言葉


 役者は揃った。
 ──〈オルカ〉の町、その外れに在る遺跡は、森と呼ぶには未だ浅い木々の中に延びる獣道の先、しかし周りを他の木よりは背が高く、葉も多く生い茂っている樹々に囲まれたその中心に、どこか隠されるように建っている。
「──つまり俺たちは、声≠フ力を借りる者なんだよ。自分の声の、な」
 牧歌の間≠ヨと続く獣道を歩きながら、クイは自分の後ろに続く仲間たちに、片手を振ってそう告げた。
 彼の後ろには、元々一緒に町に滞在していたハルと、そこに合流したリトとアインベル、そして今朝方ヴィアに乗って〈オルカ〉へと舞い戻ったイリスと──そのイリスにろくな説明を受けないまま、たまたまギルの酒場に寄ったために、彼女に首根っこを掴まれて〈オルカ〉まで引っ張ってこられた哀れなジンがいる。
 ちなみにイリスを乗せてあっちへ奔り、こっちへ奔っていたヴィアは今、ハルの実家の厩でしばしの休息を取っていた。
 道すがら、唐突に繰り出されたクイの話に、ジンが疑問を露わにする。
「……声、だぁ?」
「じいさまと話してて確信したんだよ。じいさまの声には力が有って、じいさまはその声の遣いどころを心得てるって、さ」
「や、よく分かんねえけど……」
「まあ、聞いてくれ。……それで俺は、じいさまに自分たちの借りものの力≠ノついて問いただしてみたんだ。だが、じいさまも俺たちと同じで、自分の借りものの力がなんなのか、自分は一体、世界からなんの力を借りることができるのか、確かなことは分からない様子だった」
 そこで一度言葉を切ると、クイは道の途中で振り返って、自分たちの幼馴染たちの顔を見渡した。そこに在る見飽きるほど見慣れた顔ぶれは、そのどれもが困惑に充ち満ちていたが、しかしクイはそれでも、自分の中に渦巻く考えを口に出さずにはいられなかった。
「──だがな、その自覚がなくても、俺はじいさまの借りものの力は声≠セと思うね。長老としてもそうだが、俺はじいさまの身内で、長いことあの人と一緒に過ごしてきた。だから、分かる──いいや、お前らにも分かるだろ? じいさまの声は、刻まれる≠だ」
 道の半ばで立ち止まり、そう言葉を紡ぐクイに、ハルが何かを思い出すように視線を上へと向けながら、誰に向けてでもなく小さく唸った。
「うーん……まあ、確かに、長老が言った何か大事な言葉って、今でも簡単に思い出すことができるわよね。うん、記憶に……そうね、刻まれる──感じがするかも。あたし、未だに憶えてるわよ。リトが長老の前で初めてリュートを奏でたときの、じーさまの言葉」
「うわ、やめろよ……有り得ないだろ……」
「まだ拙い、まだ弱いが、しかし向かいたい処が在るのは伝わる。鳴らしてみせたいものが在るのは分かる。それは未だ、遥かに遠いがの=v
 隣に立ち、散々だというような顔をしているリトを振り向いて、ハルがにやりとした笑みを浮かべた。
「──だが、いい音色だ。リュートの声を知っている。おまえさんは、いい職人になるじゃろうな=v
「ああ悪かったな、トレジャーハンターになっちまって!」
「……ね? でもこんなの、単にあたしの記憶力がいいだけかもしれないし──仮に、長老が声の力を借りる者だったとしても、血の繋がったクイはともかく──あたしたちまで声の力を借りられる人間だってのは、流石にちょっと言い切れなくない?」
 声を上げ、何やら自分に不平を述べているリトを無視してそう笑ったハルに、クイは軽く眉間に皺を寄せて、それから少しだけ思い詰めたような表情でその口を開いた。
「──だとしたら、どうして俺たちはこんなにうるさい=H」
「……は?」
「どう考えても、おかしいだろう? 人がわらわら集まる酒場や、それなりに人のいる街でも、ただ喋って笑ってるだけで無駄に人の目を集めて、無駄に悪評が立つのは。
