「──それから少女は、一人の騎士──その身にシバルリード≠フ名を冠しては、騎士道を意味するそのおくり名の元、いずれ王室騎士団の長となる男に拾われ……悪運しぶとく、なんとか一命を取り留めました」
 かさり、と焚き火の燃え殻が音を立てて沈む。小さな黒い丘から、細い煙が昇っていた。
「首の皮一枚繋がった少女は、しかし、寝ても覚めても怯えました。自分は狂うのだ、血に狂ってしまうのだ、と。なら、それはいつだ。今なのか、未来なのか、或いはもう狂っているのか、と」
 レースラインは、少しばかり目を細めてそう語る。夜を照らす赤い炎は、もうとうの昔に消えていた。
「けれども少女は軍刀を手放すことはできませんでした。何故ならば、何処にいても、何をしていても、ふとした瞬間に祖父の言葉が耳の中に蘇るからです。祖父のあの目が、いつでもこちらを見ているような気がするのです」
 薄く微笑みながら彼女は、まるでお伽噺を語るが如くに、自身の声に大袈裟な抑揚をつけてはその言葉を紡ぐ。
 気が付けば、辺りを包んでいた黒い闇は、段々と藍色へその姿を変えていた。
「それに、大人の言いつけは守らねばなりません。山の理を教えてくれたのは大人です。狩りの掟を教えてくれたのは大人です。大人の言いつけを守って、少女はその日まで生きてきたのです。──ましてそれが、たいせつな祖父の、最期の言いつけだったらどうでしょう?」
 レースラインは燃え尽きた焚き火の跡を見つめ、その言葉は最早誰のためなのか、どこかおどけた口調で血が止め処なく溢れるように言葉を紡ぎ続ける。木の幹を背に座る、隣の少年に一瞥をくれることもなく、彼女は朗々とした声で語っていた。
 薄らぎはじめた暗闇の中でも、レースラインの髪はぽっかりと白く浮かび上がっている。
「少女は、果たすことなど到底できないと分かっていても、その約束のためにできるだけのことをしたいと思いました。あんな風に変わり果ててしまったお祖父さまの姿を見ても、それでも、馬鹿みたいにそう思いました。少女の心は、呪われた刃と共に戦い続けることを選んだのです。そう──たとえ、いつか血に狂うことになるとしても」
 抜いた軍刀、その銀色をした刀身の表面を、レースラインは片方の指先でなぞる。
 軍刀の柄を握る右手の、その革手袋の下に覆われたものを想像して、彼女の隣に座る少年の丸い瞳が揺れた。しかしそれにも気が付くことのないレースラインは、自身の白い睫毛を微かに伏せ、そしてどこか嘲るように小さく笑んだ。
「少女は、祖父のための黒の子ども≠ナ在ることを選んだのです。……そうしないと、死んでしまうと思ったから」
 明かりの灯っていない燃え殻を見つめるその静かな水色の瞳は、揺らぐことなくただ一点のみを見据えていた。
 彼女がこの黒い燃えさしの先に何を見ているのか、隣の少年には想像することしかできない。できないが、燃える薪を見つめたまま言葉を紡ぎ、その薪がもう火を受け付けなくなった後も、しかしそうして同じ場所を見つめたまま言葉を繋いでいる彼女を見ていると、少年の心臓はぐっと思い切り掴まれたかのように痛みを訴えた。
「そうしなければ、祖父も、母も、父も、里の皆も、山も、獣も、自分自身ですら、皆、皆、死んでしまうと思ったのです。自分の中からみんな消えて、独りぼっちになって、死んでしまうと思ったのです。たとえ、最後に見たのがすべての光を憎むような顔であったとしても、瓦礫に埋もれて燃え盛る炎に包まれていく姿であったとしても、灼け付く穴を空けられそこらに転がされた身体であったとしても、誰の笑顔も想い出すことができずとも──自分の中で死んでしまっては、消えてしまっては、たった独りでは──独りきりでは、生きていけないと……」
 レースラインは、焚き火の燃え跡から微かに細く立ち昇る煙の一筋を、右の手首を軽く動かしてはその手に有る軍刀で断ち斬った。その動きのまま手首を返して、彼女は抜き身であった軍刀の刀身を腰から下げた黒鞘の中へと収める。
 未だ、レースラインの勿忘草色の瞳は、斬ったそばから再び立ち昇る、その細い白煙へと向いていた。
