真実


 夜明けを前にして、窓から差し込む月の光が、淡くあわく輝いている。
 丸い盤に満たした水は夜のきんとした空気に冷え、その凍てつくような水は或る意味で、触れると熱さを感じるようだった。
 カイメンと別れた後、やはり短い間だけ眠り、そうして朝を待たずに目を覚ましたレースラインは、世回り≠フ騎士として再び出立する自身の身を清めようと、銀の水盤へ自室の水瓶から聖水を満たした。
 騎士の詰め所には一部屋一部屋、それぞれ金色の水瓶が備えられており、その水瓶には、かつて存在されたとされる首長獣──麒麟を表した意匠が、鮮やかな緑で凝らされている。その麒麟の周りには、生い茂る枝葉の意匠。
 それらの意匠は、この水瓶に満たされている聖水が、世界樹〈カメーロパルダリス〉の朝露を貯めたものであり、世界樹と言えば、そのゆったりと揺れる葉々の姿が、慈悲深い麒麟の睫毛、とよく比喩される故のものであった。
 騎士は出立の前に、この聖水でおのが身を清める。
 銀の水盤に布をくぐらせ、その布で他の騎士と違わず身を清めたレースラインは、その一糸纏わぬ姿で、盤の揺らめく水面を見やった。
「……こんな水で清まる身など、何処にも有りはしないというのに」
 自嘲にしてはあまりに静かに響いたその言葉に、しかし水鏡は無音でただ、布の余韻に揺れているばかりだった。
 レースラインは波紋が失せつつあるその水面に、自身の姿を映す。
 透明な水に浮かんだ自分は、どうだろう、笑えるほどに凄惨な姿をしていて、最早笑みすらも浮かばない。自身の左半身の肌は白く、そして白いが故に、世回りで受けた細かな傷も目立って見えた。そのほとんどが完治直前のものばかりだが、指先で触れると、未だ軽く痛みを感じるものもある。
 右半身と言えば、そこには赤と言うよりは黒に見え、黒と言うよりは赤に見える、まだらの火傷痕がその肌のほとんどをびっしりと覆い尽くしていた。それはまるで、死して干乾びた蛇の鱗のようにも見え、また、燃え尽きた樹々のその赤黒い肌にも見える。およそ、人の肌には見えなかった。
 ──もし、自分に焼き付けられたこの呪いの刻印を、すべて晒せば人は一体どんな反応をするのだろうか。
 肌を粟立たせ、化け物、魔獣と、そう言って憎悪の刃を向けるのだろうか。
 醜い、生にしがみ付きすぎた獣だと、そう言って嫌悪のまなざしを向けるのだろうか。
 それとも……
 ──それとも、自分たちと何も変わらないと、そう言って微笑んでくれるのだろうか。
 じつのところ、自分がいちばん恐れているのはきっとそれなのだろうと、レースラインは心の中で自身を小さく嘲笑った。
 右手の甲まで及んでいる火傷痕に、レースラインは左手で軽く触れた。右と左で全く違う自分の肌の感触に、火傷に覆われたその肌のざらついた感触、水も湧かなければ火も起こらないだろうその手触りに、彼女はふっと微笑み、闇夜に浮かぶ白い睫毛を伏せるようにする。
「痛く、ないな……」
 呟いて、今度は傷痕に爪も立ててみる。
「痛くはない……」
 息を吐くように発したその自分の声は、しかしすぐに夜の中に溶け消えた。
 ──あの日=B
 あの、すべてを失った日に受けたこの傷痕も、今やもう痛みを忘れてしまった。痛みを忘れたのはこの肌か、或いは心か。右の半身、心臓の鼓動が聴こえないその半身は、一体どう触れようが、爪を立てようが歯を立てようが、傷を受けようが、もう痛みを感じない。
 それを言葉にするならば、虚しい、だろうか。
 虚しい。
 この虚しさは、まるで、漂うばかりの睡蓮の花を見ているようだった。根も張れず、ただ水面に流されるばかりの、出来そこないの睡蓮のようだった。張るはずだったその根を斬り捨てたのは、しかし自分自身であるというのに。
「……先生、カイメン……」
 無意識に呟きながら、レースラインは水盤に手のひらを浸し、その透明にゆっくりと渦を巻かせる。そうしてみれば、水面に映る自分の姿は簡単に揺らぎ、これではもう、誰が映っているのかすら定かではない。
