自分の心の中で、一片の光を放ったその記憶の欠片が、少年の脚を微かに震えさせた。
 そして今まさにアインベルは、リト、ハル、ジン、クイ──その中の誰かたった一人にでもいい、自分の中に今激しい勢いで逆巻いているこの疑問をぶつけたくて、その足をやや急ぎがちに〈オルカ〉の町へと向けていた。
 何故〈オルカ〉へと少年が向かっているかというと、それは、あの四人組が今何処にいるのかさっぱり見当も付かないためであり、何処にいるのか分からないのだから塔≠ゥら電報を飛ばすことも出来ず、けれどもその見当が付かないのは、誰とも言葉を交わすことなく、何かに駆られるように思い立って樹海へと向かってしまった自分のせいであり、しかし自分の拠点としている〈スクイラル〉に戻って、彼らと再び出会えるのをただ待っているのは今の自分には耐えがたく、つまり、少年は──ただ、動きたかったのである。
 奇しくも、アインベルが先ほどレースラインに送り届けてもらった町から〈オルカ〉は近い。町から北西に伸びる街道を半日歩けば、おのずと着くという距離だった。
 以前、件の陽気なトレジャーハンター四人組から、自分たちの出身は〈オルカ〉の町で、だから皆楽器を自分の一部のように扱っているのだ、という話は聞いていた。手記に挟み込んでいる地図にも、彼らポロロッカ≠フふるさとの位置は、赤く丸で記してある。
 ──とにかく、あの四人の故郷に向かえば、何かしら、彼らの動向が掴めるかもしれない。
 そんな風に淡い希望も少年は抱き、歩を進める速さに呼応するように、腰の鈴杖を鳴らしながら、街道を北西に向けてひた進んでいた。
「……アインベル、さっきから様子がおかしいが……だいじょうぶ、か?」
 そう問いかけるのはアインベルのすぐ後ろにつくようにして、大きな盾を背負い、少年と同じ方角へと足を進めているキトだった。
「……うん、だいじょうぶです」
「なら、いいんだが……だけど、その調子だとばてないか?」
「これくらいが、僕の普通なんだ」
「……そうか。まあ、疲れたときはちゃんと言ってくれ」
「うん、ありがとう」
 キトの方を首だけで振り返ってアインベルは頷いた。口元だけで笑ったその顔からは、明らかに笑みが失せており、言葉にするならそれは、少年のまわりに薄く膜が張られてしまったかのようだった。
 アインベルくんって歩くの速いのねえ、そんなことを口にしながらキトの隣を歩くメグが、そのアインベルの変化に目敏く気が付いて、ちら、とキトの方を見やった。キトもまたメグの方を横目で見、小さく息を吐く。キトのその様子を見たメグはちょっとだけ笑い、それから声を潜めて彼に声をかけた。
「……しっかりはしてるんだけど、なんか、危なっかしいのよね。護衛、ついてきて正解だったかも」
「ああ……」
「あーあ、キトにしては分かり易く心配そうな顔しちゃって。分かるけど、過保護になりすぎないようにね、お兄ちゃん」
「……うるさいぞ」
 メグが声を立てずに笑い、しかしその代わりと言わんばかりにキトの肩をぱしぱしと叩いた。キトはもう慣れた様子で、為すがままメグに肩を叩かれながら、けれどもその目線は少し前を歩いているアインベルへと注いでいる。
「あいつにも、何か……やらなきゃいけないことが、在るんだろうな」
「そうだね……でも、何をするのにだって助けっていうのは必要なものよ、大小かかわらずね。一人きりじゃ、苦しいって、あたしだったら思うわ」
 メグはキトから視線を外し、彼と同じようにアインベルへと自身もまたその目を向けた。
「──ああいう年ごろの子こそ、助けが必要なのよ」
「メラグラーナ……?」
「でも、ああいう子に限って、なんにも言わない。いちばん辛くて苦しい時期なのかもしれないのに、辛いも、苦しいも、助けても……なんにも──なんにも、言わないのよ」
