「いや、すまない。ここらに失せ物探しの召喚師がいると、死んだ私が書き遺していてな!」
 声をかけられて、少年は振り返った。
 此処は、〈ソリスオルトス〉。
 今日の生まれる大地に立ち、日の出と夜明けの名を冠す、果てしのない王國である。
 たそがれの國=B
 そしてそれが、この國の俗称だった。
 前時代とされ、人々の文明が最も栄えたと云われるかわたれの時代≠ヘ、人々を巻き込み、或いは人々が巻き込んで、彼らが培った技術と共になんらかの事情で終わりを告げた。
 そして、大地に残された人々は手を取り合い、一つの小さな町を造り上げる。それが、現代──たそがれの時代≠ナ言うところの、王都〈アッキピテル〉であった。
 今、〈ソリスオルトス〉に一匹の鷲獅子のように翼を広げ、城と街、そして何より民を守るようにそびえる王都。それは時が流れるにつれ大きさを増し、守るための翼や爪はより強固となった。
 かわたれの時代の終わり、そのいずれ王都となる小さな町を造り上げるために人々を纏め上げ、いつしか先頭に立っては人々の指揮を執り、そうして彼らを根気強く導いた人物がいたと云う。
 それは、この〈ソリスオルトス〉の君主となるさだめをもって生まれてくる、王家アッキピテルの血筋──現代では君主アウロウラ・アッキピテル王の時代より遥か遠く遡る。
 伝承では、かわたれの時代からたそがれの時代へと移り変わる間、その狭間の時間に、実態があまり語り継がれてはいないがひのなかの時代≠ニいう、まばゆく世界を照らした短い時代が、この世界には確かに在ったのだと、そう語られている。
 そして、ひのなかの時代と呼ばれるその数十年の時間の中には、人々を武力ではなく意志の宿った言の葉で導いては、この広大な大地の上に大國〈ソリスオルトス〉を立てた、それそのものが鷹獅子のような人物が、しかしその時代には存在したと謳われる。
 そう──それが、初代〈ソリスオルトス〉王である。
 最早伝説の類で語られている初代アッキピテルは、元々ただのしがない航海士だったと云う。
 眩しい太陽の光と抜ける青空の色を水面に映し、命抱く深海の色を透かし、そうして生の輝きを湛えては澄んで煌めくかつての水の都を、巨大な船で旅する航海士。
 少年にとっても、またこのたそがれの時代に生きる誰にとっても、海というものはただただ広い、眩暈がするほどに広い、白い塩の里に他ならない。少年は嘆息した。
 青い、海……
 その船員の中の一人に過ぎなかったと云う、のちの初代アッキピテル王となる彼──ラクラルテ・アッキピテルの名前には、太陽と月の光──いずこにも在る光の鷹≠ニいう意味がある。
 彼の血を受け継ぐ現〈ソリスオルトス〉王、アウロウラ・アッキピテルもまたいずこにも光を創り出す鷹≠ニいう意味の名をその身に冠し、そして彼の一人娘である王女イルミナス・アッキピテルもいずこをも照らす光の鷹≠ニいう意味の名前をその身に冠している。
 姫殿下はまだ、城に仕える者以外の國民への御披露目がされておらず、宮廷内ではそのかんばせを、常に柔らかな薄布で覆っているらしい。
 そも、代々、〈ソリスオルトス〉での嫡子の御披露目は、新國王の戴冠式で、となっている。つまり、未だうら若い、歴代きってのお転婆と聞くイルミナス姫殿下が、正式に國民へ御披露目されると同時に、この國には新たな王が立つことになるのだ。民のまなざしを受けた姫殿下は、そのときにはもう姫殿下ではなく、女王として國の頂に立っていることになる。
 それまでの間、王の嫡子──この場合は嫡女だが──は、見聞を広げるために、自らの足でこの果てしない大地の上を旅してまわる、と民の間では言い伝えられているが、真偽のほどは定かではない。
 そもそも姫さまがその辺を旅してまわるならば相当な数の護衛も付くだろうし、それならばかなり目立ちそうなものだ。そういった一行の噂は今まで耳にしたことがなかった。
 この広大な大地に立つたそがれの國≠フ頂に君臨する者として受け継ぐ、その光の鷹の名の重さは少年には分からない。
 ──だが、王家の者もまた、この暮れゆく黄昏の大地の上に生きている。
「それと、死んだ私はこうも書き遺していたぞ」
 たそがれの國、〈ソリスオルトス〉で生きてゆく痛みならば、少年にも分かるような気がした。
 他の誰もと、同じように。
「お前は私の友人でもある、とな!」
 手にした手記を軽く叩きながら、少年の目の前に立つ彼は笑った。
 ──笑う彼は蒼く、碧く、青かった。


