心音


 夜が、明けようとしていた。
 少年は、痛む足を心で叱咤しながら街を駆け抜け、息を弾ませながらふと、天上に瞬いては煌めく、夜と朝の狭間に在る星たちの姿を見た。
 ──思えばもうすぐ、朝露の生まれる時間だった。
 アルシュタルの記憶が明け渡される時間。一日の中で一度だけ在る、終わりとはじまりの時間。北の空には、それを告げるかのように、アルシュタルの髪の色にも似た青き炎の星が、こちらへ光を投げかけてきている。
「……僕が、憶えてる。何があっても」
 アインベルは心に浮かんだ、そのひとかけらの寂しさを受け止めるようにそう呟くと、歩を進めるたびにじくじくと痛む足を更に速めた。


*



 獣の遠吠えは、〈スクイラル〉を出て、少し西に向かった処から聴こえてきていた。
 長く尾を引いては自分の耳に残る、その獣の声に夜更け目覚めたアインベルは、誰かを呼んでいるような、或いは泣いているような声に胸がざわめいて、もう一度眠りにつくことができなかった。
 寝台の上で何度も寝返りを打ったのち、ついに起き上がった少年は、腰に鈴の杖を差し、上着を羽織って外に出ようとする。しかしそこでアルシュタルに言われたことを思い出すと、彼は扉の前でぴたりと立ち止まり、そうしてその近くに備えられている鏡台の方を振り返った。
 アインベルは、思い直して鏡台の前に座ると、焦りがちな自分の心を落ち着けるために、鏡の前で深く息を吸った。その息を吐きながら、少年は月明かりばかりが光を投げ込む部屋の中で、鏡に映る自分の顔を視界に映す。
 自分が思っているよりも、月は自分のことを明るく照らしていた。
 ところどころに金色の交じる、幼少の頃白の民≠ニして過ごしたために、微かに色の抜けた水色の髪は、元々の髪質と寝癖によって、そのあちこちがだらしなくはねている。少年はまず、その荒んだ髪に櫛を通しはじめると、しかしふと自分の髪から顔を上げて、鏡の中の褪せた緑色を見た。
 自分の少し日に焼けた顔に二つ備わる緑の目は、こんにちも昨日と変わらず幼さを残したままで丸く、そしてどこか頼りなさげに見えた。しかしその割には、自分の瞳に子どものもつ、あの煌めいては鮮やかな光はなく、宿っているものと言えば、白く染まった海に降り注ぐ、夕暮れの光にも似た郷愁ばかりである。
 アインベルは自分の目に映る自分を見つめると、ふと、息を吸うようにしてその目を瞑った。
 遠く、獣──あれは狼だろうか──の遠吠えが聴こえてくる。
 生来耳の良いアインベルばかりに届いているのだろう、その狼の遠吠えに──その迷子の泣き声のような声色に、少年は自分の心臓がじくり、と痛んだのを感じた。アインベルは薄目を開けて手のひらを見つめると、その手を自身の胸の辺りに当てて、そこで自分の心臓がとくり、またとくりと鼓動しているのを確かめる。
 ──どれだけ痛くても、この心臓は動き続ける。
 どれだけ痛くても、この足は動かすことができる。
 痛いのは、心が在るからだ。
 痛いのは、命が在るからだ。
 そう、ここに。──自分の中に。
「……往こう」
 少年は目を開けると、こなれた風に手早く自身の髪を、右耳の前だけ長く伸ばした前髪を短く三つ編みに、左耳の後ろでは、生真面目な術師の手本のように長く伸ばした癖毛をすべて纏めて、長い三つ編みとした。
 髪を結いながら鏡の中を見つめるアインベルは、まるで自分へと語りかけるように、口の中だけで言葉を紡ぐ。
(のべつの竜=Bすべてのはじまりの竜。僕のもつ借りものの力≠ヘ、心音≠ゥ? 世界に在る心音へ呼びかける言葉を、僕はもっているのか? もし、そうだとしたら──それで強く想ったら、僕に何ができる? 僕に何か、できるのか? 僕は、かわたれの彼≠ニは違う。人の音楽の中に、言葉を聴いたことなんてない。それに、言葉を聴いたところで、それがなんになる? それで誰かを守れるのか? だって彼は、なんにもできやしなかったじゃないか……)
 アインベルは渦を巻く自分の心に、凍てついた痛みを連れてくる心臓に、胸の上からぎゅっと爪を立てて、鏡台の前で少しだけ前屈みになる。
(人には偉そうなことを言うくせに、なんで僕は、こんなに弱い……)
 ぐっと唇を噛み締めたアインベルに、ふと、軽やかな鈴の音が鳴った。その夜の霧をも切り払ってしまいそうな涼しい音色に、彼は顔を上げ、再び鏡の中の自分の姿を見る。
「……なんて情けない面、してるんだよ」
 自分自身へ向けてそう吐き捨てると、アインベルは鏡の中の自分自身を見据え、その左頬──クイが赤く腫らしていた部分と同じところを、ごつ、と強めに殴った。
 鏡は割れなかったが骨に響くその痛みに、アインベルはびりびりと自分の目が覚めていくのを感じる。
