静かな風が吹いている。
 自身が本拠点としている、工房だらけの大都市から気球で離れ、アインベルは或る小さな街にやってきていた。
 彼はそこで失せ物探しの仕事をしつつ、その辺りの古書店や菓子店を回っては、ちょっとした小旅行を楽しんでいた。新たな街に降り立つ少年の足取りは軽い。
 小さなと言っても街中のそこここには人が行き交い、少し拓けた空き地や広場などでは、小さな集まりが楽しそうに談笑している姿もあちこちで見かけられた。
 アインベルは、季節の変わり目で今は特に何も植えられてはいない、彼の膝小僧ほどくらいまでの高さがある花壇の縁に腰を下ろすと、ほとんど散策をし終わった街の上を、ゆっくりと流れていく雲を眺めた。
(次の村までは気球か徒歩だけど、けっこう距離があるし徒歩はちょっと不安だよな……。かと言って、路銀のことを考えるとあんまり気球に頼りすぎるのもなあ……)
 ぼんやりとこの先を思案するアインベルの上を、白い雲は青空を泳ぐようにして渡ってゆく。風に吹かれる街路樹は柔らかく揺れ、さわさわと微かに音を立てていた。
(……そうなってくると、しばらくこの街で仕事をしてもいいのかもな)
 息を吐いて視線を下ろしたアインベルの耳に、何か金属性のものが揺れ動く音が、かしゃりと聞こえてきた。
 アインベルは音の聞こえてきた方へと緩やかに顔を向けると、彼が今いる広場から少し外れた処で、何やら落ち着きなくあちらこちらへと視線を彷徨わせている人物が目に入る。
 太陽の光がその人の身に纏っているものに反射して、ちかりと瞬く。少し距離があるため定かではないが、あれは──甲冑だろうか?
 アインベルは立ち上がり、その人の元へと歩を進めていった。腰に差した鈴の杖は彼が進むたび、その歩を刻むように鳴っている。
「──騎士さま。何か失くしたのかい?」
 アインベルが声をかけると、その人は特に驚いた様子もなく、落ち着き払って振り返った。
 騎士、と勝手に推しはかって声をかけたが、これは果たして正解だろうか。
 振り返ったその人が身に着ける軽装の甲冑は銀色。肩当てや草摺には燃えるような赤や陽の光のような橙で、翼や太陽など、何やら意味ありげな紋様が描かれている。その人がこちらを向いたのと同時に、甲冑の上に纏った赤のマントが翻っていた。
 甲冑と同じ色をした兜の額近くにも、やはり甲冑と同じような意匠が成されており、とさかの部分などには赤い尾羽が三本、風に吹かれて揺れていた。遠くで見たよりも、銀の甲冑は薄汚れて、修繕跡の多い傷だらけのものだった。
 その腰には二本の鞘が、今は口を閉ざして、のちに来たるかもしれない戦いに備えている。
 一つは、深い青から燃える赤へ段々と色が移り変わっている、夜明け、朝陽の中を飛ぶ鳥を連想させる意匠が凝らされた長剣の鞘。もう一つは、長剣のそれと比べるとあまりにも無骨な、何の彫り物も飾りも施されていない、軍刀の真っ黒な鞘。
 片方はともかくとして、軍刀の方は國勤めの騎士が持ち歩くには少々威圧を放ちすぎな気がしないでもない。それを目にしたアインベルの腰は一瞬引けたが、視線を上げてその人と目が合った途端、彼のその思考は遥か彼方へと吹き飛んでいった。
 ──こちらの目を見た彼女の瞳は、驚くほどに涼やかだったのだ。
「ああ、どうやらそうみたいだ。きみは?」
 朗とした声が響く。紛れもなく騎士の出で立ちをした女性は、その涼しげな睫毛を伏せるようにして微笑んだ。
「あ……えっと、失せ物探し。失せ物探しの、召喚師です。失くしもののことで何か困ってるなら、あの、力になれると思います」
「そうか、それはありがたいな。困ったことに、私は何処かで財布を落としてしまったらしい。……きみのそれは、もしかすると前払いかな」
「いえ、後からで構いません。財布を失くす人は多いから」
「……中身も大して入っていないのだけれど」
「それもよくあることだよ」
「じゃあ少し、お願いしてみようかな」
 そう笑った彼女の瞳は、陽光を反射させて輝く勿忘草色。
 そしてその兜から覗く、流れるような長髪は、まるですべての色を失ったような白色だった。太陽の柔らかな光さえも吸い込んで、他のどのような色も通しはしないというような白。