 メグは言って、前を見つめたまま、片手でキトの傷痕が残っていない方の頬を引っ張った。
「いつかの、誰かさんみたい!」
 引っ張られながら、キトは呆れたように自身のその黄金を微かに細め、しかし視線をアインベルから外すことはしなかった。
 前方の少年は足早に歩を進めてはいるが、その背筋はきちんと伸ばし、癖っぽい寒空色の髪の毛は出発前に結い直され、きっちりとほつれも見当たらなかった。明確な意志が在るのだろうアインベルの歩みに共鳴して、腰の鈴も彼が一歩いっぽ前に進むたび、凛と音を鳴らしている。
 ただ、急いて歩を拾う少年の片手は、今、きつく握り締められていた。
「……俺には、アインベルが何も言いたくない理由……分かる気がする」
「えっ?」
「メグ。男、っていうのは、さ……」
 キトはメグの方を見て、彼女に分かるくらい微かに、ほんの少しだけ笑った。
「──いや……なんでもない」
「ええっ? な、なんなのよう……」
 困惑するメグに、キトは肩をすくめてかぶりを振るばかり。メグはキトの曖昧な言葉を受けて、困ったように自身の柘榴色の髪の毛に軽く指先で触れた。
 ふと、前を行くアインベルの歩が緩み、少年のきつく握られた手のひらは一度、街道を流れるどこか乾いた空気を受け入れた。けれどもすぐにまたその手のひらは、固く拳のかたちに力を込められる。
 気持ちゆっくりになった歩みを、アインベルはつと止めると、ざり、と靴底を道に擦りながら、自分の後ろを歩く二人へと半身を向けた。
「どうしたんだ、アインベル」
「あの……」
「うん……?」
「……海、の……」
 アインベルは、何かを決心するかのように、すうと息を吸い込んだ。
「──東の海について、教えてほしいんだ」
 少年の唐突な申し出に面食らったキトとメグは互いに顔を見合わせ、けれどもすぐにアインベルの方へと視線を戻した。
「海?」
「キトさんと、メグさんが知ってることだけでいいんだ。どんなことでも、なんでもいいんだ。僕、知りたいんだ……知らなくちゃ、いけないんだ……」
 アインベルは全身を二人に向け、両の拳を強く握ると、今朝キトとメグがアインベルにそうしたように、アインベルもまた二人に頭を下げた。
「だから、お願いだ。──教えて、ください」
「……アインベル、でも、それは……」
「そう、國勤めのガーディアンとしては、もう軽率な発言は控えたいってところよねえ」
 メグは片手を上げてそう言いながら、ひらりと緩くその上げた手のひらを振る。そしてキトの目線がアインベルの方へ注がれているのをいいことに、彼女はキトの右腕を掴むと、その手首から真鍮の腕輪をするりと抜き去った。
 メグがキトから取り上げた真鍮製の腕輪は、キトが國が管理している正ギルドの一役人であり、つまり彼は國勤めのガーディアンで、そしてたった今依頼人を護衛している真っ最中である≠アとを周囲に示すための装身具である。
 ちなみに、國から正式には認められていない、非公式に発足された自治的なギルドのガーディアンは、区別のために皆、銅製の腕輪をその手首にはめている。
 自分の腕からそのしるしが抜き取られたことを自覚したキトは、怪訝なまなざしをメグへと向け、それからメグが一体何をしたかったのかを理解したのだろうか、小さく溜め息を吐いた。
「これを取っちゃえば、お役人のガーディアンさんだって、たちまちただのキトになるってものよ」
「それ、は……無理やりもいいとこなんだが……」
「っていうか、あたしはただの冒険家だし、大きいものなんてべつに背負ってないのよね。だからまあ、いざとなればあたしが勝手に喋っちゃえばいいんだけどさ……でも、それって國じゃなくて、アインベルくんに対して無責任……でしょ。なので、アインベルくんに一つ、約束してほしいことがあります。……あんたが聞きたいのも、その辺よね、キト=H」
