黄昏


 片耳を塞いで、筆を手に取った。
 幾つにも枝分かれした煉瓦の道をぼんやりと歩き、少年がそうして辿り着いたのは、その外れに在る、樹が一本立つばかりの狭い空き地だった。
 工房都市〈スクイラル〉の中でも、比べてかなり人通りの少ないこの場所で、アインベルは木陰に隠れるようにして、自身の手帳のまっさらな頁を、しかし光のない瞳で前にしていた。
 都市の裏手に巨大な鉱山が存在するために、発明家や術師が、その豊富な資源を求めて工房を構えるこの都市では、また、彼らの考案したものを自分の仕事に落とし込むために、技師や職人、特に鉱石をよく仕事に遣う鍛冶師も多く集まる。
 そんな彼らの集まった〈スクイラル〉は独特の様相で、家の形や大きさや場所は統一されず、道も栗鼠の駆け回る枝のように無数に分かれ、何処に行けば何が在るのかなど、素人目には分かったものではない。
 工房からは多く黒煙が上がり、特に大きな工房が集っている都市の中心はなんだか煙たく、そしてあちこちから響く人の声や慌ただしく動き回る足音、家の扉を激しく叩く音、荷台が擦り切れた舗道を駆けずる音などで、それはとにかくもう、がちゃがちゃとやかましくて仕方がなかった。
 アインベルは、そんな変わり者だらけの街の、この可笑しな喧騒が大好きだった。
 人が未来を拓くために研究をし、自分の心を真っ直ぐに信じて、先の見えない道をそれでもひた進んでいく人々の立てる、その音が大好きだったのだ。
 ポロロッカ>氛氈qオルカ〉の四人組ハンターのことを好きになったのも、或いは彼らが、〈スクイラル〉の立てるこの騒がしくもどこか心が落ち着くそれに似ていたからかもしれない。
 ──それが、街の心地好い喧騒が、今はひどく煩わしかった。
 聴きたくない。
 うるさい、のだ。
「──っ……」
 街の喧騒も届かない小さな空き地の中で、アインベルはポロロッカたちの顔を想い浮かべ、そして手にしていた万年筆をぽとりと地面へ取り落とした。
「あ……」
 ──あのとき。
 牧歌の間≠ノ喚び出された、かわたれの記憶を見た直後。
 あのときの……
 あのときの、彼らの表情。
「僕、は……」
 自分の持つ鈴の杖に向けられた、彼らの表情。
 あれは、明らかに怯えであり、その中には軽蔑さえ存在していたかもしれない。あのとき、彼らの視線は確かに杖に向いていたが、けれど心は、彼らが真実怯えていたのは、召喚師──この自分なのではなかったか。
 アインベルは、氷のように温度を失っていく心とは裏腹に、叩き付けるように鼓動する自身の心臓をぎゅっと押さえて、空き地に立つ樹の幹を背に、ずるずると地面に蹲った。
 牧歌の間を、姉の言葉を聞かずに飛び出していった後のことを、自分はあまりよく覚えていない。
 ただひたすらに走り、走り、振り返らずに走り続け、そこからはもう、もしかすると動いているのは身体ばかりで、自分の気は失っていたのかもしれない。楽器の町〈オルカ〉と此処〈スクイラル〉は決して近い距離ではなく、魔獣に襲われずに生きて此処にいるのは、さながら奇跡のようにも思えた。
 そして、そんな奇跡というものが、思っているほど自分の心を救わないことを知るのは、少年にとってこれで三度目だった。
 一度目は、〈白き海〉の渦潮。
 二度目は、かわたれの時代≠フ記憶。
 三度目は、今だ。
 ──知らなかった。
 自分は、何も知らなかった。
 何も、知りたくなかった。
 あの日=A祈ることをやめた自分に、神はいない。
 助けてくれと、そう縋れる神は、この自分が殺してしまったのだ。
 アインベルは、息を吐いて自身の両膝を抱えると、だらりと垂れる前髪が光を遮ることも構わずに、そのまま顔を伏せて、擦り切れた自分の靴へとその視線を向けた。