「……いや、やっぱり」
 騎士の格好をした彼女はぼそりと呟いた。それからアインベルの老竹色の瞳を見る。
「すまないのだけれど、きみに代金を払ったらいよいよ手持ちがまずい気がしてきた。いろいろ入り用な割には羽振りが悪くてね……実入りが少ないんだ」
「はは、稼ぎが悪いのはこっちも一緒ですよ。おそろいだ。そうだな、べつに──最初だし、お代金はおまけしてもいいけどな」
「いや、そういうわけにも……」
 言いかけて、彼女は何かを思い付いたような顔をしてこちらを見た。白い髪の毛に反して、その水色の瞳は光を受け取っては煌々としている。
「……きみ、隣村へ行く予定はないかな」
「え?」
「見ての通り、私は騎士だ。今日は非番だが、普段は〈ソリスオルトス〉全土警護部隊世回り¢謠\三小隊の筆頭を務めている。まあいわゆる隊長さまというやつだが──分かり易く言えば、ほら、志願の巡回兵たちがぞろぞろ村里や街道を通るとき、いちばん前にこういうマントを着て、兜のとさかにこういう尾羽をくっ付けている人間がいるだろう? 色は様々だが……」
 ひゅうっと、冷たい風が吹き抜けた。
「ともかく、ああいう騎士の中の、どれか一人が私というわけだ」
 彼女の羽織る赤のマントが小さな街の、それは何の変哲もない道の真ん中で、羽ばたくように広がりはためく。それと同じように、彼女の長く美しい白の髪も赤色と共に宙に舞い、それらはいよいよ王國の風にはためく國旗の一流のようだった。
 彼女は、突然の申し出に戸惑うアインベルの顔を見やると、少し困ったように笑う。
「おっと、困らせてしまったかな。それとも、女の騎士は信用ができない?」
「いや、そんな……」
「せめて女であることを隠す努力くらいすれば、とよく言われるものだけれどね。いや、その方がいろいろと都合がいいのは確かなのだが」
 彼女は兜を脱ぐと、緩やかにかぶりを振った。長い白が揺れ動く。それからふと、伏せるようにして笑んでいた目を上げ、射抜くような光をその勿忘草色の中に宿す。それから弧を描いた瞳の微笑みは、最早鋭くも見えるものだった。
 刃を振るう者の瞳が、こちらを見ていた。
「──私は、傾いだ考えが嫌いでね」
 そう唇に笑みを乗せ、彼女は白の髪を払う。昼間の陽光を背で受け取るその立ち姿は凛として、揺るがない。
「何を隠す必要があるだろう? 私、レースライン・ゼーローゼはれっきとした騎士の一人だ」


*



 街道を吹き抜ける風は、街に吹くそれよりも拓けている。
 野に咲く薔薇と水面に浮かぶ薔薇、二つの薔薇の名前をその身に冠したレースライン・ゼーローゼの歩みには、無駄や迷いが全く見られない。
 正面から吹く風は彼女の白と赤を旗のようにはためかせ、降り注ぐ太陽の光は白い睫毛や澄み切った空のような水色の瞳を輝かせている。レースラインが一歩進むたびに、彼女の纏う甲冑が微かな音を立てていた。
「普通だったらレイスだのローズだのと呼ぶのだろうけれどね、それは私には似つかわしくないだろう。レンと呼んでもらって構わない。なんならゼロでもいいよ、私のことが嫌いな者は皆敬意を込めてそう呼ぶ」
 レースラインはどこか面白げにからかうような口調でそう笑った。
 アインベルは二十を少し超えたくらいだろう彼女の、しかし堂々と揺るがない、騎士然とした立ち振る舞いにすっかり恐縮してしまって、レースラインの一歩後ろを身を縮こめるようにしてついて歩いている。
 彼の鈴も心なしか、その鳴りを微かなものにしているように聞こえた。
「えっと……レンさま?」
「私はただのしがない役人だ。敬称は必要ないよ、アインベルくん」
「……レンさん」
「まあ、ひとまず合格としておこうか。それで、何かな?」
「あの……巡回兵──世回り≠ヘ、海には行ったりしませんか」
「海?」
 レースラインは一瞬足を止め、軽くアインベルを振り返った。
 アインベルが彼女の隣までやってくると、彼女は勿忘草色の瞳で少年のことを見る。背の高い彼女からすると、未だ成長期で背の伸び切っていないアインベルは頭一つ分ほど小さく、図らずも見下ろすかたちになってしまった。
