宮廷の長い回廊。王都の賑わいは此処まで届いてくることはない。
 気の遠くなるほどに長い階段を上り、跳ね橋を渡った先にそびえる巨大な城こそ、王都〈アッキピテル〉を王都たらしめる所以である。そこには、〈ソリスオルトス〉を統治する歴代王家アッキピテルの一族が代々住まい、民のための為政を行ってきた。
 城門を通ってすぐ右手には、番人が辺りを常に見張っている望楼。その望楼から塁壁に沿うようにして、王の住まう本館辺りまで長く伸びている二階建ての建物は、騎士の詰め所である。
 その王城の片翼を抜けると、庭園を一望できると言えば聞こえのいい、天井は在っても柱ばかりで窓のない渡り廊下へと出ることができる。渡り廊下を進んでいくと、本館のいちばん東に位置する一階の回廊へと抜けることができた。
 ちなみにだが、本館内のこれまた長い階段を上った先に在る〈ソリスオルトス〉王の謁見室も代々、城の東にしつらえられている。日の昇る処に、王は在らせられるのだ。
 しかし、こんにち白の髪をなびかせる騎士に用があるのは國王陛下ではない。用があるのは、謁見室へと繋がる階段、その近くに自身の執務室を構えている、王室騎士隊鷹の羽≠フ総隊長──ソリスオルトス騎士団、その長だった。
 レースラインは団長の呼び出しを受けて、王都に帰還早々、宮廷内へと足を運んでいたのだった。
 しかし、臣下の執務室や会議室など、そういった為政のための施設は元々、王の住居が在る本館には存在しないはずのものだった。為政は、本来ならば本館近くに在る別棟にて行われるはずのものだったのだ。
 ただ、現〈ソリスオルトス〉王アウロウラ・アッキピテルは広く為政に関わり、この世界に多くいる黄昏に抗う者の中で、最も力をもつ者である。ここ十数年間における黄昏の急進行により、アウロウラ王は本館と別棟を行き来する手間を嫌った。
 そのため、本来臣下たちの住居であった本館の一階はすべて臣下たちの執務室に取って代わり、別棟の方が今では臣下たちの住居となっている。別練へ戻らず、本館の執務室で夜を明かす者もここ最近では多かった。王を護る者、鷹の羽の最も高い位に位置している騎士団長も、そういった臣下の内の一人である。
 レースラインは、両開きの赤茶色の扉の前で足を止める。
 そこには、見張りの騎士が一人立っていた。レースラインが軽く一瞥をくれると、見張りは慣れたように扉を叩いて団長の執務室へと入っていく。
「どうぞお入りください。トゥールムさまがお待ちです」
 入ってすぐ執務室から出てきた彼は、レースラインに向かい、丁寧にそう言った。
 見張り役をしていると言っても彼は、騎士の多くが最終的に目指している鷹の羽の一員で、こちらはたかだか国土警備の世回り¢焉Bその小隊長でしかないレースラインより、この見張りの騎士の方が位は上のはずだった。
 けれどもレースラインは一度鷹の羽に引き抜かれ、それを断った後も度々騎士長に呼び出されている手前もあり、彼は彼で一応の敬意をレースラインへ払っているつもりのようだった。ただ、その表情は氷の如くに冷たい。
 レースラインは軽く笑って彼に礼を言うと、こちらも慣れたように執務室へと入っていく。彼女の涼しげな笑みもまた、冷えた月のように冷たかった。
「お呼びですか、騎士長」
 部屋の中へと入っていくと、整頓されてはいるが書類が山積みになった執務机に向かう、一人の男の姿が在った。
「ああ、レン。戻ったか」
 おもてを上げてそう言った彼は、三十路を過ぎてもう随分経つが、それでも十代二十代の若者に負けないほど力に満ちた瞳をしていた。精悍な顔立ちに備わる、獅子の目のような金茶色をした鋭い二つの眼光をもつ彼は、世が世なら王座の近くに置いておきたくはないだろう存在に違いない。
