運命


「ハル、もう勘弁してくれんか。おまえみたいな若いのの話に長いこと付き合うと、どうにも疲れる……」
 ゆったりとした長椅子に腰掛けた〈オルカ〉の長老が、肘を膝の上について両手を組み合わせ、そう呟きながら溜め息を吐いた。
「それって年なんじゃないの、長老?」
「年でもなんでもいいわい、早う帰ってくれ」
「だからぁ、あたし──あたしらは、牧歌の間≠ノついて教えてもらうまで帰らないって、さっきからそう言ってるじゃないのよ」
 長老の向かいにある椅子にふてぶてしくも脚を組んで座り、ハルはこちらも疲れたように微かに目尻を下げてそう言い放った。何刻もの間、長老とハルはこの客間で、このようにして決着のつかない押し問答を繰り広げているのである。
 長老はちら、と椅子に座るハルの後ろに立つ、二つの人影へと視線をやった。
「……よそ者まで連れ込むとはな……」
「……ちょっと長老、その言い方はないんじゃないの」
「何? 何がおかしい? 言い方も何も、これが事実じゃろうて」
 きちんと短く整えられた白い口髭を指先で遊びながら、長老は少しばかり冷えた瞳でハルを見返した。ハルの目と長老の目がかち合うと、ハルはぎゅっと苦々しく眉根を寄せ、それから音が鳴りそうな勢いで背後の二人を振り返った。
 べえっと舌を出しながら後ろを向いた彼女の顔には、
(自分の髭ばっかり整えちゃってさ、ちょっとくらいは自分の物言いも整えなさいっつうの! これだから頭の固いじいさんは嫌なのよ!)
 ……と、分かり易く書いてあった。
 その表情を見て、ハルの後ろに立つイリスとクイはぷっと噴き出しそうになるのをぐっと堪えた。いや、なんとか堪えたのはイリスの方だけである。クイはと言えば、小さく音を立てて噴き出し、ハルの方を見ながら自身の肩をぷるぷると揺らしていた。
「……して、イリスさんと言ったかな」
 ふと、呆れ顔でハルの方を見ていた長老が、イリスへと向かって声をかけた。先ほど長老が洩らしたよそ者≠ニいう言葉は、無論このイリス・アウディオに向けてのものである。
 と言っても、悲しきかなイリスは、しかし人から邪険に扱われることにはそこそこ慣れていた。魔獣の流す紅水晶を思わせる赤々い瞳、黄昏に浮き立つ鮮やかな橙色の髪、電氣石のような色を宿し、蛋白石のように遊色する虹色の首巻、時折零す、詠うような言葉、読めない表情、掴めない行動、そのどれもが色付いた蜃気楼のようで、人々が彼女を遠巻きにするゆえんでもあった。
 その鮮やかな蜃気楼を虹と捉え、彼女の中に在る七色に火の粉を放つ熱の存在に気が付き、彼女の言葉に耳を傾けたのは、彼女が今現在よく行動を共にしている〈オルカ〉出身のトレジャーハンター四人組、彼女が育ったアウディオ孤児院のアインベル含む家族たち、盲いた、しかし様々なものを見通す老婆、そして他数名の友人──片手で数える程度で事足りる人数の友人──である。
 しかしその数名の友人が、このイリス・アウディオにとっては非常にたいせつで、重きを置いている存在なのであった。つまるところ、彼女には友人がめっぽう少ない。
 そんなイリスのことは露知らず、〈オルカ〉の長老は何か小さくぶつぶつと、イリスに向けてか、或いはイリスを屋敷へ連れ込んだクイに向けてか、それとも、やたらとしつこいハルに向けてか、ともすると三名全員に向けてか、嫌味か皮肉のようなことを口走っていた。
 そんな長老のお小言を聞き流しながら、三人は皆肩をすくめ、顔を見合わせてはひそひそとやった。
(なんかさぁ、ちょっと見ない内にまた口うるさくなってない? じーさま、昔っから説教っぽかったけど)
(まあ、年を取ればみんな大体こんな感じになるんだろうよ)
(……それは……たぶん、人によると思うけれど……)
(うん、人によるな、そうでないと困る。この世の老人が、みんなじいさまみたいなのばっかりだったら、地上は人で溢れ返るだろうな。たぶん、死神だって、それなりに魂の好き嫌いはあるだろう?)