「どうしてかな?」
 澄みわたり涼しげで、しかし射抜くような輝きを宿した瞳に上から見下ろされて、アインベルはますます身を縮ませた。相手はお國に仕える騎士さまである。ただの少年にとっては少々どころか、かなり恐れ多い相手だった。
 しかし彼は少しつっかえながら、それでも言葉を口にする。
「レンさんの髪、が……」
「ああ、白いから? そうか、海に暮らす白の民≠ヘ大抵の者の髪が白いのだったね」
 言いながら、レースラインは少しばかり困ったように笑った。
「そういえば、よく海について訊かれるな。どうもこの髪と目は海を連想させるらしい。その白い髪は海の真白を吸い込んだ色なのではないか、その瞳はかつての海の水の色なのではないか、とね。全くそんなことはないのだけれど」
「……白の民の白色は──」
 アインベルはぼそりと呟いた。少年の瞳が微かに翳る。
(あれは、海から吸い込んだ白じゃない。白の民の髪の色は、海に吸われた白色なんだ……)
 レースラインの瞳の色よりもずっとずっと淡いアインベルの水色をした髪が、時折交じる金色と共に光を受け、柔らかな色を放っている。前を向いて歩いていた彼女がちらりとアインベルの方を見やり、小首を傾げた。
「ん……? 今、何か言ったかな」
「……いや。それで、レンさんは〈白き海〉をまわったりは……」
 ──〈白き海〉。
 かつては無数の生き物が暮らしていた、広大なる水の楽園だったと云う海は、遠い時代にすっかり乾上がった。かつての水の都は今、水と言えば小さな泉のような、塩辛い水溜まりが時折顔を出している程度の、熱い塩の里と化している。
 そこは現代では〈白き海〉と呼ばれ、また塩の大地や涸れ砂漠とも呼ばれることがあり、未開の地に憧れはすれど何人とも好んで足を踏み入れようとは思わない、あまりにも広大な白の地である。
 その全貌は未だ誰も知ることはないが、ともするとこの恐ろしいほどに広い〈ソリスオルトス〉全土よりも広いのではないか、と囁かれている。
 いにしえの時代にはその姿に生命の誕生を連想させたという海は、今では生命の終わり、すなわち死を連想させる場所と化してしまった。
 白の民≠ニいうのは、〈白き海〉に入る手前に存在する砂浜に居を置き、海の塩を掘っては生をおくる人間たちの総称である。
 白の民が暮らす砂浜は、海の塩の白色や手触りとはまた少し違う、それより多少赤みを帯びてさらさらときめ細やかな手触りをした砂の里で、大抵はその辺りを森に囲まれている。
 生活する上で水源や食糧に困らないよう、白の民たちはそういった立地を選び、いざというときにはすぐさま拠点を移すことができるように、木組みに布を張った折り畳み式の慎ましやかな居を置くのだ。
 世界中の砂浜に散らばり、場所にとって存在する人数もまばらな白の民だが、それぞれ海から砂浜への補給路、砂浜から森を抜けた先に大抵は一つ二つ在る町村への交易路は弛みなく敷かれており、彼らは海から塩を掘り、それを交易に出すことによって生活を営んでいる。
 塩を掘るというのは並大抵の仕事ではなく、折り畳み式の家を〈白き海〉に持ち込んで何日間も海で塩を掘り続けることなども、彼らにとっては日常茶飯事であった。
 そして何故だか、世界中に点在する白の民の髪色は皆が皆、白──または、白に近い、失いかけの淡い色をしていた。
 それ以外の色を受け入れはしないというような白い髪を風になびかせ、レースラインはふむと下唇に折り曲げた人差し指を当てた。
「世回りは〈白き海〉を踏んだことはないはずだよ。私たちは主に、海手前の砂浜までの陸地≠見回るようになっていてね。まあ、海も陸地には変わりないのだけれど、海と陸は別のものという考え方が私たちには未だ在るようだから」
「レンさんはどの辺りをまわっているんですか?」
「私か。大抵は王都から見て、時計回りに世界樹の周りを遠くぐるりと回るように一周して、間の都市や町村で休息を取りながら王都へと凱旋するといった感じかな。状況は定期で〈語る塔〉を通して王都へ伝令を飛ばしているし、そもそも王都から出て、見回りながら一周してまた王都に戻るとなるとえらく時間がかかるしで、帰るのは三か月か半年、酷いと一年に一度というくらいだけれど。だから、海へ足を踏み入れたことはないよ。海が見える場所へ行くことの方が少ないな」