 銀色の器に満たされた聖なる水は、青い夜の中に尚はっきりと浮かび上がる白色を──ただそれだけを、確かなものとして映し出していた。
「真、か……」
 己の真を貫く、そう言ったカイメンの顔を想い出して、レースラインは窓の先を見やり、ほんの少しだけ息を吐く。
「……私には、もう、分からないな……」
 細く声を発し、そうして彼女がその両肩を自らで抱いたのは、この夜の寒さに耐えきれなかったからだろうか。
 半分は白く、半分は赤黒い肌を、どこか分けるようにして浮かび上がるレースラインの背骨に、しかし彼女の真っ白な長髪が掛かる。しばらくの間そのままで、さながら彫像のように動かなかった彼女の、その背を覆う色を通さない白髪は、夜明け前の闇の中、まるで真っ白な蝋の翼のようにも見えた。
 ふと彼女は顔を上げ、何処かで鳴る、朝告げの鐘の音を聴く。
 思わずその視線を窓へと持っていったレースラインは、けれどもこちらへ投げかけられる光が、未だ月明かりばかりであるということに気が付いて、内心でかぶりを振った。
 ──しかし、夜明けは近い。
 それを自覚すると共に彼女は立ち上がり、それにつられて、羽のような白髪がレースラインの背で浮かぶように広がった。
 そうして彼女は、その如何にも騎士らしい素早さで、自身の鎖帷子に袖を通す。その上に羽織る陣羽織の赤いタバードに刺繍された、夜明けを引き上げる鷹獅子の紋章に指先で触れながら、レースラインはじっと、窓の外からこちらを見ている光へと視線をやった。
 月の光はすべてを暴く。
 同じように、夜明けの太陽もまた、自分のすべてを暴くのだろう。
 空に浮かぶ二つの光に、自身で掴めなくなったこの心すらも見えているのだとしたら、暴いた心を目の前に突き付けてほしかった。真もなく、正義もなく、おのが意志すら見失ったその心の醜さに、望みを絶ち、膝を折ってしまいたい。
 冷えたまなざしを投げかける無慈悲な月にでもなく、痛いほどにまばゆい光を与える無関心な太陽にでもなく、その二つが緩やかに混ざり合う光、その黄昏の光に、この身を委ねてしまいたかった。
「……今更、何を」
 彼女は壁に立て掛けられている騎士の剣と、自身の軍刀を手に取ると、静かな瞳でそれらを帯刀した。
 この光の前に、逃げ場はない。
 ──逃げ場など、何処にも在るはずがなかった。


*



 日が、暮れようとしていた。
 レースライン率いる世回り第十三番小隊は、王都〈アッキピテル〉からしばらく過ぎた辺りに在る、街道沿いの小さな町の前で、皆が皆狂ったように自身の得物を振るい、紅水晶を散らしていた。
「どういうことなんだ、これは……!」
「分かりません! ですが、これではきりがない!」
「──カイメン、後ろだ!」
 他の隊員と同じく自身の軍刀を閃かせては、鋭くそう叫んだレースラインの声に、カイメンは素早く振り返って、背後に迫っていた魔獣の首を斬り落とした。
 レースラインは、自身の纏うマントと尾羽の赤、そして髪の白を翻しながら、視界に映り込んでくる魔獣すべてをその刃で裂き、町に辿り着いた自分たちの前に突如現れた、この魔獣の大群たちのことを思う。
 ──明らかに、何かがおかしかった。
 だが、何がおかしい? 今回は特に大きな討伐命令もなく、騎士の最軽装を纏い、民を護る世回りとして、自分たちはいつも通りにこの町に訪れただけだ。おかしいところはどこにもない。
 いいや、だが。
 だがこれは、この魔獣の現れ方は。
 これはまるで……
 ──まるで、自分たちのことを待っていたかのようではないか?
 レースラインは、魔獣の爪を地面を転がってかわしながら、意識は魔獣に向けたままで、しかしその目線を自分たちが今やり合っている街道の先へとやった。
「この道……」
 この道を、自分は知っている。
 いいや、それは当たり前だ。一体何年、世回りとしてこの道を通っていると思っている。レースラインは自分自身に毒づいて、頭上から飛んでくる魔獣の爪と共に、その頭までも斬り落とした。そうだ、この街道の先には、一体何が在った?
