共鳴


 風が吹き荒れている。
 鈴の音が鳴っていた。
 アインベルは、あの日≠フように両の手で杖を握り締め、しかしあの日とは真逆の方角を向き、立ち上る渦潮≠ノ目指して、あの日より強く、あの日より確かに、そしてあの日よりも鋭い痛みを以って、その歩を進めていた。
「おい、冗談じゃねえぞ。これじゃあろくに息もできねえ!」
「ジン! 無駄口を叩いている暇があるなら手を動かせ! そら、また来るぞ!」
「はいはい! 俺はあんたの部下じゃねえっつうの、騎士さま!」
 海の夜は、陸のそれよりも更に深く、濃いものに感じる。
 夜よりも深い夜に立ち上る、どこか神々しくも見える白い竜は、涸れた海から水の代わりに塩を巻き上げ、細やかな光を放ってこちらを見つめていた。本来目が在るのだろうその場所は、しかし冷えた闇ばかり。眼のないその目は虚ろで、こちらがどれだけ視線を送っても、きっと視線は交わらない。
 おそらく彼≠ヘ自分たちのことではなく、自分たちにかわたれに生きた者たち、そしてかわたれに沈んでいった者たちを重ねて、かの朝焼けの時代を、あの戦争を見ていた。そして彼は此処で未だに、死した者たちの言葉を聴き、その言葉に縛られ、己の使命を全うしようとしている。
 戦い。争い。命を奪うためだけにかたち創られ、命を奪うためだけに力を振るう。それはなんて、悲しいさだめだろう。なんて苦しいさだめだろう。なんて身勝手で、独り善がりで、傲慢で、孤独で──虚しいさだめ、なのだろう。
 アインベルは塩が喉に張り付くのも構わず、ひゅっと息を吸い込んだ。
「──僕は、赦さなくてもいい?」
 その言葉に、いつの間にかアインベルを取り囲み、召喚陣の正円のようにして向かい来る風とやり合っていた六人が、己の心のみで少年の方を振り返ったようだった。
「ああ!」
 リトが吼え、彼の剣が塩の鉤爪を切り裂いた音が聴こえる。
「赦してやるなよ、こんな馬鹿げたもん! 俺だってな、俺だってこんなやつは──こんなもんを考えたやつのことは大っ嫌いだ! だってこいつは笑えねえ! 術ってのは、人の笑顔のために在るんだろうが!……ちょっとはな、ちょっとは此処のベル坊を見習えよ。アインベルのことを見ろよ。見てみろよ。お前に全部を奪われた、アインベル・ゼィンを!」
 猛禽のもつ鋭い爪のような形をした塩の塊が、リトの一閃によって砕け散り、その塩の粒が、無数に彼の顔に降り注いでは叩いた。まるで水郷に立つ波のように覆い被さってきた塩を、しかしリトは顔に水を思い切り掛けられたときの要領で乱暴に拭い、塩辛い喉の奥から振り絞るようにして声を発する。その声には、確かに怒りの色が滲んでいた。
「おい、聞いてんのか。つまんねえこと、するんじゃねえよ……!」
「リト、前に出すぎよ!」
「分かってる! 分かってるけどな、分かってるけど……!」
 リトの隣で、小さく渦を巻きはじめた塩の地面を避けながら、ハルがそう怒号を飛ばした。その声に、リトもまた血の混じったような大声で返事を飛ばし、剣の柄を折らんばかりの強さで握り締め、自分を落ち着けるために肩で息をする。
 アインベルの斜め前を守るかたちで付いていたイリスが、そんな二人の様子を目に映し、微かに焦りを感じさせる声色で、振り返らずに弟へと声をかけた。
「……策は有る?」
 アインベルは見えないと分かっていても、未だ距離はあるが前方に立ち上る渦潮を見据えたまま、イリスの言葉に半ば曖昧に頷いた。
「何処かに竜核≠ェ在るはずなんだ。竜核は術式に関わる場所に配置しないと意味がない。この海にはシーグラス──術が無数に埋まっているけど、実際に渦潮が起こるのは向こうだ。きっと、あそこが一等、密に編まれた術が埋まっている場所。だから、竜核が在るとするなら、それはあの渦潮の近くだ。だけど……」
 立ち上る塩の竜の、渦を巻く足下まで迫るのは、やはり無謀ではないのか。アインベルはかぶりを振り、それでも尚言葉を繋いだ。
