塩掘りに出て、三日目の朝だった。
 布張りの住み処、その壁に掛けられた綴織。その綴織には、正円の中に細長い楕円形が描かれ、その様子はさながら一つの瞳のようでもあった。
 円に沿うようにして描かれるのは、未だ読めはしない、いにしえの遠い言葉。瞳には白目の中にも黒目の中にも何か、無数に絵柄が施されている。
 特に、黒目の中に描かれたおびただしい数のひし形模様は、瞳の中に燃ゆる無数の瞳のよう。それは、星の瞬きと言い換えてもよかったかもしれない。
 自分が生まれるよりもずっと昔から、この家に代々受け継がれてきたのだというこの綴織を見ていると、少年はいつも、自分が綴織を見ているのだというのにもかかわらず、そこに描かれた瞳にもまた、こちらを見つめられているような気分になるものだった。
 少年は綴織に描かれた瞳から目を逸らし、綴織の前に置かれた低いが横幅のある飾り卓へと視線を移した。
 木製の卓には繋がれた星々の意向が美しく施され、卓の上には色とりどりの織物が何枚も重ねられて鮮やかな彩りをこちらへと主張している。その飾り布の上にはさながら刀掛台のように仰々しい、鈍い金色をした台が載っていた。
 更に台の上には、その飾り台より美しい黄金色をした、短い杖が横たわっている。
 杖の頂は鐘のような形をしており、そして杖軸には、たくさんの鈴が群れをなしては鐘を取り囲むようにして自らの存在を主張していた。少しでも杖に指先が触れれば、きっと涼しげな鈴の音が辺りに鳴り響くのだろう。
 この杖もまた、自分が生まれるよりも遥か以前から、この家に受け継がれてきたものだった。
 父が時折、壊れ物を扱うようにしてこの杖を磨いているが、少年自身は鈴の杖に触れたことは一度足りとてない。もちろん、好奇心から触れようと試みたことはあった。
 けれども、指先が鈴の杖に触れようとした瞬間、背後で父は言ったのだ。
「むやみやたらに触ってはいけないよ。それは、誰かの忘れものなんだ」
「誰の忘れもの?……取りにこないの?」
「うん、もしかしたらこの忘れもののことを、ほんとうの持ち主は忘れてしまったのかもしれないな」
「じゃあ、触ったっていいじゃないか」
「そうかもしれない。けれどね、いつかは想い出すかもしれないだろう」
 父は、浅焼けた顔で微笑んだ。
「自分が、失くしてしまったもののことを」
 まだ若い父の、しかし真っ白な髪の毛が細く一房、その太陽に焦がされた額に垂れている。
 潮風に何十年も煽られ続けて、すっかり色が抜けてしまった父の髪の毛は、家の入口から差し込むまばゆい朝の光に照らされて、透き色に輝いていた。
「或いは、杖の方から呼ぶかもしれない」
「杖の方から?」
「これは、いにしえの召喚師の杖だからね。だからほら、もしかしたら、そういうこともあるかもしれないよ」
 いにしえの召喚師……
 ──少年は、そこまで遠くない日にした父との会話を思い出し、口の中だけでそう呟いた。
 それから背後に人の靴音を聞き取った彼は、目の前の綴織にも鈴の杖にも背を向けて、音のした方向へと振り返る。
 未だ十にも満たないが、毎日まいにち海の風に吹かれ、両親たちと同じように色の抜け落ちてきた、少年の金色混じりの淡い水色をした髪が、天幕に入り込む光に輝いていた。
 差し込む光の向こうから、父が天幕の中へと入ってくる。
「父さん、どうしたの?」
「ああいや……」
 白髪を困ったように掻きながら、父が軽く溜め息を吐いた。それから少年の方を見て、父が言葉を発する。
 どうやら父によると、少年のまだ五つにもならない妹が、父の視線を通り抜けてはまた、気まぐれに何処かへと散歩に行ってしまったらしい。
 父はやれやれと笑った。
「毎度まいど困ったな、誰に似たんだか……」