 そして少年は、自分を殴ったその右手の痛みを払うように軽く振って、それから腰に差した鈴の杖に触れた。その拍子に伸びた前髪が目に掛かって、彼はまた鏡へと視線を向けた。アインベルは未だ痛そうな顔をしている自分へ向けて、少しだけ高圧的ににやりとすると、細い黒の髪留めで自身の前髪を纏める。
 ──これで、すべていつも通り。
 これで何処からどう見ても、失せ物探しの召喚師──アインベル・ゼィンだった。
 それ以外の何者でもない、ただのぼくだ。
「──逃げるなよ」
 鏡の中の自分に向けてそれだけ言い捨てると、アインベルは鏡台の前から立ち上がって、部屋の扉を開けては夜明けを待つ、黄昏る世界の中へと飛び出していった。


*



 自分の耳ばかりを頼りに街を抜け、そうして街道に出てみると、その少し外れで大小の影が、三つで一つの夜をつくり出していた。
 その光景に見憶えのあるアインベルは、驚きを隠すこともできずに自身の目を見開くと、足の痛みも一瞬忘れ去って三つの影の元まで駆け寄った。
「──フローレ!」
「……え……お兄さん……?」
 そう言って振り返った少女のその目は、青く塗れる夜の中で、魔獣の流す紅水晶のように赤く光っていた。
 こちらへ視線を向けたフローレにつられるようにして、彼女が連れている二匹の魔獣もまた、ちらりとアインベルの方へと顔を向けている。
 フローレは初めて会ったときから違わず、燃える太陽の如くに赤い衣を纏い、遠い時代には意味をもったとされる刺青は、見えている肌そのほとんどに描かれ、頭には獣の角をかたどった装身具が飾られている。
 この夜の中でも異彩を放つその赤色の隣には、こちらも出会ったときから変わらない、二匹の黒き獣の姿。
 夜空よりも更に深い黒を湛えるその身体に、目隠しにも受け取れる銀色の仮面、そこから垂れるのはフローレの服の色と同じ赤の飾り紐。魔獣とは言え、広く見れば犬と鳥である二匹が、しかし二匹とも同じように生えているその二本の角は、こんにちも夜に紛れず黄金の色に輝いていた。
 夜の光ばかりが降り注ぐこの静かな大地に、突然響いた鈴の音に困惑しているフローレは、少年の姿をその目に映したにもかかわらず、どこか困ったようなまなざしをアインベルへと向けている。
「お兄さん、どうしてこんな処に?」
「それはきみこそ……僕は何か、遠吠えのような声が聴こえたから、それで──なんとなく、来なくちゃいけない気がして……」
「ああ……お兄さんにも聴こえたんだね、あの子の声」
「あの子……?」
 問えば、フローレは未だ太陽の昇らない、夜明けを待つ深い闇へとその視線を向けた。その場所から、地面に何か硬いものを叩き付けるような音と、砂を擦るようなざりざりという音が聴こえてくる。
 アインベルが目を凝らして見ると、その闇の中には、羊のように渦を描く角を生やした狼──魔獣が、苦しげに喘ぎながら、自身の巻き角を固い地面に叩き付け、また、叩き付けた角を掻き毟るように擦り付けていた。その角が大地を叩くたびに、紅の色がちかりと、青い夜の中に浮かび上がっている。
 ──ふと、遠吠え。
 それは、耳に長く残り続ける、あの鳴き声だった。
 ここで少年は、自分が追ってきた声の持ち主が、あの角の狼なのだということに気付き、自身の喉がひゅっと冷えたのを感じる。今此処に、風は吹いていない。それは暖かくも、冷たくもない、すべてに無関心な世界の夜だった。
「──あっちに向かって、鳴いてるんだ」
 そう言って、フローレはその指先を、狼の鼻先が向いている方へと向けた。
 アインベルがその軌跡を追えば、遠吠えの向かう先には、何か遠く、ぼんやりと光を纏っては緑色を放つ大きな存在が在った。少年は小首を傾げ、フローレと同じく、その指先を緑色の方へ確かめるように向ける。
 ──見覚えのある光だ。
 それは、いつも目に入れているせいで、自分から確かめてみないとその存在が心の中に入ってこないほどに、見覚えのある光だった。
「世界、樹……? 世界樹に焚かれた明かり、か?」
「うん、そう。〈カメーロパルダリス〉に向かって、あの子は鳴いてる」
「……なんで、世界樹なんだ?」
「分からない。でも、なんだか……」
 また、狼が鳴いた。
「──友だちを、呼んでるみたいだね……」
 フローレのその言葉に、アインベルは胸のどこかがじくりと痛むのを感じた。
 かの狼の呼び声には、痛みと悲しみ、そして寂しさが在る。そして声の中に滲んでいるその寂しさに、少年は憶えがあった。今しがた自分が抱き、未だこの胸の中で震えるそれは、青の友人と過ごした日が暮れ、そして明けていく瞬間にいつも顔を出す。
 狼が鳴きながら、その角を地面に叩き付けた。
 強く。
 強く。
 更に強く。
