膝立ちにすると、革紐を片手の指の間に挟みながら、彼はフローレの肩よりは短い髪に櫛を入れはじめる。
「みんながみんなそうってわけじゃないけど、術師には三つ編みにしてる人が多いだろ。人によって内容は違うけど、あれには意味があってね」
「へえ……どんな意味?」
「まじないとか、願掛けとか、そういう感じかな」
 アインベルはフローレの髪をとかしながら、小さく笑った。
「懐かしいなあ……昔はよく、こうやって妹の髪をとかしてたよ」
 そう言った少年の声と柔らかく細められた瞳ばかりが、彼の笑顔の中で、どこかぽっかりと穴が空いたように寂しげだった。
「……妹がいるんだ?」
「え? ああ──うん、いる……」
 言いながら、少年は自分が渦を巻く海の中に見捨ててきた妹のことを想い浮かべた。
 そして、それを振り払うようにアインベルは、自分があの日森を抜けた後から今までずっと暮らしてきた孤児院、そこにいる自分の義理の妹たちのことを想い浮かべる。
「いるよ。──けっこう、たくさん」
 そう言うアインベルは、優しげに微笑んでいた。フローレは彼に大人しく髪を梳かれながら、しかしほんの少しだけこちらを振り返る。
「今はあんまり、髪をとかさない?」
「え?」
「さっきお兄さん、懐かしいって言ったからさ」
「あ、ああ……そうか……うん、そうだね」
 頷きながら、アインベルは自分の手元に視線を落とした。
 それからフローレの髪を一房だけ手に取ると、何か聞き慣れない言葉を幾つかその口から発する。それはどこか、旋律のない歌のようでもあった。フローレが怪訝な表情をしているのが、顔を見なくても分かる。
「……なんて?」
「まじない言葉だよ。主に魔術師の遣う、僕ら術師たちのいちばん古い言葉。ずっとずっと昔の言葉だ。三つ編みに込める願掛け」
「うん、なんかそんな感じはしたけど……でもそれ、どういう意味なの?」
「そうだな……」
 アインベルは淡い色をした睫毛を伏せ、柔らかな昼間の光をその瞳に宿していた。微かに赤みがかった煤色をしたフローレの髪を少年の手が、在りし日を懐かしむような手つきで一つ、ゆっくりと編み込んでいく。
「大地よ、私はあなたと共に在ります」
 また一つ編む。
「水よ、私はあなたと共に在ります」
 また一つ。
「熱よ、私はあなたと共に在ります」
 一つ。
「風よ、私はあなたと共に在ります」
 少年は小さく息を吐くと、三つ編みの連なったフローレの髪の一房を一瞬見やった。しかしすぐに自分の手元に視線を戻すと、自分の言葉を確かめるように再び少女の髪を編みはじめた。
「私はとこしえにすべてと共に在り、その言葉に応えるでしょう。そして、私が言葉を遣ってあなたたちに呼びかけたときにはまた、あなたたちもその言葉に応えてください。大地よ、水よ、熱よ、風よ。そのすべてと共に在る私は、我らすべての巡り巡るとこしえのため、正しき力を遣うと誓います。どうか、とこしえねがう私のため、巡る力を貸し与えたまえ。この言葉が、わが身立つ大地に、わが身潤す水に、わが身動かす熱に、わが身巡る風に、そのすべてへと届くことを信じて……」
 そうしてゆっくりと言葉を紡いだアインベルは、音も立てずに息を吸った。
「あなたに呼びかけるのは、この心を表す言葉。私はその心をほどけぬように固く結び、決して忘れないとこの結び目に誓いましょう」
 鈴が微かに鳴るように、静かに言葉を発して、アインベルはフローレの三つ編みを最後に白い革紐でほどけないように丁寧に結んだ。
 ただ、少年が忘れないと誓ったのは果たして、この世に息づくものたちへと紡ぐ、召喚師としての言葉にだっただろうか。紐を結ぶアインベルの脳裏には果たして、大地や水や熱や風が巡り巡っていただろうか。
「──はい、できたよ」
 彼が毎朝きつく結んだ結び目に対して誓っているのはいつも、在りし日に梳いた妹の髪の手触り、心配性の母の暖かな微笑み、日に焼けた父の大きな手のひらのぬくもり、そしてそれらすべてを見捨てて此処までやってきた自分の生き汚さ、そのすべてを忘れないというたった一つの──贖いにも似た望みではなかっただろうか。
 もちろん、忘れたくとも忘れられるはずがない。
 忘れたことはなかった。
 そう、忘れられるわけがなかったのだ。
 いくらこうして海に背を向けたとて、喉が乾けば口の中にあの日の塩の味が広がり、強い風が吹けば家が軋み傾く音、渦潮が白く立ち上る音、自分自身を殴りつける暴虐な潮風の音、あの日の音のすべてを思い出した。
 そしてぼんやりと、海にやり残してきてしまった今日一日の仕事≠フこともアインベルの頭には浮かぶ。
 明日へ、その先へ、未来へと繋がっていくはずだったあの日。白の民として父の後を継ぎ、塩掘りとして生きていくはずだった自分は、あの日死んだ。
 家族を見捨て、何が悲しくてたった一人で見苦しく生き延び、けれどもやはり死ぬのは怖くて今日まで長らえてきたこの自分は、そう、やはりあの日までの自分とは別人なのかもしれない。いいや──別人、なのだろう。
 果たして、資格があるだろうか。
 自分に、アインベル・ゼィンと名乗る資格が、ほんとうに?