「──亡くした者たちを自分の中で生かすために、そうして自分が生きるために、少女はたくさんの嘘を吐きました」
 そう語る声には、最早隠す必要も感じないのか、明らかな嘲笑が交じっていた。辺りに広がる闇の色はいつしか濃い藍から、夜明けを呼ぶ青へと変わりつつある。
「少女は──大人と呼べる年になった今ですら、未だにたくさんの人へと嘘を吐き続けています。自分の命を救ってくれた騎士に対してすら、嘘を吐いて、騙しています」
 レースラインはそう言って息を吐くと、かぶりを振っては白い髪を揺らし、そして小さく笑い声を立てた。
「黄昏と戦うために騎士になったなんて──そんなの、真っ赤な嘘だ、先生……」
 は、と洩らすように嗤って、彼女は言葉を繋いだ。
 声を発するレースラインの表情はもうほとんど笑顔に近かったが、しかし隣の少年には、その顔を直視することなどとてもできない。少年は唇を噛み締めて、微かに彼女に向けていた視線を黒焦げた燃え殻の方へと逸らした。
「少女は──」
 隣にいる少年のことなどもう目に映っていないのか、レースラインの唇からは延々と言葉が流れ落ちる。
 まるでそれは、彼女が自分自身で靄の中に隠していた記憶が、彼女の意志とは関係なく呼ばれ、外へと溢れ出ていくようだった。
 お伽噺を語る機械人形のようにひたすら言葉を紡ぐレースラインが、その内にぷつりと糸が切れ、心ごと底へと落ちていってしまうような錯覚を感じて、少年は逸らしていた瞳を彼女の方へと向ける。
 そして彼は片手を伸ばし、レースラインの肩を掴もうと身を乗り出した。
「レ──」
 手を伸ばし、レースラインに呼びかけようとして、けれども少年は一瞬その名を呼ぶことを躊躇した。
 しかし少年が迷う間にも、彼女の独白は壊れた自鳴琴のように続いていく。
「……そうして、民を護る世回り≠フ騎士になった少女が、しかし守りたかったのは、救いたかったのは──結局のところ、民ではありませんでした」
 少年の背中にじっとりと冷や汗が滲む。それを自覚すると彼は短くかぶりを振り、ついに片手でレースラインの左肩を掴んだ。
「……レンさん」
「そう──少女は、魔獣を殺すことによって……何よりも自分自身を守り、そして、救いたかったのです」
「レンさん」
「それはまるで、狂ったように──」
「レンさん!」
 少年の怒鳴り声が二人のいる森に響き、何処かで鳥が何羽か飛び立った音がした。レースラインは一度だけ肩を跳ねさせると少年の方を振り向き、一瞬だけ驚いたような表情をして目を瞬かせる。
「……アインベルくん? なんだい、怖い顔をして……」
「レンさん……」
「もしかして──私は、喋りすぎたかな。どうも、こういうのは得意じゃないらしいね」
 やめどきが分からなかったんだと冗談めかして謝るレースラインに、アインベルは眉間に寄せた皺を更に深いものにした。
 レンさん、と呼びかけてはその後に続く言葉が出てこないアインベルに、レースラインはちょっとだけ可笑しそうに笑うと、それからその水色を細めてにやりと微笑んだ。
「きみ……さっきの話を聞いて、それでも私のことをレン≠ニ呼ぶんだな。それってけっこう、酷じゃないかな?」
「……僕は、呼びます。あんたのこと、レンって」
「うん、どうしてかな。あ、そうか、酷い話を聞かされた当てつけ? それとも……きみもわたしに、黒の子ども──レンの姿を求める?」
「そんなわけないだろ」
 わざとらしく唇に弧を描かせてそう問うレースラインに、アインベルはきっぱりとその言葉を否定した。
 それからアインベルは微かに俯きがちだった顔を上げると、レースラインの瞳をその老竹色の瞳で見つめる。いつも優しげな少年の瞳に浮かんでいる、珍しい小さな怒りの色に、レースラインの睫毛がほんの少しだけ驚きに震えていた。
「……僕が呼ぶレンは、レースラインのあだ名のレン≠ナす。そう、あんたのことだ。レースライン・ゼーローゼ以外の、何者のことでもない。分かるか、レンさん、僕はあんたのことを呼んでるんだ。僕に限ったことじゃない。誰も前時代の──わけの分からないレン≠フことなんて呼んでない! みんな、あんたのことを呼んでるんだよ、レンさん!」
