少年は歩く。
 とうに暮れが空を覆っていることにすら、気が付かずに。
 歩き続ける。
 アインベルは、ぼんやりと考えごとをしながら歩を進める自分の足が、自身の向かう方向とは段々と逸れていっていることにも気が付かなかった。
(……渦潮≠ェ起こるのは、東の海だけ……)
 樹海に最も近い町の〈語る塔〉で訊いたキトとメグの話は、こうして少年の心を物思いに更けさせるのに、まったくもって十分すぎるほどの代物だった。
 日はじきに暮れる、出発するなら次の町まで護衛する──そう言う二人の制止にも似た申し出を、アインベルは何度も礼を言いながら頭を下げて振り切ると、塔の長い螺旋階段を駆け下って外へと繋がる扉を開け、その勢いのまま樹海の町から飛び出した。
 そうして彼は今、樹海の町から続く、次の町へ繋がるくたびれた街道を、ぼんやりと心を海の方へとやりながら歩いていた。
 街道に同じ間隔を空けて置かれた背の高い、魔獣除けの効果がある水晶燈が、暮れの気配を感じてぽつぽつと橙色に染まりはじめる。この辺りはまだ樹海に近いからか、未だ緑がそれなりに多く、小さな森があちらこちらに点在していた。
 ただ、今のアインベルにはそれも目に映らないほど、意識を目の裏に浮かぶ、あの日の渦潮へとやってしまっている。
(じゃあ、もし僕たちが、東じゃない海に生まれていたとしたら──)
 海に吹く風が、樹海を越え、町を抜けてアインベルの背中を生ぬるく押している。
 彼はぼんやりとする頭とぎゅうと締め付けられる心臓を抱え、その風に押されるままに歩を進めた。
(もしも……)
 アインベルは、前方を見るともなく見ていた視線を下げる。街道の古ぼけた煉瓦道に、両端に立っている水晶燈の光が淡く掛かっていた。
(なんで……)
 煉瓦道が途中、もう長いこと手入れされていないのだろう、二歩分だけ途切れていた。
 それにも気が付かない少年が二歩分、煉瓦ではなく土を踏んだ後、三歩目に踏んだのはしかし続きの煉瓦道ではなく、また土だった。
 少年の足は、次の町へと向かう街道からゆっくりと逸れていく。
(どうして、僕たちは東に──海に生まれたんだ……)
 思っても手には掴めないもしもと、思っても答えなど得られない何故が、強固な縄となってアインベルの心臓を締め上げる。
 彷徨う少年の心に比例するかのように、街道に立つ水晶燈の明かりは段々と遠ざかっていった。自身の腰で鳴る鈴の杖の音も、あの日の海をアインベルに想い起こさせるだけの材料にしかならない。
 夕暮れが空を染め、その色が更に夜に上塗りされようとしている。風に押されるアインベルの背は、沈む太陽の残り火に照らされていた。
 少年は、いつかと同じように振り返ることなく足を動かし続け、きつく唇を噛み締めては涙を流すこともなかった。
 詮のないことを、それでもひたすら考え続けながら足を進めるアインベルが、しかしその足をふと止める。
 いいや、正しくは何かに止められたのだった。
「えっ──」
 アインベルが何がなんだか分からない内に、彼の上体はぐらりと傾く。少年は思わず両手を自分の前へと突き出した。
 けれども彼はすんでのところで、その身体が地面に倒れ込むのを押し止めていた。
 目を白黒させながら剥き出しの土に片手を付いて、安堵の息を吐きながらアインベルは後ろを振り返る。その視線の先、少年の足元には、自分の手のひらにぴったり載るくらいの石が一つ、地面から突き出していた。
「うわ、危なかっ──」
 言いかけて、アインベルははたとする。
「此処……」
 アインベルは地面に着けていた片手を離して上体を起こすと、きょろりと辺りを見渡して呟いた。
「──此処、何処だ……?」
 自分が歩いていたと思っていた水晶燈の立つ煉瓦の道は何処へやら、視界に映るのは夜の藍に染まりつつある木々の焦げ茶と緑色ばかり。己が立っているのは人が使い古したぼろ道どころか、人が歩いたことがあるのかも分からない獣道である。