 いにしえの召喚師のものだという鈴の杖を手に掴み、人の失せ物を召喚師として探している自分が、しかしほんとうに探したいものとは一体何であろうか。
 いいや、少年はそんなこと、とっくの昔から分かっていた。
 けれども彼は、あの日の海に置いてきたすべてのものから目を逸らして、肩越しにこちらを振り返っているフローレの方を見て微かに笑う。
 穢れなく見える彼女の赤い瞳を、アインベルは今、その緑色でしっかりと見ることはできなかった。自分の瞳は、もう褪せてしまった。
「……で、つまり、それってどういうこと?」
「うーん……これ、召喚術に関する本のいちばんはじめによく書いてある、誓いの文章なんだけど……決まり文句みたいなものだし、結局、自分の召喚術が今日もちゃんと成功しますように≠ンたいな意味でしかみんな使ってないと思うな。いや、僕がそうだってだけなんだけどさ」
 アインベルは浅く笑ってかぶりを振った。
「……この世界に在るものには力が有って、僕らはそのたくさんの中からたった一つだけ、生まれつき力を借りることができるだろう? それと似たように、術師たちはいにしえの言葉を遣って、この世界に在るものへ呼びかけ、生まれつきの借りものの力≠セけじゃなく、ほんの少しずつだけなら他のものからも力を借りることができるんだ。魔術師も錬金術師も召喚師も、声や文字や音や紋様──そういった術師の言葉≠ナ術を遣っているように見える。だけどほんとうは、その言葉によってこの世界に在るものに呼びかけ、彼らから力を借り、術を遣っているんだ。──言わば術師の術は、もう一つの借りものの力ってわけだね」
 アインベルは言葉を切り、大きな樹の幹に背を押し当てて空を見上げた。今日は雲が多い。
「元々持たないものを手に入れるには、それなりの努力をしないといけない。だから術師たちはたくさん勉強をして、たくさんの言葉を覚える。正しく言葉を覚えれば覚えるだけ、遣える術は増えるからね」
 雲の間から光が零れ落ち、アインベルの前に光の溜まり場をつくっていた。天幕に入り込む昼間の光も、確かこんな風に柔らかな色をしていたはずだった。
「大地も、水も、熱も、風も──この世に在るものはすべて、呼びかけに応えるだけの力を持っている。敬意を払い、その力を巡り巡る世界のために正しく遣うと誓うことは、術師にとってたいせつなことだ。……だけど、誓いねがい信じても、この世に在るものはみんな気まぐれだ。こっちへ力を貸すこともあれば、己の力を傍若無人に振るうこともある。神さまだってそう──だめなときはだめだよ。……ちっぽけな僕らにとっては、力の差がありすぎる」
 アインベルは腰に差した鈴の杖を取り上げると、それをしゃんと鳴らした。
 それからフローレの近くに在る枝に留まっている大鷲のアウロラを見、そしてフローレの隣でうつ伏せに寝そべっている大山犬のルミノク、その二匹の黒い魔獣を見やる。
「自然の力は大きい。自然が腕を振るえば──僕らなんて、ほんの一瞬で吹き飛ばされてしまうよ」
 少年の耳から、再び街中の喧騒が消え去っていた。
 アインベルはその淡い水色の睫毛を伏せると、誰に向けるでもなく少しばかり寂しげに微笑む。けれどもその笑顔はすぐに鳴りを潜め、彼はどこか己の感情から視線を逸らすように、どことなく淡々とした口調で話を続けた。
「……どうやっても、勝てないものってのはある。その腕にへし折られる命っていうのは、いつの時代にも、何処にだって在るはずだ」
 それでもやはり、そういった話し方を続けるのは難しかったのか、アインベルは表情を和らげて続きの言葉を紡ぎ出す。笑っていたのは、顔だけだった。
「どうしようもなく自然の手によって亡くなっていく命が、この世界には多い。……だから僕ら、みんなこうして戦わないでいられたらいいのにね……せめてさ……」
 そう呟きながらアインベルは、先日レースラインという騎士が、街道を歩く途中、瞬きの間に魔獣を一匹斬り伏せたことを思い出していた。