「わ──わけの分からない……」
「だってそうだろ! 誰だよ、黒の子どもって! あんたはあんただ、他の誰でもない!」
 レースラインはアインベルの言葉に一瞬気圧されたような顔をしたが、けれどもすぐに普段通りの静かな笑みを湛える表情に戻ると、腰に差した軍刀の鞘に軽く触れた。
「そう──私はレースライン・ゼーローゼ。祖父の命により、おとなしの民、その黒の子で在ることを自ら選んだレースラインだ。それを選び取ったのは私。紛れもなく私。他の誰でもない、私自身だ」
「レンさん……!」
「この刃を取り、振るったのは、確かに生きるためだった。だが、その先を──今の私を選び取ったのは、私自身。私は、過去のせいにするにはあまりにも多くを殺してきた。そして、殺しに狂ったこの私を誰かのせいだとするならば、それはすべて、私自身のせいなんだ」
「なんで──レンさんは……レンさんは、狂ってなんかいないだろ!」
 そう言い切ると、アインベルはレースラインの左肩を揺り起こすように片手で揺さ振った。
「……いや、どうかな」
 言いながら、レースラインはアインベルの手を右手で緩く押しのけると、どこか悲しげにその睫毛を伏せて微笑んだ。
「……私は魔獣を殺すために、助けられるはずの部下を見殺しにしたことが何度もある。後ろから聞こえてくる悲鳴を聞かなかったことにして、突き進んだことが何度もある。それはただ、殺すためだ。魔獣を、殺すためだ。すべての魔獣を──そう言う祖父の言葉に従い、そのために私は己の部下をも殺した。……私は、とっくの昔に呪われて、人の姿のまま狂ってしまっているんだよ」
 薄暗い森の中を、ひゅうと冷たい朝呼びの風が吹き抜けた。
 アインベルはその冷たさを振り払うようにして立ち上がり、吊り上げた眉の間に皺を寄せ、ぐっと唇を噛み締めながらレースラインの瞳を見つめる。
「なら……」
 レースラインは言葉を紡ごうとした少年の、その瞳に強い力を感じ、いつものように薄い笑みでアインベルの視線をかわすことがついにできなかった。
 少年の瞳に宿る力とは、祖父が最期に少女に寄越した、心の臓まで射抜くような力ではない。それはおそらく、召喚師である彼のもつ、人の心まで自分の言葉を呼びかける力だと、レースラインはどこか他人事のように悟った。
 それはそう──かつて、火の丘から這い出たときと同じように。
 立ち上がったアインベルの瞳を見つめ返すレースラインの瞳は、ほんの少しばかり揺れていた。それでも彼女はアインベルの瞳から目を離すことができずに、そしてアインベルはレースラインから視線を逸らさず、彼女のことを真っ直ぐに見つめたまま、その口を開いた。
「なら、なんでそんな顔をしてるんですか。レンさんがほんとに狂ってるんだって言うなら、そんな顔はしないはずだろ、絶対」
 レースラインは、思わず自分の顔を手のひらで触った。
「ちなみにだけれど……私は今、どんな顔をしてる?」
「下手くそなつくり笑い」
「それは──まあ、中々笑えそうでいいね」
「ぜんぜん笑えないよ。そうやって、なんでも冗談で済まそうとするのはやめてくれ」
「……きみのその冗談の通じないところ、少しだけ私の部下に似ているよ」
 そう呟いて、レースラインもアインベルと同じように立ち上がり、それから燃え殻となった焚き火の方を見やる。
 そこから立ち昇っていた細い白煙が、森のにおいを纏って吹いてくる冷たい風に攫われていた。そして、風と共に吹き過ぎていった焚き火の白い残り香が、そこから再び立ち昇ることはもうなかった。
「私が今まで話した昔話が、じつはすべて作り話だったと言ったら……ねえ、きみは怒るかい、アインベルくん」
「怒るよ。嘘吐かれたら、誰だって怒る」
「そう、私は嘘吐きなんだよ。なのにきみは、そんな私が語ったあんな話を、馬鹿正直に信じるの?」
「嘘は──みんな吐くものだろ。それにレンさんは……大事なことに、嘘は吐かない」