 ……お前たち、今まで誰も不思議に思わなかったのか? そうだとしても、俺はずっと変だと思ってた。だって俺は普通に話してるだけだ、お前らだってそうだろう? 誰もべつにおかしなところはない。……そりゃ、多少声は大きいかもしれないが、ハンターで俺たちより声を荒げてるやつなんて、酒場の中にも外にも、そこらじゅうにわんさかいる」
 息を吸って、クイは眉間の皺を更に深めた。それから、なんとか自分の考えを自身の声に乗せようと、彼はいつもより慎重にその言葉を紡ぐ。
「俺たちが、やかましくて仕方ないポロロッカ≠ネんて呼ばれるのは、俺たちが自分の力の遣い方を分かっていないからじゃあないか? だから俺たちの声はあっちこっちで無駄に轟いて、やたらめったらうるさいんじゃないのか?」
 クイのその言葉に、他の三人は皆それぞれで顔を見合わせ、どこか困ったような、或いは乾いたような笑みを浮かべた。その中で肩をすくめているハルが、言葉に詰まってどうしようもないといった様子で、ちらりとクイの方を見て少しばかり首を傾げる。
「──って、言われても、ねえ……?」
 そう困り果てているハルに、しかし微塵の慈悲も感じさせず、クイは更に話を続けた。
「……借りものの力っていうのは、血の他に、生まれた環境にも左右されるって云うだろう。俺たちの生まれた〈オルカ〉は、かわたれの時代≠ゥらずっと、絶えず楽器を作り続けてきた町だ」
 クイは、自分自身で確かめるようにそう言葉を紡ぎ、しかし自分の幼馴染たちにも伝わるようにと、視線は三人に向けたままで話を繋いでいく。
「──そもそも、楽器っていうのは音楽の口で、音楽っていうのは奏者の声だろ? なら、永い時を楽器と音楽に囲まれてきた町で──その町で生まれた俺たちが、声の力を世界から借りられたとしても、何もおかしいことはない。そうだろう、なあ、そうじゃないか?」
 ふと、仲間たちの最後尾で、じっと黙って彼らの話を聴いていたイリスが、その視線をクイへと向けた。それから彼女はクイと自分の目が合うのを待ち、彼と己の赤い目が交わると、自分の中に浮かんだその言葉を伝えるために小さく頷く。
「──或いは、言葉≠ヒ」
「……言葉?」
「音楽とは、奏でる者の言葉でもあるわ」
「それは……声≠ニは何が違うんだ?」
「心」
 短く言うと、イリスは自分の中に溢れている言葉の糸を、なんとか相手に伝わるようにとなるべく急いで編み込んだ。
「伝えたいという心、伝えるという意志──それが在るか、ないか。言葉の乗った声と、言葉の乗らない声は違う」
「うん、つまり?」
「あなたたちが動の言葉>氛氓スとえば音楽=Aその力を借りる者たちだったら、私はあなたたちらしくて素敵だと思った」
 そう微笑んだイリスに、ジンが半ばこの会話に疲れたような表情をして、軽く伸びをしながら彼女へと問いかける。
「じゃ、仮に俺たちがそれだったとしてよ……俺たちは一体何ができるっていうんだ?」
「それは──心に言葉が刻める、のでしょう?」
「それって、具体的にどんなことなんだよ? お前らの話はあんまり詩的すぎて、風流を解さない俺にはまったくもって理解不能だっつうの」
「──そのままの意味、なんじゃないか」
 ふと発された言葉に、そこにいた誰もが、その言葉の零れ落ちた方へと振り向いた。
「刻まれる言葉っていうのは、たぶん、文字のことだ」
 突如として、その場の視線を一手に引き受けることになったアインベルは、多少その目線に怯みながらも、顔を上げてそう言葉を発した。
 そこにいる全員が口を結び、アインベルの言葉を待っている。辺りには木々の葉が揺れる音だけが、その存在感を大きくして鳴っていた。
「……リトは此処に来る前、リュートに描かれている召喚陣を描くんじゃなくて、言葉を発することで動かしていた。召喚術も錬金術も、術師の声を大きな触媒とする魔術を源泉とするけど、それでも基本的には描いて──目に見えるかたちに刻んで′ュう術だ」