 〈スクイラル〉に着いた後、自分が常日頃から世話になっている小さな宿屋に戻ると、そこの女将はびっくりした顔をして、水も貴重なこの時世に、こんな自分一人のためだけに宿の広い風呂を沸かしてくれた。よほど酷い顔をしていたか、顔をしかめるほどに汚れていたか、或いはその両方だったのか、ともかく自分はそのとき、ぼんやりと働かない頭で浴場に向かった。
 そうして熱い湯に入ると、思わず声を上げてしまうほどに肌に沁みて、そこで初めて少年は、自分の両足で幾つも血豆が潰れ、普通だったらその状態で走り続けることもできないだろう、酷い靴擦れを起こしていたことを知った。
 その傷に、水の中で恐る恐る触れてみれば、目尻に涙が滲むほどの痛みが鋭く全身を走り、アインベルは、何を知っても自分が何も変わらず自分のままで、ちゃんと生きて此処に存在していることを、痛みを以って知らされた。
 ──よく、分からなかった。
 よく分からないが、声を上げて泣きたい気もした。
 少年は湯船に潜ることでその場をやり過ごすと、しばらくして風呂から上がり、宿代が前払いのことをそういえばと思い出して、女将に支払いをしながらはたとした。
「あ──ああ……気球と飛空艇、一応使ったのか……」
「そりゃそうだろ。そうじゃなかったら、あんた、一体どうやって此処まで帰ってくるって言うんだい?」
「いや……そう、だよね……でも、何処から乗ったのかあんまり覚えてなくて……けっこう、歩いたみたいなんだけど」
「……相当疲れてるねえ。もう休んだらどうだい、アインベル」
 〈スクイラル〉を発ってから、随分と軽くなった手持ちを前に、アインベルは女将の言葉にかぶりを振った。
「いえ……ちょっと、仕事してきます」
「はあ、風呂に入ったのに?」
「うん、ごめんなさい」
 そうして、いつもはきっちりと右耳の前では短く、左耳の後ろでは長く三つ編みに結っている髪も、ろくに乾かさず無造作に耳の下で一つに纏めただけで、少年はどこか逃げるように宿屋から飛び出し、そうして今に至っている。
「仕事、か……」
 呟いて、アインベルは手帳の白紙を見つめ、地面に落ちた万年筆を取り上げた。
 使い倒されて、細かな傷が無数に付いている万年筆は、持った途端にすっと自分の手に馴染み、いつだって自分の身体の一部のように使うことができた。
 それは何故だろう、そう問うまでもない。だって、何度も何度も、召喚陣ばかりを描いてきた。何度も何度も、手を動かしてきた。ほとんど眠りながら、それでも手だけは陣を描いていた日だって、笑えるくらいに在ったのだ。
 まるで自分の脳と手が繋がっているかのように、万年筆、鈴の杖、白墨──その使い古した道具たちを手にすれば、練習を重ねた陣はもうほとんど、自分の思うように描くことができたのだ。自分の心が命ずるままに、そのままに手を動かすことができた。
 それはまるで、言葉を発するときのように。
 伝えたいと思ったことを、そのまま相手に伝えられるかのように。
 ──それが、しかし、今はどうだ。
 アインベルは、万年筆を持ちながら、けれどもそれを拒むかのように小刻みに震える右手を見やり、その腕を左手できつく押さえた。しかしそれで右手の震えが治まることはなく、むしろ、小刻みに震えていたその手は、目に見えてぶるぶると震えはじめる。
 物もまともに持っていられないほどに震えはじめた右手に、アインベルは万年筆を取り落とさないよう、それをほとんど握り潰すようなかたちに持ち変えた。右手を樹の幹に叩き付けてしまいたい気持ちをなんとか抑えて、彼は手帳の真っ白な頁に視線を向け、そのペン先を白い紙の上に触れさせる。
「……」
 紙が破れてしまうのではないか、というほどに力を込め、そのペン先を手帳に押し付けるアインベルは、しかしそこからその手を動かすことが叶わない。