 かしゃりかしゃりと小さく音を立てながら、レースラインは歩を進める。彼女は銀色の手甲をしているその手のひらをひらひらと振ると、どこか遠く──おそらく海のことを想いながら──を見やり、しかしすぐに顔をアインベルの方へと向けては水色の瞳を細め、微かに笑った。
「そうだな……私たち世回りは馬に乗って移動するのだけれど、その馬がね、まず海を歩くのが苦手なんだ。白の民が踏み締めている処は間違いないだろうけれど、そうでない処は地盤が固かったり緩かったり、古代の亡骸や障害物も多いし、飲める水場は皆無に等しいしね。海の見回りは砂航船を操る砂渡り≠ノ任せているよ」
「じゃ、騎士は海には出ないんですね」
「いや、そうでもないな。世回りの連中はほとんど出ないと言っても差し支えないだろうが、砂渡りの船の中にも航海士の他に何名かの騎士や志願兵らが乗り込んでいるはずだし──……ああ、しばらく前にとある騎士の小隊が〈白き海〉の調査に出たという話も聞いたかな。何でもとんでもない少人数だったとかでね、四人か五人か、その程度の人数だったらしい」
「え──そ……それは、無事だったの?」
 少しばかり上擦った声で訊くアインベルに、レースラインは好ましげに目を細めると、ふっと息を洩らして笑った。
「どうやらそうらしい。全員無事とは、見事な手腕をもつ隊長殿のようだね」
 そう言ってレースラインは一息置くと、しかし一瞬だけ微笑みをその顔から消した。
「國も随分、切羽詰まってきたな」
「え?」
「アインベルくん、きみは緑の新天地を信じるかな? 果てなき海を越えた先に在ると云う……」
「し──信じません。海を越えられるわけがない。越えたって、あんな処の先にはなんにもありゃしないよ」
「うん、きみの言う通りかもしれないな。けれどどうやら、國は越えようとしているらしいんだ、果てをね。困ったことにこれは、現実的とは到底言いがたい。好く言えば夢がある。けれど、しかし──夢を見すぎているとも言いがたいんだ」
 レースラインはアインベルから視線を逸らすと、その水色の瞳を街道の先へと向ける。未だ、目的地の村まで距離がありそうだった。
「流れのトレジャーハンターや冒険家、そういった旅人たちが未踏の地に憧れて海を渡ろうとするのなら、それは夢の見すぎだ、と一喝することもできるだろう。……けれどね、國が海を越えようと動くということは、海を越えられる見込みがあるか、或いは──此処を棄てて海に繰り出し、危険を冒してまでその先に在るかもしれない新天地の可能性に賭けなければならないほど、この地が危ういということだ」
 アインベルの喉が微かにごくりと鳴った。彼はちらりと前方を見やるレースラインの横顔へと視線を向けると、しかし自分もすぐに顔を前に向け、彼女の弛みない足取りに置いていかれないよう己の歩みを進める。
「つまり……夢を見れなくなるってこと?」
「そうだね。その余裕が人々からなくなってきている。同じように、夢しか見れなくなってしまう者もいるだろうね」
「それじゃ……僕らはどうすればいいんだろう」
「分からないな。少なくとも私には、己の務めを果たすことしかできはしない」
 レースラインがそう言い切ると同時に、街道に小さな兎が飛び出してきた。
 飛び出した先は、レースラインとアインベルのほぼ目の前である。それは額に渦を巻く細長い角が一本生えた、子どもの兎だった。
 兎の赤く濡れた瞳と、レースラインの水宝玉のような瞳がかち合う。
「……私には今更、夢を見ることもできそうにないしね」
 ──首が、飛んでいた。
 アインベルがその兎を魔獣と認識する前に、その小さな魔獣の首はレースラインの軍刀に刎ねられていた。
 一角兎の頭は、魔獣の血液とされる紅色をした水晶の欠片を撒き散らしながら、アインベルが瞬きをする間に街道の石畳の上に落ち転がる。
 いつの間にその反り返った黒い鞘から顔を出したのか、レースラインの手に持つ銀色の軍刀は、陽光を反射するばかりで紅水晶の一つさえ貼り付いてはいなかった。彼女の太刀筋が速すぎたのだ。