 アインベルはその瞳に、術師として多少の羨望と嫉妬の色を滲ませながら、しかしそれを振り払うように確かな声色で、自分が弾き出した答えへと彼らを導いた。
「──あんたたちの言葉は、文字の代わりになるかもしれない」
 少しばかり難しい表情でそう発したアインベルに、ポロロッカの四人は皆、互いに顔を見合わせた。
 いまいち言われていることが理解できていない四人は、それぞれが意味をもたない呻き声を発して、地面を見たり空を仰いだり、近くに生える木を見やったりした。先を行く四人の後ろに並んで立つ、アインベルとイリスもまた顔を見合わせ、四人が何か自分たちの言葉に対して返答するのを待っている。
 ふと、四人を代表するように、リトがおずおずと自信なさげに手を挙げ、アインベルの方を見やった。
「あー……つまり、俺たちは、その……天職が術師だったって、そういうことなのか?」
「ああ、うん……ほんとに、そうかもしれない。あんたたちは、そうだな──楽を奏でながら術を遣える、そういう面白い奏者になれた──なれるかも、しれないよ」
「言うならば、奏術師≠ニいうところかしら」
「はあ、なるほどねえ……」
 半ば途方に暮れたようにそう呟いて、リトは隣のハルの顔を見やった。
 どこかぽかんとした表情をしているハルを視界に映して、リトは思わず吹き出して笑い、その笑い顔を見たハルもまた、ちょっとむっとした表情を一瞬その顔に浮かべたが、しかしすぐにつられたように笑い出した。
 その笑いが伝染したように、クイも喉の奥で堪え切れずに笑い出し、ジンはと言えば一度深い溜め息を吐いた後、喉の奥からこみ上げてくるものを抑え切れずに、やはり呆れたように乾いた笑い声を上げた。
「ぜっ──……たい、無理! それってつまり、術師の遣うあの長ったらしい言葉、あれを全部暗記して間違えずに言わなきゃいけないってことでしょ! どんだけ古代語を覚えりゃいいのよって話よ! あたし、古代語は前時代によく使われてた、簡単なやつしか覚えてないっての!」
「確かにそれは、じいさまや故郷の連中はともかく、俺たちの天職じゃあないよな。そもそも、俺たちは反抗期をこじらせてハンターになった、町のはみ出し者だ。目下の課題は、奏術師なんかを目指すことよりも、自分たちの声をもう少し抑える方にありそうだな」
「つーか、べつに術師になってやりたいこともないしな。は、宮廷でも目指してみるか? 俺はそんな堅っ苦しいのは嫌だね。ここいらで一攫千金を目指してみる方がまだ性に合ってる」
 各々が好き勝手に言葉を発したため、木の葉たちが立てる声は、アインベルの中で少しばかり遠のいた。
 そうやって彼らの声が自分の中へと近付くと同時に、自分たちの借りものの力、その姿をほとんど手にしてしまったポロロッカの四人が、しかしその声を発するたびに遠くなっていくような感触を、少年は微かに、しかし確かに覚えた。
 そう、少年は今、唐突に思い出したのだ──自分は、自分自身が世界から力を借りられるものの姿を、未だ手にはしていない、と。
 そんな風に、今度は人として少しばかりの羨望と嫉妬を、その褪せた緑の中に浮かべたアインベルの前で、仲間を眺めながら肩をすくめていたリトが、少年の方へと苦笑を浮かべながら視線を向ける。
「──ってのが、みんなの意見みたいだ、ベル坊。ちなみに俺も同意見。たぶん、ハンターをやりながら気が向いたときに音楽やるのが、俺たちには合ってるんだよ。だからとりあえず、お前に勉強を教わることにはならなさそうだ。あー……よかった……俺もなるべく勉強はしたくないんだよ……」
 情けない声を発しながらそう言ったリトに、アインベルははっとする。