*



「久しぶりだね、アル」
「ああ、どうやらそうらしいな」
 小さな酒場で木の杯を交わし合いながら、アインベルは向かいに座る、自分と同じ年頃の青い少年に笑いかけた。
「それにしても、靴を片方だけ失くすなんて器用だよね、アルは。むしろ、どうやったら片方だけ失くせるんだい」
「人混みに揉まれていたら、いつの間にか何処かへ行ってしまっていたな! いや、お前が近くにいて助かった」
「ほんとほんと。感謝してよね」
「しているとも! この通りだ!」
 青い少年は木の杯を掲げた。少年の指先が先ほどから触れ続けている、その杯の取っ手が微かに青く染まりつつある。アインベルはその滲む青に視線を落としながら、自身が手に持つ杯の蜂蜜酒を少しだけ舐めた。
 青い少年──アルシュタルは、明くる日の朝に記憶を失う。
 毎日、毎日。
「……前に会ったときは、右の耳飾りを失くしてたよ」
「うん、それは世話になったな。これで何回目だ?」
「六回目、だ」
 ──此処は、たそがれの國。
 病、魔獣、天災、水涸れ、人類或いはこの地の生命すべての斜陽がゆっくりと、しかし確かに訪れているこの大地にアインベルも、また、青い少年アルシュタルも生きている。
 この世界に滅びの根が這い寄る理由は、それがゆっくりと、真綿で首を絞めるようにして忍び寄りはじめた頃より、もう数百年経ったと云う今でも解明されていない。
 総称として黄昏≠ニ呼ばれるそれらの災いは、かつての小さなアインベルの首をも絞めたのだった。
 ふと、アインベルは、アルシュタルの青が滲んだ指先を見た。
 伝説として語られるほど遠い時代に生きた初代〈ソリスオルトス〉王、ラクラルテの時代よりも遥か昔から、人々は誰もが生まれたときより、この世界に在るすべてのものの中から一つだけ、力を借りることができる。
 所説在るが、それは血や生まれ、もしくは名前のもつ言葉の意味などが、この世界に存在するものに呼びかける力が有るからだ、と一般的には云われている。
 こちらの呼びかけが強く届くものが、この世界には唯一つだけ在る、と。その一つがこちらの声に応え、力を貸してくれるのだと。
 主に借りものの力≠ニ呼ばれているそれを、運命の相手みたいなものかしらね、と、アインベルの家族の一人は言っていた。
「……もうすぐ夕暮れだね。日の暮れる前からお酒なんて飲んでていいのかな」
「何、こいつは祝杯だ! 私とお前の再会を祝してな。もっとも、あの日の私はとうに死んでしまったのだが!」
「僕は憶えてるよ。前回は──アルが長いこと持ってた蜂蜜酒の入れ物が青く染まっちゃって、僕らは店主にこってり絞られて外に追い出された」
 アルシュタルは朝露から力を借りる、若い錬金術師である。
 三回目に彼と会ったときに聞いたところによると、彼は十のとき、朝露から力を得る代わりに、日が昇ると共に毎日、自らの研究と生きるために必要な知識以外のすべての記憶を失うらしい。これは彼自らが、より秀でた傑物たらんと彼自身に課した制約であった。
 それからというもの彼は違わず毎日記憶を失い、そして何故か、生きもの以外の物に長く触れていると、その物を青く染めることができるという力を得た。見目が青い彼に対して、力を貸す朝露の方が何か勘違いをしているような気がしないこともないと、アインベルは首を捻っている。
「アルは朝露から力を借りるんだったよね」
「ああ、その通りだ! 朝露というものは透明をしているはずだが、私のこれは何故だか触ると物が青くなる」
「でも、触った物を透明にしちゃうのは、たぶん今より困りそうだよな……」
「うん、確かにそれはそうだ」
「……アルが力を借りているのは、露草の朝露なのかもしれないね」
 アインベルはそう言って、アルシュタルの方を見た。磨かれた藍銅鉱のような色をした、大きな猫目がこちらを見る。
「ほら、アルの髪や目は綺麗な青色だから」
 黒っぽい濃藍の髪の毛は、何故か真ん中から左にかけてだけ髪色が露草の花のような青色に染まり、そちらは濃藍よりも髪の長さが短い。元々耳に掛かるか掛からないかくらいの長さの髪だが、本人曰く左側は錬金術の失敗で燃え、気付いたら青色に染まっていたと言う。
 片方だけ濃藍色をした髪の毛、青みがかった灰色の胴着、額や耳の黄金色をした飾りが、彼の青さをより際立たせていた。