「竜核を心臓とするなら、足下に埋まってる術式たちは血管だ。だとしたら、それを動かす、およそ脳に値する術式も在るはず。竜核を壊すのは、たぶん僕らの力じゃほとんど不可能だ。すべての術式を壊すのも。シーグラスは数が多すぎるし、僕はあれが割れたところを見たことがない」
 アインベルの言葉に、レースラインがほんの少しだけ顔を傾けて、視線を少年の方へと飛ばした。
「その脳≠ニやらは、竜核の近くに在るのか? それを叩けばいいと?」
「竜核に隣する術式は、その術式の中で最も複雑に、最も多く──或いは最も力をもつ言葉で描かれたもので構成されているはずだ。たぶんそれは、シーグラスのように小さくはない。決まった位置に固定だってされているはずだ。だから、それを壊してしまえば、この渦潮は力を失う。問題は何処に在るかで、どうやって壊すかなんだけど……」
「問題が山積みだな。だが大いに結構。私、そういうのには慣れっこなのでね」
 言って、レースラインは今までのそれよりも一等鋭くその剣を振るった。目にも留まらぬ彼女の一閃は音もない。音と言えば、塩の竜が伸ばした巨大な手のひらと、それにぶつかる軍刀が上げた、まるで金属と金属同士が立てる剣戟ばかりである。それから先はなかった。それどころか、レースラインの刃が白い竜の手に触れ、それを裂いたそのときに、風すらも一瞬凪いでいた。
「──アイン!」
 風が鳴りを潜め、白んでいた視界が拓けたその一瞬に、イリスは自身の紅で何かを見出したようだった。彼女は声を上げると、再び吹き荒れはじめた海の先を指差した。
「骨だわ! 竜の骨!」
「骨? 竜の骨なら、海にはよく在るよ」
「それでもおかしい! 見て! よく、見て!」
 よく在るもの。そう言って、今の今までシーグラスに、その当たり前に、その普通に描かれていた真実を見落としていたのはどの目だ?
 ずっと在るもの。そう信じていたものを、その当たり前を、その普通を──あの笑顔を、ぬくもりを、或る日突然に目の前から掻いて奪われたのは、一体どの手だった?
 アインベルは術を描くときのように息を止めると、その丸い目を見開いて、白んでいく視界のその先を見ようと、円の中心からほとんどレースラインとイリスの間まで進み出た。それと同時に、彼の隣に立つ彼女たちもまた、アインベルを護るためにその息を詰める。彼の剣は今、彼の失せ物探しのため、幾度も幾度も伸びる竜の白い鉤爪を断ち斬り、彼の視界を繋ぎ続けていた。
「円か、あれは……!」
 アインベルがほとんど絶望するようにそう声を上げると、それと共に音を立てて強い風が吹いた。その風に殴られたレースラインの上体が傾く。しかしその背を、アインベルは彼女の支えとなるべく片腕で受け止めた。想像していたより軽い。むしろ、悲しいくらいだった。
「おっと……きみ、身長が伸びたようだね」
「成長期ですから。でも、まだまだこれから」
「アイン、それ、前にも聞いたわ」
「もっとだよ。もっと、もっと。まだまだ、これからだ!」
 少しだけ微笑みながらそう吼えて、アインベルは、体勢を立て直したレースラインの背から腕を離した。それから視線を再び渦潮の方へと巡らせると、その白い竜の身体に埋もれている、地面の塩とほとんど同化して見える、白く大きな竜の骨たちを視界に映す。
「……ねえさん」
「ええ、アインベル。上から見たときに、他より光っていた処……それは、あの骨だったんだわ」
 途切れとぎれに目に映る竜の骨たちは、渦潮が立ち上っている処を中心にして、そこをぐるりと囲むように配置されていた。それはつまり、世界へと呼びかける無数の言葉を、最も届き易いかたち──円で閉じる陣が、あの竜の骨で代用されているということである。
 ただ、線で描かれていない不完全なその円は、竜の骨と、また別の竜の骨との隙間から、この海に無数に敷き詰められたシーグラスに描かれた言葉が、無遠慮に円の内側へと入ることを許すだろう。そしてそれはおそらく、意図された空白だった。海を操り、操られた海により他者の命を奪うための、虚ろな空白。
