合奏(前)


 目を開けた。
 広がるのは一面の闇。何も見えなかった。
 刺すような冷たさが、少年の頬をなぶった。思わず息を吐き出す。この暗闇の中で、それは白く色付きすらしなかった。
 ただ、自分が何かを抱き締めているのは分かった。手のひらから腕から、心の臓を覆う胴から、この昏く冷たい闇夜すら遠ざけるような熱を感じる。アインベルは、また息を吐いた。
 視線を下げる。
 自分の腕の中に在るのは、闇の中でも強く橙に色付く髪、虹の色に揺らめく首巻──イリスだった。他の誰でもない、他に代われる者などいない、ただ一人の、たった一人の自分の姉。それを自覚すると、アインベルの胸に緩やかな安心感が上ってきた。彼女の肩に額を押し付けた少年は、そこで安堵の溜め息を吐く。
 ふと、腕の中でイリスが身じろぎをする感触がした。アインベルは、はっとして彼女の顔へと視線を向ける。深い闇の中で、イリスの輪郭は色付いても尚曖昧だった。
 けれども、聴こえる。今、聴こえた。聴こえるから、見える。彼女の睫毛が震え、今にも開かれようとしているのが。
「──アインベル……?」
 イリスの開かれた瞳が最初に捉えたのは、闇ではなく、目の前でその老竹色の瞳を真っ直ぐにこちらへと向けている、アインベルだった。いつでもその存在を強く放つイリスの鮮紅の瞳は、この昏い闇の中でも赤く、朱く、紅く、虹の火の粉を宿して輝いている。
「ねえさ──」
 彼女の呼びかけに応えようとしたアインベルは、しかし喉にほとんど鈍痛に近い息苦しさを感じて、思わずその喉を両手で押さえた。もしや自分だけなのか、と彼がイリスの方を見やれば、しかし彼女も眉根を寄せて自分の喉に片手を当て、アインベルの方を見ながら頷いている。
 声が聴こえない。声を送れない。これでは、渦潮≠フ強い風に吹かれていたときと全く同じようだった。
 それでも、二人は手を握り合い、どちらからともなく暗闇の中に立ち上がった。イリスの手袋が取り払われた手のひらから伝わる熱が、アインベルの身体にも伝わり、彼の心臓を優しく叩く。だいじょうぶよ、アインベル。彼女の心音が、言葉が今、聴こえるようだった。
 そうだ。声が聴こえないなら、それ以外を聴けばいい。声が送れないなら、それ以外を送ればいい。声以外の言葉を聴けばいい、自分は術師なのだから。声以外の言葉を送ればいい、自分は術師なのだから。
 聴くべきは今、隣に在る。自分の片手の中に在る。その瞳は、今、自分だけを見つめている。
 冷たい闇の中で、アインベルは目を瞑り、自らを更に深い闇の中へと連れ込んだ。視界を閉じて耳を澄ませ、全身を澄ませると、此処に流れる静寂がひどくうるさいものに感じる。無数の視線、無数の思考、無数のねがい、無数の呪い──無数の言葉が、此処には在った。
 それは、声ではない。
 そして音でもなかった。描かれたものの無言の圧力が、冷たいこの暗闇の中で、重く、重く、こちらにのし掛かってきているのだった。何も見えない。何も聴こえない。それでも確かに、此処には在る。
 かわたれに沈んだ者たちが、自らの意思を以って永遠の輪に閉じ込めた、誰かを殺すための言葉が。そのために描かれた言葉が。
 それを知ると、アインベルは目を開き、虚空を見つめてはどこか悲しげに息を吐いた。その息すらも闇の中に溶け消え、無数の言葉の前に掻き消えた。
 ──こんなに悲しい言葉が在るだろうか。
 アインベルはイリスと繋いでいる方とは逆の手に有る、鈴の長杖で地面を軽く叩いた。暗闇に輪郭を奪われたそこが、ほんとうに地面なのかどうかは分からない。それでも杖の石突は自分たちが今立っている場所に当たり、しゃんと涼しげに鈴の音を鳴らした。けれどもそれは響き渡ることはなく、アインベルたちの目の前を漂って消えていった。