「父さん、僕が探してこようか」
「いや、母さんも探し回っているところだし、私が行くよ。それにお前は、まだここらの地形をちゃんと把握してはいないだろう?」
 父の言葉に、少年は少し拗ねたような顔をしてかぶりを振った。
「そんなことないよ。此処から東は採掘場で、西は砂浜。ここら辺の風は西へ吹く。だから、歩けるような時化だったら家を畳んで風の吹く方へと進む。それで砂浜の、僕ら白の民≠スちの里に帰る。大時化だったら家から動かずに、海の神さまに祈る」
「北と南は?」
「え? えっと……」
「ほらな」
 父は少年をからかうように笑った。
 何やら腑に落ちないという表情を浮かべている息子に対して、彼はひらりと手のひらを振ると、先ほど自身が入ってきた住み処の入口から、再び外へと出ていこうとする。
 その途中で父は振り返った。
「どうせいつも通りにすぐ見付かるよ。でもまあ、早く見付かるよう神さまに祈っててくれ、アインベル」
「分かった。気を付けてね」
「ああ、だいじょうぶだ。帰ったら、みんなで朝ごはんにしよう」
 入口に掛かった布を手のひらで押しやって、今度こそ外へと出ていこうとした父を、少年は呼び止めた。
「──父さん」
「ああ、なんだ、どうした?」
 父は顔だけで振り返る。
 けれど少年自身にも、今自分が父を呼び止めた理由が分からなかった。
「あ、ううん……あの……」
「うん?」
「……お腹空いたから、早く帰ってきてね」
「ああ、はは、分かったよ。待ってろ」
 今度こそ父は天幕を出ていった。
 少年は布の隙間から室内へと差す朝の光を見つめながら、耳の奥が何か、ざわざわとするのを感じていた。
 それは、耳鳴りに似ていた。耳の中にさざめく音に、だがこんなものはどうせ気のせいだろうと少年は心で突っぱねていたが、しかし、それは気のせいなどではなく、そして勘という直感的なものでもなかった。
 少年の耳は確かに、その気配を拾い上げていたのである。
 朝の空気が入り込む家の中で、少年の呼吸だけが今は部屋の空気を震わせていた。それが余計に、やはりなんとなく落ち着かなくて、決して広くはない家の中を、少年はそわそわと歩き回る。
 何故こんな気分になるのか、自分のことながら全く分からない。
 歩きたい盛りの妹がお転婆に天幕の近くを跳ね回って、父や母の手を焼かせているのは日常茶飯事だ。空は白い雲がまばらに浮かんではいるが、それでも澄みきった青を湛えて穏やかな日和を予想させる。時化の気配は全くなかった。
 自分が父に言った、腹の虫が鳴っているというのは咄嗟に口を突いて出た嘘だったが、それでも少年は、少しでも気を紛らわせようと朝食の内容のことを考えはじめた。それから、今日一日にやる仕事のことを。
 ──朝ごはんを食べたら、太陽がてっぺんに昇る前に今日の分の塩を掘る。そうしたらここ三日で採れた分の塩を樽に詰めて、荷台に載せて、夕暮れと一緒に砂浜の里に帰るんだ。ここから里まではそう遠くないし、眠らないで歩けば夜明け前には帰りつくことができるだろう。
 海の中は昼間すっごく暑いのに、夜になった途端びっくりするほど冷えるからな。早く砂浜に帰ってゆっくりしたいな……。ああでも、此処を出る前に家を畳まなきゃだし、砂浜に帰ってもまた家を張らなきゃいけないのか。ゆっくりするには、もうちょっとかかりそうだな……
 そんな風に今日に思いを馳せる少年の背後でふと、がたりと天幕の中の家具たちが揺れて、彼は音のした方を振り返る。
「──なんだ……?」
 だが、振り返った先に在る家具たちは、いつも通りに佇んで見えた。
 しかし、一度大きく揺れた家具たちをよくよく見てみると、何やら小刻みにかたかたと震えているようだった。その中で時折、飾り台の上の杖が微かに鈴の音を鳴らしている。