 つと、レースラインが唸るように吹く風を裂きながら、声を上げた。
「──つまり、こんなものが此処には幾つも在るというわけだ! この東には!」
「……でも、止めないと。僕らの術は、僕らの力は、こんなことのために在るんじゃない」
「そうね。それに、この風……声を上げているわ」
「怒っているか?」
「いいえ、泣いている」
 その言葉に、レースラインはどこか投げやりな溜め息を吐いた。自分たちは子守りにしては、少々手荒すぎる。喉の奥だけで笑って、彼女はまた風を一閃した。
「甘えるなよ。そんな甘さは私が叩き斬ってやろう! 退け! 道を開けろ! 我らが進むべきはそちら! 日が昇る方角だ!」
 王國の騎士は、凜と響き渡る声で高らかにそう発すると、その刃の閃きを更に鋭いものにして、一歩、また一歩と、唸るように泣きながら拳を振り回す、かりそめの竜に向かい、その足を進めていく。
 竜の周りを囲っている骨たちは、どれもが内側に向かって反っている。しかし、陰になっているはずのその内側からは、何かぼんやりとした光が放たれていた。それを目にしたアインベルは、はっと見開いている目を更に見開いて、その唇から洩らすように言葉を零した。
「あれは……竜核か?」
「何?」
「地面に立っている竜の骨──その一本一本の内側から光が洩れてる。ちゃんと見たわけじゃないけど、もしあの骨それぞれの内側に、竜核が填め込まれているのだとしたら、そしてその竜核自体に術式が刻まれて、脳の役割をしているのだとしたら……もしそうだとしたら、あれを壊すのなんて……」
 ──瞬間、風が口を開けた。
 今までこちらを殴り付け、地の果てまで追い返そうとするかのようだった風は、唐突にその腕を広げ、息を吸い込み、鉤爪の拳を開いた。ばん、と吼えたクイが操る拳銃の弾丸が、弾き返されることもなく、風の手のひらの中に吸い込まれていった。それを目に映すと、クイは銃声よりも大音声で声を張り上げる。
「──風が変わった!」
「引き潮だ……!」
 円を描いて地面に突き刺さる竜の骨が、一瞬だけまばゆい赤の色に光った。
 その色に、アインベルは吐き出した恐怖を、再びはくりと飲み込んだ。骨が光ったのではない、その内側に填め込まれた竜核がさらなる熱を帯びて色付いたのだ。あの赤に見憶えがある。あの赤はまさしく、かわたれの色だった。──彼≠フ記憶の中で見た、戦争の色だ。
 早鐘を打つ心臓をそのままに、自身の視線を渦潮へと向けると、先ほどまで、白く曖昧に塩で竜の皮を被っていた風は、しかし夜の中で色付いた赤の光を受けると、その姿を変えた。
 真っ白な白の鱗を身に纏い、獅子にも似た顔はそのままに、前足ばかりのある巨大な海蛇のような姿をとった渦潮の竜は、かつてはこの地の果てにまで湛えられていただろう、竜の涙──その中を恐ろしくも美しく泳ぎ、そのようにして逃げる船を人を、沈めてきたのだろう。
 ──だが、今はどうだ?
 涙は枯れた。この地に在った水はもう、涸れてしまったのだ。
 己が自由に泳ぎ回ることのできる水が乾上がってしまったこの海で、かりそめの竜はもどかしそうにその長い尾をばたつかせ、鋭い鉤爪の前足で目の前に広がる塩を引っ掻いた。
 虚ろな闇が棲んでいた両目は、しかし新たな鎧に身を包んだ今も尚虚ろ。彼の周りに円を描くように立つ、骨の竜核から与えられる赤色も、その目には映ることもなくただ黒に吸い込まれていくばかりだった。
 風が唸る。それは彼の咆哮。彼の周りの地面が渦を巻き、巨大な蟻地獄の巣のように塩を呑み込む。もう一つ、渦を巻く。もう一つ。もう一つ。
 海の向こうへと逃げる者などもういない真白い海で、水が涸れた今も地に這い、遠い時代に与えられた使命を従順に守り続けるこのつくられた竜は、何度これ≠くり返したのだろう。何匹の竜が、何度これ≠くり返した? 