 ──こんなに悲しい言葉が在っていいのだろうか。
 此処に在るのは身勝手で傲慢で虚しく、そして悲しい言葉ばかり。此処が何処で、かわたれの術師たちがどのようにして海を動かすなどと大それたことを為し得たのか、それを今の今までどのようにして、永遠にも近く動かし続けているのか、そのすべてに答えを得てしまったアインベルは、嘆きとも怒りとも遠い感情を胸に、また少しだけ息を吐いた。
 呼吸をしなければ。
 呼吸をしなければ、この場所に充ち満ちる、かわたれの言葉たちに心の臓ごと心を絞め殺されそうだった。
 静寂の轟音に、無言の重圧に、耳鳴りがする。これはまるで、渦潮が起こる直前に、音もなく海がその身をよじる声だった。惨い嵐が起こる前に漂う、その悲しい沈黙であった。
「──ねえさん」
 唇だけを動かし、音のない声で、アインベルはイリスへと呼びかけた。暮れない瞳で何かを見出すべく虚空を睨んでいたイリスは、その気配を感じ取ってはアインベルの方へと顔を向ける。目と目が合う。アインベルは頷き、また唇ばかりを動かした。
「イリスねえさん。僕は分かった」
「分かった?」
「間違ってる。たとえどんな理由が在ろうと、こんなのは間違ってるんだ、絶対に」
 強く握り締めすぎた鈴の杖が、微かに軋んだ音を立てる。それはアインベルの耳を通り過ぎ、イリスの耳にだけ届いた。イリスは、アインベルの手のひらを握っている方の手に少しばかり力を入れると、もう片方の手で、鈴の杖を握り締めている弟の指先に触れる。
「見付けたのね、失せ物探し」
「見付けたよ、僕が選ぶべきものを」
「もう選んだ?」
「ああ。──すべてだ」
 アインベルは睫毛を伏せるようにして、ちらりと鈴の杖の方を見た。それから喉がひどく痛むのも構わずに、思い切り息を吸い込むと、顔を上げ、真っ直ぐにイリスの瞳を見つめる。彼は、声を発した。
「すべてだ。僕が守りたいもの、すべて。僕のたいせつな人たち。僕と一緒に生きてきたものたち。僕と一緒に生きていくものたち。僕自身も。全部、全部ぜんぶだ」
「……アインベル」
「誰に、何に嗤われたっていい。身の程知らずでもいい。それでも僕は、今の言葉が過去の言葉に負けるのを、黙って見ているわけにはいかない。こんなものに、もう死んだ人間たちに、僕のたいせつをくれてなんかやれるわけがない! 僕は術師だ。今≠フ、術師なんだ!」
 アインベルは、かわたれの時代≠フ視線を振り払うようにそう発し、同じく、かわたれの時代から未だ続く、海を動かす悲しい言葉を遮るようにして、杖の石突を思い切り地面へと叩き付けた。
「僕は見付けた!」
 しゃん、と鳴る鈴の音は、先ほどよりは遠くまで響いたように聴こえる。アインベルはもう一度、その石突を叩き付けた。
「聴け! おまえたちが失くしたものを、僕が──僕たちが教えてやる!」
 アインベルがそう叫んで地面を杖で叩き、鈴の音が一層高く響いたその瞬間、ただ冷たいばかりで風もない闇の中を、一筋の音が、まるで裂くような調子で飛んできた。
 それは、弦を弾く音。
 試しに弾いたその鋭い一音から、穏やかに奏でられはじめるその楽の音は、しかし段々とその勢いを増し、ゆったりと歩みは早足へ、また駆け足へと闇夜の中ですら傍若無人に走り回りだした。
 澄んだ湖畔の微か揺らいでいた水面から、一匹の飛び魚が顔を出し、空を求めて宙を舞う。それにつられた他の魚たちも次々に宙を舞い、弧を描いた無数の魚たちは、その鱗で空に虹を架ける。そうして彼らはまた水中に戻り、再び跳んで舞うをくり返した。何度も、何度も。それは段々速く。何度も何度も。更に速く。何度も何度も何度も。もっと速く!
 そうして何度も何度も魚たちに揺さぶられ、その鱗で叩き付けられた湖畔の水面は、ほとんど怒鳴るようにして荒波を立てた。