 自分の背を押していた風は、いつの間にかほとんどその鳴りを潜め、今は枝葉の呼吸を時折感じさせる程度になっていた。
「も──戻らないと……」
 そう言ってみたはいいものの、振り返った先は森の草木に閉ざされ、それに加えて迫る夜も手伝い、帰り道などとても分かったものではない。
 せめて、自分がどちらから歩いてきたのかを覚えておけるように、先ほど蹴躓いた石ころをアインベルはその瞳に焼き付ける。それから、自分が常に持ち歩いている白墨を服の隠しから一本取り出して、その石の少し平らになっている部分に、自分が来た方角を示す矢印を白く引いた。
 手に付いたチョークの粉を払いながら、アインベルは思う。今日ほど自分を転ばせた石に感謝した日はないな。
 むやみやたらに動くのはよくないだろうと、アインベルは石ころの近くに生えている木まで近寄ると、その幹を背に地面に座り込んだ。
 朝になれば来た道をまた戻ることもできるだろうが、それまで何事もなく夜を過ごすことができるだろうか。何処からともなく魔獣が現れないとも限らない。
 もし魔獣に襲われたとき、こちらに有るもので戦えるものといえば、自分の腰に差した鈴の短杖くらいしかなかった。幸いこの杖は長杖へと引き伸ばすことが可能なため、いざとなったらこれで相手を思いっきり叩いて全力で走れば、なんとか逃げ切れるかもしれない。
 ──とは言っても、こんな夜を、こんな森で、こんな気持ちの中たった独りきりで過ごすのは、未だ少年の域を抜けきらないアインベルにとって、ひどく不安なものであった。
 アインベルは何処にいるかも分からない魔獣に気配を悟られるのを嫌い、なるべく自分が物音を立てないようその身を縮こませ、両膝を抱えてはひっそりと呼吸を繰り返した。
「ん……?」
 生来、何故だろう人よりも耳の良いアインベルが、ふと顔を上げた。
 少年は微か、空気のざわめきを感じたのだ。静めていた呼吸を更に潜めて、アインベルは耳を澄ませる。
 冷や汗が、彼の背中にうっすらと伝った。
 小さくだが、馬の蹄が地面を蹴る音が確かに、アインベルの耳へと伝わってきたのだ。
 それを強く自覚したとき、アインベルの背中だけではなくこめかみの辺りにも、つうと嫌な汗が伝った。鳴らしたくもないのにごくりと喉が鳴り、彼は両膝を抱えていた両腕を離して、すぐにでも立ち上がって走れるように片手を地面に着けた。汗が滲む手のひらに、土が張り付くのを感じる。
 今、確実にこちらへと向かってきているのは馬の魔獣だろうか。だとしたら走ったとしても追われてしまえばこちらに勝ち目はない。
 どうかその正体が姉の駆る馬の魔獣、アニマ≠フヴィアであってくれと少年は心から思ったが、リトやジンの話を聞く限り、この辺りに姉がいるはずもなかった。それにこの地を蹴る蹄の音は、どうも聴き慣れたヴィアのものとはどこか違っているような気がする。
 ならば人が乗っているアニマならなんでもいいとアインベルは思ったが、しかしわざわざ馬の魔獣を好んで駆る人間などそうそういるものではない。
 彼はどうか自分の気配を悟られませんようにと、ほとんど懇願にも近い思いで眉根を寄せてぎゅうと目を瞑り、ぐっと手のひらを握り締めて息を殺した。
 けれども、その思い虚しく蹄の音は段々と大きくなってくる。まるで、こちらを真っ直ぐ目指しているかのようだ。
「──アインベルくん!」
 瞼を瞑ったアインベルが次にその目を開いたのは、その声を聴いた直後だった。
 アインベルは驚きにがばっと顔を上げたが、その驚きは、彼自身が覚悟していた魔獣に襲われる驚きとはまた別のものであった。
 こちらへ真っ直ぐに呼びかけてきたのは、もしかしたら、と少しだけ期待を抱いていた姉のものとは違う、けれども聞き覚えのある声。