 しかし現騎士長であるトゥールムは、幼少の頃その才をアウロウラに見出され、年端もいかぬ頃から鍛錬を積むと共にアウロウラ・アッキピテルに仕えてきた人物である。
 加えて彼は透き色の水晶の如くに実直な心をもつ、生まれながらにして騎士の魂をその身に宿す人間だ。敬愛する陛下を裏切るような真似をするはずもない。
 トゥールムだけではない。王のそばに仕える宮廷錬金術師、宮廷魔術師、王室騎士長──そういった者たちは皆、そのときの年や場所の違いはあれど、誰しもが即位する以前のアウロウラ・アッキピテル自らに見出された人物たちであった。
 アウロウラは生来心優しい。そういう星の生まれなのだと、彼を取り上げた占星術師の老婆は言ったらしい。それが彼の強みであり、また弱みであることを、彼自身はよく理解していた。
 確かに、彼は鷹獅子の器を持っていた。けれども、王たるには今少し足りない。王には、初代王ラクラルテがその身一つに宿していたような、鷹獅子の魂が必要なのだ。
 そしてアウロウラは、かつて彼がした長き旅の末に手にしたのだった。臣下という言葉ではあまりに浅く、仲間という言葉ではあまりに緩い、固く結ばれた鷹獅子の子たちの魂を。
 アウロウラは一人きりでは鷹獅子にはなれない。けれども、今一度集いし鷹獅子の分かたれた魂たちと共に在れば、彼はどこまでもしなやかでしたたかな、夜明けの日の出を飛びゆく鷹獅子となれるのだった。
 そして今、レースライン・ゼーローゼが目の前にしているのは、そんな鷹獅子の子の一人、レオンハルト=シバルリード・トゥールムだった。
 トゥールムは、執務机の向かいに置いてある来客用の腰掛けに座るよう片手でレースラインへと示した。
「今回もご苦労だったな」
「は。此度の巡回の報告は、わが隊の伝令に向かわせたかと思いますが」
「うん、まあ、呼んだのはそのことじゃあない」
「は……つまり、あれというわけですね」
 未だ騎士の礼をして執務机の前に立つレースラインの肩を軽く叩いて、騎士長トゥールムは執務机の向かいの腰掛けへと移動し、そこに座って息を吐いた。それから小さな机を挟んだ向こうに在る、もう一つの腰掛けを首で示す。
 流石にレースラインも観念して、示された椅子へと腰を下ろした。
「こうして話すのも久しぶりなのでな。まあ何、また少々、お前と噂話でもしようかと」
「相変わらず先生は殊勝な考えをお持ちになっていらっしゃる。まあ、光栄ではありますが」
「先生、か。その呼び名も懐かしいな。お前が正式に騎士となってから、もう随分長いこと経った」
「こちらとしては、忙しすぎて一瞬に感じますけれど」
「ああ、まあそうだな。特にここ最近はそうだ。私も年を取るわけだよ」
 その言葉に、レースラインは軽く笑った。
 トゥールムは、レースラインが騎士を目指して王都へやってきた頃、彼女の才をその目で見出しては、一番弟子として彼女が一人前の騎士となるまで育て上げた──いわゆる、レースラインの師でもある。
 ゆくゆくは騎士長を継ぐ者として彼女のことを育てたつもりだったが、どうもトゥールムの一番弟子は、この世回りの小隊長という位に固執するようだった。わが弟子ながら読めないことが多すぎる。彼女には篤い信頼を置いてはいるが、しかし王を護る最も大きな羽となる、その後釜の見極めはしっかりとしなければならない。
 一方レースラインも、トゥールムのことはこの世で最も敬愛する人物であったが、彼の後を継ぐ気などはさらさらなかった。何故ならば、自身の見目のことは当然だが、それに加えて鷹の羽では戦うことができないから、である。王を護る鷹の羽では、外に出て満足に剣を振るうことができないのだ。それが何より堪え難い。
「……それで、お話になりたいことというのは?」