 ──その声は、まるで一つの音楽のようだった。あまりに悲しい、一つの音楽。
 風のない夜にしかし紅水晶は飛び、それは狼の周りをきらきらと舞っている。赤の欠片と欠片がぶつかり合うその微かな、けれどもひどくもの悲しい響きがアインベルの耳に届く。
 暗闇に埋もれる狼を見つめ、耳の中で木霊するその響きを聴きながら、彼はほとんど無意識にその唇を開いた。
「……往かないで=c…」
「うん……」
「僕にはそう、聴こえる……」
「……うん、そうだね」
 血の水晶は舞い続けている。
 狼の荒く、しかし絶えてしまいそうなその息づかいが、少年と少女のそばにもゆっくりと流れてきた。フローレは散る紅水晶を越えて、魔獣自身を映すようにその目を少しばかり見開くと、眉根を寄せて首から下げている魔獣遣いの笛をぎゅっと握る。
「お兄さん、あの子、あのままじゃあ──」
 少女がすべてを言い終わる前に、狼を挟んだ向こう側で、何かが鈍く煌めいた。
 その消え入りそうな光が闇の中を歩み、こちらへとやってくる。少年は何事かと身構えたが、揺れ動くそれが月の光を浴びた耳飾りであり、こちらへ向かってきた闇が黒い衣を纏った青年であることを認めると、彼は強張った身体の力を少しだけ抜いた。
「──お逃げなさい。彼は、私が片を付けますから」
 少年と少女を見、穏やかな声色でそう言った彼は、自身が背に負っている弓を取り上げると、それに続いて矢筒から矢を一本取り出した。その矢じりが黄色く染まっているのを視界に映すと、フローレははっとして、自身の連れている二匹の魔獣を片手で一歩、後方へと退ける。
 そんなフローレをちらりと横目に映したアインベルは、自身が一歩前に出て、唐突に現れたこの弓使いと向かい合った。弓と矢を片手にしている青年は、アインベルを見てふっと微笑む。
 その仕草に、彼の耳でまた鈍い光が揺れた。
「あ……」
 今しがた揺れた、その褪せた黄金色に、アインベルは見憶えがあった。
 その色は、キトの瞳──ひいては、ガーディアンである彼が身に着けていた腕輪の色によく似ていた。真鍮である。少年は合点がいって、その目をぱちりと瞬かせた。
「役人、さん?」
「はい。正ギルド──〈九陽協会〉の〈スクイラル〉支部所属、アコルト・フィラデルフィと申します。未熟ながら、魔獣遣いを」
 言って、二十歳かその手前くらいに見える、まだ若い彼は二人に軽く頭を下げた。魔獣の牙をかたどっているのだろうか、尖っては弧を描いている真鍮の耳飾りが、彼に合わせて軽く揺れる。
「ストウはパスを──あの魔獣は、今日、相棒の魔獣を失ったんです。ずっと一緒に生きてきた家族とも等しい友人を、俺が仕損じたせいで、あいつは亡くした」
 アコルトと名乗った青年は、ちらりとフローレの連れているアウロラとルミノクへ視線を向けると、しかしすぐにその顔を狼の魔獣の方へとやった。彼につられるようにしてアインベルも狼の方を見やり、未だに角を打ち付けては喘ぐ彼の耳に、アコルトが耳たぶにしているのと同じ、牙にも似た真鍮の耳飾りが揺れているのを、少年はその瞳に映し取る。
 アコルトは、小さく息を吐くと、それから手にしている矢をじっと見やった。
「これの矢じりには、アシタバの茎から出る乳液が塗られていて……それが剥がれ落ちないよう、更に上から、魔術が施されています」
「……アシタバって言うと──」
「……猛毒だよ、お兄さん」
 背後からフローレの静かな声が響いてきて、アインベルは思わず振り返った。
「──魔獣にとっての、猛毒」
 フローレのその言葉を聞いて、アインベルは再びアコルトの方へと向き直った。少年の、海の白を上から重ねたような老竹の瞳が、驚きか、或いは絶望したかのように見開かれている。
「あんた、片を付けるって、そういう──」
「もちろんです。ストウ──彼にはもう、私の声は届きません。彼の嘆きが自分自身に向いている今はまだいいですが、あれが人に向かえば、多くの人を危険に晒すことになります。それはストウも──そして彼の相棒のパスも、決して望みはしないでしょう。誰も傷付けていない今のまま殺してやるのが、私にできる唯一の道理です」
「そんなのは、おかしいだろ……!」
「いいえ。私は役人で、民を守る義務があります。國勤めの魔獣遣いが連れる己の魔獣──それが凶暴化し、人を襲う可能性が浮上した場合、その魔獣のことは即刻始末するようにと、そういう掟がギルドでは定められているんです」
 至極当然であるといった口調でそう言いのけたアコルトに、アインベルはいつも鈴の杖を持っている方の右手を、ぐっと握り締めた。
「……そんなのは、逃げてるだけだ。大事なものから、目を背けてるだけだ……!」
「そうかも、しれません」
「……なあ──それであんたは、後悔しないのか……?」
