赤い。
 黒い。
 赤い。
 熱い何かが自身の上に覆い被さっているその圧迫感に耐えながら、少女は呻き声を発して、辺りに広がる一面の赤を己の瞳に映していた。
「……母さま……?」
 目の前で燃え盛るのは、こんにちまで自分たちが暮らしていた小さな家。
 黒い塊と化してこちらへと降ってくる天井や壁から、自分は母と共に逃げていたはずだった。
 けれども、何か衝撃を感じた後に自分は一瞬だけ、意識を遠くへと飛ばしてしまったらしい。次に気が付いたときには、母の姿が見当たらなくなっていた。
 ただ、自分の右半身が燃えるように熱かった。
「何処ですか、母さま……」
 苦しげにそう問いかけながら、少女は自分の上に在る重たいものからなんとか這い出る。火の粉が舞う、天井の崩れた家の中で、少女は黒煙にまみれながらも辺りを見渡した。
「……母さま?」
 ふと、少女の視線は自分自身に先ほどまで覆い被さっていたものの方へと向けられた。今まで嗅いだこともない、嫌に鼻につくにおいがそこから上がっていることに気付いて、彼女は微かに顔をしかめる。
 少女が視線をやった先では、崩れる天井から降り注いだ木材がさながら火の丘の如くに、赤く赤く燃え上がっていた。
 ──自分は運がよかったのだろう。よくもまあ、あの中から生きて出てこれたものだ。
 どこか冷静でいるもう一人の自分が、自分自身のことを遠く見つめて、そんな風に囁いている気がした。
 そう、自分たちは獲物を前にしたとき、どのようなことが起きても常に冷静でいなくてはならない。それは、狩猟民族であるこの集落の大人から与えられた教えである。
 少女は、小さく息を吐いた。
 煙が目に沁みる。身体の右側が熱かった。息苦しい。けれども、自身が狩らねばならない相手は今、目の前にいるのだ。
 少女は未だ鈍い熱を感じ続けている右半身を無理やりに動かして、床に転がっている、赤く染まった細い鉄材をそのまま素手で拾い上げる。
 その鉄材がもつあまりの熱さに、けれども少女は唇をきつく噛み締めて痛みを堪えながら、燃え盛る火の丘の頂をめがけて鋭い一撃を飛ばした。
「……痛い……」
 燃える木材の丘の上には、その翼も嘴も、全身を炎と化した鳥の魔獣が一羽、留まっていた。
「……母さま……みんな……何処だろう……」
 少女の飛ばした赤い鉄材は、その魔獣の心臓を誤ることなく射、そして止めた。
 火の鳥は声を発する間もなく、紅水晶を火の粉の中に散らしながら、自身は黄金色の砂となり、穴の空いた天井から黒煙と共に何処か遠くへと去っていく。少女はそれをすべて見届けることもせず、赤黒く燃え上がる火の丘に踵を返した。
 炎に包まれて崩れていく、自分が生まれ、そして育った小さな家。黒い灰となっていく、小さく──しかし愛しい想い出たち。
 そして……
 そして、火の丘の底で、自分に覆い被さっていた重たいもの。
 その熱い痛み。
 そこに在った木材とは違う、柔らかさ。
 振り向けばすぐそこに、自分の探し求めていたものは在ったのだろう。
 赤い火に包まれ、自分の知らないにおいを発しながら、しかし自分のよく知った顔がそこには在ったのだろう。
 燃える──燃える何かが重く覆い被さっていた、自分の右半身が燃えるように熱く、灼けるように痛い。
 喉の辺りが凍るように冷えた。
 しかし、そのすぐ下に在るはずの心の臓は、痛みを感じるほどに激しく脈打っている。
 少女は、ふらつく両足に力を込め、一歩を踏み出した。
 ──自分は運がよかったのだろう。よくもまあ、あの中から生きて出てこれたものだ。
 自分に言い聞かせるように心の中で繰り返して、少女は歩を進める。
 少女が崩れゆく自身の家と、最も愛しい想い出が沈んでいる火の丘を振り返ることは、それから先、二度とはなかった。