 魔獣の紅水晶を浴び、戦場の空気と閃く刃に沸々と熱くなる思考を抑え込んで、レースラインは自身の記憶を掘り起こす。
 そう──確か、この道の先には分かれ道が在った。
 右に行けば、また長く続く街道。
 左に行けば、少し行った処に町が在る。その町を抜けてまたしばらく行くと、森が姿を現し、しかしその森は霧が深いために人を受け入れない。そして、その霧深い白の森に身を潜めるのが……
「……おまえたち……」
 そこで思い至って、レースラインは目を微かに見開き、その刃を振るった。脇腹を狙った魔獣の腹が裂け、紅水晶が散る。
「ハリヤマ≠ゥ……!」
 レースラインは斬った魔獣の躰が、紅水晶を流しながら、段々と黄金色の砂となっていくのをちらりと横目で見やる。あまりにも数が多すぎるために、その姿をじっくりと見ることは叶わないが、しかしこの魔獣たちは、言われてみれば、霧の森で狩り尽くしたはずのハリヤマ≠ノ、どことなくその風貌が似ているかもしれなかった。
 ──ただ、そっくりそのまま同じというわけではない。
 ハリヤマは、体躯が上背のある男と同じほどもある巨大な山猫である。その体毛はすべてが鋭利な針のようになっており、生半可な刃などは、いとも容易く弾き返されてしまうほどに強固だった。そんな彼らの弱点は、体毛の生えない腹、その一点のみ。そのようにして、彼らの体毛は彼らの武器であり、また、頑丈な鎧のはずだった。
 けれども、今日の彼らは鋭い針のようになっているはずの体毛が、どこをどう見ても見当たらない。
 普通の山猫に比べて遥かに巨大な体躯はそのままに、けれどもその瞳を真っ青に、熱く燃え滾る炎のように青く染め上げたハリヤマたちは、鋭利な体毛を──その鎧を脱ぎ捨てたしなやかな薄茶の躰を翻して、かつての彼らとは比べ物にならない速度で騎士たちに襲いかかってくる。
「仇討ち……復讐のつもりか?」
 呟いて、レースラインは音もなくハリヤマの背後にまわり、軍刀を閃かせる。
「高尚だな、私なんかよりもずっと……!」
 背を裂く感触の後、骨で止まった刃を引き上げて脳天を突いた。浮かび上がるマントの赤に、髪の白が鮮やかに広がる。
 夕暮れの光に照らされて、さながら金のように輝いていた山猫が、まばゆい紅の水晶を散らし、さらさらとした砂に変わっていく。緩やかに壊れていく生命を見やる自分の、その静かに燃える心の臓に反して、瞳が冷えた水色になっていくのが見えなくても分かった。
 ──レースライン、殺せ。
 そうはっきりと聴こえた祖父の声に、レースラインはつい、とその口角を上げ、再びその身を翻させた。
 町の入り口で魔獣──かつてのハリヤマとの攻防をくり広げる十三番隊は、陣形を崩したところから、町へと雪崩れ込んできそうな巨山猫の大群を相手に、果ても見えない戦いを続けている。
 だが、斬っても斬っても終わりが見えなくみえる相手にも命はあり、そして、命は有限であった。
 徐々にだが、当初よりも確実に数を減らしはじめたハリヤマへ対し、自身の場数と、世回りの騎士として培った戦いの腕前だけで抗っていた十三番隊の騎士たちは、心なしか余裕が表情に滲んできた。
 一度戦場から抜けて町人たちへの避難誘導をする騎士もいれば、また、元が猟師の兵士たちなどは、相手にしている魔獣の皮膚が柔らかなものだと分かるや否や、すぐに陣形を組み直して、距離を取るため殺傷能力は低いが、自身の最も得意とする弓矢へとその得物を持ち変えていた。
 そんな中、一人眉根を寄せてハリヤマを斬り伏せ続けるレースラインは、ふと背後によく見知った者の気配を感じ、その者の背に、自身の背を軽く合わせた。
 背後から、生と死を賭して戦う騎士の熱い呼吸が聴こえてくる。振り返らずとも、互いが互いを誰だか分かっていた。レースラインは、彼の呼吸につられるようにして、少しだけ熱くなっている自身の息を吐き出した。
「……あれはハリヤマだな、カイメン」
「は、どうやらそのようです。見目は変異しても、戦い方はほとんど変わっていないようだ」
「あの霧の森ですべてのハリヤマを狩りきれなかったのは、こちらの失敗だな。まさかここまで増えるとは、やつらの繁殖力はほんとうに侮れない」