 訊くと、アコルトは少しだけ哀しそうに、ふっと小さく微笑んだ。
「どちらでも、後悔はするでしょうね」
「だったら、どうせ後悔するんだったら、今……今、自分が掴みたい方を掴めばいい!」
「──私は、役人です」
「あんたは、ほんとにそれでいいのか? 僕は魔獣遣いが、みんなどんなに自分の魔獣のことを想ってるか、それだけは知ってるつもりだ! 家族なんだろ! なんでそんな簡単に割り切れる? なんでみんな、そんな簡単に──」
 アインベルの言葉に、アコルトの弓矢を持つ手のひらが、微かに震えた。
 彼は少しばかり顔を伏せると、睫毛ばかりを押し上げ、覗き込むようにしてアインベルを睨み付ける。その瞳は笑っているようにも、怒っているようにも見えた。
「……割り切れているように、見えますか……?」
 或いは、それは自嘲だったかもしれない。
「これが……割り切れているように、見えるか……!」
 その燃えるような瞳にアインベルは一瞬怯んだが、しかしすぐにその目を見返すと、かぶりを振って声を上げた。
「──見えないから、言ってるんだ! あんた──殺したくない、嫌だって、そういう顔をしてるんだよ!」
「じゃあ、どうしろって言うんだ? 俺は役人だ、國の魔獣遣いなんだよ! そんな俺が掟を守れず、けじめも付けられないときたら、魔獣と共に在る者たちはますます白い目で見られる一方だ!」
「だけど、こんなのは間違ってる。絶対、間違ってる!」
 手のひらを痛みを感じるほどに強く握って、アインベルは真っ直ぐにアコルトの目を捉えた。狼の泣き声にも聴こえる遠吠えは、此処に在る三人と二匹の、その誰もの耳に届いている。
 少年の瞼の裏に、かわたれの時代=A死にゆく仲間を前に何もできないまま立ち竦み、陽が昇る方の海へ逃げたまま、自分自身とも向き合えなかった召喚師のかさついた手のひらが映った。
 それを自覚すると共に、アインベルは自分の心臓より少し下の辺りから、怒りにも似た激情が竜巻の如く立ち上るのを感じ、しかしそれを抑えることもできず、少年はその噛み締めた唇から声を発する。
「……捨てちまえばいい」
「は?」
「──誰かの大事なものを犠牲にする掟なんて、捨てちまえばいい!」
 そう声を荒げたアインベルに、魔獣遣いの青年は、少しばかり眩しいものを見るような目で、その肩をすくめ、渇いた笑いを零した。
「簡単に言う……」
「何言ってんだ、簡単なことだろ!」
 言い切るとアインベルは、闇夜に紅水晶を散らし、長く残る響きを以って呼び声を発し続けている、かの狼の方を指差した。
「あんたは彼のことが大事で、彼は死んでない。死んでないんだ! 生きてる!──生きて、此処にいるんだよ!」
 アコルトの目を見てそう呼びかければ、青年は弓矢を持ち、胸の辺りまで上げていたその腕を、力が抜けたようにだらりと下ろした。力のない手のひらから、弓と共に明日葉の矢が、土に音を吸われながらも地面に転がる。
「……だって、俺に、どうしろって言うんだ……? もうあいつは、俺のことなんか、少しも見えちゃいないっていうのに……」
 そう言って自身の額に爪を立てたアコルトを見て、アインベルは自分の背後にいるフローレを振り返った。
 フローレは、少年と青年が言葉と言葉の応酬を繰り返している間も、夜の中、明けない自身のたそがれに悶える魔獣の姿を、自分の赤々い瞳に焼き付けていた。
 少女は、自身が下げている笛に視線をやっているアインベルに、今まさに闇の中に舞っている紅水晶のような己の瞳を向けると、しかし小さくかぶりを振った。
「お兄さんの考えてること、分かるけど……でも、だめだよ。あの子はもう、自分の声しか聴こえてない。笛を吹いても、私の音色はあの子の耳に入らないよ」
「……聴こえれば、いいのか」
「えっ?」
「聴こえれば、届くか?」
 フローレの瞳をじっと見据えてそう問うたアインベルは、ふとそこから視線を外して、地面の砂利土に擦り付けることにより自身の角や耳を掻き毟っている、アコルトの家族へとその顔を向けた。
「……簡単に背を向けちゃだめだ。簡単に、たいせつなものを手放しちゃだめだ。あんたも──僕も」
 そう言うと、アインベルはアコルトの目を見た。
 アコルトはどこか途方に暮れたような、それでいて泣き出しそうな顔のまま、しかし少年の方を向いて小さく頷く。それから魔獣遣いの青年は、同じく魔獣遣いの少女の方を見やると、自身が背負っている矢筒の方へと手を伸ばした。
 その仕草に少しばかり身構えたフローレに、アコルトはしかし明日葉の矢ではなく、古い時代の紋様が一面に描かれている篠笛を取り出すと、それを心臓の辺りで握り締めて、少女の赤い目を希うように見つめた。
「……一緒に、吹いてくれないか。ストウとパスが大好きだった、俺たちの故郷の歌を」