 少年は、布張りの壁を見つめ、小さく息を呑んだ。
 布壁はまるで、呼吸をするかのように揺れ動いている。
 風が、吹いていた。
 風が、この家を揺さぶっているのだ。
 少年は身を翻し、乱暴に入口の布を押しやると、慌てて外へと出ていった。
「──父さん!」
 続けて母と、そして妹の名を大声で呼ぶ。
 風が吹いている。
 先ほどまで小さく家を揺らす程度だった風は、少年が外に出た瞬間当てつけるように強く、そして大きくなり、大蛇のようなうねりを伴っては少年の小さな身体を殴りつけた。
「おかしい……」
 吹き付ける風に巻き起こる塩が入らないよう、少年は目をきつく瞑りながら呟いた。
 ──そう、おかしいのだ。
 生まれてからずっと白の民として、海にその身で漕ぎ出しては何十年も塩を掘り続けてきた父と母が、時化の気配を感じ取れないわけがない。
 現にこれまで、それがどんなに快晴であったときでも、両親が時化ると言えば必ずこの塩の大地には風が吹き乱れ、海は荒れたのだ。
 白の民は、己の分をわきまえている。海を越えようとする旅人たちとは違って、そう遠くまで足を延ばしたりはしない。
 定められた道を行き、里からの補給がしっかりと届く範囲に採掘場を据え、天幕を張る。一度の採掘で塩を掘る量は決められており、その一定量塩を掘ることができた、或いは時化などで採掘を進めるのが難しくなった場合は無理をせず、家を畳んで里へと戻り、次の機会を待つ。時化はそう長くは続かない。
 白の民は長年海と共に生きてきたからか、時化の気配を察知するのに長けていた。少年の両親ももちろんその中に含まれている。時化の気配を感じ取ればすぐさま家を畳み、村へと引き返す。
 そのため少年は今まで、里へと戻るその自分の背後で海が荒れはじめるのを感じることはあっても、目の前で本物の時化というものに遭ったことがなかった。
 里の砂浜から見ていた時化の海は、さながら霧が立ちこめるように白く霞んでいた。
 そして、それが今、目の前に在る。
「時化っていうのは、こんなに酷いものなのか……?」
 ごうごうと音を立てて吹き荒れる風の中、家族を探そうと少年は薄目を開けて周囲を見回した。視界が巻き上げられた塩によって白く濁り、何もかもがぼやけた輪郭を伴って見える。
 住み処である天幕の前に立つ少年の横で、布が激しくはためく音だけでなく、木がぎいぎいと軋む嫌な音も聞こえはじめてきた。少年は強く前から吹いてくる風に歯を食いしばりながら、何とか天幕の方へと顔を向けた。
 天幕の家は、半ば傾いている。このままの強さで風が吹き付け続ければ、この家は何処かへと吹き飛ばされてしまうだろう。
 少年はばさばさと音を立てて揺れ動いている、天幕の入口に垂れた布を引っ掴んだ。風に流されそうになる足をどうにか進みたい方向へと動かして、転がるようにして家に入る。
 ──此処は、もうだめだ。
 少年はそう直感して、何を持ち出すべきか、一瞬だけ思案して住み処の中を見回した。
 家具が揺れて激しくがたがたと音を立てている。まるでこの暴風に怯えているようだった。どうすれば、と考える内に小さな少年の足はすくみだす。
 少年はそれを振り払うようにかぶりを振ると、子どもの自分に持ち出せるものなどそう多くないと結論付けて、天幕を出て家族を探そうと踵を返そうとした。おそらく家族も、自分のことを探しているだろう。
 しかし、天幕を出る瞬間、少年は振り返った。
 それは、先ほど妹を探しに海へと出ていった父が、自分の呼びかけに応えて振り返ったのと同じように。
「……召喚師の……」
 風に揺れる家の中で、飾り台の上の杖が、鈴の音を響かせていた。