 レースラインが、目の前の机に置かれている巻物を見やりながら問うた。
 これは、彼女が部屋に入ってきたときから、この客人用の机の上に置かれていたものだった。どうも先生には、話したくてしょうがないことがあるらしい。
 トゥールムがレースラインへ視線を寄越した。
「──果て越え≠ヘ知っているな?」
「果て越え? ああ……海を越えて新天地を目指すという、あの大規模な計画のことですね」
「まあ、それが、黄昏の深刻化で海より陸が人手不足になってな。残念ながら、あの計画に回されていた騎士たちは今まさに王都へと舞い戻ってきているのだが」
「そう聞いております。それが?」
 さして興味もなさそうにレースラインはそう言い、片方の眉を微かに上げてトゥールムの方を見た。そんな彼女に騎士長は参ったように肩をすくめる。
「興味がなさそうだな」
「いえ、興味はありますよ。途方もない塩の大地の果てを越えて新天地を目指すだなんて、夢があっていいじゃないですか」
「嫌味に聞こえるぞ、レン」
「本心ですよ。果ての先に希望を見出せるなんて、羨ましいくらいだ」
 レースラインは、いつも黒の軍刀を差している自分の腰の辺りへと視線をやった。今は流石に帯刀はしていない。宮廷内は見張りの人間以外は帯刀が禁じられているのだ。そういえば、次の出征は何日後だったろうか。
 ふと、彼女は思い出したようにトゥールムの方へと視線を上げ、それから目だけで笑った。
「羨ましいのですよ、純粋に。未来に希望を見ることができる者たちのことが。私はこれで中々どうして後ろ向きですから。そうですね、夢のないことを言うと──果てとは、その先に何もないから果てではないのですか?」
 微笑んでそう言うレースラインに、はあと息を吐いてトゥールムは背もたれに自身の身体を深く沈めた。
「レン、やはり海に興味がないだろう」
「仮に私が興味をもったとして、誰が私に果て越えのことを教えてくれると?」
「訊けば教えてくれるだろう、誰だって」
「それは先生のように人望のあるお方にはそうでしょうとも。人望のなさでならば、私は先生の師にもなれます」
 冗談めかしてそう言い放ったレースラインに、トゥールムは額を押さえて先ほどよりも深い溜め息を吐いた。そんな師の様子を見て、レースラインは更に笑う。
「まともな騎士なら、戦狂いの私なんかと関わり合いにはなりたくないはずだ。最近じゃあ、目も合わせてくれませんよ」
「それは、お前がそうやって自分の心を閉ざしているからではないのか?」
「私が?……逆では? 騎士長に対してこんなに明け透けな態度を取る人間が、心を閉ざしているように見えますか?」
「……ああ、見えるがな」
 トゥールムの射るような瞳を慣れたようにかわして、レースラインは浅くかぶりを振る。それからその長い白の髪をかき上げると、鈴の音が聞こえそうなほどに涼やかな水色の瞳で、彼女はトゥールムの目を見返した。
「学の足りない私には少々難しいお話のようで。──それで、先生がお話になりたい噂話というのは? 今のお話よりは簡単なものなのでしょう?」
 レースラインは机の上の巻物を一瞥して言った。トゥールムは根負けしたように、自身の黒髪を湛えた頭を軽く掻く。
「……果て越えという大計には、少々問題がある。まあそれは、誰しもが分かっていることなのだが」
 言って、騎士団長は机の上の巻物を広げた。
「それがこの──海のそこここで起こる、渦潮≠セ」
 トゥールムが広げた巻物を指差した。
 机の上に広がるのは、現存している前時代の海の資料と、現代で測量し描き上げた地図を繋ぎ合わせて作られた、何処までが真で何処までが嘘なのかがはっきりとはしていない、かりそめの海図だった。