 言うと、アコルトは睫毛を伏せるようにして、その篠笛で楽の音を奏ではじめた。
 夜の中を真っ直ぐに飛んでいくその音楽は、たいせつな家族のことを切にねがっては、どこか郷愁を誘われる音色をしている。その痛みの滲んだたそがれの楽の音は、狼の元へと届く前にまず、それを奏でるアコルトの前に立つアインベルの心を、やはり痛みを伴ってぐらりと揺らした。
 アインベルは、その音色を心で感じるかのように少しの間瞼を閉じると、腰に差した鈴の杖を取り上げて、それを胸の辺りでぎゅっと握り締める。それから目を開けると、彼はその杖を、鞘から剣を引き抜くようなかたちで引き伸ばし、大がかりな術式を地面に描くための長杖とした。
 そうしてアインベルは、狼の──ストウのいる方へと一歩下がると、魔獣遣いたちに向かってふっと笑いかけてみせる。
「──あんたたちの歌は、僕が届けるよ」
 そう言って杖の石突で地面を叩いたアインベルに、アコルトが一瞬演奏をやめて、篠笛からその唇を離した。
「は……? きみ、何を言って……」
「僕は、アインベル。アインベル・ゼィン・アウディオ。失せ物探しの召喚師。あんたたちの言葉は、僕が届ける」
 にっと笑って頷くアインベルに、アコルトは片手を伸ばして、少年の肩を掴んではかぶりを振った。
「だ──だめだ、やめろ。やめなさい。そんなことをすれば、きみ、怪我をするかも──いや、これは、きみの命に関わるかもしれないんだぞ」
「嫌だよ」
「は?」
「嫌だ」
 きっぱりと言い切ったその一言に、少し唖然としているアコルトの手のひらを、アインベルは簡単に振りほどくと、今度は赤い瞳でこちらを見ているフローレへと視線を向けた。
「僕は嫌だよ、大事なものを失うのは。誰かが、大事なものを失うのは。家族を、失うのは」
「……お兄さんって、お人好しを通り越して……なんかもう、わがままって感じがする」
「うん、そうだと思う。……嫌い?」
「べつに……嫌いじゃないよ」
 肩をすくめて呆れたように笑ったフローレに、アインベルもほっとしたようにちょっとだけ微笑む。
「力を、貸してほしい。きみの歌と、きみの名前を」
「……じゃあ、付けにしとこうかな」
「ありがとう。──信じてる」
 少女の赤を映した緑の瞳を柔らかく細めて、アインベルはそう笑うと、また一歩、二人の姿を見つめたまま、狼の方に向かって後ろへ下がった。
「ねえ、僕のことは信じなくてもいいよ。だけど……」
 少年が動くたびに、長い鈴の杖が、彼の顔の横でしゃんと音を立てていた。
「──けど、二人とも、信じてくれ。自分の歌は届くと、そう信じてくれ! この言葉は彼に届くと、絶対に届くと、そう信じてくれ! そう、信じろ!」
 アインベルは、自身のその目をアコルトとフローレの目へ交互にかち合わせると、彼らに向けてか、或いは自分に向けてか、鈴の杖の石突で地面を強く叩いた。
「信じろ。──その言葉は、絶対に届く!」
 そう声を上げると、少年は二人に背を向け、未だ世界樹の方へ鼻先を向けている狼の方へと進んでいった。
 しかしアインベルはその途中で思い出したように振り返ると、二人の魔獣遣いの顔を見、闇の中でも読みとれるほど照れくさそうな顔で、はは、と少しばかり乾いた笑い声を上げた。
「……やっぱり、僕のことも信じてくれ。ほんの──ほんのちょっとで、いいからさ」
 言うと、少年は顔の横に在る鈴を、杖を持っていない方の指先で弾いた。
「僕は、君たちの歌を──言葉を届ける、鈴になろう」
 その言葉に、フローレの赤色が逆さの三日月になったのが、そこから少し離れた少年にも見えた。
「鈴? やだなあ。鐘くらいじゃないと、響かないよ!」
 少女の言葉を聞いたアインベルの瞳に、手にしている鈴の杖、その金色が宿る。
 そしてそれはぼう、と少年の瞳の中で金紅色に燃え上がり、少年は自分の心臓の底で輪を描いている青い約束の中に、己の言葉が充ち満ちていくのを感じていた。
「──鐘。鐘、か……」
 鈴の音が、自分の横で鳴っている。
 少女の言葉が心に落ちてくると同時に、アインベルは、大地が自分の足元に在るのを想い出した。
 水が全身に、熱が心の臓に、風が喉の奥に──そのすべてが自分の中に在るのを想い出した。
 星が、月が、太陽が、空が、見上げたらすぐそこに在ることを想い出した。
 歌が、音楽が、いつも世界に在ることを想い出した。
 それらの力を借るために、それらと共に在るために、今まで憶えた言葉たちを今、少年は想い出した。
 ──ああ、そうか。
 すべては此処に在ったのだ。此処で、共に在ったのだ。
 ──ああ、そうだ。
 失くしてなどいなかった。
 失くしてなど、いなかったのだ。
 すべて、ずっと、共に在った!