「それに、獣のたそがれは伝播します。仔が無理やりに成獣の姿にさせられることもある。……この場合だと、霧の森で生き残り、変異したハリヤマの感情にあてられて、あの森の中にいた山猫ほとんどすべてが魔獣と化した可能性もありますが。或いは、その嘆きに國中のハリヤマが呼び寄せられたか……」
 それをすべて聞き終わる前に、レースラインはカイメンの背から自身の身体を離し、前方に迫っていたハリヤマの両目を斬り裂いて、それから喉を一閃した。背後でも、カイメンがハリヤマを一匹──二匹仕留めたのが、血と砂、紅水晶にまみれた熱風に運ばれ、耳の中に伝わってくる。
「……まるで、一人前に心が有るみたいじゃあないか」
 呟いて、どこか自嘲するようにそう微笑むと、レースラインはその身をまた、カイメンの背の在る処まで引き下げ、それからまるで光と影が入れ替わるように、彼と自分の位置をぐるりと半周させて交代させた。
「やつらの戦い方が変わらない、とおまえはそう言ったな。それで少し、気になることがある」
「は、それは一体どのような……」
「気付いていないか? やつらは今回、まだ一度も口を開いていない」
「口、を?」
 言われてカイメンは、注意しながらも、きょろりと辺りで戦う騎士たちを見渡した。
 騎士の一人に跳びかかるハリヤマは、その鋭利な爪を以ってして、目の前の敵の首を掻き切ろうとしている。その爪を身を転がして避け、宙に浮く巨山猫の腹の下を抜けた騎士は、振り向きざまにハリヤマの片脚を斬り落とし、その魔獣の背から首筋を目がけて刃を振るう。
 命のともし火が消え入ろうとする瞬間にも、ハリヤマは決してその口を開くことなく、けれどもその顔ばかりは騎士の方へ向け、青い瞳が完全に沈むまで、その頤を上げ続けていた。
 その光景に、カイメンは何か、自分が昨夜覚えた悪寒にも通じるそれを感じとって、自分の背にじとりと汗が滲むのを感じる。
「……おかしい。ゼーローゼ隊長、これは絶対におかしいです。ハリヤマは、爪よりはむしろ自身の牙での攻撃に長けた、そういう魔獣だったはず」
「──追い風はこちらに吹きはじめている。だが、いいか、油断だけはするなよ。おまえの言う通り、これはおかしい。相手は人間でもなく、動物でもない、魔獣だ。死にたくなければ、気を引き締めろ」
 言うと、レースラインは一歩進み出て、ぐるりと辺りを見渡した。
 爪と剣が打ち合わされる音、
 山猫の腹が裂かれる音、
 仲間の首が掻き切れる音、
 足音、
 呼吸、
 衣擦れ、
 血のにおい、
 獣のにおい、
 紅水晶の瞬き、
 熱風に舞い上がる金の砂、
 揺れる騎士の赤きタバード、
 燃える夕暮れの光に輝くハリヤマの躰と、
 更に燃え上がる憎しみの青。
 おのが生のため、死の狭間を駆けゆく者たちが描く、その軌跡のすべてが混沌と入り混じるこの戦場に、同じく黄昏が見守る景色の一つである、レースライン・ゼーローゼの白が、騎士の赤と共に風に浮かび上がった。
 瞬間、激しく入り混じっていた音のすべてが消え失せ、ふと、この場に在るすべての瞳が皆レースラインへと向けられる。
 暮れを待たずして焚かれた松明と、風に煽られる騎士団の真っ赤な旗が立てる音ばかりが、遠くから響いていた。
「──取れ剣!」
 音のない黄昏の大地へ、レースラインの声が響きわたる。
 静かに息を吸い込んだ彼女は、伏せるようにしていたその睫毛を押し上げ、それから手にしている軍刀の切っ先を高く天へと掲げる。けれども、青の空よりは淡く、白の海よりは色をもつその勿忘草色の瞳は、魔獣を逃がさず捉えていた。
 前方に迫り、しかし突如としてぴんと張り詰めた空気に、思わずその身を固めたハリヤマを目で捉えたまま、彼女は軍刀の切っ先をゆっくりと下ろし、
「──殺せ! すべての魔獣を!=v
 そう叫んでは、単身ハリヤマの群れの中へと斬り込んでいった。
 ハリヤマの瞳にも在り、そしてまた、レースラインの中にも在る、自らを焦がす青い炎が騎士や志願兵たちにも伝播し、余裕から来る慢心の綻びを、彼らはその熱によって覆い隠した。夕陽に染まる黄金の山猫たちの中に消えたレースラインは、時々その間から他に染まらぬ白の髪と、燃え立つ赤の布を覗かせて、血しぶきにも見える紅水晶を砂塵の中に上げている。