 アインベルは立ち上がり、すっかり夜に塗れた森の中で、馬上に在る目の前の人の顔を驚きの隠せない表情のまま見つめる。そんなアインベルに、馬上の人は快活な笑い声を上げた。その声にも聴き覚えがある。間違いなかった。
 そして何より、暗闇でも浮かび上がるその白色は──
「……レンさん……?」
「そう、ご名答。間に合って──は、いないが……きみが此処を動かないでくれてよかった」
 言いながら、レースラインは葦毛の馬からアインベルの目の前へと飛び降りる。
 よく見ると、以前会ったときの騎士然とした軽装よりも今のレースラインの方が更に軽装だった。
 彼女は、鎖帷子に王國の紋章──朝陽をその爪で持ち上げ、自ら夜明けを呼び寄せる鷹獅子が描かれた紋章である──の刺繍された陣羽織のタバードを重ね着して、その肩に隊長の証である赤色のマントを引っ掛けているばかり。
 アインベルの疑問をいち早く察知したレースラインは、葦毛を近くの木に繋ぐと、それから少年の方を見て微笑んだ。
「この前は、討伐依頼をこなしている途中の一日休暇でね。依頼地へ向かうのにひと月近くかかるというのに、休暇が一日しかないとは呆れたものだよ。道中の魔獣もついでに討伐しないとならないというのにね。だからあのときは……まあ、癖で休日にも関わらず甲冑を着ていたというわけだ、我ながら厭になるな」
「えっと……じゃあ、今日は……」
「うん、まぁこれと言って目立った討伐の仕事はなかったな。ただの見回りだよ」
 レースラインは笑いながら、自身の腰に下げた二本の剣、その黒い鞘の軍刀の方を軽く叩いた。
「けれど安心していい。これでも十分戦えるからね」
「す、すみません……」
「謝る前に、きみはどうしてこんな処に来たんだ? この森を抜けたところで先には崖しかないし、此処は夜になるとほら、こんな具合に視界がひどく悪くなる。この森には月明かりがほとんど差さないんだよ」
 そう言って、レースラインが片手を振って辺りを示す。アインベルは、レースラインの手の動きにつられて辺りを見渡した。
 暮れの橙が紫に変わり、そして藍に変わった空の下、確かにこの森はこれから深い暗闇に包まれようとしている。空を仰いで見ても、星月の明かりは覆う枝葉に邪魔をされてほとんど視界に入ることはなかった。
「言うならば迷いの森なんだ、此処は。そんな風にこの辺りの町でも言われているだろう」
「そう──なんですか。ごめんなさい、僕、ほんとうにぼうっとしていたみたいだ……」
「今日は予定より早めに目的の町に着いたから、仕事が上がった後、少し私用で樹海の近くまで馬を駆っていてね。その後、樹海近くの町で軽く暇を潰していたのだけれど……日暮れ、そこから駐屯地の町まで帰ろうとしたら、あろうことかこの森に向かうきみの姿が見えたんだ。森に入る前に追い付けたらよかったんだけど、まあ……そこまで深くない処で追い付けたから、ぎりぎり及第点としようかな」
 言って、レースラインは息を吐く。
 色濃くなっていく闇にその表情はよく見えないが、息の吐き方からしてあまりいい表情はしていないようにアインベルには思えた。
「それにしても、ぼうっとしていた……か。それはあまり好くないな、アインベルくん」
「……はい」
「外に出るならもっとしゃんとした方がいい。もう、この國では何が起こるか分からないのだから。きみだって、そう安々と死にたくはないだろう?」
「はい……」
「……なんだ、元気がないね。べつに怒っているわけじゃあないんだから、そんなにしゅんとしなくてもいいだろうに」
 レースラインは少しばかり困ったように笑って、アインベルの頭を、その革手甲をした手のひらでぽんぽんと叩く。アインベルはそんなレースラインの方を見上げて、こちらも少し困ったように微笑み、それから頷いた。
「ま、何はともあれ今夜は野宿だな。夜明けと共に森を出よう」