「……言ったな、フローレ」
 ──召喚術を行う瞬間、自分は世界のすべてと繋がる。
 そんな感触を、きっと、すべての召喚師は覚えながら術を描くのだろう。その感覚が今──今まさに、自分の中に戻ってきていた。
 少年は長い鈴の杖を、フローレの方へ向けると、目を細めてにっと笑った。静かな夜に、自分の燃える心臓の音が聴こえる。その熱が全身を巡って、風もないのに自分の髪がぶわ、と浮き上がったのをアインベルは感じ、しかしその高揚を隠すこともできずに、彼は更にその口角を上げた。
「大音声で鳴らしてやる。──心臓が止まっても、知らないぞ!」
 それだけ言い捨てると、少年は再び狼の方へとその顔を向ける。そんなアインベルの柔い緑の瞳には、けれども普段の穏やかな光はなく、今はただ術師の──言葉を識る者特有の、青年のもつ傲慢なそれにも似た色が、瞳の奥に底光りするばかりだった。
 しかし、この破けんばかりの鼓動は、術師としての高揚だけでは決してないことが、アインベルには分かっていた。
 アインベルは距離を取ったまま、世界樹の在る方を向いている狼の背後に回ると、そこからあと十数歩で届くという位置まで、かの魔獣との距離を詰める。
 おそらくだが、相手は自分の存在がまだ見えていない。
 そう感じながら、彼は魔獣の周りに巨大な円──最終的には、記憶の中のものよりも数倍大きな呼び声なき眼≠描くことを想像し、手に有る杖の石突で、試しに軽く円を描きはじめてみる。
 そうして軽く引いた線を見やって、アインベルは熱かった自分の心臓が、しかし音も立てずに冷えていくのを感じた。
「……なんでだよ……」
 引いた線は、あまりにも無様にぐらついていた。
 それを自覚したアインベルは、自分の右手がまた小刻みに震えはじめ、それに加えて膝までも笑いはじめたのを感じとり、苛立ったように、はあっと息を吐き出す。そうして外に出た息は熱かったが、どうだろう色は冷えた青をしていたかもしれない。
「嫌だ……」
 それでも少年は、負けじとその場に立っていた。
 アインベルは自身の相棒である鈴の杖を、片手ではなく両手で握ると、それを自身の前で支えとして、決してくずおれない意志を自分の中で固める。冷や汗が頬を伝い、ぽたりと地面に落ちた。
 彼は震える両手で杖を掴んだまま、地面の上に描かれた拙い線と、自身の心の弱さから流れ落ちた汗を、不恰好ながらも立ち続けているその両足の靴裏で踏み付け、ざり、と消し去る。それから自分の視界を広げるために、長く息を吸い、そうして長く息を吐いた。
「嫌、だ……!」
 彼が自身のたそがれに膝を折らなかったのは、もう、ほとんど意地だった。
「しっかり、立てよ……」
 アインベルは両手で掴んでいる杖の石突を地面に叩き付けると、意地と熱にまみれた赤い息を同じく叩き付けるように吐き出し、そうして術式を描く前の術師らしく背筋を伸ばすと、額に浮かんだ汗を荒っぽく拭い取った。
 気を緩めれば笑い出しそうな膝にぐっと力を込め、なんとか震えずに立ったアインベルは、自身の中に棲まう乱暴な獣に今は少しだけ感謝して、しかしどこかそれを吐き出すように笑った。
「よし……」
 支えにしていた鈴の杖を再び片手に持ち上げると、少年はどこか満足げに、その口角をにっと上げた。
「……僕も一応、男だからな……」
 呟くと同時に、離れた処から二つの笛の音が聴こえてきて、アインベルは自身の気持ちを落ち着けるために、再び深く呼吸をした。
「──往こう」
 確かめるようにそう発すると、アインベルは長杖を両手で掴み直し、その石突を地面に当て、そうしてそのまま魔獣の周りをぐるりと一周するように、勢いよく走り出した。
 少年は鈴の杖を短くしたり長くしたり、自身が屈んだり立ち上がったりを繰り返しながら、自分の確かな記憶を頼りに、狼から遠い位置から順番に呼び声なき眼を描いていく。
 汗を流しながし、しかしそれが召喚陣の上に零れ落ちないように無意識で拭い取りながら、一心不乱に少年は術式を地面に刻んでいった。ほとんど転がるように言葉、言葉、言葉を描いていくアインベルに共鳴するように、鈴の杖もまたアインベルの言葉となって、彼の周りで鳴り響いている。
 滝が怒涛の勢いで流れ落ちるように、或いは川が渦を巻いて氾濫するように、アインベルの心臓の中は言葉で満たされていた。彼はその言葉たちが溢れて死んでしまう前に、足の痛みも震える心も何処かへ追いやっては、目の前の地面にひたすら言葉を書き連ねていく。
 ただ、歌だけが聴こえていた。
 自分の背後で奏でられている、心をそのまま旋律に載せたような楽の音ばかりが、耳の中で鳴り響いていた。
 術師の熱が恐怖心に打ち勝ち、ぎりぎりまで狼に近付いて、呼び声なき眼の円の内側──瞳の術式をすべて描き終えたアインベルは、奏でられる笛の歌に耳を澄ませると同時に、ふと違和感を感じて地面から顔を上げた。