 冷や汗が背を伝い、心臓が痛いほどに鳴り、手が震え、目はどこに向ければいいのか分からないままに頭の中が絡まり、力を込めすぎたペン先は紙に引っかかって、少年のもつすべてが、何かを描くということを拒んでみせるのだ。
「……くそ……」
 まるで、言葉が喉に引っかかったまま出てこないような気分だった。言いたいことが在るはずなのに、何か、伝えたいことが在ったはずなのに、一体自分が何を伝えたいのかが、まるで分からないようだった。
「なんの、ために……」
 動けない少年の万年筆は、先ほどまで白かった紙の上に、ただ、意味もなく黒い水溜まりをつくっていく。
「……僕は──なんのために、描いていたんだっけ……」
 ぽつり、とそう零すと同時に、紙の上に溜まったインクが、つうと伝ってアインベルの服の上に落ちそうになった。
 少年は慌てて、手帳の縁から零れ落ちそうなインクの下に右手を持っていくと、そのインクが自分の服の上ではなく、手のひらの上にぽたりと落っこちたのを見届けて、少しだけほっとする。
 しかし、手に落ちたそのインクを拭えるものも、今、アインベルは特に持ち合わせていない。彼は自身の手の上に在る黒色をしばらくぼんやりと見つめたのち、何を思ったのか、その手に有る万年筆ごと、ぐ、と握り締めた。
 自分の熱に、黒が手の中で滲んでいくのを感じる。白木で形づくられた万年筆の軸が、握り締めたこの黒色に滲みをつくっていくのも、それと同時に感じていた。
「……どうでもいい……もう……どうでも……」
 ──もう、どうでもよくなりたかった。
 ……いっそ、そうなれればよかった。
 アインベルは握り締めた手のひらを開くと、その木軸の半分ほどが黒っぽく染まってしまった万年筆を、しかしまた取り上げた。
 その途端、再び右手が震えはじめる。けれども少年はそれを半ば無視するように、強引にペン先を紙の上に押し当てると、その白の上に、最早円とも呼び難いが、けれども不恰好な円を一つ、そうしてなんとか描いてみせた。
「よ、よし……!」
「おお、こんな処にいたのか、失せ物探し!」
「──はっ?」
 頭上から唐突に声が耳に届いて、息を吐く間もなく、アインベルはその顔を上げた。
「えっ? ア、アル……?」
「うん、私をそう呼ぶ人間は、総じて私の友人だと相場が決まっている!」
 上げた顔の先に在ったのは、夜の空に似た濃藍の髪の、その半分が真っ青に塗れており、更には瞳までもが澄んだ青をした、どこまでも青に塗れる友人の姿。
 服装までもが青みがかっている錬金術師の友人を、アインベルはその見目にではなく、しかし半ば放心したように見上げた。
「な……なんで、こんな処に……?」
 言いながら、アインベルはアルシュタルの持つ手記と、大体において自分と彼──毎日記憶を失い、毎日生まれ変わる彼とが、いつも出会うきっかけとなるその理由に思い至り、ああ、と小さく微笑んだ。それから鈴の杖を鳴らそうと思って無意識に自分の腰辺りに手をやり、それからはたとする。
 アインベルは少しの間、寄る辺のない子どものような顔をして自分の片手を見つめると、しかしアルシュタルの方を見て立ち上がり、なんでもないように片方の手のひらを軽く振った。
「……えっと……何か失くしたのかい、アル?」
「うん?」
「何か落とし物をしたんだろ? 僕の処に来たんだから」
 言いながら、アインベルは自分の手記と万年筆を上着の隠しに仕舞い、それから困ったように笑って、痒くもない自身の頬を指先で掻いた。
「でも……今日は、役に立てないかな」
「ふむ、そうか」
「……うん。アルの落とし物、今日は見付けられないと思う。明日も、明後日も、ずっと──ずっと、見付けられないかも。アルの中でこれから先の僕はずっと、役立たずの召喚師になっちゃうかもしれない……」
 一度立ち上がったアインベルは、しかし再び幹を背にずるりと、誤魔化すように笑いながら地面に座り込んだ。自分の前髪が目に掛かり、その頼りない水色の合間を縫って、アルシュタルの抜けるような紺碧と、深く、最早揺るぎない濃紺が、少年の灰に塗れた緑の瞳に映る。