 くく、と喉の奥で意地悪く笑って、クイはちょっとだけ目を細めた。
 それから三人は見合わせていた顔を長老の方へと向けると、まるで、指揮棒に導かれて呼吸を合わせでもしたかのように、一斉に長老の瞳を各々の瞳で捉えた。それは暗にこう告げているようでもあった。
 我らはあくまでも、宝を求める狩人である、と。
 彼らの表情を見た長老は、今まで取り合う気がないかのように見えたその目を、しかし秘密を隠し持つ者の常で、すう、と細めた。
「……イリスさん」
 言うと、長老は黒ずんだ茶の瞳をイリスの方へと向けた。
「〈オルカ〉で生まれ育った者が──ハルとクイが牧歌の間について疑問に思うのは、むしろわしは、理の当然だと考える。内側だけではなく、よそへと視線を向けることができる人間……大体は悪がきばかりだが、そういう者たちならば──長年放置されているのに、自分たちの持つ楽器に描かれた紋様と同じものが床石に刻まれている、しかし言及されることはない小さな遺跡について知りたいと思っても、なんの不思議はない。まあ……中々どうしておまえさんどもは、いつも事を急ぎすぎるのだが」
 その言葉に、ハルとクイが目を見合わせていた。イリスは語る長老の顔から目を逸らさずに、彼の言葉を自分の中に取り込み、咀嚼している。少し思えば、長老が次に発する言葉は容易に想像することができた。
 それはそう、簡単な問いである。
「しかし、何故、イリスさん……おまえさまは、牧歌の間について知りたがる?」
 微かに眉根を寄せて、長老は続けた。
「……わしはたった今、内側外側という話をしたが、しかしそれは結局、この町の中だけでの話なのだ。〈オルカ〉の人間でない者が何故、〈オルカ〉の外側から〈オルカ〉の内側へと目を向ける必要がある? あの場所に、ハンターが求めるような宝など存在しないということは、おまえさまにも分かっていようものを」
 確かに、長老の言う通りであった。そして、ハルもイリスと共に牧歌の間を訪れたとき、此処ははずれだと言葉にしている。気配がない、と彼女は言っていたのだ。ハンター特有の、確信めいた表情で。
 しかし、ハルが感じないと言っていたのは、金銀財宝、そういった見た目に分かり易い宝──多くのトレジャーハンターが生を豊かにするために──あわよくば人生の一発逆転を狙って探すものの気配である。
 イリスもそういった宝に興味がないとは決して言えない。むしろ、大ありだった。溢れんほどの富が有れば、自分が生まれ育ったアウディオ孤児院を、今も一人でやりくりしているは義母のマリーナは、一体どれだけ楽になることだろうと、そう考えることはこれまでにも何度だってあった。
 けれども牧歌の間には、そういった宝はない。いくら探し回っても、マリーナの生活を今よりずっとずうっと楽にできるような宝は出てこないだろう。
 だが……
「──知りたいから」
 長老が投げかけた簡単な問いへのイリスによる返答は、こちらもまた、簡単なものだった。
「私は知りたい。私は、すべての言葉を知りたい」
「……何……?」
「すべての言葉を知ること、それが今の私の夢。私には、もう一度出会いたい魂があるの。再び出会ったとき、その魂が、そう──どんな言葉で自分の心を表そうとも、その言葉を、ありのままの心として受け取るために。どんな言葉を紡いでも、同じ目線で言葉を返せるように。分かり合えるように。だって私たちは言葉も少なく出会い、言葉も少ないままにして別れたものだから……」
 だからです、と取って付けたような敬語を最後に足して、言うべきことを言い終えた者らしく、イリスは小さく息を吐いた。
 どこか曖昧な輪郭を保って紡がれるイリスの言葉には、彼女の隣に立つクイも、前に座るハルも最早慣れたものだった。それどころか、こんにちでは彼女の発する詩のような言葉に安心感すら覚えるほどである。イリスの言葉を聞いたクイとハルは、少しばかり気を緩めるようにしてふっと笑った。
 クイが長老の方へと視線をやって、口元に微笑みを浮かべながら片手を軽く上げた。
「なあ、じいさまはさっきから内側とか外側とか、よそ者とか身内とかって言ってるが……そういうのって、そんなに重要なものか?」
「それはおまえがまだ──」
 長老の言葉に、クイは先手を打った。