「驚かせてすまないね。あれは成長すると厄介な魔獣に変貌する。若い芽は摘むに限るんだ」
 顔色一つ変えずに、彼女はそう言い放つ。
 アインベルは半ば呆然として地面に落ち、紅水晶を零れさせながら段々と黄金の砂に変わっていく兎の魔獣の見開かれた瞳と、痛いほど静かな瞳でそれを見下ろしているレースラインの顔をゆっくりと交互に見やった。
「……でも、この兎は、何もして──」
「そうだね」
「それでも、殺すんですか……?」
「ああ。いつもそうだよ」
「……なんで、戦わなきゃいけないんだろう……」
 もうほとんど躰すべてを砂に変え、吹く風に舞いはじめた兎の姿をアインベルは見つめる。すでに兎の躰を跨いで先へと歩みを進めていたレースラインが、後方でそう呟いたアインベルに対して振り返った。
 それから彼女は、先ほどの、音もない瞳で死に絶えた魔獣を見つめるそれとは打って変わって優しい瞳で、白い睫毛を伏せるようにして微笑んだ。
「きみは優しいね、アインベルくん。そうだな、きみのような人間がこの世界には多い方がいい」
「僕は優しくなんか……ただ、怖いだけですよ。争い合うのを見るのが、怖いだけだ」
「ああ、甘いな」
 彼女は頷く。レースラインはアインベルの隣まで戻ってきていた。
「そういう優しさから出た甘さを斬るのが、私たちの仕事だ。きみはきみの心を信じるといい」
 彼女は刃を収めた黒い鞘を軽く叩いて笑う。
「心で命を救うことは叶わないが、心で心を救うことはできるだろう。剣は命を救うことができるかもしれないが、けれど心を救うことはできないからね」
 アインベルは黙って風に流れていく魔獣の砂を見届けると、顔を上げてレースラインの顔を見た。彼女の瞳はアインベルの、彼といちばん年の近い姉の瞳と同じように、太陽の光を受け取って煌めいている。
 けれども、それは姉のものとは全く違う瞳なのだった。
 姉の瞳に宿るものが熱を宿して虹の色を放つ光なのだとしたら、レースラインの瞳に宿るそれは、熱を跳ね返して輝く鋭い白の光だった。それは時に剣戟の光のようであり、そして時に氷の反射のようである。
「魔獣は血を流さない。この大地に死体すら残すことはない。だから私は何匹彼らのことを斬り、何匹その生命を奪ったとしても、この銀色さえ脱げばまるで、今まで魔獣など一匹たりとて見たこともないというような顔ができるんだ。それを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、私にはもう分からない。……それでもただ、私は人の脅威を斬るだけだ」
「それは……僕みたいな甘い人間が大勢いるせい?」
「いや、違うよ。現実を見る者は遥かな理想を見る者がいるから、目の前の現実を知ることができるんだ。同じく理想を見る者も、現実を正しく見る者がいるから、その先の理想を追うことができる。どちらが優しくて、どちらが優しくなく、どちらが正しくて、どちらが正しくなく、必要であって必要でない、そういうことじゃあ決してない。どちらも欠けてはならないんだ。私みたいな戦いに身を投じるしか能のないような人間は、きみのような者に或る種救われるんだよ。そう──私がこんななのは、すべて私が選んだことだ」
 レースラインは、静かに息を吸う。
「誰かのせいだとするならば、すべて、私のせいなんだよ」
 そう言い切った後ふっと息を吐くように笑って、レースラインは歩き出した。アインベルもそれに続き、先ほどと変わりなく地を踏み締めて歩く彼女に置いていかれないよう、少しばかり焦りながら歩を進める。
 アインベルは歩きながら、前を見据えて歩き続けるレースラインの、姉のものとは違う、けれど時折姉と似たように寂しげな光を宿す瞳の、その水色を覗き込んだ。しゃん、と彼の腰で鈴の音が鳴る。
「レンさん、あんまり王都に帰らないって言ってたけど、でも……帰れる場所には、帰れる内に帰った方がいいよ」
「うん……? どうしてかな」
「だってレンさん、ちょっと寂しそうな顔をしてる。僕、そういう顔をする人、けっこうたくさん知ってるんだよ。失せ物探しってさ、思ってたよりたくさんの人に出会うんだ。……でもあの……ごめんなさい、勝手なことを言った?」