 それから少年は自分の中に渦巻いている、空の黄昏にも似た、しかしおよそ綺麗とは言いがたい感情を、自分の腰に差した鈴の杖を軽く鳴らすことによって、何処か遠くへと遠ざけた。
 そんな少年の心を知る由もない四人組の、いちばん前に立っているクイが、アインベルがいつも召喚術を遣うときに用いるその杖の音を聴いて、思い出したように自分の疑問を口にした。
「そういえば、アインベル。お前さっき、リトがリュートの召喚陣を動かしたって言ってたよな。確かなのか?」
「うん。一応、これでも召喚師の僕が見てたんだ、間違いないよ」
「──ってことはリト、お前、呼び声なき眼≠動かしたのか?」
 黒鳶色の目を微かに見開いて、クイがリトにそう問うた。けれどもそんなクイの表情に反して、リトはどこか気の抜けたような表情で、何かおかしなことでも言われているかのように、その気の好さそうな眉をちょっとだけひそめる。
「だって、お前らだっていつも喚んでるだろ? 俺の声」
「はあ?」
「だから、お互いの声が聴こえるって、お前らだっていつも言ってるだろ。簡単なことじゃないか、俺はいつもこの召喚陣からお前らの声を喚び出して、お前らの居場所をなんとなく知ってた。べつに、術だっていう確信があったわけじゃないし、もしかしたら俺たちだけの特別な力なのかとも期待──してなかったわけじゃないけど、ベル坊はこいつを召喚陣だって断言したし、それで、ほら、俺たちの言葉が文字の代わりになるんだっていうなら……な? 筋は通るだろ?」
 背負っていた弦楽器入れからリュートを取り出すと、リトはそのリュートのロゼッタ──呼び声なき眼≠指し示しながら、クイを含む三人へと精一杯言葉を紡いだ。
 三人はリトの示したロゼッタを、それぞれ思うところがあるような表情で見つめる。しかしその中で最も早く、少しだけ慌てたように顔を上げたのは、自分の首から、同じく呼び声なき眼が彫られているハーモニカを下げたハルだった。
「で──でもあたし、この陣に向かって何か特別な言葉をかけたことなんてないし、それに、何か奏ってるときにだって、声……聴こえること、あるけど」
「だって、イリスが言うには、音楽ってのもまた言葉なんだろ?」
「だけど、召喚術! 召喚術ってのは、遣うときに光を発するはずよ。あたし、今までずっとこのハーモニカと一緒にいたけど、そんな光なんて見たことないんだから」
「……お前、吹くときに目ぇ瞑る癖があるじゃん」
「でも酒場とか、そういう薄暗い処で召喚光が上がったら、流石にあたしも……周りだって気が付くでしょ」
 そう返して、中々腑に落ちない様子のハルに、リトは癖のある栗毛を軽く片手で掻いた。それから肩をすくめて溜め息を吐くと、ハルのつり目がちなその黒色へと視線を向けては、呆れたように口角を少しばかり上げて苦笑する。
「……酒場で奏るときは、大体四人一緒だろ。それともお前、一緒にいるときまで俺たちのことばっかり考えてんのか? それ、相当な好き者だぞ……」
 沈黙。
「──しっ……信じらんない! あんたってほんと有り得ないわね!? なんなのよ、もういいわよ!」
「は、はあ!? お前、今のどこに怒る要素があるんだよ! 有り得ないのはそっちだろ!」
「考えてないわよ、あんた──あんたたちのことなんか、あたしは!」
「俺も考えてねえよ、お前のことはな!」
 獣道の真ん中で、犬も食わない言い争いをやり合いはじめてしまったリトとハルに、残された四人は皆、誰もがどこか生ぬるいまなざしを二人に向けながら、
「ああ、まーた始まったよ……一体何十年やり続けたら飽きるんだ、この二人は……」
「なあ、もう置いてかねぇ? 俺たちが声の力を借りてようが借りてなかろうが、どっちにしろこいつらの声ってのは死ぬほどうるさいぞ」