 アインベルは、毎朝記憶を失っても尚保たれる友人の、その力強い輪郭を見た。そこに、失うどころか、与えられてばかりだというのにもかかわらず、こうも脆い自分自身を比べて、少年は喉の奥から渇ききった笑いを吐き出す。
 少年は力なくアルシュタルに手を差し出すと、少しだけ泣き出しそうな顔で彼へと笑いかけた。
「アルの手記に、役に立たない僕のことが並べられて……そしたらさ、アルは思うかもな……なんで、こんなやつと友だちなんだろうって、そう……」
 そうして言葉を紡ぎながら、その先を想像して、アインベルはアルシュタルの顔から視線を逸らし、木の影の下りる地面へとその目を向ける。
 アルシュタルは身を屈め、そうして逸らされたアインベルの目を覗き込むようにして見やった。木陰に埋もれてその表情はよく読めなかったが、毎日新たな生を受ける少年の声色は、心の底から疑問を浮かべているものだったかもしれない。
「──お前は、私が役に立つから、私の友人でいるのか?」
「えっ?」
「お前の言い分から察すると……つまり、そういうことになるのではないか?」
 首を傾げるアルシュタルに、アインベルははっとしたように振り返ると、彼の両肩を強く掴み、それから必死の顔で声を荒げた。
「ち──違う! 絶対、違う! 僕はそんな馬鹿げた理由で、アルの友だちをやってるわけじゃ……!」
「なるほど、つまりお前は、私がそういうつまらん男だと言い──」
「それも違う! ああもうごめん、僕が悪かった! 僕が馬鹿だったよ!」
 慌てたように声を発しながら、がくがくとアルシュタルの肩を揺さぶるアインベルに、青い友人は、にっと少しだけ笑ったようだった。
「ちなみに──私が探していたのは、私の友人のことだ。私が〈スクイラル〉に来ていて、過去の私たちが私に、この街にはお前の友人がいる=Aと遺しているのだから、これを探さない手はないだろう! そっちの方が、今日の酒が旨くなるのは間違いない!」
「……うん、飲み過ぎないでよ」
「何を他人事のように! まあ、今日のお前は、私の友人として私が手記に遺していた特徴とは、ちょっと違うようだがな。髪や杖が──まあ、それは大した問題でもない」
「うん……」
 アインベルはちらりとアルシュタルの方を見やると、街の喧騒も遠く、夕暮れの近い昼の陽光ばかりが降り注ぐ空き地の中で、ぎゅっと迷子のように、そのあちこち怪我をしてしまった脚の膝小僧を両腕で抱えた。
「何も、描けなくなった……」
「ああ、そういう日もあるだろう」
「いろんなことを知ったら、何も、描けなくなったんだ。これじゃあ、そうだ……」
 アインベルの瞳の中に、アルシュタルの身に着けている耳飾りが、金色にちかりと煌めいて映っていた。
「自分のことを知って何も描けなくなった……なあ、それってつまり、僕は最初から──なんにも描けやしなかったってことと、同じなんじゃないか……?」
 言えば、木陰の中でアルシュタルが少しばかり怪訝な表情を浮かべ、それから微かに肩をすくめた。
 雑草がところどころに生えた、茶色い地面の上に白い陽光がつくり出す枝葉の影は、またそこここで太陽の光に穴を空けられ、あちこちが白っぽい金に輝いている。
「──僕は、全部忘れちまいたいのかもしれない。アルみたいに……」
「忘れることには一日の長がある。任せてくれてもいいぞ」
「はは、嘘だよ……。だけど、さ──僕には、自分をかたちづくる、そういう忘れたくない記憶が幾つもあって……でもそれを僕は……どうしようもなく──どうしようもなく、忘れたいときがあるんだ……そう、そうなんだよ……」