 その行い、その時間の狂気を思い、アインベルはきつく唇を噛み締めた。
「これが……」
 ──これが、ぼくらの術か?
 これがぼくら術師が望んだ術か?
 ぼくらの言葉は、人を殺すためのものか?
 ぼくらの言葉は、そんなものなのか?
 ぼくらの言葉は、なんのために在る?
 なんのために?
 なんのために……
「──僕らの言葉は……!」
 アインベルは、振り絞るようにそう言うと、手にした杖のその石突を思い切り地面に叩き付けた。しゃん、と澄んだ鈴の音が海に響き渡り、しかしその音は遠く前方に見える塩の竜には届かない。彼の耳にはもう、死した者の声しか届かないのだ。彼は、そう≠ネのだ。そうつくられているのだ、はじめから。
 しかしアインベルの鈴の音は竜には届かずとも、彼の仲間たちのその心には響いている。レースラインは、強いまなざしを以って杖を地面に叩き付けた少年の方を、横目で静かにちらと見やった。それから前方へと視線をやると、風の唸り声を上げながら、寄る辺なくその躯をのたうち回らせている竜を見、海よりも白く見えるその睫毛を微かに伏せた。
「彼の、考えるための脳は死んでしまったようだな。脳が死んでも身体は死なない場合が、人にも時々あるからね。彼には考える力など、元々ないのかもしれないが」
「……心は、在るのかな」
「なければいいね。在るのなら同情する。自分の身体なのに、自分の心のままに動かせないのは苦しいよ。彼の場合、それがほとんど永遠に続くのだろうから。ま……そんな彼をつくった者たちは、きっと自分の心を何処かへ失くしていたのだろうけれど」
 レースラインは少しだけ笑い、それからアインベルに問いかける。
「……前時代にはいなかったのかな」
「え?」
「──失せ物探し、さ」
 それだけ言うと、彼女は伏せていた睫毛を上げ、真っ直ぐに前を見据えた。レースラインは、今は止んでいる風の中に、すべてを灼いたかわたれの気配を感じる。
 そこには音もない。しかし、彼女はこれを知っていた。嵐の前の静寂。事が起きる前というのはいつも静かで、終わった後というものもまた静けさに包まれている。この静寂は、誰かの命を断とうとする瞬間の音。そして、その嵐は一瞬だ。それより先にもまた、音はない。
 これは、自分が今まで何度も、何度も何度も何度もくり返してきた、その瞬間の静けさだった。おとなしの民≠ナある自分が握る、この軍刀をかつて握り、自分の中にも確かにその血が流れているレン≠烽ワた、この静けさを知っていただろう。
 ──彼女なら?
 彼女なら、どうするだろう?
 彼女なら、躊躇うこともなく、また音もないまま、かの竜に近付いて、その首を刎ねることができるだろうか。
 彼女なら、己を保つために口の中を噛み締め、震える手を抑えるために柄をきつく握り、地面で音が鳴るほどこの両脚に力を込めることなどないのだろうか。
 ──彼女なら。
 ふと、舌の上で鉄の味がした。
 血も肉もない義手は微かに震える。
 更に軍刀を強く握る。
 右手から、騎士の甲冑が動く音がした。
 柄を握り締めると同時に脚に力が入る。
 足下で白い塩が小さく悲鳴を上げていた。
 では、彼女なら?
 彼女なら?
 彼女なら。
「ああ!──もうたくさん、だな!」
 レースラインはそう声を上げると、握り締めた軍刀で、目の前をひゅっと一閃した。心の臓を締め付けるようなその静けさを彼女は斬り裂くと、ぐるぐると渦を巻く瑪瑙の思いを小さく鼻で笑い飛ばし、何かに備えるように自身の腰を低く落とした。
 彼女なら?
 分かるはずもない。会ったことも、言葉を交わしたこともない人間だ。そして、これから先も出会うことのない人間。彼女は死んだ。彼女は、遠い時代に死んだのだ。あの塩の竜に未だ命令を下し続けている、かわたれの術師たちと同じように。
 彼女なら。
 関係ない。今、震えているのは自分の心だ。自分だけの、この心だ!