「やっぱり、呼び声なき眼を完成させるのに必要な言葉は──」
「召喚陣に向かって真っ先にその名前を呼んでたのは、一体何処の誰なんだよ、リュート……」
 などと好き勝手呟いていたが、そのそれぞれの呟きの中に気になるものを聞き取ったクイが、はっとしたようにイリスの方を振り向いては声を上げる。
「そうだ、イリス! 召喚陣に必要な言葉は──いや、リト! お前、呼び声なき眼を動かしたんだろう! そのときお前、なんて言葉を発した?」
「はっ?……え? えーと、そりゃ……」
 ハルと言い合っている途中で唐突に話題を振られたリトは、まるで小骨が食道に刺さったかのような様子で、言葉を喉に詰まらせた。
 クイは、未だハルに詰め寄られて若干劣勢になっているリトを視界に映すと、やれやれと肩をすくめてイリスの方へと再び視線を戻す。
 ──イリスは、そんなクイと目が合うと、すっと深く息を吸った。
 それはまるで、指揮者が指揮棒を振る直前の空気、吟遊詩人が歌を歌いはじめる直前の呼吸──その音楽が始まる前のぴんと張り詰められた感覚に、言い争っていた二人も含めた全員の視線が、最後尾に立つイリスへと集まる。
 彼女はその視線に物怖じすることなく、紅の瞳をちかりと煌めかせると、リトが声にもできないまま宙に浮かべたその言葉を引き継ぐようにして、薄く弧を描いている自身の唇から言葉を紡ぎ出した。
「──名前、よ」
 その簡潔な一言に、クイは瞬きを繰り返し、ハルは小首を傾げ、ジンはおうむ返しをし、アインベルは術師の顔に難しい表情を浮かべる。
 しかし、名前≠ニいう言葉が、イリスの鮮紅のまなざしと共に心の中に落ちてくると、クイは少しだけ腑に落ちたような様子で、なるほどと小さく頷いた。
「確かに──お前らの声が聴こえるのは、なんとなく、お前らの名前を呼んだときだったかもしれないな」
「でも、名前を呼んで、あたしらの声だけが聴こえるってのはおかしくない? それって、あんたたちじゃない他の人の名前を呼んだら、その人の声が聴こえてきてもおかしくない気がするんだけど」
「はは、お嬢さん……つまり、相手を強く想って言葉にする名前は、嘘もなく、偽りもなく、感情の波紋を浮かべることもなく言葉にできる──泉に落ちる、清らかな朝露の一滴のような澄みきった言葉、ただ、そのものの本質だけを紡ぐことができる、そういった真なる言葉>氛氓チてことさ」
 目を細め、笑いを堪えているかのように緩く口角を上げながら、クイは疑問の声を上げるハルに向かってそう言った。クイのその表情に、ハルの眉間にみるみる皺が寄る。
「クイ……あんた、何にやけてんのよ。言いたいことがあるなら言いなさいよ」
「いいぜ? お前、ハーモニカを吹くとき、一体誰のことをそんな頻繁に想っ──」
「殴るわよ!」
「あぶなっ! お前、そういうのはリト相手だけにしとけって!」
 ひゅっと風を切って飛んできたハルの拳を間一髪のところでなんとか避けながら、クイは笑っているのか怒っているのか分からない声色で、彼女にそう抗議した。
 クイの物言いに、ハルの隣でリトが何やらぶつくさと言っていたが、そんな彼の言葉を聞いたクイは、しかしただ面白そうに肩をすくめただけで、言うだけ言ったらすたすたと獣道を先へと歩き出していってしまった。
「……名前、か」
 ふと、獣道を進んでいく他の三人の背を見るともなく見つめながら、ジンが静かな声で呟いた。
 その声に、先へと進もうとしていたアインベルとイリスがその一歩を踏みとどまり、彼の方へと視線を向ける。
 どこか遠くを眺めやっているようにも見える彼の横顔を見つめながら、アインベルが少しばかり心配そうに彼の名前を呼んだ。
「ジン、どうしたの」
「──誰の、だ?」
「え?」