 アインベルの手は見えない鈴の杖を掴みかけて、けれどもそれを掴むことができなかった。彼は嗚咽にも聞こえる声で笑うと、見えない杖に触れることすらできなかった右の手で、その前髪をくしゃりときつく握り潰す。
「僕は、何も──何も、知りたくなかった……!」
 掠れた声で絞り出すようにそう言ったアインベルに、いつの間にか彼の目の前に座り込んでいたアルシュタルが、ふっと小さく微笑んだ。その微かに洩れた息に、アインベルが顔を上げる。
「……まあ、言ってしまえば、記憶なんてものはひどく不確かなものだ。忘れたくないからと言ってずっと憶えていられるわけでも、忘れたいからと言って忘れられるものでもない」
 アルシュタルは、彼にしては静かな声で、けれどもはっきりとアインベルにそう告げた。
 彼の額や耳で揺れる飾りが、陽光とは別に、樹の下に金の光をつくり出している。その揺れる黄金にアルシュタルの青が反射し、彼はその手で触れた物がすべからくそうなるのと似て、影に浮かぶ金の光をもまた、青みがかった色に輝かせていた。
「自分をかたちづくっているのなら、それはもうお前のものだ、アインベル。忘れたとしても、いつかまた出会うときが来る。私が何度でも、お前に出会うように。アインベル・ゼィンに出会うように」
 アルシュタルはその藍銅鉱にも似た、太陽の光を受けても尚強い青に輝く大きな猫目を、ほんの少しばかり細める。
「忘れたいのなら、一度、放り出してみるのもいい」
 青い友人の言葉たちに、アインベルはどこか虚を突かれたように呆然と、彼の瞳を見つめている。
「だが──きっと、朝陽と共に戻ってくるとも!」
 手を広げてそう笑ったアルシュタルに、少年はただ、自分の心臓が動いているのを感じていた。
 アルシュタルの紡ぐ言葉が、自分の心臓の辺りでくるくると弧を描き、そしてそれはいつしか一つの言葉、言葉を伝えるための言葉、何かを探すための言葉、失せ物を探すための言葉、心へと呼びかけるための言葉──丸く、確かな円を描き出す。
 少年はずっと動き続けていた自分の心臓に手をやり、そこからとくとくと聴こえる心音を手のひらに感じると、その目尻を和らげて、ふっと優しく微笑んだ。
「……ずっと、僕の友だちでいてくれる?」
「昨日の私も、一昨日の私も、その前の私もそれを望んだ。今日の私もそうだ。未来など読めはしないが、明日の私もきっとそう望むだろう」
 どこか大仰にそう言いながら、にっと笑って、アルシュタルはアインベルの背中をばしっと叩いた。
「──お前の友で在ることを、な! アインベル!」
 ははは、と声を上げて笑うアルシュタルに、アインベルは強く叩かれてじんじんと痛む背中に、後ろ手で少しだけ触れると、しかし彼もまた大声を上げて笑い出した。
 ──何かを描こうとする手のひらは、まだ震えている。
 けれども、心は少しだけ軽い。アルシュタルの笑い声も、自分の心音も、枝葉が揺れる音も、遠い街のざわめきも、痛みと共に自分の中に響いている。その痛みすら今はほんの少し、愛おしいと想った。
 無理やりに押し上げていた瞼を、やっと閉じられた気分だった。瞬きもしなかったために、音も立てず流れ出ていた涙を、海のように涸れた川に──そのたそがれに、ようやく夜を与えられた気分だった。次、やってくる朝のために。朝陽と共に、また目を覚ますために。
「さて!」
 アルシュタルはそう声を上げると、アインベルの片腕をぐっと引いて、自分が立ち上がると同時に、アインベルのことも立ち上がるよう引き上げた。
「では、放り出してみよう! 有言実行だ!」
「えっ?」
「我々は今日一日、術師であることを放り出すのだ! そう──ただのアルシュタルと、ただのアインベルになってやろうではないか!」
 少しだけぽかんとしているアインベルをよそに、アルシュタルは少年の腕をぐい、と引いて走り出した。それに引っ張られて自身も走り出したアインベルは、走るたびに目に掛かる長い癖っ毛を煩わしそうに手で退けて、困ったように笑いながら、前を行く青い光へと視線をやっていた。