 この世界には、魔獣を敵として戦う者と、魔獣と共に生きる者がいる。
 もちろんそのどちらでもないという人間も多いが、けれどその人間ですら魔獣となる世界だ。全くの無関心というわけにもいかないだろう。
 魔獣を恐れるか、それとも恐れないか。それは圧倒的に前者の方が多い。普通、魔獣遣いや全く恐れずに魔獣と接する者は、異質の存在として見られるものなのだ。
 少年にはそれもまた、争いの火種となるような気がして仕方がなかった。
「あ、フローレ」
 緩く流れる黄昏た空気を振り払うようにアインベルは手持ちの杖を鳴らすと、先ほど三つ編みに結んだフローレの一房の髪に、片方の手のひらで触れる。
「きみの髪に、今日の召喚術が上手くできますようにって、そう願掛けしてもあんまり意味がないよな」
「そう? お兄さんのご利益にあやかれそうだと思ったんだけど」
「えっ、ご利益? なんの?」
「え……そう言われると……あ、お人好しのご利益?」
「……何それ?」
「……さあ?」
 肩をすくめてちょっと笑ったフローレと顔を見合わせて、アインベルもぷっと小さく噴き出した。
 それから軽く笑い声を上げると共に、彼の耳の中に今度こそ街のざわめきが戻ってきた。道を行く人々に慣れきった鳩が数匹、足音に飛び立とうともせずに堂々人並みの中を歩いている。そういった微かな音まで、アインベルの耳には戻ってきていたのだ。
 それは、まるで音が、少年に世界に在るものたちの存在を少しずつ知らせているかのように。
 光の円が描き出される樹の下でフローレがこちらを向いて立ち上がり、服をぱんぱんと手のひらで軽く払った。それから少女はアインベルの方を見ると、にっと笑ってその赤い瞳を少しだけ細める。
「今日のおにーさん、ちょっと変だよ」
「え? そうかな……」
「うん、ぼうっとしちゃってさ。……あ、今日はお姉さんと一緒じゃないから、もしかするとそれで寂しいってわけ?」
「いや……いつも一緒にいるわけじゃないんだけどな……」
「早く姉離れしないとね?」
「……僕が姉離れできないんじゃなくて、ねえさんが弟離れできないんだってば」
 フローレは、はいはいと気のない返事をアインベルへと放り投げ、その返答にアインベルはちょっとだけ溜め息を吐いて困ったように肩をすくめた。
「──それじゃ、お兄さん」
 フローレがそろそろ頃合いだからと樹の下を去ろうとすると同時に、伏せていたルミノクものっそりと立ち上がり、枝の上に鎮座していたアウロラもゆったりとこちらへ降りてきた。
 フローレはその赤瑪瑙のような瞳で二匹の魔獣へと目配せをすると、そうしてそのまま去るのかと思われたが、しかし、アインベルの方へと振り返って一房の三つ編みを揺らし、悪戯を思い付いた子どものようにちょっとだけ笑った。
「お兄さんの失せ物探し──召喚術が今日もちゃんと成功しますように!=v
 それは、先ほどアインベルが口にしていた、前時代に遣われていたとされる、いにしえの言葉だった。
 彼が口にしていた古代語を耳で受け取って発した彼女のそれは、どこかたどたどしい響きがあったかもしれない。けれどもそれは言葉としてアインベルの耳に入り、少年は少しだけ驚いて豆鉄砲を食らったような顔になった。
 それからアインベルは唇に折り曲げた人差し指を当てて、少しばかり唸りながら何事か考えを巡らせる。
 そしてしばらくして、少年は今日は伏せがちだった睫毛を持ち上げた。
「──フローレとフローレの二匹の家族、きみたちが今日も元気で、絶対怪我なんてしませんように!=v
 当たり前のねがいごとを、遠い日に当たり前に遣われていた言葉でアインベルは言う。
 そうして顔を上げた少年の顔には、いつもの柔らかで優しい笑みが戻ってきていた。



20170620
…special thanks
フローレ・アド・アストルム @siou398

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