 少年は出ていこうとした身体を再び翻すと、走って飾り台の上の鈴付き杖を、自分の手に取り上げる。
 それから壁を見上げ、そこに掛かっている綴織を少しの間彼は見つめたが、しかしこれを取っている時間はおそらく残されていない。少年は両手でその短い杖を握り締めながら、こちらを見つめる綴織の中の瞳を、どこか縋るように見やる。
「……古いものには、神さまが宿るんだろ。僕らゼィンの一族はずっと、白の民としておまえと、この杖をたいせつに守ってきたんだ。だから……! だからお願いだ、神さま……!」
 少年は苦しげに吸い込んだ息を吐き出した。
「神さま、僕の家族を守って……」
 少年は丸いまなこをきつく瞑って、懇願するようにそう呟くと、それからすぐに顔を上げて天幕の外へと出ていった。少年が動くたびに鈴の杖は涼しげな音を立てる。壁に掛かった綴織の瞳は、入り込む風に揺らされながら、それでもただ静かに虚空を見つめていた。
 天幕を出た少年は、塩が刺すことも厭わずにその目を開け、風の吹いてくる方向を見据えた。
 風は唸りを上げて、こちらへと吹き付けてくる。
 しかし、遥か遠くでは白んだ風が巨大な螺旋を描き、地上に起こっては草木も家も根こそぎ薙ぎ払うという竜巻が如く、渦を巻き、まるですべてを呑み込むかのように立ち上っていた。
「まさか……」
 少年は瞳をなぶる痛みから出た涙を目尻に溜めながら、しかし更にその目を見開いた。
「──渦潮≠ゥ……!」
 そう呟いた瞬間、吹き付ける風が一段と強くなった。少年はその強風に煽られ、ついに白の地面へと仰向けに倒される。
 しかし、まだこの風は、西へと向かう追い風である。この風が、渦を描いて天を衝く、あの竜巻へと吸い寄せるような風になればいよいよおしまいだ。それは、巨大化した渦潮が自分の近くまで迫ったという何よりの証となる。そうなればもう、風の下に平伏し、渦潮に呑まれるがまま、塩の大地の下に埋まって息絶えるばかりしか道はない。
 けれど何故、今、渦潮が起こったのか。
 少年たちの一家はほんの少しだけ、いつもとは違う場所で採掘をしていた。それがいけなかったのか。
 身に余ることだったのか。それが、海の神を怒らせてしまったとでもいうのか。
 ……ここ何十年も、この辺りの海では渦潮の噂を聞かなかった。
 たかが塩掘りでしかなく、塩を掘って運ぶという他に力のない白の民に、渦潮と戦う術は一切ない。
 けれども、白の民の間に伝えられている教えならば、この小さな少年も知っており、そして覚えていた。何故ならば、それはじつに、ほんとうに簡単なことだったためである。少年は、口の中でその教えを呟いた。
「振り返るな……」
 少年は仰向けに倒されていた身体を反転させ、這うような恰好で何とか立ち上がった。口の中にも鼻の中にも、身体中に塩が入り込んで息をするのも難しい。
 けれども少年は鈴の杖を握り締め、風に背を押されながら一歩、渦潮に背を向けて歩き出した。
 西へ。
 どちらへ向かうのが正しいのかも分からず、それでも少年はひたすら風が吹いている方へと歩を進めた。
 とにかく、西へ。
 視界は白く霞み、入り込む塩がずきずき痛む。
 強くこちらの背を殴る風に、進みながら時折、少年は膝を突いた。
 それでもまた、立ち上がる。
 そうしてひたすら歩きながら、少年はぼんやりと今日一日のことを考えていた。
 朝食を食べたら、太陽がてっぺんに昇る前に今日の分の塩を掘る。
 そうしたらここ三日で採れた分の塩を樽に詰めて、荷台に載せ、夕暮れと共に砂浜の里へと帰る。
 里までは、眠らないで歩いたならば夜明け前には帰れるだろう。
 海を出る前に家を畳んで、砂浜に帰ったらまた家を張る。
 帰る。
 帰る、はずだった。
 何処に?