「来るぞ!」
 地が唸った。
 巡りはじめた血がどくどくと音を立てるように揺れはじめた東の海に、すべてを灼いたかわたれの色が竜の身体に淡く光った。だが、その身体を形づくる白い塩には、しかし確かにすべてを呑み込む黄昏の気配が入り混じっていた。
「みんな、武器を地面に突き刺して! 身体を低く、離さないで!」
 そう叫ぶと、アインベルは手にしている鈴の長杖を地面に突き立て、身を低くしては前方を見据えた。そんな彼に倣うようにして、レースラインはその軍刀を、リトは長剣を、ジンは短槍の穂を、クイは拳銃から持ち替えていた銃剣を、白い地面に突き立てる。
 イリスとハルも同じように短剣や双剣を海に突き刺していたが、レースラインの軍刀よりも湾曲し、ジンの槍よりも全長が短い二人の剣は、自身の支えにするには少々心許ないもののように思えた。
「──来る!」
 アインベルとレースラインが同時にそう吼えると、前方でのたうっていた塩の竜は、その鉤爪を地面に突き刺し、鎌首をもたげ、奥に虚空を湛える唇を開いた。つんざくような音が海に響き渡る。海に満ちている空気が、その恐怖に黙り込んだ。
 ──そして、風は鳴いた。
 海の風は大口を上げた竜に吸い寄せられ、嘆くような悲鳴を上げる。
 渦潮の竜の周りで円を描く、いにしえの竜の骨たちは、内側を赤く輝かせてはその身にかわたれの光を伝わせ、そうして地面に下りた赤色は、塩の大地を這って真っ直ぐに塩竜の元まで伸びている。幾本も伸びる赤い光はさながら竜を縛る糸、或いは制するための矢だった。
 そんなかりそめの竜の周りに広がる地面には、巨大な渦が幾つも逆巻き、近付く者も、逃げゆく者も皆関係なく呑み込もうと口を開けている。
 風が吹く。首元を掴み、締め上げ、そうしながら自分の元へと引き寄せて呑み込むような、引き潮が吹いていた。
 今や形をもたず、見えなくなった風に掴まれ、アインベルたちは少しずつだが確かに、竜の周りで獲物を待っている大渦の元へと引かれていく。各々地面に突き刺した武器を強く握り締め、ざりざりと音を立てながら、白い海にその爪痕を残していた。
「──おい、このままじゃ死ぬぞ! 手はあるのか、アインベル、レン!」
 そう声を上げたジンに、アインベルは返事をするべく息を吸い込んだ。けれども、それから吹いた肺をも潰すような風に、上手く言葉が声にならず、彼はほとんど喘ぐように言葉を発する。
「こと、ば、を……!」
 そうして今度は息を吸い込まずに、残った息だけで言葉を紡いだ。
「僕らの、言葉──を!」
 それでもその意味を解りかねて、ジンは眉間に皺を寄せた。しかし、これ以上は無理だった。大きな声を発すればそれだけ空気が要る。けれども大げさに息を吸えば、吸ったところから風に煽られた塩が入り込み、その身体を少しずつ涸らすだろう。
 風が強い。吐き出した息や、そこに乗った言葉は皆、竜の元へと吸い込まれていく。
 風が強い。聞こえるのは風の音ばかりで、仲間の声も、自分自身の声すらも聴こえない。これでは耳が聞こえないのとほとんど変わらなかった。
 風が強い。もうどれくらい、この風に引きずられた?
 風が強い。声が聴こえない。声を送れない。言葉が届かない!