  此処にいる
  此処にいるぞ
  おれは此処だ
  此処にいる!

 奏でられるリュートの楽の音に乗った、声のないその言の葉は、アインベルの心臓へと真っ直ぐに届き、彼へとその音色の在り処を示してみせた。少年の肩が震え、アインベルの瞳はイリスを捉える。イリスは頷き、力強いまなざしでその楽の音が聴こえる方向へと視線をやった。アインベルもまた頷き、その視線を、リュートの音色がやってくる方向へと向けた。
 そして、走り出す。
 勇気。勇気など忘れていた。勇気など、いらなかった。
 イリスの手を引き、鈴の音を鳴らして走るアインベルは、笑んですらいた。彼は何も見えない真っ暗闇の中、ただ音の鳴る方へ、心の臓からの言葉が聴こえる方へ、ただひたすらに駆ける。
 しかし、つと地面が揺れた。
 その瞬間、視界に赤が広がり、その色に少年のこめかみでは、かのかわたれの戦争の燃え立つ色が点滅する。今=A奏でられる楽の音、胸に深く刻まれるその言葉を遮るように、暗闇の中で赤い光が瞬いた。思わず見上げれば、頭上には赤、赤、赤。赤い星が、まるでこちらを射るようなまなざしを以って、無数に現れた。
 イリスが、アインベルの手を握っている方の手に、ぐっと力を込めた。よく見て、アインベル。少年は振り向かずに頷き、闇の夜空に浮かんだ星々を見つめた。
「……星なんかじゃない」
 唇だけを動かして、声のないままアインベルはそう呟くと、再び天に瞬く赤い光を睨んだ。
 そう、あれは星なんかじゃない。
 手の届かない頭上に、肌が粟立つほどにびっしりと敷き詰められたあの光は、あの赤い火は、かわたれの術師たちが遺した言葉の炎だ。
 赤い光は星などではなく、目を凝らして見れば、それの一つひとつが小さな陣、模様紋様文様、呼びかけ言葉、まじない言葉、言葉言葉言葉、術師の描いた言の葉であることが分かった。
 無数の視線、無数の思考、無数のねがい、無数の呪い。そういった無数の言葉が、強い力を以ってこの場を支配している。血を送る管のように脈打つ赤い言葉たちは、いずこかへと向かってその光を流している。
 アインベルは、こめかみと視界で鼓動するその遠い赤に酷い頭痛を覚え、思わず立ち止まった。それと同時に、彼が走るたびに鳴っていた鈴の音も、この暗闇に響かなくなる。耳鳴りがした。死へと向かって響く悲しい音楽、それを打ち消す銃声、無力な自分が鳴らす鈴の音、海へと向かって引きずる足の音、海鳴り、潮風、塩を掘る音、家族の笑い声、時化、風、殴るような風、竜の嵐、渦潮……
 
  ──聴け!

 いきなり目の前で手を叩かれたような心地がして、アインベルは慌てて顔を上げた。けれども目の前には何もない。それでも、耳鳴りは止んでいた。そして、少年の耳鳴りを打ち消したのは、半ば苛立ってかき鳴らしたような、リュートの一音だった。

  此処だ!

 その楽の音に向かって、アインベルは再び走り出す。リュートの音色も再び駆け出した。勇気もない。恐怖もない。ただ心の音が聴こえる方へ、ただ心の音が向かう方へ。イリスの手を握っている自分の手に、彼女の熱が伝わっている。この熱を手にしているのだ、過去の炎など怖いはずもなかった。
 走る。
 聴こえる。
 走る。
 走る。
 走る。
 ──見えた!
 少年の目が見開かれた。赤く輝く偽りの星々の下、リュートをかき鳴らすリトの姿が見えたのだ。
 アインベルはイリスの手を引き、更に速度を上げてリトの元まで走っていくと、二人に気が付いたリトが、しかし今更止められないのか楽の音を奏でたまま、こちらに向かってあの人懐っこい笑みを浮かべた。アインベルとイリスの弾んだ息の中に、安堵の色をしたものが混じる。
 二人は立ち止まり、リトに向かって頷いた。それを目にしたリトも頷き返す。そして、それとほとんど同時に、更に先から、何かを強く叩くような音が聴こえてきた。一度。もう一度。もう一度、もう一度。もう一度。
 隣で、屈託のない笑い声が上がった。リトのものである。ぐっと締め付けられるような喉の痛みもまるで気にならないかのように、彼は笑った。紛れもない。あれは、嫌と言うほどに聴き慣れたジャンベの音だった。リトもまた、その楽の音を止めない。
 湖のほとりで朝露が一つ、ぽたりと地面に落ちた。辺りを伺うように立ちこめていた霧は、いつの間にか一つの雲となり、ぽたり、またぽたりと雨を降らせはじめる。朝露を落とした葉にはまた水が満ち、打つ雨の調子に合わせて地面へと落ちていった。水面の上を跳ぶ魚の乱舞につられるように、雨足は更に、また更に激しくなっていく。葉の水は最早止め処を知ることなく流れ続け、その水は地を削り、いつしか新たな川をつくり出した。降りしきる雨に川は流れ、水は次から次へと湖の中へ飛び込んでいく。湖の水は溢れ、それは更に巨大になっていった。それでも雨は止まない。魚たちが跳び続ける限り、雨は止まなかった。そして、いつしか魚たちは、こう錯覚すらしはじめる。

  此処は海
  此処こそが海
  海は死んでいない
  海は死なない
  海は生きている!