「そう、若造だからな。理屈を付けて、人と人とを分け隔てて見るその必要性も、意味も、まだまだ知らない──知りたくもないお年頃だ」
 皮肉っぽく目を細めてそう言い放ったクイは、それから片手で隣に立つイリスを、しかしどこか恭しい態度で示した。
「じいさまの理屈に付き合うとするなら……そうだ、イリス……前にみんなで奏った嵐の歌、あれは中々面白かったな。──うん、そういえば、イリスを此処に連れてきたのは誰だったろうな? 覚えていらっしゃいますか、お祖父さま=H」
 長老の方を見やりながら、ふと、いつもより幾分も柔らかな声色でそう問うたクイに、長老よりも先にハルの方が苦虫を噛み潰したような顔をした。
 クイの長所はおよそ、甘く色を放つ端正な顔立ちと、仲間の中では比べて落ち着いた態度、機知に富んだ話しぶりである。ただ、彼の長所ではなく武器を挙げるとするならば、それはまた話が別だった。
 クイの武器、それは自身の長所、その裏側にいつでも刃を研いで潜ませてある、この男の──ハルに言わせれば、いわゆる性格のよろしくない*ハであろう。
 クイのそちら側をハルはこれまで何度も目にしてきたが、相手を揺さぶろうとするときのクイの声は驚くほどに優しく、だからこそ、謂れもない恐怖感を煽るものだった。その柔らかい声色に反して彼の目は、細められてはいるがほんの少しだけ、その焦げ茶が更に黒く沈み、据わる瞬間がある。
 幼馴染として幼い頃から一緒にいるのだから流石に慣れはしたが、しかし目の当たりにするたびについ、ハルは苦々しい顔をしてしまうのだった。それと言うのも、長老特有の凄みのようなものが、そういうときのクイの目の奥にはもう宿っているからなのだ。今なんか最悪である。長老が同じ場に二人など、悪がきにしてみればやっていられる状況ではない。
 長老と何やら対峙しているクイをよそに、面食らっているイリスの方をハルは肩越しに振り返って、さながら不味い料理を口に含んだときのような顔をわざとつくってみせた。
(うへえ……クイって仮にも長老の孫でしょ? あれが此処の長老になるかもしれないって考えると、うわっ、最悪なんじゃないの?)
(えっと……私は初耳なのだけれど……でも、どうりで軽々と屋敷の中に入っていくと思った……)
(うーんでも……クイって恋人にはかなぁりでろでろだから、案外年を取ってからなら……機転は利くし、けっこう話は分かるやつだし……)
(あ、ハル……長老よりクイの方が押している感じがするわ)
(まあ、若さよねぇ……)
 完全に観戦者と成り果てながら、ひそひそぶつぶつとやっているハルとイリスの向かいの席で、長老が長すぎる溜め息を吐いていた。
 どうも、長老に何かあったときのために長老以外の者も一人か二人か、四人か五人かくらいは件の遺跡について詳しいことを知っておく必要があるだろう、そしてそれは長老の血を継いでいる孫の自分こそ適任なのではないか、その辺りの理屈でクイは押し通したらしい。
 結局、小賢しいことをしてみても最終的には強引に勝ち取ってしまうところは如何にも、〈オルカ〉のハンター四人組の一人といったところだった。
 トレジャーハンターは同業の人間にあだ名を付けるのが好きだが、クイとハル、そしてリトとジンの〈オルカ〉出身のハンターは、四人纏めてポロロッカ≠ネどと呼ばれている。
 この古代語の意味は海嘯。ただ、海水が壁のようになって河を逆流するこの海嘯という現象は、海の水がすべて乾上がった現代では、文献に残るばかりで馴染みはない。
 ポロロッカという言葉を用いてかの四人組のことを指す場合は、十中八九、めちゃくちゃにやかましいやつら£度の意味合いである。
「……じつのところ、このわしも、いや……これまで〈オルカ〉の人間は誰も、あの遺跡の真髄を見たことはない。誰一人」
 ぼそりと声を洩らした長老に、三人の目線が一気に集まった。
「ちょっと長老、それってどういうこと?」
 ちょっとばかし唸ってから、ハルが不思議そうな色をその表情に浮かべて、長時間の言葉の応酬に疲れた長老の瞳を見た。
「あれは〈オルカ〉にまつわる遺跡で、ということは〈オルカ〉にあの遺跡を遺した人間がいたはずでしょ? だったら、そうよ、造った人間とその家族とか、そうでなくても信頼できる友人とかくらいは、あの遺跡の秘密を知っていても……その答えを知っていてもいいじゃない。ていうか、あたしてっきり、そういうものを受け継ぐのが長老の仕事だとばかり……」