「ほんとごめんなさい、レンさん……明日も仕事、あるんだろ」
「いや、休みはある方が珍しいから、そこら辺は気にしなくていいよ。これも仕事の一つだしね。……というか、上からの無茶な行軍日程をこなすより、きみを護る方が遥かに大事だ」
「……ありがとう」
 その言葉にレースラインはふっと微笑んで頷くと、さて、と呟いて軽く肩を回した。
「すっかり暗くなってしまう前に薪を集めておこうか、アインベルくん。火を起こすのに使えそうなものがすんなり見付かるといいのだけれど」
「──あ。それなら僕がやるよ、レンさん」
「ん……? ああ、そうか」
 アインベルが腰から抜いた鈴の杖を目にしたレースラインは、うんと納得したように呟き、それから少年の顔を見やってその水色の目を細めた。
「──きみは、召喚師だったね」
「うん。失せ物探しの」
「そうそう。自分の帰り道を見失った、失せ物探しの召喚師」
 レースラインが笑顔で言い放ったその言葉に、アインベルが軽く眉根を寄せて苦笑いをした。
「……レンさん、やっぱりちょっと怒ってるだろ……」
「ふふ、どうかな。でもなんせ、今は労働時間外だからね。──ということで、きみにも労働時間外に働いてもらうとしよう。うん、それでおあいこだ」
 言われて、アインベルはぽりぽりと自分の頬を掻いた。
 それからアインベルは、他と比べてなるべく空の明かりが差している近場の地面を探し当てると、そこが夜の色にすっかり染まってしまう前にと、大急ぎで召喚の陣を描き出した。
 土が白墨で描けるほど硬くはなかったため、普段から自分がよくやるように、鈴の杖の石突で土に正円、紋様、古代語──召喚師の呼びかけ言葉を彼は地面の上に描き出す。
 それらを一通り描き上げるとアインベルは立ち上がり、それから鈴の短杖を剣を抜くように引いて、杖を一本の長杖へと変形させる。その杖で少年は唇から一言、此処に来いという意味をもつ、遠きいにしえの言葉を口にすると、描いた円の真ん中を杖の石突で思いっきり叩いた。
 アインベルが地にも声にも紡ぎ出した言葉言葉言葉、その言葉の呼びかけに応じるかのように、円を中心にして大地から白っぽい光が辺りへと溢れ出した。
 淡い光は見つめる内にそのまばゆさを増し、流星を背負う蛍のようにアインベルやレースラインの横を駆け抜けていく。
 辺りに散らばり、ぽうと地面に点在するその光たちは、段々と円の元へと帰り着き、すべての光が集束すると同時に円の中で強く輝き、ぱっと音が鳴りそうなほどに眩しく辺りを照らし出した。
 レースラインはそのまばゆさに思わず腕で顔を覆ったが、アインベルの方は流石に慣れたように光の集束に合わせて目を瞑り、痛いほどの光の中にそのまま両の手のひら差し伸べる。
 それから、その光の中に在るものの大きさに気が付いたかのように少年は一歩足を踏み込み、両手というよりは両腕で自らが喚んだものを抱きかかえるようにした。
 白の発光が鳴りを潜めると同時に、アインベルの腕にずしっとした重みがやってきて、彼はその衝撃に軽く腰を落としながら、自分の背後に立っているレースラインの方を振り返った。
「この森、暗いから……ちょっと眩しかったかも。だいじょうぶですか、レンさん?」
「ちょっとどころじゃあないのだけれどね……私は問題ないよ、きみの方は?」
「ああ、この通り」
 言って、アインベルは身体ごと振り返り、レースラインへと腕に抱えたたくさんの薪を軽く掲げた。
 その様子に、レースラインはかぶりを振って小さく笑う。
「違う違う。私が訊いたのはアインベルくん、きみの目のことだよ」
「え? あ、ああ、えっと……それなら僕もだいじょうぶだ、これくらいの召喚光だったら慣れてるよ。──でも、ありがとう」
「そうか、よかった。それならいい」
 頷いて、レースラインはアインベルが遠慮する間もなく、彼の持つ薪の半分をその腕から掠め取った。