  ──おれたちは生きている!

 アインベルはまた走り出した。イリスはその手に導かれ、リトはまるで大声で歌うかのように弦を弾いてはアインベルの後をついていく。此処が暗闇に満ち、それを照らすのが唯一かわたれの火であることなど、彼らはもう忘れていた。
 即興で奏でられるリュート、ジャンベの音色、駆けるアインベルの鈴の音、前を見据えるイリスの瞬き、地を蹴る三人の足音、呼吸──そのすべてが彼らの音楽となり、言葉となり、波のように過去の言葉の上に覆い被さっていく。
 呼吸が苦しいのは変わらない。息の足りない肺が軋むようだった。それでも、何処へ向かえばいいか分かるのだ。何を守りたいのかが分かる。そこまで飛び、それを守る翼はない。それでもこの四肢が有るなら、この身体が動くなら、この爪先が前を向くならば、そこまで走り、この両腕で守るだけ。
 遠く、赤色に照らされたジンの姿をアインベルたちが見付けると、ジンは彼らが自分の元までやってくる前に立ち上がり、両手で叩いていたジャンベを小脇に抱えた。それからアインベルたちが自分の隣に並ぶと、仕方ないと言うように溜め息を吐き、どこか意地の悪そうにその目元と唇を歪める。
 アインベルは目線だけでジンに頷くと、ジンもまた頷きの代わりにふっと息を吐き、そうして三人に続いて走り出した。リトとジンは視線すら合わせない。ただ、互いを小突き合うような楽の音が先ほどよりもその存在を増し、響き合うばかりだった。
 しかし、楽器を奏でる二人の唇は、楽しげに弧を描いている。おい、音が外れてるぞ。なんだと、そっちは走りすぎだ。うるせえな、おれに合わせろよ。いや、おまえがおれに合わせろ。
 ふと、音と音でやり合う二人を諫めるようにして、きんと高い音のバグパイプが響いた。まぁまぁ、そう喧嘩するなって。さながらそう言うかのような、どこか自由気ままにも聴こえるバグパイプの音色は、リュートとジャンベのそれと交じり合い、その楽の音を一瞬穏やかなものにする。
 雲は晴れた。大雨は光降る天気雨に変わり、水面を飛び跳ねていた魚たちは、水の中で泳ぐことの気持ちよさを思い出す。柔らかな雨ばかりが打つ、湖の穏やかな水面に、森からそっと顔を出した鹿がその口を寄せていた。空に青い影となって飛んでいた小鳥の群れが、水面すれすれを滑り、幾匹かの魚たちを捕らえていく。穏やかで少しばかり残酷、しかし美しい湖畔の風景に、しかし突如鳥の悲鳴が上がった。
 パグパイプの多少意地の悪い、それでも穏やかで気ままな旋律に引っ張られていたリュートがふと我に返り、その音色に自身の音色で反逆を始めた。再び駆けはじめたリュートの音に、ジャンベもまたその楽の音を走らせはじめる。
 小鳥の嘴に捕らわれた魚たちが、一斉にその身を激しくばたつかせ、鳥の顔を自身の尾で思い切り引っぱたいた。それに驚いた小鳥たちは魚を嘴から取り落とし、彼らは好機を得て水中へと戻っていく。再び空を雲が覆い、大粒の雨が湖畔に降り出した。小鳥たちは溜め息を吐き、雨が本格的になる前に湖から飛び立とうとする。
 しかし、そんな鳥たちを煽るように、飛び魚が一匹顔を出し、雨の中を舞った。一匹。また一匹。更に一匹。飛び跳ねる魚たちにつられるように、雨足が強まる。けれども、鳥たちの中ではもう何かが切れていた。彼らは自身の羽を鋭くして、風も切るほどの速さで水面の上を飛ぶと、その中に一匹の魚影を見付け、嘴で捕らえる。そして、捕らえた魚を食べるのではなく、高く宙へと放り投げた。

  そら、空を飛びたかったんだろう!