「だから、おまえさんたちはいつも早計だと言ったじゃろうに」
「でもまあ、じいさま。これだけ勿体付けたんだから、ちょっとした手掛かりくらいは隠し持っているんだろう?」
 クイがにやりと口角を上げてそう問えば、長老は眉間の間に皺を寄せ、苦々しい表情で深い深い溜め息を再び吐いた。
「随分ひん曲がって育ったものよ。だからわしはおまえがハンターになるなど、ろくなことがないと反対したというのに……」
「はいはいわたくしが悪う御座いましたよお祖父さま。説教は後でいくらでも聞きます。……それで?」
「真実は、然るべき者、導かれる魂をもつ者……知る運命に選ばれし者のみが得ることができると云われている。そして──そうでない者には、遠きいにしえからの厄災が振りかかると。わしにはおまえさんたちがその、選ばれし者だとは到底思えない」
 一度息を吐いて、長老は微かにその顔を伏せた。
「長老としてだけではなく……おまえさんたちを幼い頃から見守ってきた一人の人間として、わしは、おまえさんたちを危険な地へはやりたくない。おまえさんたちがハンターとしてこの黄昏た世界を、それでも危険を冒しながら駆けまわっているところを想像しただけで、それだけでわしの寿命は縮む。だというのに、このわしが自ら呪いの元へと導くなど……」
 そこまで言うと、長老は前屈みになって膝の上で組んでいた両手をほどくと、すっと背筋を伸ばして厳しい顔つきになった。それから黒に塗れた茶の瞳を、目の前の三人に向ける。
 そうした瞬間、部屋に立ち込めていた空気が音もなく、しかし確かな気配をもって冷えたような気が三人にはした。まるで、長老の無言という言葉によって、まるで皆、声を発することが禁じられてしまったかのようである。
 先ほどのクイの悪態など、小鳥のさえずりのようにかわいらしいものだったのだ。ハルは自分の中にいるもう一人の冷静な自分が、ふと、そんなことを思ったように感じた。
「──選ばれなかった子どもたちよ、立ち去りなさい」
 静かで、しかし低く通り、心臓へと重く轟いてくるその声に、クイとハルは微かにびり、と指先が痺れたような感覚がした。有無を言わさずに扉へと向かわせようとする長老の声に、自分の中に在るものが何か、共鳴しているような気が二人にはしたのだった。
 背後の扉へと向かいそうになる足を抑えるために、両手でハルの座る椅子の笠木をぐっと掴んでいるイリスの横で、しかしクイは微かに喉を鳴らして笑い、自分にだけ聞こえるか聞こえないか程度の声で、分かったぞ、と呟く。
 それから彼もまた背筋を伸ばして顔を上げ、自身の祖父である長老の瞳を見据えた。長老と同じ色の瞳をした彼の瞳は、まるで何かを掴んだかのような鋭い光に満たされている。
「選ばれし者は、然るべきときにその役目を果たすために現れるものだ。此処はもう、諦めなさい」
 しかし、その瞳に見据えられてもなお、長老の言葉は強く響く。その声に怯んでいるハルやイリスをよそに、クイは長老の言葉など、もう意にも介さない様子である。彼は悪戯っぽく薄く口角を上げると、それから楽しげにも見えるだろう、目を細めて笑ったようだった。
「──そんなの、誰が選ぶんだ?」
 その声に、冷たい空気の中で張り詰めていた糸がぷつりと音を立てて千切れ、空気が少しばかり熱を取り戻したようにイリスとハルは感じた。それはまるで、こちらへと傾いていた声の重圧が、クイの発した声によって再び元の均衡を取り戻したようだった。
 長老が一瞬面食らったような顔をして、けれどもすぐに厳しい表情をつくり直すと、それからクイの目を見返した。
「選ばれるのは、導かれるイシ≠フ魂をもつ者。そしてその者を選ぶのは、イシの魂を導く運命」
「なら、その運命は、誰が定める?」
「聖なるもの。運命を定めるのは世界樹の意志か、或いは、その世界樹の種を蒔いた女神の意志」
「つまりその聖なるものっていうのは、人がちょっとばかり間違えただけで、その者をこっぴどく呪ったりするんだな」
 微かに首を傾げ、確かめるようにいくらかゆっくりと言葉を声にしたクイに、長老の瞳の色が少しばかり沈んだ。
「実際に、この世界は呪われているだろう。黄昏、という残酷なかたちで。それはおそらく、人が過去に恐ろしい過ちを犯したからじゃろうて。その人々の業が、聖なるものの怒りに触れたのだ。そうして、この世界は呪われたのだろう。とこしえの黄昏へと向かうように……」