 それから先ほど彼らがいた、アインベルが躓いた件の石ころが在る位置まで戻りながら、レースラインは少しばかり苦笑いをする。
「いつ見ても見事なものだな、召喚術というのは。見事──なんだが、こういう森で一人きりのときはあんまり遣わない方がいいだろうね。あの光──召喚光と言うのだったかな、とにかくあれだと、魔獣や盗賊に自分は此処にいますと教えるようなものだから」
「そうですね、僕もそう思う。召喚術はそういう性格の術だからこればかりは仕方ないんだけど、でも……今日みたいなときは遣うの、やっぱりちょっと怖いかな。今はレンさんが一緒だから遣ったんだけど」
「うん、信用されてるようで嬉しいね」
 二人は木の幹を背にして、薪と一緒に自分たちも地面に腰を下ろした。
「そうだ──ところで、アインベルくんはどうして召喚師に?」
 集めた薪の比較的細い枝の束に、手持ちの燐寸で根気よく火を点けながら、レースラインは横目でアインベルの方を見ながら何気なく訊いた。
 その問いにアインベルは一瞬面食らいながら、枝に燃え移っていく火を見つめ、それからゆっくりと口を開いていく。
「……それが──そうしないと、生きていけないような気がしたから……かも、しれない」
 それが海へ置いてきたすべてへの贖いになるような気がしたから、という言葉は心臓の底に引っ込めて、アインベルはそうレースラインへと告げる。その視線は、枝先に灯る赤い火に向けたままだった。
「そう。早くに自分の道を決める者は皆、存外そんなものなのかもしれないね」
「え?」
「いや──私も、そんな風だったな、と思って」
 レースラインは白の睫毛を伏せるようにしてやる、あのどこか寂しげに見える微笑みをその端正な顔に浮かべ、呟いた。
 それから彼女は、火の点いた小枝の束を集めた焚き木の中へと放り込み、緩やかに火種の赤が他の枝へと移っていく様子を眺める。
 アインベルには、存在を増していくその明かりに照らされたレースラインの勿忘草色の瞳がふと、水銀のようにどろりとした光を宿して見えた。
「今はどう?」
「今?」
「今は、生きていけそう?──その、召喚術がなくても」
「今、か……」
 ちらりとこちらを見てそう問いかけたレースラインに、アインベルは焚き火を見つめて小さく唸った。それから腰に差し直した鈴の杖に手を触れ、小さく息を吐く。
 そうして焚き火から視線を外し、レースラインの方を見た少年は、しかし優しげに微笑んでいた。
「どうだろう……分からないや。でも──召喚術が遣えれば、こんな僕でもいくらかの人の役には立てる。だから、失いたくはない……な」
 言って、アインベルは小さく頷いた。
「──うん、僕はこいつと、一緒に生きていきたい」
 アインベルのその真っ直ぐな返答にレースラインは微かに驚いた表情を浮かべ、しかしすぐにその目元を和らげると、息を洩らすようにしてほんの少しだけ笑った。
「……そうか、きみは前に進んでいるんだね」
「レンさん?」
「いや、アインベルくんは強いなって、そう思っただけだよ」
「強い……?」
 レースラインの言葉をおうむ返しして、アインベルは浅くかぶりを振った。
「そんなことないよ。そんなこと、ない……」
「そうかな。いや、或いはそうかもしれないね。強い者というのは、皆どこかしらが弱いものだ」
「だから、僕は──レンさんの方が、僕なんかより……ずっと、ずっと強いだろ」
「うん? うん、それはそうだよ。私は、強くなければならない」
 木の幹に背を押し付けて、レースラインは言い切った。
 それからアインベルの方を顔だけで見やって目を細め、横顔を炎の橙に染められながら、どこか困ったように彼女は笑う。
「でも、私の強さというのは──きみのような者がもつ強さに比べると、ずっと、ずっと弱いものだよ」
「……レンさん、意味がよく……」