 枝分かれする道を縫うようにして走りながら、ふと、アルシュタルがアインベルの方を振り向いた。
「……髪はもっとしっかり纏めるか、切るかした方がいいぞ。それでは前が見えなそうだ。杖──仕事道具も、ちゃんと持っていた方がいい。まあ、そんなもの、今は関係ないが!」
「わ、分かった……けど……何処に向かってるの、アル?」
「それは決まっている! 忘れたか? 今の私たちには、術はなくとも足はあるぞ!」
 アルシュタルはアインベルの方を見て、心底面白そうにその青色を細めた。
「──失せ物探し、だ!」
 アルシュタルのその言葉を聴いて、アインベルは彼に手を掴まれたまま、しかし彼のことを追い抜かして走り出した。
 ──よく、分からなかった。
 よく分からないが、声を上げて泣きたい気もした。
 だから、笑った。
 だから、声を上げて笑ったのだ。


*



 アインベルはアルシュタルと共に、街中の失せ物探しをその足だけで行い、そうして陽が沈んだ頃に少年たちは別れた。
 少年たちの明日も友人で在ること≠ネどと言う、不確かな未来の頼りない口約束は、けれども確かに強い結び目となって、アインベルの心臓の奥に描かれた正円のはじまりと終わりを繋いでいる。
 アルシュタルと別れた途端に蘇ってきた、自身の両足の鈍くも熱い痛みに、アインベルは苦笑して、足を引きずるようにして自分の泊まっている宿へと戻った。
 しかし、下りた夜の帳の中、小さな宿の全貌が視界に映ると同時に、自分の目線の真っ直ぐ先から微かな鈴の音が響いてきて、少年はその柔らかな竹色の瞳を見開く。
「え……」
 痛む足を無理やりに速めて、そうして目にしたものにアインベルは見開いた目を、しかし更に見開いた。
「ク……クイ……?」
「あ、ああ……よ、よう……」
 宿の囲いの前に立って、おずおずと片手を上げたのは、紛れもない、ポロロッカのクイだった。
 つい先日別れたばかりなのに、なんだか随分久しぶりに会えた気がして、アインベルは驚きに染めていたその顔をぱっと明るくした。
 少年の表情とは打って変わって、分かり易くばつの悪そうな顔をしているクイは、彼にしてはわざとらしく咳払いをする。よく見れば、クイの左頬は何故だろう、アインベルには赤く腫れているように見えた。
「あー……ああ、なんだ、その……アインベル……」
「えっ、な、何?」
「──悪かった!」
 言って、クイはアインベルに向けて、音も鳴りそうなほどにきっちりとその頭を下げた。
 そんなクイにアインベルは心の底から驚いて、慌てたように彼の肩を掴み、そうしてその頭を上げさせる。
「な、何言ってるんだよ、やめてよ……あんなの、謝ることじゃないって」
「いや、気が変になってたとは言え、お前に当たり散らすなんて最低だった。最悪だ、有り得ないよ。分かって当然だったのにな、俺があいつ≠ニは別人で、お前もあいつ≠ニは別人なんだってことくらい……。だから、ごめん。すまなかった」
「いい!……僕だって、クイやみんなに酷いこと……言った、だろ」
「酷いこと?……言った、か? たとえば?」
 クイにそう問われて、アインベルは記憶を掘り起こすように視線を上へ持っていった。それから少し唸って、クイへと視線を戻すと、言いづらそうにその口を開く。
「う……うるさい、とか……けっこう、本気で言った……」
「は?」
「ご、ごめん!」
 そう言って勢いよく頭を下げたアインベルに、今度はクイがぽかんとした表情になった。しかし彼は、アインベルの言葉を聞いて、すぐにその喉の奥で笑い出すと、日暮れ前にアルシュタルに叩かれた少年の背中を、知る由もなくばしばしと叩く。
「はは、馬鹿だなぁ……」
「ご……ごめんってば」
「違う、俺がだよ」