 声を落として、まるで見てはいけないものを目の前にしたかのように、その視線をも床に落としながら、長老は言葉を紡いだ。その言葉にはもう、人を圧倒するように力ある響きはなかった。
 ただ、その語り口はまるで見てきたかのようであり、その静かに繋がれる声を聞いていると、長老の口から語られることすべてをそっくりそのまま信じてしまいそうだった。
 そして長老も、先代からこのように話を聞かされ、そしてそれをすべて信じ切り、聞いたときと同じように語っているのだと、そうクイは心臓の底で思った。
「──違うな、じいさま」
 威圧ではなく、今度は恐怖によって隠されそうになっている遺跡の秘密、そこに立ち込める霧を振り払うようにして、クイは再び笑った。今度は分かり易く、はは、と声を上げて。
「この世界には、聖なるもの──神みたいなものや、それによってもたらされる呪いや災厄なんてものはない。いや……もし仮に神がいたとしても、神ってのは、すべてを自然とし、すべてに無関心だからこそ神なんじゃあないか? 此処に在るのは、術と心……」
 それからクイは、片手の指と指をぱちりと軽やかに鳴らすと、しかし声ばかりは落ち着いた、ハンターが答えを手にしたときに発せられる、確信めいたそれを以って言葉を紡いだ。
「──そして、偶然だけだ」
 クイの強い意志のこもった瞳に射抜かれて、長老は言葉もなく彼の方へと自身の視線を向けるばかりである。クイは鳴らした方の片手を、今度はぐっと握って、鋭い光を宿す古銅輝石にも似た瞳を、真っ直ぐに長老の目へと向け続けた。
 そしてその瞳は、宝を一直線に狙う烏の、ぎらりと濡れた瞳にも似ていたかもしれない。
「その溢れる偶然の中で、自分が掴み取ったものが運命だ。俺はそう思う。だから俺は、自分の運命は、自分で掴むよ。俺の運命は、神なんかじゃない、俺が決める。──じいさま、これは俺の、運命だ」
 一つひとつ確かめるようにしてそう言うクイに、長老は少しだけ微笑み、それからどこか寂しげに緩くかぶりを振った。それから、クイの方へと向けていた顔を、彼の隣に立つイリスの方へと向けた。
「……イリスさん、おまえさま、すべての言葉が知りたいと申したな」
 唐突に話を振られて、イリスは一瞬戸惑ったが、しかし長老の問いには迷いなく頷いた。
「あ──ええ、確かに」
「牧歌の間、その床石に刻まれた紋様──呼び声なき眼≠ヘ、召喚陣だと伝えられている。けれどもあの召喚陣が、何かを喚んだことはない。呼びかけ言葉を紡いで、何かを喚ぶことができた召喚師も、今までいない。おまえさまには、これが何故なのか分かるかね、ハンター」
 その問いにイリスは自身の鮮紅の目を瞑り、牧歌の間と、そこに刻まれた呼び声なき眼と呼ばれる召喚陣を、その昏い瞼の裏に描いた。
 目を閉じたまま何かを見つめるようなイリスの呼吸音だけが屋敷の客室に響き、それを聞く者たちの呼吸もどこかイリスの呼吸に似はじめてきた頃、彼女はゆっくりと瞼を開き、そして頷いた。
「──言葉が、足りないわ。紡ぐべき呼びかけ言葉が、あの陣には足りていなかった」
「如何にも」
「……やっぱり未完成なのね、あの召喚陣は」
「如何にも……」
 目を伏せ、自身の言葉を反芻するように声を発しながら、長老は短い口髭を片手で撫でるように触れた。しばらくの間沈黙が続いたが、長老が決心したように己の目を上げたのを境目に、その沈黙は破られた。
「そも、呼び声なき眼というのは、前時代かわたれの時代≠ノ生み出されたとされる、世界に呼びかけることもできず、何ものも喚び出すことができない、できそこないの召喚陣という意味で呼ばれている名前なのだ。だが、できそこないというのは語弊がある。おまえさまが今言ったように、あの召喚陣は未完成……つまり、今からでも完成させることができる代物なのだよ」
「言葉が、必要なのね」
「そう。そして、それだけではない。あの牧歌の間と呼び声なき眼を機能させるには、呼び声ある者≠ニ、瞳もつ器=A導(しるべ)の鐘≠熾K要だと、わしら長老の間には伝わってきた。呼び声ある者というのは召喚師のことで、瞳もつ器というのはおそらく、遺跡に入るときにも必要になる、あの──わしらが子へと授ける、呼び声なき眼が描かれた楽器のことだとは思うのだが……」