 やたら名前の部分を強調してそう問うたメグに、キトは少しだけ息を吐いてから静かに頷いた。それからかぶりを振って、アインベルの方を見やる。
「……一人で樹海へ向かうなんてことは、もう二度としないでくれ」
「あ──ああ、うん……分かった、しないよ」
 キトの不器用な物言いに、メグが半ば呆れながら小さく笑った。
「アインベルくん。キトが言いたいのはつまりね、もうちょっと、頼れる人には頼んなさいってことよ。まあ、あたしが言いたいことも、それなんだけどね。独りで、苦しいことを抱え込んじゃだめ。独りで、辛いことを乗り越えようとしてもだめ。ちゃんと人を頼るのよ、いい? あたしは冒険家だから、自分を棚に上げて、人に危ないことはしちゃだめなんてことは言えないけど、それでもだめよ。独りでなんて、尚更ね!」
 アインベルの鼻先に、ぴっ、と人差し指を立ててそう言うメグに面食らいながら、アインベルは、二人の自分を気遣う心が、自分の心にじんわりと柔らかな痛みを伴って広がっていくのを感じていた。
 少年は、意を決して静かに、しかし大きく息を吸い込んだ。
 そしてアインベルは、左耳の後ろでは長く、右耳の前では短く結った三つ編みの、その右耳の方を手に取る。そうして、きつく結ばれた白い紐を引っ張ってほどき、それと同時に手櫛を入れて、右耳前の三つ編みを完全にほどききった。それから彼は、先ほどまで四つの結び目でつくられていた三つ編みを、五つの結び目に編み直して、再び白い紐で結び目の下をきつく結ぶ。
 ──術師の結ぶ三つ編みは、すべからく誓いの意味をもつものである。
 アインベルは髪を結うために伏せていた、その寒空色の睫毛をすっと上げ、キトとメグの方を見て微笑んだ。少年の淡い水色をした睫毛は、昼間の陽光を受けてほとんど金色に輝いている。
「──言葉を編んだこの結び目に誓って、約束するよ」
 アインベルのほとんど大仰だとも言えるその動作と言葉に、キトは少しだけ困ったように軽く頭を掻くと、それから肩をすくめ、諦めたようにほんの少しだけ口元を緩めた。
「……なら……俺たちも応えよう。お前の、その意志に」
「あ……ありがとう、キトさん、メグさん!」
「いや……お前がどこぞの跳ねっ返りの鉄砲玉と違って、人の話をちゃんと聞くやつだってのは、もう分かってることだしな」
「ちょっと、キトくん?」
 覇気を纏いながら、大変いい笑顔でにっこりと微笑んでいるメグのことは見なかったことにして、キトはアインベルに向けて小さくかぶりを振った。
「まあ……ちょっと、大げさではあったけど」
「そ、そうかな。でも、あれくらいしないとだめかなって思って……」
「俺は、そんなに頭の固い人間に見えるのか……?」
 メグがキトの肩をとん、と指で小突いた。
「柔らかくはないでしょ、柔らかくは」
「お前が楽観的すぎるんだよ、俺くらいが普通だ」
 呆れたように小さく溜め息を吐いて、キトはメグに小言を言った。それから、キトは自分の手前で立ち止まっているアインベルの隣まで歩いていくと、再び〈オルカ〉の町へと歩を進めるように促す。
 そうして歩き出したアインベルの隣で彼もまた少年と共に歩を拾いはじめ、メグはと言えばキトの陣取っている方ではないアインベルの隣に、自分の身を滑り込ませていた。
「……それで、具体的には何が訊きたいんだ? と、言っても……俺は、役人とはいえただの護衛役で、こっちは陸の地図を引く専門の冒険家だ。大した情報は持ってないが……」
 がらんとした街道を三人で征服しながら、キトがアインベルの方をちらと見やって問いかけた。
「ここ数年で、渦潮≠ノついて何か新しく分かったことっていうのは……?」
「ほとんどない。ここ数年、黄昏の進行が酷くてな……。二、三年の内に百を超える村里が、黄昏に呑まれて魔獣の集団と化したり……或いは、その魔獣の集団によって、また他の村里が喰われたりした。