「……いや……」
 レースラインは歩の進みを少しばかり緩め、ちらりとアインベルを見やってから空を仰いだ。少し、笑ったようだった。
「全土警護の世回り≠フ、志願兵や他の騎士を率いる筆頭の騎士には、もちろんそれなりに戦える者が選ばれる。……戦えるというのはつまり、どれだけ考えないで魔獣を斬れるか、だ。分かりにくいなら非情と言い換えてもらっても構わない。けれど世回りの隊長は、腕の立つ騎士が選ばれるのと同時に、危険な者が選ばれるきらいもある」
「危険?」
「──魔獣になる恐れがある人間。他の者がその場ですぐに、魔獣と化した者を斬り捨てられるようにね」
 微笑みながら事もなく言い放ったレースラインに、アインベルは言葉を失った。
 黄昏に心を呑まれた動植物から生まれ出でる魔獣。黄昏は、他の動植物すべてと違いなく、人間すらも喰らい呑み込んでは魔の獣へと成り果てさせる。
 魔獣となった人間は自我を忘れ、理性を灼き捨て、獣のもつ統率すらも失い、ただ目の前に転がる欲求のために獣性のみで行動する。それ以外の魔獣よりも遥かに行動の予測が難しい、人間から生まれ出でた魔獣は恐れるべき存在だ。彼らはかつて彼ら自身でもあった人間を襲い、その血肉を喰らい、次の標的を探しに世界の上を彷徨い続ける。
 魔獣になり果てたものを殺す以外で黄昏から解放する方法を、永い時を黄昏と魔獣と共に生きてきた人類は、しかしそれでも未だに知らない。
 レースラインは歩きながら、アインベルの方を見て微笑んだ。
「私は自分で志願したし、世回りの隊長殿たち皆が皆、魔獣になりそうだというわけじゃあない。むしろ、魔獣になる恐れのない人間などこの世には存在しないよ。それでも、私は戦うために騎士になったし、何も考えずに魔獣を斬ることができる。悪いがきみが今、此処で魔獣になったとしても、私は迷わず斬ることができるよ。そう言い切れる。だから、私も危険と言えば間違いなく危険だろうね」
「……でも、レンさんたちに救われてる人はたくさんいる。今の僕みたいに」
「ああ、ありがとう。でもね、アインベルくんはそう言ってくれるけれど、私のことが嫌いで帰ってきてほしくないって人間は、けっこう王都にいるんだよ」
 アインベルは怪訝な顔をしてレースラインを見る。彼女は歩きながらやれやれとかぶりを振った。
「私は女で、自分で言うのもなんだが中々に優秀な騎士の一人だ。これでも鷹の羽>氛汢、室騎士に引き抜かれたこともある。女の身で引き抜かれたこともそうだけれど、どうやらそれを辞退したことでかなりいろんな人間の反感を買ったらしい」
「そんな──でも……確かに、どうして断ったんですか? 鷹の羽と言ったら騎士の憧れ中の憧れだろ?」
「うん、それはきみの言う通りだ。鷹の羽を率いている騎士長さまも、そう言って引き留めてくださったんだけれどね。でも私は、見目が悪いんだ」
「……えっ?」
 その言葉に、アインベルはレースラインの顔をしげしげと見つめた。
 半ば銀色の兜に隠れてはいるが、全土を休みもそこそこにまわっているというのに肌は絹のように滑らかに見え、白く長い睫毛に隠れた水宝玉のような瞳は、やはり水面に吹く風の如くに涼しげである。顔立ちはすっきりとして如何にも聡明。鼻は高く、薄い唇にも閃く知性を感じられる。
 見目は清廉で、誰がどう見ても、それがどれだけレースラインのことを気に食わない人間だとしても、彼女の見目が悪いとだけは言わないだろうと思われた。
 レースラインはそんなアインベルの様子を見て面白げに目を細める。そして彼女は革手袋をした自身の手の、その甲の部分を覆っている金属質のそれとは違い、そこより上の部分──上腕から手首までを隠している布の手甲をひょいとずらして、自分の腕をアインベルに見せた。
「そら、酷いものだろう」
 アインベルは声が洩れそうになるのを、ぐ、と堪えた。
 レースラインはすぐに腕の手甲を元のように戻すと、アインベルの方を見てちょっとだけすまなそうな顔をした。