 そこに在る誰もがそう思い、焦りを感じる中、イリスはもう少しアインベルに近付き、声を聴き取るまではできないまでも、なんとかして弟の唇を読もうとした。そのために彼女はほんの少しだけ短剣の握りを掴んでいる自身の手を緩め、ほんの少しだけ足に込めている力を緩め、アインベルの方へとその身を乗り出した。
 そう、ほんの少しだけ。
「だめだ、ねえさ──」
「えっ?」
「──イリス!」
 そう声を上げたのが誰だったのかも少年には分からない。しかし、まるで謀ったかのように、イリスの力が抜けたその一瞬の隙を突いて、強い風が彼女のことを掴むように思い切り引っ張り寄せ、それから地面にうつ伏せに叩き付けたのは、アインベルにも見えていた。
 イリスの手が塩の海を掻き、支えにしていた剣の元まで戻ろうと藻掻いている。けれどもその指先と剣までは、もう手のひら一つ分ほどの距離が空いてしまっていた。手を伸ばそうにも、そこにいる誰も、互いの距離が遠かった。そう、ほんの少しだけ。
 そして、それよりも、塩の竜の周りで激しく逆巻く、渦の方がイリスに近かった。
「ハル!?」
 ふと、リトがそう叫んだのが聞こえた。次いでハルの姿が視界に映る。
 ハルは自身の武器から手を離し、ずるずると渦潮の元まで引きずられていくイリスの元まで飛び込んでいった。けれどもその手がイリスの手に届くという瞬間、風がまたハルのことをも引き、彼女を地べたに転がした。
 二人の背後には、もうかの蟻地獄が、まるでなぶるような速度でゆっくりと近付いてきている。
「くそ……!」
 舌打ちが聞こえる。息もできないまま顔を音がした方へと向ければ、今度はリトが地面に突き刺していた自身の得物を、しかしそこから引き抜いていた。
 彼は長剣の切っ先ばかりを地面に当てたまま、自ら引きずられるような格好で二人の元へと近付いていった。決して風に倒されないように身体に力を込め、もし倒されてもまた立ち上がれるように、命綱である剣の柄をきつく握り締めたまま。
 リトはぎりぎり二人に手が届くという場所で剣を地面に突き立てると、まずはハルの方にその手を伸ばし、それが彼女の手に届くと、ぐっと強くハルを自身の方へ引き寄せた。
 力を込めすぎた剣の握りが、ぎちぎちと音を立てている。それでも彼は彼女の手を離さず、ハルもまたなんとか風の海から這い出ると、リトはほとんど投げ飛ばすようなかたちでハルを自身の背後へと回し、自身が掴んでいる長剣の柄を彼女にも握らせた。
 限界まで腕を伸ばし、続いてイリスの手──手袋を留める、手首の革帯を掴んだリトは、同じように自分の元へとイリスを引っ張ろうとして、しかし異変に気が付いた。
 ──おかしい。
 どれだけ力を込めても、イリスの身体は動かない。むしろ渦の方へと、彼女は段々に引き寄せられていた。リトは唾のかたちをしていない唾を飲み込む。突き刺した剣が、ざり、と音を立てていた。自分もまた、あの巨大な渦の方へと引き寄せられている。ざり。また音が鳴る。額に汗が噴き出た。
「イリス……!」
 せめて手首を直接掴めれば。嗄れた声でイリスを名を呼んだリトは、まるで自分に剣を突き刺してこの場に留まろうとするかのように、唇の端を貫いてしまうほどにきつく噛んだ。
 深い夜の中で、白い海が赤い光を受けながら渦を巻いている。ふと視線をやった方にそびえる竜には、しかしなんの表情もない。手袋の革帯を掴む指と、そこから手首へのほんの少しの距離がもどかしかった。こんなに少しの距離が、こんなにも遠いなんて!