*



 火の粉。
 黒煙。
 灰。
 紅水晶。
 黄金の砂。
 赤い血。
 そのすべてが舞い踊る集落の中を、少女は足音もなく、短い黒髪を揺らして進んでいく。
 突如として魔獣に襲われたこの里は、一日足らずで道に屍を転がす、燃える赤のと化していた。
 道端に倒れるよく見知った人たちの亡骸を、生きるために見ないようにして、少女はひたすらに進む。心が知っているのか、身体が知っているのか、少女の足はただ一つの場所へと迷うことなく向かっていった。
 近くの木の枝には火の鳥が留まり、その鳥の足先から炎が伝っては木へと燃え移っていく。そうして燃えゆく山の木々を目に映した少女は、まるで痛みを何処かへ追いやるかのように、悲鳴を上げて燃える木々から、睫毛を伏せるようにして視線を逸らした。
 逸らした視線の先に在ったものに、少女は火傷の酷い右の手のひらを、しかし迷わずに伸ばした。そこに在る、最早誰のものだったかも分からない弓矢を少女は地面から拾い上げる。そして彼女は、その弓に矢をつがえて引き絞っては、静かな瞳でそれを放った。
 普段ならばきりきりと鳴る弦も、ひょうと空気を裂いて飛ぶ矢も、今ばかりは全くの無音で枝の上の火鳥を仕留めていた。
 そして、火の粉と紅の水晶を散らして墜ちていく鳥の魔獣に、少女はただ、燃えるのだな、と思った。
 ……燃えるのだ。
 家だけではなく、
 人も、
 獣も、
 里も、
 森も、
 山も、
 すべて。
 ──ふと、少女は足を止める。
 目の前には、火に包まれて焼け落ちた茅葺きの屋根、黒く焦げた土壁、外れて倒れた家の戸口が見えていた。穴の空いた壁や崩れた屋根のそこここから黒煙が上がり、近くからはばちりと音を立てて炎が爆ぜているのが聞こえてくる。
 それでも少女は迷うことなく、火の粉と灰と黒煙が舞う祖父の屋敷の中へと足を踏み入れる。
 死にゆく者の最期の喘ぎにも似た黒い煙の中、踊り狂う火の粉に照らされる少女の黒髪は、しかし悲しいほどに美しく揺らめいていた。