 余裕があるときも、或いはないとき……も、基本的には國は〈白き海〉の調査には乗り気なんだが、最近じゃあ海のどの調査も打ち止めになってるな。陸に余裕がないから、新天地を目指すために海の調査をしていたのに、それをする余裕もここ最近じゃほとんどない」
「そう……」
「白の民の生活もあるから、出入りが封じられているわけじゃない。海への道を塞ぐのにも、陸の人間──まあ、そういう役は騎士に押し付けられるんだろうが──の数を裂かなくちゃならないしな。だから、無謀なハンターや物好きの考古学者や、無鉄砲な冒険家は樹海や浜や、海自体に出入りしたりすることも、未だあるにはあるらしいが……」
 それとなく視線をメグに飛ばして、キトはそうアインベルに告げた。
「ねえ、なんで今ちょっとこっち見たのよ?」
「……その内、お前ならやりかねないと思った」
「今のところは予定ないけど、そうなったらあんたも付き合うことになるんだからね」
「いや、なんでだよ……」
 二人のやりとりに、アインベルはふふっと笑みを零すと、しかしすぐにその瞳を沈ませて、まだその姿は見えない〈オルカ〉の方へと視線を向けた。
「何が訊きたいのかって言われると、分からないんだ……。僕には分からないことがたくさんあって、分からないことがなんなのかもよく分からなくて、でも何か……僕もこのままじゃ、だめな気がして……だけど、僕は、僕のことすらも、ちゃんと分からなくて……」
 くしゃりと前髪を片手で潰して、自嘲と苦悶が混じった表情でアインベルはそう呟いた。キトとメグはそんな少年の、まだ微かに幼さの残る横顔を見やりながら、息が詰まったかのように口をつぐむ。
「俺は……」
 そして、先にその沈黙を破いたのは、キトのアインベルへ向けた、慰めにも叱咤にもならない、訥々と紡がれるだけの言葉だった。
「俺は、渦潮は生きているかもしれない──そう言ったが、あれには少し語弊がある……と、今、思った」
「えっ……?」
「……まずは、在るもので道を拓こう。分かっていることを順に並べていって、よく考えてみれば、何かしらのひらめきが得られるかもしれない。そういうのは、術師の得意な分野だろ」
 言いながら、キトは開いた片方の手のひらの、その親指を折り曲げた。
「渦潮について分かっていること──その中で俺が知っていることを挙げる。
 一つは、渦潮はかなり古くから存在が確認されていて、しかしほとんど解明されていない、世界の不可思議の一つであるということ。そして、渦潮は人類が海を越えられない──海へと踏み込むことを躊躇させる、最も大きな理由であるだろうと、一般的には云われていること。
 渦潮について中々解明されないのは、この世界の黄昏と、やたら広すぎる國土と、同じく果てが知れない海に対して、動ける人間が少なすぎるためだ。前時代では、人がこの國土を覆い隠すほどに溢れていたと云うが、俺にはとても想像できないな……
 そして、もう一つは……俺はこれを最近知ったんだが、渦潮は世界樹〈カメーロパルダリス〉から見て、東の──正確には、東北東から東南東の範囲の中でしか発生しない、ということ。まあ、これを城の人間は当たり前に知っていたんだろう、今まで國が、正式に人をやって調査を重ねていたのは、東を除いた方角の三つの海だけだ──というのは、ギルドの組長からこの間聞いた」
 キトがふうと息を吐いて、軽くかぶりを振った。
「それが広く民に知られていないのは、考えれば当たり前のことか。國は民に、むやみやたらに海へと出向いてほしくないのだから、渦潮は海全体で発生し、その原因は長らく解明されていない──ということにしておいた方が、何かと都合がいい」
 アインベルと共にキトの話を聞いていたメグが、ふと、思い付いたように口を開いた。