「えっ……」
 ──狼の遠吠えが、止んでいた。
 目の前で魔獣の──ストウの真っ赤な双眸が、アインベルの方を向いている。
 その視線の色に嫌なものを感じたアインベルは、一歩下がろうとして、しかし自分の身体が金縛りに遭ったかのように動かないのを自覚した。
 魔獣を、人の命を脅かす存在と云われている黄昏の獣を、今、自分は目の前にしているということを唐突に思い出して、アインベルの心に濁流のような恐怖心が起き上がる。
「あ……」
 ──今、自分は、怖くて動けないのだ。
 かわたれの彼≠ヘ仲間の死と、そして自分の死が怖くて動けなかった。
 仲間が死ぬのが怖くて、同じように自分が死ぬのが怖くて、彼は動けなかったのだ。
 当たり前のことだ。
 当たり前のことなのだ。
 自分だって、今、怖いから動けない。
 だが……
 ──だが!
「僕は、逃げないからな……!」
 アインベルは自分に確かめるようにそう言うと、深く息を吸って、杖の石突を地面に叩き付け、高く鈴の音を響き渡らせた。
「僕は、自分の過去から逃げない。そう決めた。もう、決めたんだ。僕は失せ物探し。大事なものを見付ける瞳、大事なものに呼びかける鐘。僕はお人好しなんかじゃない。僕は、自分勝手でわがままな、ただのがきだ。だから、おまえに二人の歌を届ける。自分の中に在るたいせつなものを失わないために、自分が失くしたたいせつをまた見付けるために、僕は二人の言葉を、絶対におまえへ届ける。何回でも、何回でも、届くまで、ずっと!」
 アインベルの声が鈴の音と共に響くと同時に、ストウが彼へと躍りかかってきた。
 少年は陣の中を転がって、なんとか致命傷は逃れたが、ストウの鋭い爪先が顔を掠り、少年の柔らかな頬から鮮血が飛び散る。アインベルはその血しぶきが陣に影響していないことを確認すると、汗を拭うのと同じ要領で、自身の頬を流れる血を手の甲で拭い取り、ストウの濡れた赤い瞳を見据えた。
「──何が戦争だ、何がかわたれの時代だ。馬鹿にするなよ、僕は彼じゃない。仲間とも、家族とも、自分自身とも、そうやって誰とも向き合おうとせず、向き合えず、向き合うのが怖くて逃げたやつと、僕を一緒にするな! 分かるか、僕は彼じゃない。僕は、僕だ! 僕の名前を呼んでみろ、僕の名前は……!」
 ──アインベル!
 ふと、誰かに呼ばれた気がして、少年は背後を振り返ろうとした。
 しかしそれより早く、二つの黒い影がアインベルの上を跳び越え、天上から柔らかな光を投げかける月すらも一瞬覆うと、上げた視線を戻す頃には、ストウはフローレの連れる二匹の魔獣──アウロラとルミノクの手によって、地面へと押さえ付けられていた。
 大山犬と大鷲の銀色に隠された瞳が、ちらりとこちらを向く。
 ふるさとの歌を奏でるアコルトの篠笛に合わせるように響く、そのフローレの笛の音が耳に届くたび、二匹の魔獣の頭頂にそびえる金の角が、更にその存在感を増して星の光に輝いているようにアインベルには見えた。
 アインベルは彼らの視線に、声は発さずこちらも視線だけで頷くと、ストウによって踏み荒らされた陣の内側を修復するため、じっと目を凝らす。
 自分では分からなかったが、かなり力を込めて描いていたらしい、ほとんど陣はその原型を留めていた。けれどあまりにも爪痕が残る箇所は、念のためその身を屈め、鈴の杖も縮めては手早く描き直す。狼の足跡を表した紋様を魔除けとして描いていた場所もまた、ストウの足によって踏み荒らされていたが、こちらは本質が変わらないため、少年はそれを据え置き、陣の仕上げに取りかかった。
 アインベルは呼び声なき眼の外側に立ち、円の周りを囲うように、声を発し、描くべき言葉を自分のものとしていきながら、一つひとつ、陣の外側にその呼び声を刻んでいった。
「──僕は、瞳」
 我は瞳。
「僕は鐘」
 我は鐘。
「僕は見付ける」
 我は見付ける。
「僕は見付かる」
 我は見付かる。
「僕は知らせる」
 我は知らせる。
「僕は知られる」
 我は知られる。
「僕は瞳」
 我は瞳。
「僕は鐘」
 我は鐘。
「僕は此処にいる」
 我は此処に在り。
「アコルト」
 アコルト。
「アウロラ……」
 アウロラ。
「ルミノク……!」
 ルミノク。
「フローレ!」
 フローレ。
「──汝よ、此処へ至れ=I」
 陣を描き終えて、アインベルは古い言葉でそう叫び、鈴杖の石突で地面を今までで最も強く叩いた。
 少年が、呼び声なき眼に自分の名前を刻まなかったのは、呼び声がもう、此処からでもストウへ届くと思ったからだった。
 もう、怖くはなかった。
 心音が──その鼓動が、聴こえていたから。
 相手の心音が、聴こえた。
 呼吸も聴こえる。
 彼は今、生きていた。
 ──その音が今、確かに聴こえている!