 その海図の右側、世界樹から見て東──樹海≠越え、白の民≠ェ住まう浜より半日から三日、或いは一週間ほど歩いた距離の場所に、無数の赤い点が密集していた。今まで渦潮が観測された場所が、この海図には赤い点として記されているのだ。
 しかし、今机上の海を目の前にするレースラインは、陸を主に仕事場とする騎士である。いくら髪の色が塩の大地のように白くとも、いくら目の色がかつての海の色に似ていようとも、海とはなんの関わり合いもない人間だ。海図など、生まれてこのかた見たことはなかった。
 ただ、生まれて初めて見る可能性の地図を前にしても、レースラインの顔色は変わらない。冷えた光をその瞳に宿し、彼女はいつも通りの表情で机の上の海図を見ていた。
「……まあ、そうでしょうね。海を越えるというのだから、てっきり渦潮問題はどうにかなったのだと思っていましたが」
「それが、どうにもなっていない」
「はあ、それは問題ですね。何故、そんな状態で海を越えようなどと? 少々事を急ぎすぎでは?」
「黄昏に追われる我々が、先王の時代よりも事を急いでいることに関しては何も否定ができそうにない。……が、しかし……どうも──渦潮に、新天地への道が在るようなんだ」
 レースラインが海図から視線を外し、どこか怪訝なまなざしでトゥールムを見た。
「この海図は、しばらく前に國のギルドと冒険家協会が協力して描き上げたものだ。……レン、これを見て何か気付くことはないか?」
「そうですね……これだけ分かり易ければ、誰でも気付くかと存じますが」
 レースラインは、す、と目を細めて笑った。
 それから海図の東側、赤い点が無数に打ってある場所を指先でぐるりと囲む。
「──渦潮とは、東の海にしか起こらないものなのですか?」
 その言葉に、騎士長は両膝に腕を置いて海図の方へと身を乗り出した。その鋭い眼光は、東の海に描かれた赤い潮の点を捉えている。
「そう、何故だが渦潮というものは、今まで東の海でのみ観測されてきた。北、西、南……世界樹から見て東の方角から一定の距離を置いた海の中では、ただの一度として渦潮は発生していない」
「たまたま──とするには、どうも点の数が多すぎるようですね。東の海だけ、か……」
「まさに。だから海──〈白き海〉を渡る果て越え計画の、その下準備のための調査隊は北へと送った。その後、他の隊を西と南の海へ」
「東以外の海なら、渦潮が発生しないから?」
「そうだ」
 そう言って頷いたトゥールムは、ここ最近ろくに眠っていないのだろう。瞼の下に隈を湛えては更に鋭さを増しているその瞳を海図から逸らし、おもむろに立ち上がっては内心に秘めた絡まる感情を隠すかのように、執務机のすぐ後ろに在る窓枠の元へと歩いていった。
「……実際、調査隊の人間たちは渦潮に一度も遭うことなく戻ってきた。そのため最新型の砂航船を用い、調査で得た情報──海に在る障害物を正しく避けながら進めば、或る一定の処までは往き着くことができるだろうと踏んだ。そうして正しく新たな海図を描き、その図を元に更に海を渡り、新天地を目指すことが我々にはできると」
 レースラインは、窓の外を見つめてそう言葉を紡ぐトゥールムの後ろ姿を見る。
 弟子の前では隠しきれず、熱を帯びはじめてきたトゥールムの声に対して、しかしレースラインの表情はどこまでも静かだった。
「──東以外の海へと向かわせはじめていた果て越えの隊を、今一度王都へと呼び戻したのは、何も黄昏の影響ばかりではない」
 確かめるようにそう言って、トゥールムは再び腰掛けへと身体を落とした。
 浅く座ったその身体は先ほどよりも海図の方へと乗り出し、トゥールムの目線と指先は東の海の赤い点を追う。レースラインも、師の指先が示す方をその淡い青の瞳で追いかけた。
「最近の調査で分かったことだが、渦潮は同じ場所で何度も起こる」