 駆け抜けるようにして、自身が斬り込んでいった群れのハリヤマを、恐ろしい速さですべて斬り伏せたレースラインは、ひゅっと一度その軍刀に張り付いた紅水晶を払い、それから背後で上がった仲間の悲鳴にはっとしてその顔を向けた。
「噛まれたか……!」
 短く舌を打って視線を向けた先では、騎士の青年が自身の右腕を、片脚のない瀕死のハリヤマに噛み砕かれていた。
 屈強な顎は引き千切らんばかりに騎士の腕を捉え、その間から覗く鋭い無数の牙は、犬歯ばかりが異様に大きい。鋭利な犬歯が腕の肉を裂き、更には骨をも断っているようだった。犬歯に比べて短い切歯もまた、青年の肌に突き立っている。ただ、切歯は黄ばんだ犬歯とは打って変わり、彼らの瞳のように真っ青な色をしていた。
 ハリヤマは、騎士の腕に犬歯を深く突き刺しては肌に短い歯を立て、そうしてそのまま動かない。それだけ見ると、まるで切歯を肉に食い込ませるために、あの長い犬歯が存在しているかのようだった。
 それを自覚した青年は、再度悲鳴というよりは絶叫の声を上げ、引き剥がせない魔獣と自身に与えられる凄惨な痛みに悶絶した。レースラインは彼の元に駆け寄って、ともかく魔獣の息の根を止め、顎の力を抜かせてから救護班に対処させようと、その刃の切っ先を腕に噛み付いて離れないハリヤマへ向けようとする。
 けれども、そのハリヤマがもう絶命していることに気が付くと、騎士の上げた、心の臓が潰れるような呻き声に嫌なものを感じて、彼女は上げた軍刀を一度下ろした。
「おい、ミシオン……?」
 そう彼に声をかければ、ミシオンと呼ばれた青年はレースラインの方を振り向き、何かを堪えるようにその唇を噛み締めた。それは痛みを堪えるためだろうか、それとも口を開けば上がる、耐え難い痛みの絶叫を堪えるためか。息をも止めるようにしている彼の唇から、強く噛み締めすぎたためなのだろうか、血が一筋流れ出ている。
 ミシオンの絶叫を聞きつけて駆け付けた救護班を視界に映すと、けれどもレースラインは、青白くなった顔に脂汗を浮かべて尚息を止める己の部下に、ますます嫌なものを感じとって、その手のひらでミシオンに触れようとした。
 しかし彼は何かを諦めたようにかぶりを振ると、もうすっかり血の気の失せたその顔に、それでも無理やり笑みを浮かべる。
 ──そしてその瞬間、彼の黒目が消え失せた。
 突然白目を剥いた彼は、自身の喉までせり上がってきていたものを抑えられず、唇の端から血が溢れ出たのを呼び水に、ついにその地面を真っ赤な色で、吹き溢すように染め上げた。
 何度も、何度も、何度も、嘔吐するように大量の血を地面に吐き続ける彼は、赤を流す唇と全く同じところから、しかし青に染まった息を吐き出している。苦しげに喘ぎながら、けれども彼はそんな中で、何を思ったのか強く強く、自身の纏う赤のタバードを心臓の辺りで握り締めた。
 彼は王國の紋章──鷹獅子をその胸に抱くと、今まさに佩剣の儀を終えたかのようにも見える、残酷なほど真っ直ぐなまなざしをレースラインに向けた。
 彼は頤を上げると、先ほどまでぐらぐらと揺れていた瞳を、しかしもう震わせることもなく、その睫毛を上げては引き締めた表情に、口角を上げるだけの騎士らしい、一歩引いた笑みを浮かべる。
 それから彼は、地面に突いた両膝を片脚だけなんとか立てると、動かなくなった右腕の代わりに、その左手を自身の心臓の上に押し当て、そうして騎士の礼をした。下げた頭の影に隠れて、彼の鼻からも止め処なく血が流れ落ちる。
 何か言葉を紡ごうと開いたミシオンの唇から、ごぽり、と赤が溢れて、地面に目を背けたくなるほど鮮やかな血溜まりをつくったのが、それでも目を逸らせないレースラインの淡い水色に映った。
「……守っ……て、くだ、さい……たい、ちょう……」
 言葉を発するたび、彼の唇から血が溢れ出る。レースラインは彼の前に膝を突いて、彼に見えるように頷いた。
「……ああ、守ろう。守るとも。だが、一体何を……何を守ればいい、ミシオン……?」
 守ると言い切ったレースラインに、ミシオンが微笑みながら顔を上げる。時間がないと言うようにかぶりを振った騎士の顔は、けれども悲しいほどに晴れやかだった。
「……あな、た、の──たい、せつな、ものを……」
「たいせつな……? おい、ミシオン!」