 アルシュタルはアインベルの言葉を聞きながら蜂蜜酒を飲み干し、それから一見落ち着いて見える見た目からは想像もできないほど快活な笑い声を上げ、その大きな目でアインベルを見た。
「ああそういえば、お前は何から力を借りている?」
「僕か……。いやじつはさ、それがよく分からないんだよね」
「そうなのか? いや、自分のことが疎かになるのは分かるぞ。この世界には、少しばかり知りたいことが多すぎるからな!」
「でも僕は、自分の友人の顔くらいはちゃんと憶えてるけどな?」
「おっと、ははは! それはすまない!」
 悪戯っぽく口角を上げて嫌味を言ったアインベルに、アルシュタルは声を上げて笑うと、新しい蜂蜜酒の杯に口を付けた。アインベルはアルシュタルの笑い声につられて、しかし少しばかり呆れたように小さく笑う。一体、いつの間に注文したのやら。
「二日酔いが酷くても僕は知らないからね。大体僕ら、そこまでがぶ飲みできる年でもないんだし」
「いいや」
 アルシュタルはかぶりを振る。金の耳飾りが揺れ、その光が彼の澄んだ青に反射していた。
「今日は朝まで飲むぞ! 何せ、お前に会えたのだからな! そうだ、明日の私に二日酔いをくれてやれ!」
 アインベルはアルシュタルの力のこもったその言葉に噴き出して笑うと、再び彼と杯を交わした。
 外では、夕暮れを知らせる鐘の音が深い響きを以って、街にゆっくりと鳴り渡っている。きっと、今日の夕焼けも美しいことだろう。
 過ぎる時間の流れを伝える窓辺の光から目を逸らして、アインベルはアルシュタルの方を見て笑い、とろりとした蜂蜜酒を口に運んだ。柔らかい甘口のそれは、ほんのりとした熱をもって身体の中に落ちていく。
「空が青い理由を知っているか?」
 ふと、アルシュタルが言った。
「……いや、知らない」
「では、空の色が移り変わる理由は?」
「それも。……だけど、そうだな」
 アルシュタルは楽しげに目を細めて、木の杯を口に付けている。アインベルは蜂蜜酒を焦げ茶色の木卓に置くと、今しがた目を背けた窓の方へと視線をやって、しばし考えるようにそこから零れる陽の光を見ていた。
 アインベルは小さく息を吐くと、その柔らかな竹色の丸い瞳を細めてはアルシュタルの方を見て、それからどこか寂しげに笑った。
「空も毎日死んで、毎日生まれるのかもしれない」
「それなら私と同じだな。そうか、私は空だったか!」
「なんか、急に壮大な話になってきたなぁ……」
 アインベルは蜂蜜酒の隣に置いてある水差しから、酒の入っている木の杯よりはいくらか小振りの硝子杯に、きんと冷たい水を注ぎ込む。それを口に含んで飲み下した後、少しばかり赤ら顔のアルシュタルを見やって笑った。
「アル、酔ってるだろ」
「男同士の語らいが壮大なものでなくてどうする。少年よ、大志を抱け≠セ!」
「大志を抱く前に、自分の記憶をちゃんと抱いてくれってば」
「いやはや手厳しいな!」
 褪せた緑色と、澄んだ青色がかち合った。その瞬間、彼らは酒の力も手伝って火がついたように笑い出す。
 アルシュタルが明日死ぬ今日の自分の記憶がつまった手記に、酔って笑ってひいひい言いながら、何やら言葉を記していた。おそらく、今日のことを書いているのだろう。
 アインベルの側からだと、酔ったアルシュタルが記す文字は、まるでのたうつ蛇のようにしか見えない。本人には読めるのだろうか?
 アルシュタルが記す、最早暗号のような文字すら今のアインベルには可笑しく、彼はついに机に突っ伏して笑い出した。
「アインベル」
 ふと、アルシュタルが何杯目かも分からない蜂蜜酒の杯を掲げた。
「私は、友の名も明日には忘れるような、まったくもって友人甲斐のない男だが──」
 アインベルは突っ伏していた顔を上げて、青いあおい彼の瞳を見る。
「──明日から先も、私の友でいてくれ!」
 その言葉にアインベルは身を起こすと、呆れたように溜め息を吐いた。それから蜂蜜酒の杯を手に取ると、それを掲げ、アルシュタルが手に持っては青く染まりつつある木の杯に、自分の杯を思い切りぶつける。
 それは、音が響くほどに強くだった。
「まだ朝は来てないのに、あんたときたら、もう忘れちまったのか?」
 アインベルは酒に酔って朱の差した顔で、いつもより意地の悪そうな顔で笑った。
「──僕がアルの友だちでいることなんて、ほんと、当たり前のことだろ! 覚えるのだって簡単だ! 錬金術の成りかえ言葉より、ずっと!」