 小鳥たちは意地悪く笑い声を上げる。降りしきる豪雨に、湖の水面に波が立ち、鹿たちは慌てて森の中へと駆けていった。宙に投げられた魚たちは、その身を曇天の隙間に降る光に晒し、鱗を虹の色に煌めかせ、弧を描いてはまた水中に戻り、再び跳ね、舞いをくり返す。水に濡れた地面を叩く鹿の蹄の音に、意地悪な小鳥たちの笑い声。大雨の湖畔でふざけ倒す彼らはもう、先ほどまで此処に穏やかな時間が在ったことなど忘れていた。だって、こちらの方が面白い!
 アインベルたちがバグパイプを吹き鳴らすクイの元へと辿り着くと、クイは自身の肩をわざとらしくすくめ、その唇を悪戯っぽく歪めてみせる。それから楽器を担いだままリトとジンの隣に並ぶと、演奏を続ける二人に倣い、彼は再び高いバグパイプの音を吹き鳴らしはじめた。
 ほとんどいたちごっこのような演奏を背に、アインベルとイリスは互いの手を握り締めて、赤く光る術師の言葉の下を駆けていく。あちらの音色をこちらの音色がつつき、つつかれた方が今度は音色でどつき返し、音色と音色の乱闘が始まり出してはその収拾がつかなくなった頃、そのすべてをはっ倒すような甲高い音色が、風もないのに彼らの間を吹き抜けた。
 その突飛で強引なハーモニカの音に、彼らはまるで頬を引っぱたかれたような顔をして、音色と音色で顔を見合わせた。それから目元で半ば安心したような笑みを浮かべると、楽の音を奏でながらも、まるで演奏を始める直前のように姿勢を正し、自分たちの元へとハーモニカの音色を引き寄せ、その通り道を開ける。さあ、風が来るぞ。それでこそだ。これから始まる!

  剣を下ろせよ 古き友よ……

 そうして彼らが奏ではじめたのは、かわたれの記憶の音。
 牧歌の間≠フ呼び声なき眼≠ノよって喚び出された、かの戦争にて奏でられた、〈オルカ〉の楽の音だった。ポロロッカたちは自身の記憶を頼りに、あの戦場でかわたれの彼らが最期に選び取ったもの、その音楽を奏でていく。
 彼らが銃声に倒れても、血にまみれても奏でることをやめなかった、心の臓からの音楽を、その言葉を。たいせつなものを失っている者へと呼びかける、あの言葉を。
 まるでその音色を見定めるかのように、頭上の赤い光がすうと目を細めた。ハーモニカが鳴る方へと駆けるアインベルとイリス、それを追うリト、ジン、クイの三人は、それに薄ら寒さを覚えながらも演奏を止めはしなかった。

  剣を下ろせよ 古き友よ
  聴こえているか わが呼び声が
  歌を歌えよ 古き友よ
  聴こえているか わが呼び声が
  わが血で燃やすな この空を
  燃やすならば この歌で
  わが血で染めるな この大地
  染めるならば この歌で