「……隊長……、約束、ですよ──」
 それだけ言うと、ミシオンは騎士の礼をしたまま、そこから動かなくなった。
 レースラインは血が滲むほどにその唇を噛み締めると、手に有る軍刀を手のひらが白くなるほどに強く握り、そこから立ち上がった。
 そうして彼女は騎士ミシオンに背を向けると、彼が最期まできつく握っていたものと同じ鷹獅子のタバードを風にはためかせ、また、率いるものの証である赤のマントも翻すと、彼女は吠えるように声を張り上げた。
「──毒だ! そいつらの牙には、即効性の毒がある! 解毒剤はない! 心臓に至れば、死ぬだけだ! いいか、絶対に噛まれるな! 絶対にだ!」
 レースラインの言葉に、戦場の熱に浮かされていた騎士たちはその目をはっと見開き、それからレースラインと同じく吠えるように応じると、それぞれが自身の得物を構え直した。
 彼らの纏いはじめた空気や張り上げた声に、勝鬨を聴いたレースラインは、自身も軍刀を構え直して未だ塊に見えるハリヤマの中へと切り込んでいく。
 そうしてハリヤマを屠り続け、動く山のようにも見えるほどだったハリヤマの軍勢も、そのほとんどが壊滅し、紅水晶と金の砂を散らすばかりになってくる。
 周囲にハリヤマの青い牙に裂かれた者はいないかと注意深く歩を進めながら、レースラインはハリヤマの毒について、一つだけ気が付いたことがあった。
 ──彼らはその口を、瀕死のときにしか開かないのだ。
 ハリヤマの毒にやられたのは今のところミシオンのみだが、ミシオンの腕を貫いたあの巨山猫もまた、片脚を失い瀕死状態だった。もしかすると、ハリヤマにとってあの毒牙は、一度限りの武器なのかもしれない。
 ミシオンを殺したあのハリヤマは、確かに瀕死ではあった。けれども、相手は魔獣だ。脚を片方やられたくらいで、すぐに死に絶えるほど柔な生物ではない。体躯の巨大なハリヤマなら尚更、急所を斬り裂かねば、確実に息の根を止めることは難しいだろう。
 ──だとすると、内側に仕込まれた彼らの毒針は、捨て身の武器なのか。
 蜜蜂がその針を柔らかな肌に突き刺したときと似たように、ハリヤマのもつあの毒の牙は、彼らにとって決死の武器なのかもしれない。あんな強力な武器を持っていて尚、それを容易く用いろうとしない訳も、なるほどそれなら通用しそうだった。
「……死ぬのが怖くて復讐などできない、か。……だが実際は、おまえたちも死ぬのが怖いらしい」
 仲間を無残に皆殺しにされ、その憎悪により身を焦がしては青き炎を宿した山猫の魔獣は、はじめから自らも果てる覚悟でこちらに襲いかかってきていたらしい。
 それでも、やはり彼らだって自分の命は惜しいのだろう。自身の死期を悟った場合にしか、ハリヤマたちはその口を開けて襲ってこなかった。
「結局、それがおまえたちの答えなんだろう……」
 呟いた自分の言葉に、耳の中で一つの声が弾けた。
 ──だがそれが、お前の答えではないのか? 違うか、レースライン?
 自分の中に響いたトゥールムの声に、自らの師に剣を向けられた日のことを想い出して、レースラインは心の中で強くかぶりを振る。
 ──ふと、黄昏の光が降り注ぐ街道に、甲高い悲鳴が上がった。
 騎士でもなく志願兵でもない、また、ハリヤマのものであるはずもないその声に、彼女は一瞬すべてを忘れ、目を見開きながら振り返る。
「た……助け……」
 レースラインが視線を送った先では、小さな少女が三匹のハリヤマに取り囲まれ、なすすべもなくじりじりと後退していた。少女の背後には、町の入り口に建てられた高い煉瓦の塀が、もうすぐそこまでというところまで迫っている。
「くそ……なんであんな処に……!」
 大方、かくれんぼでもしていて逃げ遅れた子どもだろう。親が血眼で探しに来ていないところを見ると、或いは孤児かもしれない。
 レースラインは、軍刀にこびり付いた紅水晶を鋭く振るうことによって払うと、舌を打って辺りを見渡した。
 誰も彼もがハリヤマを相手に戦っている。今、唯一、魔獣を相手にしていないのは自分一人だった。
 ──レースライン、殺せ。
 祖父の声が響いて、彼女は少女の元へ向かって駆け出した。
 ──殺せ。
 どうするのが、いちばん確実に仕留められる?