「……きみと出会ってからまだ日も浅いはずだけれど、よくそんなことが言い切れるね」
 荷物袋から火消し壷を取り出し、その中に焚き火の中の消し炭を幾つか放り込みながら、レースラインはアインベルを振り返らずにそう言った。
 森の中に漂っていた闇はもうほとんど淡い色に染まり、二人の背後に夜明けの気配を連れてきている。
「──死んだ仲間の数を間違えられて、あんたは怒ってた。そんな人が、誰かを殺すような嘘を吐くはずがないよ」
「きみは……ちょっと心配になるくらい、お人好しのおばかさんなんだな」
「もうこの際、なんでもいいよ。でも……結局、レンさんは嘘を吐いてなかったじゃないか。その髪が白髪だってことも、黄昏と戦うために騎士になったってことも」
「アインベルくん、もしかしなくても……眠くて、あまり私の話を聞いていなかっただろう。それはべつにいいのだけれどね、でも私は黄昏と戦うために騎士になったんじゃあ──」
 呆れ笑いを零しながらかぶりを振って、レースラインが困ったように顔だけでアインベルの方を振り返った。
 アインベルは彼女のその言葉にどこか不思議そうに小首を傾げ、それから微かに漂う朝霧に湿らされた地面を数歩進み、焚き火の前にいるレースラインの隣に並ぶ。少年の腰では、鈴の音が涼しげに小さく鳴っていた。
「戦ってるだろ、黄昏と。騎士として魔獣と戦って──っていうのもそうだけど……レンさんは、レンさんとして戦ってるだろ、いつも」
 言って、アインベルは自分の心臓の辺りを、軽くとんとんと指先で叩いた。
 それが何を指し示しているのかを理解できないほどレースラインは鈍くもなく、そしてもちろん、楽天家でもなかった。呪われた軍刀がもたらすという狂気に怯え、しかし唯一自分の手の中に有る、かつて自分が生まれ育った集落の遺品でもあるそれを今の今まで手放すことができず、今にも暮れてゆきそうな心臓の鼓動を抱えて、彼女は今日まで生きてきたのだ。
 アインベルの言葉は、じわりと暖かな熱をもってレースラインの中に落ちてくる。ここで頷けば、今までの嘘も、殺しも、そのすべての重みが何もかも、今よりもずっと軽くなるような気がレースラインにはした。
 それでも、彼女はここで素直に頷けるほど子どもでも、そして大人でもなかったのだ。
「……おや、朝だね」
 レースラインは東から木々の間を縫って注いでくる、熱い陽光の方を振り向き、その目を眩しげに細めてはそう言った。
 枝葉の隙間から覗く空は朝の色に白み、今日の訪れを告げる風に、繋いでいる葦毛の馬が軽く身を震わせていた。
「怖い話はもうやめにしよう。そういうのは、夜の内にやるものだ」
 小さく笑ってアインベルへとそう告げるレースラインに、少年は一度だけ視線を彼女から外して朝陽の方を見やると、すぐにまたレースラインの方へと顔を向けて、それから少しばかり困ったように笑った。
「レンさんはそうやって冗談ばっかり言って、人のことをすぐにからかいますけど……」
「うん?」
「生憎僕は、そういうのにけっこう慣れてるので……あんたのこと、信じますよ、レンさん。さっきレンさんは僕のこと、お人好しのおばかさんって言ったけど──違うよ、僕は自分勝手なだけだ。信じたいから、信じる。結局さ、それだけなんだ」
 アインベルのその言葉にレースラインは、ふは、と息を洩らすようにして笑った。
「きみ──いや、間違いないね。きみは正真正銘のお人好しで、とんでもないおばかさんだよ、アインベルくん」
「……でもレンさん。レンさんは僕みたいなのに、ちょっとだけ、時々救われることもあるんだろ?」
「私、そんなこと言ったかな」
「言ってたよ」
「ああ、やれやれ……正直者だな、私ってやつも……」
 そう言う彼女は、少しだけ楽しげな表情と、寂しげな表情が混じった困り顔で微笑んだ。
 それはどこか、遠くに置いてきた痛みを思い出して、それを堪えるような表情にも、少年には見えた。



20170822

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