「え?」
 そう言って微笑むと、クイは赤くなっている左頬に、自身の片手をやった。
「ああ……だから、殴られたのか……」
「あ……そうだ、それ……顔、どうしたの? 腫れてるけど、冷やした方がいいんじゃ──」
「いや……婚約者に牧歌の間でのこと、相談したら、さ……まあ、なんだ、この通り、というわけです」
「えっ……それってさ……?」
 アインベルはクイの顔を覗き込むように見上げて、自身の手のひらをぐ、ぱ、と開いたり閉じたりしてみせた。それを見たクイは、握られた瞬間のアインベルの手のひらを指で示して、肩をすくめては軽くかぶりを振る。
「す、すごいな……」
「ああ、かなり効いた」
「……ん? というか、よく僕が〈スクイラル〉に戻ってるって分かったね」
「あ、あー……それか……」
 そう指摘されると、クイはまたばつの悪そうに苦笑して、ちょっとだけ溜め息を吐いた。
 それから彼は煉瓦道の地面に置いていた自身の楽器入れを開けると、そこに収まっているバグパイプを指し示す。アインベルがそれにつられるようにバグパイプへ視線を向けると、そのバグパイプには、他のポロロッカたちと違わず、呼び声なき眼≠ェ白い糸で刺繍されていた。
「ええと……これを、遣って……」
「……これで、僕を見付けたの? 僕のことを呼んだ?」
「わ、悪い。お前にあんなことを言っておきながら、俺は──」
「……ありがとう、クイ」
「え?」
 少しだけその睫毛を伏せて、もう一度謝る姿勢でいたクイが、アインベルの言葉に顔を上げた。そんなクイの心境を知る由もないアインベルは、ふっと柔らかく微笑むと、少しだけ照れたようにその頬をぽり、と掻いた。
「──ありがと。ちょっと、嬉しいよ」
「お、お前な……」
「だってこの陣は、心からその人の名前を呼ばないと動かないんだよ。牧歌の間で、あの召喚師だった僕が言うんだから、それは間違いない。心臓よりちょっと──そう、この辺り……」
 そう言いながら、アインベルは自身の心臓、その少し下辺りに手のひらを置いて、そこを見つめるようにその淡い色をした睫毛を伏せる。
「──この辺りから、その人の名前を呼ばないとだめなんだ」
「……たぶん、これを描いたあの召喚師にも、そういう人がいたんだな。……たいせつな人が」
「……うん。そこは、そこだけは、今の僕らとなんにも変わらない。おんなじだよ」
「ああ、そう……だな。そう、だよな……」
 遠いかわたれを想うように夜空を見上げて、クイは小さくその息を吐き出した。それからクイは、腰の布帯から何か棒のようなものを引き抜くと、それをアインベルの手のひらに載せて、そうして彼らしく、にっと悪戯っぽく微笑んだ。
「そいつ──もう蹴ったりしたらだめだぞ、アインベル」
 しゃん、と少年の手のひらの上で、軽やかな鈴の音が響いた。
「──大事な相棒、なんだろう?」
 その言葉が心臓の上に刻まれていくのを感じて、アインベルはぎゅっと、自分で痛みを感じるほどに強く、その導の杖>氛泓驍フ杖を握り締める。
「……うん……」
 自分の視界が、さながら水の中で目を開けたときのように滲んで、鼻の辺りが少しだけ、ほんの少しだけ痛い。
 けれども少年は顔を上げて、クイの瞳を真っ直ぐに見つめると、そうしてにっと口角を上げる。それから顔の横でしゃんしゃんと軽く杖を振ると、笑い声にも、涙声にも聴こえるその声で、しかし心底嬉しそうに笑ったのだった。
「──うん、ありがとう」

 そして、宿の開け放たれた窓から、遠く獣の遠吠えが耳に響いて、呼ばれるように少年の目が覚めたのは、その日の夜明け前だった。



20171121
…special thanks
アルシュタル・ウェロウ @siou398

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