 けれども、砂時計の砂は落ちる。
 イリスの身体はもう両足首が蟻地獄のような渦に呑まれ、ゆっくりとだが着実に海の底へと沈んでいく。彼女の赤い目が真っ直ぐにリトを捉え、彼はその揺らぐことのないまなざしに一瞬だけ怯んだ。
 イリスの瞳に、恐怖は滲んでいない。
 ただ、真実を見極めようとする彼女の鮮やかな紅色に、虹色の火の粉を放つ電氣石が、煌々と光を発しているばかりだった。いつも通りの瞳。それが自分への信頼にも不信にも、希望にも絶望にも、様々な色に映って、リトはイリスの革帯を更にきつく握った。
「なあ、俺は……!」
 まるで泣き出しそうな、苦しげに歪められたリトの表情に、イリスの唇が微かに震えた。彼女はそこから少しばかり吐息を洩らすと、リトに掴まれていない方の手を何やらまさぐりながら、しかし彼から視線を逸らすことなく言葉を紡ぐ。
「私、目には自信があるの。だから、あなたが何を選ぶのかなんてお見通しなのよ、リト。ハンター、あなたは選んだ」
「何、言って……!」
「そんな顔をしないで。だいじょうぶ、何も間違ってなんかいないわ」
「やめろ、諦めるな! こんな処で、諦めないでくれ……!」
 その訴えにイリスはふっと柔らかく微笑むと、もう片方の手で服の隠しから取り出した、半ばしなびた葉っぱを自分の顔の方へと寄せた。
「諦めてなんかいないわ、私は一つも」
 まるで安堵させるかのようにそう発する彼女の声の優しさに、リトにはその言葉が気休めにしか聴こえなかった。イリスの口から音もなく息が洩れる。今度は確かに恐怖の色を滲ませていた。それでも彼女の赤い瞳は燃え、怯えを呑み込もうとしてきつく閉じられた唇を、彼女は強く噛んだままに無理やり弧を描かせた。
「だいじょうぶ。私、幸せ者で──しかも、運がいい」
 そう笑ったイリスからは、恐怖の色が完全に消え去っていた。
 それから彼女は片手にした葉を自身の唇に当てると、そうしていつものように¢嵩Jを吹いた。けれども、しなびた葉から音は鳴らない。それでもイリスは顔を上げ、その葉が完全に破けてしまうまで何度も、何度もその草笛を吹いた。
 ──そう、それが彼女の呼び声だったのだ。
「知ってるでしょう、ハンター。ぎりぎりに立たないと、見えないものも在るってこと」
 役目を終えてばらばらになったイリスの草笛が、渦潮の風に引かれて、蟻地獄の中へと消えていった。その中に一つ、葉の欠片よりも大きな影が映る。それを目にしたリトの息が弾んだ。どこからともなく蹄の音が聞こえる。その足音に共鳴するかのように、リトの心臓が早鐘を打ちはじめた。
 そして、そのすべてに嫌な予感を覚えて、リトは視線をイリスのもう片方の手にやる。その手には、自分が掴めなかった方のその手には、しかし、彼女が世界から借りている熱≠仕舞っておくための手袋が嵌まっていなかった。
「私も選んだ。今、この道を」
 言うと、リトの制止よりも早く、彼女は素の手のひらを、リトが掴んでいるもう片方の手の革帯へと押し当てた。
 風が吹いている。イリスの身体はもう腰まで渦の中へ沈み、彼女が渦潮に引き寄せられるたびにリトの身体もまた少しずつ、そちらの方へと引っ張られていった。
 風が吹いている。イリスの鮮やかな橙色の髪が煽られ、夜の中に浮かび上がった。けれども、彼女の髪が逆立ったのは激しく吹く風ばかりのせいではない。
 ──風が、燃えた。
 瞬間、手袋の革帯がイリスの手によって焼き切られ、火の粉を撒き散らしながら、先の草笛のように渦の中へと呑まれていった。赤い瞳が光る。リトがもう一度掴もうと彼女の元へ伸ばした手は、ただ夜の闇を虚しく掻いた。蹄の音が近い。
 火の粉が舞い散る闇の中で、半身を塩に呑まれながら、それでもイリスはその片手を高く掲げた。
「──ヴィア!」
 そうして現れたのは、月の光に照らされてその身を黒よりも更に黒く輝かせる、魔の風を喰った馬だった。
 風に吹かれたヴィアの毛並みが、夜の草原の如くに光りさざめいている。黄昏れる風の嘆きすらも喰らってしまった馬の魔獣は、痛みに悲鳴を上げる風を拓くようにして、その唇から高く、凜とした風の声を発してみせた。
「だいじょうぶ、奔って!」
 そう声を上げたイリスの紅水晶のような瞳と、ヴィアの黒曜石にも似た瞳がかち合った。ヴィアはイリスの目から絶えず爆ぜている虹の火の粉を自身の瞳に宿すと、もう一度高く鳴き声を上げ、奔り出した。
 イリスに背を向け、リトとハルの襟首をその口で掴んで。
「い──嫌! 嫌だ、嫌だ、嫌だ! イリス!」
 ほとんど放心していたハルが正気を取り戻してそう叫んでも、ヴィアは駆け続け、イリスとの距離はどんどん遠くなる。しばらく行くと、ヴィアは半ば放り投げるようにしてリトとハルを地面へと下ろした。その瞳に声はなく、また表情を読み取ることもできない。
 ただ、イリスから受け取った虹色が、微かな熱を帯びてヴィアの瞳の中で揺らめいていた。
 風は止んでいた。
 イリスを呑み込む余韻をもう感じはじめているのか、鳴りを潜めた引き寄せるような渦潮の風に、誰もが何も発せないまま、イリスの身体が海の中へと沈んでいくのを見つめることしかできない。
 それでも、アインベルは見ていた。
 その顔がすべて塩に呑み込まれる前、彼女がふっと優しく微笑んだのを。その赤い瞳が自信に充ち満ちていたのを。その唇が音もなく、しかし、確かに言葉を紡いだのを。
 ア、
 イ、
 ン、
 ベ、
 ル。
 ──アインベル。
 そう、自分の名前を呼んだのを。
「ヴィア!」
 叫んで、アインベルは、離れた位置にリトとハルを下ろしたヴィアの元へと、杖を片手に駆け出した。
 黄昏れ、色褪せた緑の瞳が、その暮れの色を宿したまま月の光を反射し、海の白に輝く。彼の心の臓は強く脈打ち、自分のすべきことを、自分自身へと大音声で告げていた。
 聴け、聴け、聴け!