「確かに、あの召喚陣──呼び声なき眼を動かすには、名前が必要なのかもしれねえ。その名前は、強く想ってさえいれば、べつに誰のものでもいいのかもしれない……今≠ナは、な。だけどこれは、前時代に考えられた召喚陣なんだろ? だとしたら、あの遺跡にあれを刻んだ術師は、喚びたい相手がいたに違いねえ。……なあ、俺たちはまだ、なんにも分かっちゃいねえぞ」
 眉根を寄せ、少し怒ったようにも見える色を、その焦がしたような茶の瞳に浮かべたジンは、はあっとやはり多少苛立ったような溜め息を宙へと放り出して、それから軽く首の後ろを掻いた。
 そうして彼はちらとイリスの方へと視線を向けると、無表情にその目を細め、誰に向けてかも分からない問いを、水辺を波が打つように静かな声で紡ぎ出した。
「──誰を、喚びたかったんだろうな?=v
 その問いが、イリスとアインベル、二人の中で水面の波紋のように幾重にも響き渡った。
 しかし、此処にいる誰も、その問いに答えは持ち合わせていない。
 それを分かっていても尚、渦巻く問いを口に出さずにはいられなかったジンに、イリスはふっと微笑むと軽くかぶりを振り、しかし小さく彼に向かって頷いた。
「あなたたちは、トレジャーハンター。それを見付けるのが仕事、でしょう?」
「……違いねえな。ところで、そしたらあんたは一体なんなんだ、じゃじゃ馬イリス?」
 その言葉に、イリスの瞳が微かに見開かれ、それから彼女は少しばかり嬉しそうな笑みをその唇に滲ませる。
「……私たち≠ヘ、トレジャーハンター。謎を明かして宝を見付ける──それが仕事よ」
 そう言って少しにやりとした笑みを浮かべたイリスに、ジンはそれの数倍あくどく見える笑みを、意識的にその目と唇に乗せてみせる。しかしそれからすぐに彼は、息を洩らすように柔らかく微笑んで、もう大分先の方まで歩いていってしまった幼馴染たちの方へと視線をやった。
 イリスもまた、彼と同じ方向へとその紅を向けると、自分に確かめるように再び頷き、遺跡へと続くその一歩を踏み出す。
「往きましょう、ジン、アインベル」
「仕方ねえ、今日もあのばかどもに付き合ってやるとするか。俺ってのは今日も優しくて大ばか者で、まったく神さまからも愛されるべき存在で困っちまうよなあ!」
「……あなたたちはやっぱり、同じ借りものの力を遣うと思う」
「あ? なんでだよ?」
 歩き出してそう呟いたイリスを見やって、同じく歩を進めはじめたジンが、不可解な面持ちでそう訊いた。
 そんなジンの方にちらと視線を向けたイリスは、その鮮紅の色を湛えた瞳の奥で、虹の火の粉を爆ぜさせては、獣道のそこここに下りる光の筋を目の中に宿し、にっとどこか楽しげな笑みをその顔に浮かべる。
「だって、ポロロッカ──あなたたち、似てるものね!」
 そう言って、悪戯っぽく笑いながら、前を行く三人の処まで駆け出していったイリスを、ジンが異議を大声で申し立てながら追いかけていった。
 イリスの首元に巻かれた虹色の薄布が、彼女が駆ける軌跡を残すように、獣道の上で無限の色に煌めきながら踊っている。ジンの怒号は辺りに立つ緑たちの声をまた遠ざけ、しかし道の上を走っていくジンの声もまた、少年の耳からは遠ざかっていった。
 アインベルは自分から離れていく仲間たちの姿をどこかぼんやりと見つめ、そしてまたぼんやりとしたまま、その一歩を踏み出した。
 手にした鈴の杖が一つ、涼しげな音を発する。
 それは、誰かを呼ぶ声だったかもしれない。
 いいや、呼ばれた声に返事をする、その言葉だったかもしれない。
 一歩進む。
 また、鈴の音が鳴る。
 また一歩。
 いつも聴いているその高い音が、今日は厭に自分の耳から離れなかった。

 ──それはまるで、呼び声のように。



20171030

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