「ああ、じつは言うと私もよく分からない。けれどね、なんだか……うん、でも、そんな気がするんだ」
「……じゃあ、気のせいだろ。なんにも守れない僕なんかよりも、レンさんの方が弱いわけがない」
「今のきみの言葉を聞いて思ったのだけれど──たぶん私は、剣の話がしたいわけじゃあないんだと思う」
 その呟きは、焚き火の燃える音ばかりが響く、この迷い森の暗闇の中へと吸い込まれていった。
 緩やかに流れる沈黙の中、両膝を抱えてぼんやりと火の色を見つめるアインベルの肩を、レースラインが軽くとんとんと叩いた。
「火の番と見張りは受け持つよ。きみは夜明けまで眠るといい」
「え……でも、レンさんは? 眠るなら、交代で──」
「いや、私は元々大して眠らないからだいじょうぶだ」
 言って、レースラインは軽くかぶりを振ってどこか冗談めかして苦笑した。
「これももう癖なのだけれど……私ときたら、悲しいことに一度眠ったとしても、毎度まいど眠りが浅くてすぐに目が覚めるんだよ。下っ端の頃は、何かあれば時間も問わずに叩き起こされるのが常だったからね。今じゃもう、それが嫌な習慣になって叩き起こされなくても自分で勝手に目が覚める。物音や気配があれば尚更だ」
 だからきみは気にせず眠るといい──そう言うレースラインに、しかしアインベルは分かり易く渋面をつくり、その首を緩やかに左右へ振った。
「レンさんが眠らないなら、僕も寝ない」
「……眠れるときに寝ておいた方がいいと、私は思うのだけれどね」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
「やれやれ……きみって子は、変なところで強情だな」
 自分から顔を背けて欠伸を噛み殺しているアインベルの方を見て、可笑しそうにレースラインはその薄い唇を緩めた。
 小さく音を立てて燃える火に身体を暖められながら、二人は夜明けを待つ。
 月明かりも差さない、ほとんど音を立てないこの森で過ごす夜は、どうしてだろういつもよりもゆっくりと流れていくようにアインベルは思えた。
「……レンさん」
「何かな、やっぱり眠い?」
「いや……」
 アインベルは小さな声だけで否定して、焚き火の赤色を見つめる。
「──黄昏って、なんなんだろう」
 目の前の火は枝から枝へと燃え移り、その色を焦がしている。
 自分の影すら見えないこの森の中で燃える炎は、暖かで、そして熱く、まばゆい。光となってこちらの輪郭を照らし出すそれは、しかしその足元に転がる影すらも色濃く暴き出していた。
「誰も、みんなみんな黄昏のせいだって言うけど……でも、だったら……その黄昏って一体、なんなんだろう」
 褪せた緑色の瞳はぼんやりと炎を見つめ、その喉から吐き出される言葉は、この森に流れる空気と同じように静かであった。アインベルの金髪混じりの淡い水色をした髪、その誓いを込めた二本の三つ編みを結ぶ白の紐がほつれ、今にもほどけて広がりそうだった。
「何が悪くて、僕らは……黄昏は、なんのために……」
 少年の口から、零れるように言葉が落ちていく。
 アインベルは、膝を抱えていた両の手のひら同士をきつく組み合わせた。
「……僕は、なんのためにあそこで生まれて……なんのために、今、此処にいるんだろう……」
 小さく音を立てて、火の中に在る枝が少しばかり崩れ落ちた。
「──さあ、分からないな」
 言って、レースラインは焚き火の中に新たな枝木を継ぎ足した。その顔は炎の色に照らされ、少年の方を見ることもない。
「どうだろう、意味なんてないんじゃないか」
「……じゃあ、僕らは意味もなく生まれて、みんな……意味もなく死んでくって……レンさんは、そういうことだって言うのか……?……そんなの、あんまりじゃないか」
 アインベルの小さな声に、レースラインが浅くかぶりを振った。
「……生憎、私は神じゃないから正しいことは分からない」