*



 朝まで飲み明かすと言っておきながら、結局二人の少年は夜半ばで酔い潰れ、酒場の机に突っ伏しては朝を待つこととなった。
 朝陽と共に、がたいのいい店主に首根っこを掴まれて、ぽいと酒場の外に放り出された二人組である。
 放り出された二人はしばらくそのまま、太陽の光を浴びては硬い地面の上で眠っていたが、冷たい朝の風が吹き抜けると共にアインベルは目を覚まし、気だるげに唸りながら身を起こした。
「……アル」
 酒の飲み過ぎでひりひりする喉から掠れた声を絞り出してみても、隣で地面に張り付いているアルシュタルは目を覚ます気配がなかった。
 頭に鈍痛が重く鳴り響いている。アインベルはのっそりと立ち上がると辺りを見渡した。
 街は朝陽を受けながらも、未だ夜の名残に包まれた空気が漂っている。今は、人々へと朝を告げるにはまだいくらか早い時間なのだろう。柔らかく吹き抜けていく風は、朝と夜の空気を含んでひんやりと冷たい。まるで、夜明けに抗う重たいこの身体を目覚めさせるようだ。
 アインベルはぐっと大きく伸びをすると、小さく息を吐いて眠るアルシュタルの方を見やった。
 そうしてアインベルは彼の前にしゃがみ込むと、両腕を枕にして地面に突っ伏している友人の、金の飾りと青い髪が掛かる額を中指で強く弾いた。寝惚けているアルシュタルが軽く何か呻いている。
 アインベルはそんな彼を見て、少しだけ声を立てて笑った。
 それからすぐにその笑いを潜めて唇を引き結ぶと、しかしその表情もすぐに何処か遠くへやってしまって、今度は老いた竹のような丸い瞳を細めて優しげに微笑む。それは少し、痛みを堪えるように寂しげな表情だったかもしれない。
「僕は、憶えているよ。……何があっても」
 果たして少年のその声は、どれほど震えていただろうか。
 アインベルは未だ地面に突っ伏している青色の友人に背を向けると、朝のにおいが強くなってきた風をその淡い水色と金色の髪に受けながら、何かを振り切るように街の高台へと走った。腰に差した鈴の音は、彼を急かすように鳴っている。
 朝の色を引き連れて、太陽がすっかり世界へ顔を出してしまう前に。
 空が死んで、生まれ変わる前に。


「……ああ……」
 アインベルは高台の白い柵に両腕を預け、太陽が照らして白く輝く街並みを眺めていた。
「──吐きそうだ……」
 高台に立つ時計台から、朝を告げるはじまりの鐘が強く重たく、清々しい音色を以って街に鳴り響いていた。
 二日酔いに堪えている少年の身体にも、鐘はまるで全身を揺さぶって叩き起こすかのように、朝の訪れをしつこく知らせてくる。元々酒の飲みすぎで気分が悪かったのに、こんな処まで全力疾走などしてみるものだから余計に鐘の音が痛かった。
 ……そう、こうして酒のせいにするのは簡単だ。
 気が付けば、蜂蜜酒の味が喉元まで戻ってきている。
 新しい空を見上げれば、太陽の眩む光に鋭く目を刺された。
 ──朝だ。
 朝が、やってきていた。



20170603
…special thanks
アルシュタル・ウェロウ @siou398

- ナノ -