 ──レースライン、殺せ。
 何を寝惚けたことを言っている、分かっているだろう。三匹の視線を少女に向けさせたまま、背後を取って三匹の急所を素早く裂くのが最も確実だ。自分の借りものの力=A己に関わっている音を、一時の間だけ消し去ることができるこの力を遣えば、勘付かれずにハリヤマの背後へ迫ることができる。
 ハリヤマを背後から襲うことによって、今彼らを目の前にしている少女は犠牲になってしまうかもしれないが、それも仕方ない。祖父のねがいに応えるためには、犠牲も多少は伴われる。
 ──殺せ、すべての魔獣を。
 心の中で頷いて、レースラインは駆けた。
 今、彼女の周りには、足音も、衣擦れの音も、剣の鞘が立てる音も、呼吸音も、心の臓の音すら、鳴ってはいなかった。
 けれども、何か見つめるような視線を感じて、ふと、彼女は顔を上げる。
「あ……」
 ──目が、合った。
 纏わない気配に、それでもこちらの存在を見出した少女の瞳と、レースラインの瞳がかち合う。
 目が合った。
 目が、合ってしまった。
「──助けて!」
 そう叫んだ少女の声に、どく、とレースラインの心臓が鳴った。
 ──レースライン、殺せ。
 どくどくと響きはじめた心の臓に、流れ込んではまた巡っていく血液に、レースラインは駆けながら、自身の身体が熱くなっていくのを感じていた。
 ──レースライン、殺せ。
 この声を、愛してきたこの声の響きを、自分は誰より知っていた。
 夕暮れの光が、逆光となってレースラインを照らしている。彼女の瞼の裏には、己のたいせつを守れと言ったミシオンの顔が浮かび、己の真を貫くと言ったカイメンの顔も、また同じように浮かんだ。
 斬るべき魔獣と護るべき民、そのどちらか一つを選択しなければならないとき、お前は一体どちらを選び取るのか、そう問うたトゥールムの言葉が、どくりと心の臓の奥で響く。
 レン>氛沁ゥ分がこの名で呼んでいるのは、他の誰でもないあんたのことだと、そう言い切った失せ物探しの少年がいた。わけの分からない、前時代のレンのことなど、誰も呼んではいないと。
 また、自身の部下は、あなたを呼ぶすべての呼び名が、すべてあなたの名前だと、そう言い切った。他の誰でもない、わたしのものだと。
 ──わたし。
 わたし≠ェ、選び取るのは。
 ──レースライン、殺せ。
 ああ。
 ああ、そうか、呪いとは。
 呪いとは。
 ──呪いが在るとするならば、それはきっと、人の心だった。
 そう──それはすべて、人の心だ。
 ──レースライン、殺せ。
 ……これは、わたしの声か。
 ずっと、そうだったのだ。
 ずっと、ずっと、そうだった。
 ずっと、わたしの声だった!
 ──レースライン!
 強く、自分の声が響いた。
 ──おまえの意志はどこにある、レースライン!