 アインベルの声と鈴の音がその場に響くと、彼が描いた巨大な陣を覆うように、淡くも辺りを照らす光がぼうっと丸く現れ、アウロラとルミノクごとストウを柔らかく包み込んだ。
 少年が、いつもの癖でその大きな蛍のような召喚光に手を伸ばすと、瞬間球が弾け、日の出のような光が辺り一面をまばゆく覆う。それと同時に、朝を知らせる鐘のような轟音が、光と共に身体中を駆け抜けて、アインベルは全身がびりびりと痺れるのを感じながら、ほとんど呆然として目を瞬かせた。
 雷が落ちたような手足に、ちかちかしてよく見えない目、きんとする耳や鼻は痛みを伴い、喉からは声が出てこない。
 それでもなんとか目を凝らして、召喚光が弾けた陣の中心を見ようとすると、同じく呆然としたように目を見開いているストウの姿が見えて、アインベルはほっとその胸を撫で下ろした。
 彼が息を吐くのとほとんど同時に、坂道を駆け下りるような忙しなく、どこか危なっかしい足音がアインベルの隣を通り過ぎる。少年がその足音をアコルトのものだと認めるのと、アコルトがストウの首元に抱き付くのとは、一体どちらが早かっただろうか。
 ストウが戸惑ったように、アコルトの頬を舌でぺろりと舐めたのを見て取ると、何事もなかったように光の中から出てきたアウロラとルミノクとは打って変わって、少年はその頬を上気させて後ろを振り返り、足の痛みはどこへやら、背後のフローレの元へと駆け出した。
「──フローレ!」
 そう叫んで、少年は少女に向かって片手を上げる。
 そんな少年を視界に映した少女もまた片手を上げると、それを見やったアインベルはほとんど転がるようにして走り、フローレの手のひらに自分の手のひらをぶつけ、高く鳴らした。
「や……った! やったね、フローレ! なあ──なあ、きみたちのおかげだよ! ほんと──ほんとにありがとう!」
「分かった、分かったから落ち着いて、お兄さん。血、出てるよ。だいじょうぶ?」
「ああ、こんなの、ただの掠り傷だ!……って……あ、あれ……?」
「え、お兄さん?」
 小首を傾げたフローレに、アインベルは溢れんばかりの笑みを湛えたその顔を、ほんの少しだけ歪ませた。
 ふと、視界が霞み、両足に鈍痛を感じると共に身体の力が抜け、彼はその場に膝を突く。額からぶわりと汗が噴き出し、そうして頬を伝った塩水に、狼の爪から受けた傷が鋭く沁みた。
 全身が砂ぼこりにまみれ、細かな傷がそこここに受けたアインベルは、しかし自分の心音が、眠りに落ちる前のそれとほとんど同じ響きをもっていることに気が付いて、少しだけ自分自身に呆れたように、ゆっくりと溜め息を吐いた。
「……ああ……はは……これじゃ、ちょっと、かっこ悪いな……でも……ほんと……よかった……。……なあ、フローレ、僕ら≠ヘ……僕らは一緒に、生きていける……ねえ、そう、だ、ろ……」
 掠れた声でそう言葉を紡ぐと、柔らかな笑みを浮かべながらアインベルはふっと気を失い、眠るように地面の上にどさりと倒れた。
 ──気が付くと、夜は明け、地平の果てに太陽が顔を出していた。
 ヴィアに乗ったイリスが、大地の上で砂とかすり傷だらけになっても尚、心地よさそうに眠るアインベルを迎えに来たのは、本物の陽光が世界を照らし、少年のことも等しく照らしはじめてから、しばらく経ってのことだった。



20171129
…special thanks
フローレ・アド・アストルム @siou398

- ナノ -