 声のない楽の音から、その言葉がアインベルの心臓まで届き、少年の鼓動を強く鳴らした。アインベルの瞳の奥に、銃を握り締めたまま死んだ楽器職人の息子、音楽を奏で、銃声に倒れていく人々が映る。彼は無意識に杖を握り締めた。
 赤い光が流れていく方角、ハーモニカの音が聴こえる方向へとしばらく行くと、そこではハルが銀にちかりと煌めくハーモニカを手に、確かめるように音色を奏でているのが見えた。
 その姿を目にした途端、イリスの足が速まる。それに引っ張られるようにしてアインベルはハルの元へと急ぐと、こちらに気付いたハルもまたイリスの方を見て目を見開き、その瞬間泣き出しそうな顔になって、イリスの元へと駆けてきた。
 そうしてハルは地面を強く蹴って、イリスをアインベルごと抱き締めると、泣き出しそうな顔のまま、イリスの頬を両側から引っ張った。頭上で赤く光るかわたれの言葉たちよりも強い無言の圧力に、イリスは微かにその睫毛を伏せ、後ろの三人たちは演奏を一度止める。イリスはそっと、その唇を開いた。
「……そんな顔をさせるつもりじゃなかった」
「分かってる。分かってるけど、悔しいのよ……あたし、なんでこんなに、弱い──」
「……人は」
 更に声を発しようとしたイリスを、頭上の赤がぎろりと睨んだ気がした。それでも彼女はすうっと息を吸い込み、締め付けられるような喉から声を振り絞るようにして、ハルへと届ける。
「人は、弱いから強いし、強いから弱いの。だから、私たちはきっと一緒にいて、言葉を交わすのよ。強さも弱さも、分かち合うために。その心を、伝えるために」
 イリスは、自分の頬をいつの間にか包み込んでいるハルの両手に、自分の両の手のひらで触れると、彼女が首から下げているハーモニカへと視線をやり、ふっと微笑んだ。
「さあ、吹いて。奏でて、ハル。あなたの心臓には、水も風も制する鯱がいる。だってあなたは〈オルカ〉のハルで、ポロロッカのハルなんだもの。だから聴かせて、あなたの音色。そして見せて、あなたの鯱を。私の目に、私の心に」
 それからイリスは顔だけで後ろを振り返ると、そこにいる三人に向かって、瞳だけで微笑んだ。あなたたちだって、同じよ。
 そんなイリスを目にしたポロロッカたちは、ふっと小さく息を吐きながら笑むと、各々の楽器を構え直し、一度止めた演奏を再び奏ではじめた。
 渦潮をつくり上げた者たち、赤く光る言葉を描いた術師たちには見えるだろうか。自分たちが何を思い、何を描き、何をねがい、何を呪い、何を殺したのかが、見えるだろうか。血塗れたその言葉は、それを描いた手のひらが守りたかったのは、一体なんだったのだろうか。
 奏でられる音楽が、渦を巻く。聴こえるだろうか、この楽の音が。人のつくった朝焼けに照らされた遙かいにしえ、かわたれの時代。聴こえるだろうか、燃え立つこの楽の音が。
 牧歌の間で追体験した、かわたれの時代のあの日≠ノ奏でられた音楽を、ポロロッカたちは再びこの時代──たそがれの時代≠ノて奏でながら、前へ前へと進むアインベルの後ろを追っていく。前へ、前へと。
 頭上で光る、星にも似た赤色の言葉たちは、どくどくと脈打つように輝きながら先へ先へと流れ、或る一点にその光を集めていた。血の川のように暗闇の空を流れていた光たちは、遠く前方で、さながら槍のような鋭さを以って地面へと突き刺さっている。
 アインベルは目を凝らした。何かを突き刺す赤い槍は、それも一本だけではない。様々な方角から流れてくる空の赤い光が、無数の真っ赤な槍と化し、地面に在る何かに向かってまた、無数に突き刺さっているのだった。裂くような鮮烈さで暗闇に浮かぶそれは、どこか魔獣の流す血のようだった。そう、それはまるで──
 巨大な、紅水晶。
 それを視界に映した六人は、その圧倒的な存在感にぴたりと足を止める。いいや、止められたのだ。そこにいる六人誰もが、音もなく息が詰まるのを感じる。
 重く差し向けられる視線を、のし掛かる沈黙を、その演奏で切り拓いてきたポロロッカたちの楽の音が、どこか心許ないものとなった。アインベルとイリスの歩もまた、吹かない強風に抑え込まれているかのように遅く、重いものとなる。
 ポロロッカたちの演奏は今や、ポロロッカ≠ニは名ばかりの、鈍く細い楽となった。それはまるで、銃声に一人、また一人と倒れ、それでも演奏を止めなかった──しかし確かに奏でられる音が減っていく、かつて〈オルカ〉の人々が奏でた音楽の再現だった。演奏を続けるポロロッカたちの表情も、ひどく苦しげに歪んでいる。
 身体の外にも内にもうるさく鳴り響く沈黙に、アインベルは暗闇の地面に膝を突きかけた。その背をイリスが慌てて支え、アインベルは杖の石突で地面に押し付けて、なんとか持ち堪える。
 冷えた暗闇に赤い言葉が光った。まるでその言葉の奥に、それを描いた術師が見えるようだ。冷たい夜の中で、少年の額に汗が噴き出る。溜め息すらも吐けなかった。
 天から降り注ぎ、地へ向かう途中で交わっては巨大な紅水晶と化す、無数の赤い光の矢。それはまた無数に、地面に伏せる小さな何かに向かって突き立っていた。
 アインベルはその何かに呼ばれるかのように、或いはずっと描いては呼び続けていたものを見付けたかのように、重い足をしかし確かに前に進めて、光の突き刺さる場所を見やる。
 ──そして、少年はその名前を呼んだ。
「のべつの竜=Aウロヴォロス……」



20180228

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