 このまま歩いても、里には帰りつくことができるだろう。
 風が強い。
 家族のいない里に辿り着いて、そうしたら……
 そうしたら、自分は何処に帰ればいい?
 少年は歩みを止めた。
 振り返りそうになる。
 風が彼の背を押した。
 振り返らない。
 もう、どれくらい歩いたのだろう?
 朝が過ぎ、
 昼が過ぎ、
 暮れが過ぎ、
 夜が過ぎ、
 ──また、朝になっていた。
 気が付けば、少年の足は赤みがかった砂浜を踏んでいた。
 けれども少年はそれには気が付かず、未だ強く吹き付ける風に押されて更に遠くへと歩を進めていく。
 陸と海を隔てる境界線、そう言っても過言ではない深い緑の前に立ってようやく、少年は自分がとっくの昔に海を抜けていたことに気が付いた。
 砂浜には白の民の姿はなく、在るのは、風に舞い上がる赤い砂粒ばかりだった。少年が上がった陸は、少年の一家が海へと降り立ったときの砂浜とは少しばかり離れた、別の場所だった。そこに白の民の里は存在しなかった。
 ただ、元いた里も最早、少年の帰る場所ではなくなってしまったのだ。何処の砂浜に上がったとて、少年にとっては同じことだったかもしれない。
 この森を抜ければ、その近くに何か一つ二つ、村里や町が在るはずだった。
 しかし少年は、生まれてから一度もこの森を抜けたことはない。森は深く、海へと辿り着く前のもう一つ海、樹海≠ニも呼ばれる。
 塩の交易に出ている白の民の道標が在るならばまだしも、此処はかつて少年が暮らしていた里の領域ではない。白の民が暮らしていたという形跡も見当たらない、まっさらな砂浜。森の中に、誰かが遺した標が在るとも思えなかった。
 しかし、少年はほとんど迷わず、そして海を振り返ることもせずに樹海へと足を踏み入れた。
 手持ちに食糧や水はない。だが水を一滴も飲まず、けれども身体の中の水を吸い取る潮風に吹かれながら此処まで歩いてきたのだ。
 もう、進むしかない。
 それしかもう、道がない。
 此処で止まっても、海へと戻っても、いずれにしても死ぬだけだ。それならば、この森へと足を踏み入れる。抜けられなければ、それまでだ。
 もしも、家族がもしも、あの渦潮に呑まれてしまったとするならば──自分が森を抜けられなかったとしても、そこで死んだ後、家族に会えるだろう。そう思えば、死ぬのは怖くない。或いは、家族が生きているなら、それでいい。生きているなら、生きてさえいてくれるのならば……
 少年は足を森へと踏み入れ、その湿った空気を肺いっぱいに詰め込んだ。それでも水の音はしない。水源はずっと遠いのか。
 少年は水のことは忘れ、ただ森を抜けることに専念した。
 それは、水気を帯びた森の空気と、枝葉の間から差す太陽の光を浴びて、自分の命を繋ぐことができるかもしれないと感じたからだった。
 少年は早くも、死への恐怖を想い出していた。そして、自分がまだ体験したことのない、いいやもう体験したのかもしれない、誰かが死ぬことへの恐怖を。
 それでも、泣かなかった。
 泣けば、更に喉が渇くと分かっていたから。
 泣けば、もう歩けなくなると分かっていたから。
 振り返らずに歩く。
 振り返らずに走る。
 歩いた。
 走った。
 進み続けた。
 風の音と共に、海が遠ざかっていく。
 今更、空腹を思い出していた。
 鈴の音が鳴っている。
 ──少年はその日、神に祈るのをやめた。



20170617

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