「ねえ、渦潮っていうのは、竜みたいなんでしょ?」
「確かに……よく、そう聞くな」
「で、竜巻っていうのも、或る意味で竜みたいなものよね? 竜巻って名前からして……」
「俺は竜も竜巻も見たことがないから分からないが、まあ、そうなんじゃないか」
「竜巻は、自然現象だから人がいなくても起きて、実際に起こったら遠くからでも見ることができる……のよね?」
 その言葉に、キトは一瞬はたとして、それから折り曲げた指を口元に当てた。
「そういえば、陸の上から渦潮の姿を見たという者は、俺の知る限りでは聞いたことがない……かもしれない。渦潮について語るのは、渦潮に遭って、それからなんとか生き延びた人間だけのような……」
「樹海の樹は世界樹ほどじゃないけど大きくて、森は広いし深いから、陸からじゃあ、東の海はよく見えないんじゃないかな……? それじゃ……僕がこっちに来てからも、渦潮は海で起き続けてるのかな。こっちからは、見えないとしても」
「いや、特にそういう報告は上がってなかった気がする。……いや、違うか……もし、渦潮が起きても、生き延びた人間がいなければ、報告も何も……」
 皺の寄った眉間を親指で軽く叩いて、キトは微かに唸りながらアインベルとメグの方へと視線を向けた。
「なんか、不自然だな……気味の悪い感じがする」
「でも結局、渦潮だって竜巻と同じ自然現象なわけでしょ? 自然現象に気味が悪いも何もある?」
「自然現象か?」
「ええ?」
「渦潮は、自然現象か……?」
 息を吐きながら、キトは顔をしかめて空を仰いだ。
 昼間の青空には薄く雲に覆われ、その隙間からは時折、眩しい陽光が梯子を下ろしている。飛ぶ鳥の姿は見えず、風はどこかぬるい。街道は三人の話し声や足音を除いて、寂しさを感じるほどに静かだった。
「俺が、渦潮は生きているかもしれないと言ったのは、あれに何か……意志のようなものを感じたからだ」
 アインベルの顔を見てそう告げたキトに、その意味を計り兼ねて少年は小首を傾げた。
「意志……?」
「だって、おかしいだろう、渦潮は。あれは、東の海だけに発生する。それに噂じゃ、同じ場所で同じ渦潮が何度も起こるらしい。重ねて、印をした海図を見れば分かることだが、渦潮の発生の仕方はまるで、そこから先へは、なんびとたりとも立ち入らせないといった様子だ」
「通せんぼしてるみたいってこと?」
「ああ……」
 語るキトの、褪せた黄金をしたその瞳が、つと険しくなった。
「竜巻というのは、陸の上を縦横無尽に暴れまわるという。なら、渦潮がそうでない可能性がどこにある? 白の民の住む浜を越えて、樹海を薙ぎ倒し、陸へと上がってこないという可能性がどこに? だが、そんな渦潮は今まで一度もない。渦潮によって滅びた白の民の浜も、粉々になった樹海も、この國の歴史には存在しないんだ」
 かぶりを振るキトに、アインベルが思いつめたような顔で口を開いた。
「渦潮──あれは、たぶん、動かないと思う。追ってくるものじゃ、ない、なかった……ような、気がする」
 つっかえつっかえ言いながら、アインベルはあの日のことを思い出して、口の中を密かに噛んだ。
「あの日、あの日も、そうだった。渦潮はひとりでに起こって、風を起こしたんだ。そうだ、渦潮は風を起こして、しばらく経つと、その風を自分の中に吸い込む。たぶんそれが、僕が父さんに習った、渦潮の引き波のこと。その引き波にさらわれたら、もうだめなんだ。あいつは風と一緒に吸い込もうとするんだよ、いろんな……いろんなものを。それで、僕はその引き波に捕まらなかったから、此処にいる。だけど……」
 なんとか言葉を紡ぎながら、アインベルはしかし、はくりと空気を飲み込んだ。