 導の鐘については何も分からない、と長老はゆっくりと溜め息を吐きながら、首を左右に振った。長老へと視線をおくる三人は、三人とも各々何かを思案するように呼吸を詰め、そこここで微かに首を捻ったり何か小さく唸ったりしていた。
「……必要な言葉が、どういった類のものか……そういう、手掛かりみたいなものは分かっている?」
 イリスの問いに、長老は少しばかり曖昧に頷いた。
「真なる言葉≠ェ、必要なのだ」
「真なる言葉……?」
「嘘もなく、偽りもなく、感情の波紋を浮かべることもなく言葉にできる──泉に落ちる、清らかな朝露の一滴のような澄みきった言葉、ただ、そのものの本質だけを紡ぐことができる、そういった真なる言葉が、あの召喚陣には必要なのだと」
 謎かけのようなその言葉に、イリスの紅がちかりと火の粉を散らして、一瞬だけ煌めいた。
 それから彼女は少しばかり考え込むように、折り曲げた人差し指を唇に当てて、今まで見てきたすべてのものの中にこの謎かけの手掛かりになりそうなものはないか、と心の中で視線を様々な場所へと飛ばしてみる。
 そんなイリスの心内を知ってか知らずか、長老は彼女へと向かって、静かに問いを投げかけた。
「おまえさま、そんな言葉がこの世に存在すると思うかね?」
「……在るわ」
「それは何故?」
「必要だから。言葉は元々、伝えるために、その必要があったから生まれたものだと私は聞いた。私もそう、思っているわ。だから、世界へと自分の声を伝えるための召喚陣に、真なる言葉が必要なのだとしたら……その言葉は必ず存在する」
 まるで自分の中ででも繰り返すように、イリスはゆっくりと言葉を発した。それから長老の目を見て、彼女は赤く強い瞳で頷く。
「──必ず、よ」
「……して、その言葉は真かな?」
 微かに目を細めてそう問う長老に、どこかクイの面影を感じながら、イリスもまた悪戯っぽくわずかに口角を上げて微笑んだ。
「感情ばかりの、澄みきっているとはとても言えない言葉ね。けれど、さっきの言葉は私の本心。そういう意味ではさっきのも、いわば真の言葉かもしれないわ」
 そのようにしてやり取りをしている長老とイリスを眺めながら、クイが肩が凝ったように伸びをして、その前の椅子に座るハルもまた疲れたように天井を見上げながら、なんだか気の抜けた声を上げていた。
「小難しい話を聞いてたら頭痛くなってきちゃったわ……」
「堅苦しい話を続けるのは、どうもこのくらいの時間で飽きるな」
「長老、ちょっと此処で息抜きに軽く奏ってもいい? クイ、何弾きたい?」
「そうだな……せっかくだから、愛しきわがふるさとの歌でも奏でてみましょうかね」
 長老の返答を聞くこともなく、とんとん拍子で話を進めていく二人である。そんなクイとハルに長老は心底疲れたように、好きにしろ、と軽く手のひらを振ると、自身は長椅子へと深くその腰を沈め、長い溜め息を吐いた。それからちらりとイリスの方へと視線をおくると、少しばかり彼は微笑み、しかしどこか呆れたようにまた息を吐いていた。
 そんな祖父の様子に気付いたのか、クイが自分のバグパイプを組み立てながら、静かに獲物を狙う烏の瞳でその口を開いた。
「諦めてくれ、じいさま。俺たちは、とっくの昔からもう、トレジャーハンターなんだ」
 ああ、と息を洩らすようにして頷いた長老の姿が、クイの瞳に映った。それはどこか、寂しげにも悲しげにも見える。いいや或いは、飛び立つかわいい小鳥を見送る親鳥が、ほっと安堵の溜め息を吐く、その姿にも似ていたかもしれない。
「……なあ、じいさま」
 そんな姿を瞳に映して、何か一つだけ、祖父へと言葉をかけたくなったクイは、自身の手に有るバグパイプを吹き鳴らす直前にふと、視線をバグパイプから外した。そうして彼は、金色に暮れていく窓の外を眺めながら、祖父と、それから自分へと向けて、ゆっくりとその口を開いた。
「誰にだって、知る権利は、あるだろう?」
「……ああ、あるとも」
「うん、そうか……なら、よかった」
 その声色は、飾り気のない、夕暮れの光のように静かで、そして柔らかく優しげなものだった。



20170918

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