「私は────!」
 もう隠すこともできなくなった、熱い鼓動を抱え、レースラインは少女を眼前に捉えるハリヤマたちの前に躍り出て、きつく握った軍刀の刃で彼らを一閃した。
 彼女の燃える鼓動が伝わったかのように、轟音を立てる鋭い音の刃が軍刀から打ち出され、その刃を真正面から受けたハリヤマたちは、その圧力に一瞬怯む。轟音によりその場を無音と化したレースラインは、音の波に強く揺られて動けなくなっているハリヤマ三匹を、しかしいとも容易く仕留めた。
 どさりと崩れる巨山猫に、レースラインは少しだけ息を吐くと、微笑みながら背後の少女を振り返ろうとする。
 けれども、何か右の手首に違和感を覚えて、彼女は柔く笑った顔のまま、一瞬だけ身体の動きを止めた。少女の方を振り返りかけていた顔を、もう一度正面に戻すと、レースラインは少しだけ困ったような笑みを浮かべて、自身の右手首を見やった。
「……そう、か……おまえにも、守りたいものが在ったんだな……」
 レースラインの視線が向かう先に在ったのは、その身がほんの一抱えというほどに小さな、まだ成獣にはほど遠いだろうハリヤマの仔が、彼女の右手首に犬歯と共に青い歯を立てている姿だった。
「お祖父さま、ごめん。私、どうやらお祖父さまとの約束より、仲間と結んだ約束の方が、大事みたいだ……」
 そう呟いて、レースラインはその場に膝を突いた。
 背後で、少女が恐怖か、或いは安心なのか、気を失って倒れた音が聞こえてくる。レースラインは、その力の入らなくなった右手から軍刀を投げ出すと、左半身ばかりを前のめりに、左腕を地面に押し当てて、そうしてなんとか視線を上げる。視界の端に、何事かと駆けてくるカイメンの姿が見えていた。
「──隊長!」
 目をほとんど見開くようにして駆けてきたカイメンに、レースラインは淡く微笑んだ。
「……悪い、カイメン。噛まれてしまった」
「ま、まさか……わ、私は、私は一体どうしたら……!」
「ああ、だから、な……」
 心なしか、毒の回り切っていないレースラインよりも顔を蒼白にさせて、カイメンはその両の手のひらを震えさせた。
 そんなカイメンの目を真っ直ぐに見やり、彼を安心させるかのように微笑みを絶やさないレースラインは、地に這っている左腕を少しだけ浮かせて、それからカイメンの手にしている彼の剣を指差した。
「──落とせ」
「えっ?」
「切り落とせ、カイメン。私の腕を」
 その言葉に、カイメンは思わず後ずさった。
「そ──そんなことをすれば……」
「このまま何もしなければ、どちらにせよ死ぬ。……私は、約束をしたんだよ」
 ハリヤマの仔に噛まれている右の手首が、何故だろう、燃えるように痛かった。
 レースラインはカイメンに向かってまた笑いかけると、しかしふっとその微笑みを消した。それから彼女は、己が守るべきものの前に立つ、揺るがない騎士の瞳になっては、そうして彼の震える瞳を捉える。
「約束をしたんだ。ミシオンに、自分のたいせつなものを守ることを──己の真を貫くということを。約束を、しただろう? おまえに、死なない、と、そう私は……」
 絶命した魔獣の仔から尚与えられる痛みに、彼女はそっと熱い息を吐きながら、その白い睫毛を無理やりに押し上げて、カイメンの瞳を見つめ続ける。
「私≠ヘ死なないよ、カイメン。だから切れ。騎士としての、おまえの剣で」
 ぐっと唇を噛み締めたカイメンに、レースラインは白い髪を揺らし、まなざしは真っ直ぐなまま、しかし穏やかに微笑んだ。
「──私を殺すな、スタラーニイ=v
 レースラインのその言葉に、一人の騎士の名を呼んだその声に、カイメンは獣の咆哮のような、言葉にならない叫びを上げると、夜を手前に未だ燃え盛る松明におのが剣をくぐらせ、自身の夢≠ノ向かってその切っ先を向けた。
 それから彼はレースラインの背後に回り、痛みを堪える布の代わりとして、自分の左手の指を何本か、彼女の口の中にさし入れる。
「……噛み切ってください、隊長」
 心の底からそう言葉を発すると、彼は自身の剣を振り上げ、それが一度で済むように、今まで振るった中で最も鋭い一振りで、レースラインの右肩より下を切り落とした。
 まるでこのときを待っていたかのように、あまりに呆気なく落ちたレースラインの右腕に、カイメンは噛み締めた唇から一筋、赤々い血を流す。
 しかし、唇を噛む痛みとは翻って、カイメンが与えられるはずの、彼の左の指先に感じる痛みは微塵もなく、むしろ彼は、レースラインの右腕を切り落とした、自身の右手の方に痛みを感じていた。
 そんなカイメンにレースラインは振り返って、冗談めかしたように軽く笑い声を立てると、少年の指先を自身の口内から左手で抜き取った。
「あなたは、酷い人だ……」
「……ああ、そうかもしれない。すまないね、カイメン」
 淡い水色を細めて笑うと、レースラインは背後のカイメンから視線を外して、いつの間にか太陽の沈みきった地平線を見やった。
「……でも、私はこれで、誰も……」
 血が止め処なく溢れ、ゆっくりと霞んでいく視界に、レースラインは白く息を吐いた。
「──何も、殺さずに済む……」
 そうして地に伏せた彼女は、自身の赤に染まっていく地面に、自身のもつその白を浸しながら、顔ばかりを動かして、ほんの少しの間だけ空を見上げた。地の底から見上げる空は、きんと冷える夜の青に澄みきって、ただ高く、高く、遠い。
 そう、日は暮れた。
 夜だった。
 ──夜が、やってきていたのだった。



20171203

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