 キトはそんなアインベルの肩に軽く触れると、無理をするなと言う風に小さく微笑んで首を振った。アインベルは微かに眉根を寄せ、申し訳なさそうに口元だけで笑う。
「でも……そうだね、確かに、キトさんの言う通り……不自然で、気持ちが悪い感じがする」
「というか、話を聞く限り、渦潮ってさ」
「ん?」
 メグが、視線を上にやって、何か思いを巡らせながらそう呟いた。彼女は視線をアインベルへと向けると、自身の胸にずっと引っかかっていたことを少年へと、多少自信はなさげにだが伝え、笑った。
「──なんか、その場に人がいないと、だめ……みたいじゃない?」
「え……」
 虚を突かれたようにメグを見つめたアインベルの耳に、空の雲も切り裂くような、ひどく通る声が鳴り響いた。
「伝令──!」
 三人の内で、伝令、という言葉に覚えのある青年が、声のした方に素早く全身で振り返る。
 キトは、つられて身体ごと振り返った二人の前へと歩を進め、伝令の乗っている早駆けの蹄の音が響く方に身体を向けながら、後ろ手でメグからひったくられていた真鍮の腕輪を取り返し、自身の右手首にはめなおした。
 キトの所属するギルドからの依頼を受けて飛んできた、郵便局や、素泊まりの宿屋や、目安箱や新聞屋やその他もろもろが一緒くたになった、いわゆる國が運営する非戦闘面における万事屋のような存在──〈語る塔〉の郵便員ハネウマ≠フ男は、キトの近くまで来るとその早駆けの手綱を引いて、素早く地面へと降り立った。
 ちなみに、主に戦闘面での万事屋は通称、正ギルド──〈九陽協会〉ということになる。そのため、塔と正ギルドは基本的に協力関係にある。
 キトはハネウマから受け取った封筒の封を切り、中の電報を流し読みした。それからハネウマと二言、三言と言葉を交わし、ハネウマは自分の仕事が無事に達成できたことを確認すると、満足げに再び早駆けに乗って去っていった。
「どうしたの?」
 アインベルとメグが、ほとんど同時にキトにそう問うた。キトはそれに対して微かに苦笑しながら、かさり、と音を立てながら電報を封筒の中に仕舞い込む。
「仕事。組長からの呼び出しだ。何か新しい指令が下るらしい。とりあえず、〈ツィーゲ〉に戻って、組長の話を聞きに行かないとな……」
「あ……えっと、キトさん、急ぎ?」
「ああ、まあ、それなりに……でも、べつにアインベルを次の町まで送ってからでも、罰は当たらないだろ。〈ツィーゲ〉は世界樹から見て真西だ。どうせ此処からは、どれだけ急いでも三日から五日はかかるよ」
「それだったら尚更、急いだ方がいいんじゃ……〈オルカ〉には飛空艇や気球の乗り場はないって聞いたよ。さっきの町でなら気球に乗れるから、それで手近な街まで行って、そこから飛空艇に乗り換えれば、それなりに早く〈ツィーゲ〉に……」
 慌てたように、キトの進むべき順路をまくし立てるアインベルをなだめようとしたキトの耳に、さっきの伝令ハネウマよりも大きく、空が割れんばかりに張り上げられた声が、大きな音を立てて逆巻く水のように飛び込んできた。
「アインベ──ル!」
 三人の内で、アインベル、という名前に最も聞き覚えのある少年が、声のした方へと振り返った。
「おお──い! 聞こえてるか──!? アインベ──ル!」
「きっ──聞こえてるよ!」
 驚きにその老竹色の目を見開きながら、アインベルはこちらもこちらで声を張り上げて、相手の呼びかけに応じた。
 相手の姿はまだ少し遠いが、人懐っこい笑みがその顔に浮かんでいるのが、街道に立つ三人の目に映る。相手が腕を上げて、ゆるゆると手を振った。
 少年もまた腕を上げてはその手を振り、相手に負けないよう、もう一度大きな声で相手へと返事をした。
「──聞こえてるよ、リト!」



20171014

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