「ごめんね、こんなものを見せて。右の手の甲から右側の腰くらいまではほとんどこんなものでね。そう、こんななりで陛下の御側に仕えるのは私自身が許さない。それに言っただろう、私は戦うために騎士になったんだ。……要は、ただのわがままなのだけれどね」
 レースラインの腕には、爛れた火傷の赤い灼け痕のようなものが痛々しく残されていた。
 それは、どれだけ悲惨な目に遭えばあのような痕が残るのか、常人には想像し難いほどの傷痕──褪せた赤と灼け付く黒と焦げ付いた茶の、まだら模様の傷痕だった。
 瞳が揺れ、拾う歩がすっかり止まってしまったアインベルを彼女は見つめ、それから少しだけ笑った。軽い嘲りだった。それはおそらく、自分自身への。
「私は傾いだ考えが嫌いだと言ったね。そう言いつつも、私はその傾いだ考えをする人間たちの第一人者というわけなんだよ」
 言ってから彼女はアインベルの背を優しく叩き、歩くよう促した。
「けれどね、こんな腕でも、相手が息するより速く剣を振ることはできる。むしろ、こんな腕だからこそ、そういう風に剣を振るうことができるのかもね。私のこれはべつに、失っても構わない腕だから」
「……そんなこと、言わないでください」
「王都に帰るといろいろ言われて面倒なんだよ。あれの右腕はもう魔獣と化している≠セとかなんとかって。或いはそうかもしれないけれどね」
「レンさん!」
「あとは、行きより帰りの人数の方が少ない。減った三人はゼロ隊長殿が斬り捨てたに違いない≠ニかね。やれやれ、偏った見方をしないで、ちゃんと情報を精査してから発言してもらいたいものだよ」
 レースラインの歩みが先ほどより速くなった。彼女は赤のマントを風になびかせながら進む。そしてその途中、ほとんど呟くようにしてレースラインは言葉を発した。
「減ったのは三人じゃない」
 彼女の視線は前を向いている。
「──五人だった」
 その声は、痛々しいほどに静かだった。


*



 目的だった隣村の入口で、レースラインは兜を取って息を吐いた。
 いつの間にか風は止み、彼女の白い髪も、赤の尾羽やマントも今は鳴りを潜めている。遠くで響く羊飼いの鳴らす鐘の音が、アインベルとレースラインの間を穏やかに流れていった。
 アインベルはレースラインの方を見やりながら、痒くもない頬を人差し指で軽く掻く。
「あの、レンさん。今更なんだけど……」
「ん? 何かな」
「騎士のこと、あんなにいろいろ聞いちゃったけど……だいじょうぶなんですか?」
「ああ……」
 レースラインは脱いだ兜に視線を下ろし、それからアインベルの優しげな緑の瞳へと顔を向けると、小首を傾げて少しばかり悪戯っぽく笑った。
「今日は非番だよ。私はね、王都を歩き回っている、なんてことはない噂話をお喋りついでにきみへと聞かせただけだ」
「……怒られても知りませんよ」
「今更、上司のありがたいお小言なんて怖くはないからね。……そうそう、噂話と言えば、レースライン・ゼーローゼの白い髪。あれはどうやら白髪らしいね、老人のもつそれと同じの。と、すると、ゼロ隊長はいよいよ魔獣か魔女かの二択というわけになってきたようだ」
「えっ?」
 白髪。
 そう言ったレースラインの表情をアインベルが見ようとした瞬間、彼の視界には白く滑らかな長髪と燃えるように赤いマントが翻っていた。レースラインは変わらず背筋を伸ばし、凛とした立ち振る舞いでアインベルの前から去っていく。
 しかし彼女は道半ばで顔だけ半分振り返ると、その勿忘草色の瞳を面白げに細めて、しかしその水の中にやはり射抜くような光を宿しながら、アインベルの方を見て快活に笑った。
「冗談だ! 噂話には尾ひれのついたものも多い。そういうものには精々気を付けることだよ、アインベルくん!」
「レンさん!」
 からかわれたのだと気付いたアインベルは思わず彼女へ向かって声を上げたが、しかしレースラインは悪びれる様子もなく、涼しげな水色の瞳を細めて笑うばかりだった。
「ふふ、けれどきみ──私みたいな人間に救われている者も、この世界には多いのだろう?」
 赤の色が翻る。
 その、夜明けに出づる陽のような色の上で揺れるのはただ白く、白く、白い色だった。



20170611

- ナノ -