*



 ──崩れた屋敷の中は、その言葉の通り、足の踏み場がなかった。
 焼け落ちた屋根に埋もれた家の中は、そこかしこで家具が倒れ、或いは焼け焦げ、壁や床に大小様々な穴を空けている。
 けれども魔獣の姿は見当たらず、ただ聞こえるのは、焼け崩れる家が立てる、今までの日常を断ち切るような音ばかりだった。
 少女は火の中を転がり、未だ鋭い熱をもつ家具の上を乗り越え、ただ一つの場所を目指して一心不乱に突き進む。そして彼女は屋敷の中、床に最も大きな穴が空いている部屋で、既に開け放たれていた地下へと続く床の隠し扉を見付け出した。
 少女は転がるようにして石づくりの階段を駆け下りると、そこで待っているはずの深い暗闇が今日はないことに気が付いてはたとする。
「お祖父さま……」
 か細い声で呟いて、少女は石室の天井を見上げた。
 そこには大穴が空いており、祖父の屋敷の、先ほどまで少女が立っていた部屋が見える。屋根が落ち、ちょうど視界を遮るものがなくなった屋敷の一室は、石室から遥かな天までの吹き抜けをつくり上げていた。
 燃え盛る炎のおかげでその存在をすっかり忘れていた少女の下に、太陽の光が降り注いでいる。
 陽光に暴かれた石室の中には、天井から降り注いだ石材や屋敷の床、その衝撃で砕けたレン像の大理石の欠片が瓦礫となり、細かな埃を舞わせながら倒れていた。
 ただ、その中で無事なのは、かの呪われし軍刀ばかりだった。
「……やはり、おまえが生き残るのだな……」
 炎がくすぶるような声で、少女の目の前に立つ老人がそう言った。
 軍刀は、黒鞘に守られていたその姿から抜き身となって、祖父の手に握られている。
「……お祖父さま……」
「何を恐れることがある? 何を怯えることがある? おまえは証明してみせたではないか、自分自身が新たなる黒の子ども≠ナあることを!」
「お祖父さま、何を──」
「おまえが此処へ降りてきたとき、音も、気配もそこには存在しなかった」
 そう声高に語る祖父は、抜き身の軍刀を自身の目の前にいる火の鳥へと突き刺し、そして自身もまたその鳥の魔獣の嘴によって、己の心臓を刺し抜かれていた。
 その様子は太陽の光を浴びて、まだ幼い少女の瞳にありありと映し出される。落ちくぼんだ瞳を見開き、血走ったまなこでぎょろりとこちらを見据えた祖父に、少女は思わず身震いをした。
「そんな……わたしには、分かりません」
 かぶりを振りながら少女はそう言って、石の床へと自身の靴底を叩きつけてみせる。そうしてみればこつこつと乾いた音が床で鳴り、少女はほとんど安堵の表情を浮かべて祖父の方を見た。
「──受け取れ、この刀を」
 けれども祖父はそう発し、まだ肉として身体が残っている火の鳥の身体から、突き刺した軍刀の刀身を引き抜いた。
 彼の胸からは止め処なく赤い血が流れ続け、それでも祖父は何かに取り憑かれたように身体を動かし、抜き身の刀を近くに落ちていた黒い鞘の中へと収め、笑う。
「私たちは結局、殺しの民で在ることをやめられはしないのだと、今になってようやく分かった」
 そう語る老人の微笑みから、かつての優しげな色は消え去っていた。これが共に日々を送った祖父だとは到底思いたくない少女は、積み重なる瓦礫を越え、そうして祖父へと近付きながら、彼の言葉を必死に否定した。
「そ──それは違います、お祖父さま!」
「何を。現に、今までだってそうであったろう。私たちは狩猟民族などと体よく名乗り、その名のもとに殺しを繰り返していた。それは、血の誘いに抗えない我々の業だ……逆らえない、私たちのさだめなのだ……」
「わたしたちは食べるために獣を狩りはしても、殺すために生きはしないはずです、お祖父さま!」
「──黙れ、童!」
 燃えるような痛みすら感じさせる鋭い声で、祖父がそう叫んだ。
 祖父の前まで辿り着き、今わの際に在る彼へと触れようとした、少女の灼けた手のひらがその寸前で恐怖に止まった。
 少女の瞳が動揺に揺れ、片方のこめかみではこれは誰だという叫び声が、もう片方のこめかみでは間違いなく己の祖父であるという叱咤が、さながら点滅するかの如く、同時に鳴り響いている。
「おとなしの民≠ナある我らがこのような失態を晒したのは、その自覚が足りなかったためだ。今回の落とし前は、貴様がつけろ。我々のこの雪辱を、貴様が果たすのだ」
 砕けたレンの像を背に、力なく地面に座り込んでいる祖父は、しかしどこまでも逃さないというような瞳で、少女の震える目を射た。
「──取れ、この刃を」
「……は……い……」
 老人の瞳も、声も、おそらくは心も、もうかつての──自分の知っている祖父のものではなかった。
 少女は石の床へと膝を突き、昨日まで祖父だった人の前に、おとなしの民の長老である人の前に跪く。
 目の前に在る人のことを、少女はなるべくその瞳に映さないようにこうべを垂れ、そうして短い黒髪で己の視界を覆った。震えの治まらない両の手のひらを祖父の方へと差し出し、いずれやってくる黒い重みを彼女は待つ。
「レースライン」
「は……」
「殺せ……」
 その言葉と共に、少女の両手に軍刀の重みが落ちてきた。
 焦げた右手の痛みや、灼けるように熱かった右半身の痛み、それらをすべて忘れ去ってしまうほど、その刃の重みに少女は恐怖した。
 手にしてしまった、と少女は震える。
 ──手にしてしまった。血に狂うという黒の軍刀を、無数の命を奪ったという呪われた刃を、自分は手にしてしまった。自分もすぐに、祖父のようになってしまうのか。死に際までも殺しに執着し、己の家族にまで呪いを与えるような人間になってしまうのか。
 人の姿のまま、狂った獣のように……
「レースライン、殺せ……」
 俯きながら床を見つめて、少女は祖父の血を吐くような声を聴く。その言葉が発されたのはたった一度きりだったのにもかかわらず、しかし少女の耳には、祖父の声が何度も何度も木霊するようだった。
「──殺せ、すべての魔獣を」
 黒鞘に収められた軍刀を両手で掲げたまま、少女は祖父の息づかい一つひとつに身を震わせ、荒い呼吸で彼の前に跪いていた。
「殺すのだ……殺せ……」
「は……」
 少女は玉の汗を額にびっしり浮かべながら、赦しを乞うかの如く何度も何度も頷いた。
「……必ず……」
 祖父の声や息づかいが聞こえなくなると、少女はこうべを垂れたまま、引けた腰でじりじりと後ろへ退いていく。そこで瓦礫の山に背をぶつけると、祖父の亡骸を見ることもなく鋭く踵を返し、彼女は真っ青な顔で這うように地上へと続く石の階段を上っていった。
「必ず……」
 その言葉を向けた先に在る祖父の亡骸が、最期の最期まで人のかたちを保って遺っていたかどうかは、もう少女には分からなかった。
「……必ず……必ず……」
 祖父の前で繰り返していた言葉を、少女は呪文のように口の中で繰り返しながら、軍刀の黒鞘をその身に抱えては集落を駆けていく。意識らしい意識もほとんどなく、彼女は無心で長らく共に在った山を下っていった。
 鳥の魔獣が遺した火の手は未だ山に広がり続け、自身が駆け回った野を焼き払っていたが、少女はそれに気が付くこともない。
 それから自分の右半身で灼けるような痛みを放つ、その酷い火傷に少女自身が気が付いたのは、彼女が山を下り、王都の城下町に辿り着いたときになってからだった。
 そしてその頃には、少女の美しかった黒髪は、どこまでも真っ白な色に染まりきっていた。



20170819

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