 その声を、その音を、その歌を、その言葉を、その心音を!
 聴け、描け、呼べ!
 ──その名前を!
 ヴィアもまた虹の火の粉を撒き散らしながらアインベルの方へと駆け、そうして出会うと、少年はヴィアの背に飛び乗り、更に渦潮から逆走を続けた。
 ヴィアの蹄の運びと同じくらいに速く鼓動は心臓を叩き付け、鈴の音はそれを更に急かすようにして、夜の海に響き渡る。そう、もっと速く! 速く、速く、速く!
 そして或る地点で、アインベルはヴィアの背から転げ落ちるように地面に下りると、その塩の大地に刻まれた一つの召喚陣を視界に映し、その前に膝を突いた。
「アイリス……」
 それは、アインベルの実の妹であるアイリスを喚び出すために描いた、真の呼び声なき眼≠セった。
 アインベルは、自身の手によって乱れ、爪痕が残された陣を、短くした杖の石突により、目を見張るような速度で修復していくと、しかしアイリス≠ニ名前が刻まれている、その言葉の前で己の手を一度止めた。
 そして、アインベルは右手に持っていた杖を左手に持ち替えると、その右の手のひらを妹の名前の上にかざす。そして、少年はその顔を、涙を堪えるような笑顔に無理やりに歪ませて微笑んだ。
「ありがとう、大好きだよ。ずっと、大好きだ。ねえ、アイリス──お兄ちゃんのわがまま、聞いて、くれるかな……」
 返事を求めない問いを、もういない妹へそっと投げかけると、アインベルは名前の上にかざしたその手のひらを召喚陣に押し当て、陣の上からアイリスの名を取り上げた。まっさらになったその白の上に、今度は姉の──イリス≠フ名前を描く。深く、深く、刻み付けるように。その名前が、強く、強く、響き渡るように。
 アインベルは痛みを堪えるようにして、しかし揺らぐこともなく立ち上がると、その鈴の杖を再び長く引き延ばして、その石突で力強く、虚しい言葉が蔓延るこの東の海を叩き、鳴らした。
 鈴の音が、東の海と、少年の心臓の中で響き渡った。
 誰かが自分のことを呼んでいる。
 何度も、何度も、何度も、自分の名を呼んでいる。
 アインベルはその呼び声に応えるようにして、杖で大地と繋がったまま、しかし月にまで届くほどの声で大きく、大きく、その足の裏から、腹の底から、心の臓から、喉の奥から、たった一人の名前を呼んだ。他の誰もと同じように、この世界にたった一人しかいない、自分のたいせつな者の名前を。
「イリス──!」
 その瞬間、陣の上に光が浮かび上がる。
 そこから、心音が聴こえていた。
 心音、鼓動、心の臓が動く音、生きている音。
 それが聴こえる。
 聴こえる。
 聴こえる。
 聴こえる!
 此処へ、いや、そっちへ!
 アインベルは両手を伸ばし、聴こえてくる心音をかき抱くようにして、浮かぶ光の中へと飛び込んでいった。
 そして、夜明けよりも日の出よりも白くまばゆい光が、しかしその二つに最も近い、この海へと広がった。



20180208

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