 ふと、レースラインが継ぎ足した枝の先から、新たな炎が上がった。
「──分からないが、この世に意味のある死がどれだけ在ると思う? 厭になるほどたくさんの死を見てきた私から言わせてみれば、断言しよう、そんなものなど在りはしない。何処にもない。何一つ、だ」
 そう断言したレースラインの声は、最早森の空気よりも静かなものだったが、しかし有無を言わせない力がそこには宿っていた。
 そんなレースラインに、アインベルは少しばかり泣き出しそうな顔で彼女の方を振り向く。そんな少年の方を彼女も振り向き、射るような水色でアインベルの老竹を見た。
「死ぬことに意味はない」
 言葉を切って、レースラインは鋭かったその瞳を、しかし驚くほどに柔らかく細めた。
「けれど、今生きることに意味はある。……いや、ほんとうのところ意味などないのかもしれないが、意味をもたせることはできる。そしてそれは──きっと、きみ自身が、きみ自身で決めることだ」
 そう言うレースラインのまなざしには、今を思い悩む少年に対する羨望の色が滲んでいたかもしれない。
「きみがその道の上を歩く意味は、たぶんもう、きみの中に在るはずだよ」
 レースラインは言葉を切ると、ほんの少しだけ息を洩らしてふっと笑った。
 アインベルはそんなレースラインの瞳に、自分の緑色も少しばかり寂しげにだったが細めると、それから小さく頷いて微笑んだ。
「……レンさんは、もう決めた?」
「まあね。私が騎士として此処にいるのは、戦い戦い、戦うためだ」
「戦うため、か……。ねえ、レンさんは何と戦ってるの?」
 その問いに、レースラインはアインベルから視線を逸らすと、焚き火へとその両手を伸ばし、白い指の隙間から赤々い炎の色を覗き見た。
「そんなもの、決まってるだろう? 騎士がその身を挺して戦うものと言ったら唯一つ、黄昏と、だよ」
「……ほんと?」
「おや、信じてないね? アインベルくんも私を人の皮を被った魔獣だと思っているのかな。まったく酷いよ、心外だ」
「いや、なんでそうなるんだよ……」
 こちらを振り向いて冗談めかしたレースラインに、アインベルは苦笑いをしながら、少しばかり首を傾げた。
「だってそれ──レンさんの話じゃなくて、騎士の話じゃないか」
「……なるほどね、そう来るか……」
「でも、そうだろ」
「そうだね……うん、確かにそうだ」
 レースラインは呟き、腰に差した軍刀の黒鞘に指先だけで触れる。
 それからアインベルの方をちらりと目線だけで見やって、少しばかり眉根を下げて微笑んだ。
「……なんとなく、きみに嘘は吐きにくいな」
「そんなの──ほんとのこと、言えばいいだけじゃないか」
「簡単に言うけどね、アインベルくん。それって、中々どうしてけっこう難しいことなんだよ。……きみだって、きっとそうだろう?」
「……うん、そうだけど、さ……」
「でもまあ、きみがそこまで言うなら話そうかな。誰にも話したことのない、ほんとのこと≠」
 言って、レースラインは鞘から軍刀を引き抜き、火の光にかざした。
 刃の向こう側には、炎の姿がその銀色の中に映し出され、それはどこか遠くが熱い赤に燃えているようである。刃のこちら側には、レースラインの伏し目がちな微笑みの、その白と勿忘草の色が映し出されていた。
「失せ物探しのきみに、少女が失ったものの話をしよう」
「それは……僕には、見付け出せないもの?」
「うん、おそらくは」
 森の夜は深く、そこに焚かれた赤の色はひどく鮮やかだった。
「昔話だよ。大人の言葉を聞くことしかできなかった、悲しいほどに馬鹿な子どものお話」
 レースラインのもつまばゆいほどの白い髪が、軍刀の切っ先と同じように、目の前に在る火の粉の光を受けてはその輝きを増している。
「──黒の子ども≠フ、昔話だ」
 ばちり、と、燃える炎が爆ぜていた。



20170813

- ナノ -