「同じ場所で、何度も?」
「ああ。たとえば、ここからここまで──この範囲の中に足を踏み入れた者が、まずはじめに渦潮に遭った。その後、同じ範囲に立ち入った者が再び渦潮に遭った。そういう報告が、何件か上がっている」
 赤い点が一つ打ってあるその周りをぐるりと円で囲うようにして、トゥールムが硬い表情でそう言った。
 レースラインは、海図の赤い点を示す師の指先から視線を上げ、落ち着いた表情でトゥールムの方を見る。
「先生がそういう風に仰るのですから、やはり──たまたまにしては、数が多いと?」
「そうだ。たまたまにしては、出来すぎている」
「では先生は、渦潮を如何様にお考えで?」
「……往古、私たち人類がしていたことを思い出してみろ」
「は。──なるほど、厄介ですね」
 窓から差し込む白い陽光が、執務机に積まれた書類の辺りを舞っている細かな埃を照らしている。
 強くなりはじめた日差しを、しかし微かに鬱陶しげに見やったトゥールムを視界に映したレースラインは、静かな所作で立ち上がって窓枠の処まで進み出た。
 それから執務室の扉と同じ赤茶色をした窓掛けを引き、トゥールムの方を見て薄く笑う。
「ほんとうに厄介だ。けれど──それでも、先生はどうしても、東の海へと進みたいようですが」
「ふ……お前にはお見通しというわけか、レン」
「おそらく私でなくともね。目で分かりますよ、先生」
「では──もう一度、この海図を見てくれるか」
「は、仰せのままに」
 レースラインは再び腰掛けまで戻ってくると、しかし椅子に腰を下ろすことなく、向かいに座るトゥールムの隣に膝を突いた。そこから師と同じ目線で彼女は海図を見やる。
「東の海に無数に散らばる赤い点──これは、言わずもがな渦潮の発生地点だ。レン、お前にはこれが何に見える?」
 トゥールムが指し示すのは、やはり東に散らばる赤い点。
「はい、先生──」
 レースラインは、戦いの渦中にいるときと同じように息を殺して目の前の海図を見つめた。
 無数に打たれた赤い点は、距離、場所はそれぞれ異なってはいるが、浜から歩いて数日、長くて一週間という距離の処に、そのほとんどすべてが存在していた。
 そしてその赤色は無作為に打たれているわけではなく、どこか陸地の外周に沿うようにして東の海に打たれている。目を細めてみると、無数の点たちは赤く引かれた一筋の線に見えてきた。
 羊皮紙の上では一本の線に見えるが、これらの点はそのどれもが、竜の如くに塩を巻き上げて立ち上るとされる渦潮なのだ。
 そうつまり、渦潮がこの線の如く、一度に大挙して海に立ち上ったとするならば……
 レースラインは顔を上げ、師の方へと視線を向けた。
「……これは、そう──壁。先生、壁です。進路、或いは退路を塞ぐ、容易には越えがたい壁」
「よろしい。じつのところ、私もそう思っている。渦潮の起こり方は、まるで我々の進軍を阻むようだろう」
「は、つまり──そういうことですか」
「私の推論が正しいとするならば、渦潮を越え、東の海を渡った先にこそ、我々の新天地が在るはずだ。進むならば、可能性の大きい方に進みたい」
 言って、騎士長トゥールムは皺の寄った眉間に折り曲げた人差し指を当て、少しばかり疲れたような表情をした。
「だが結局、推論は推論だ。真実というものは、行動を起こさなければ掴むことはできない。……しかし、果て越えの隊は、あくまでも海を越えるための隊だ。海での過度な調査は、後々の進軍に支障をきたす。だが、別に調査隊を送るというのも──そう……渦潮は、あまりにも危険すぎる。白の民でもない者たちが渦潮に遭ってみろ、まともに逃げ切れると思うか? 隊の壊滅なんてことも十二分に有り得る」
「……ご存知かとは思いますが、私は白の民ではありませんよ」
「分かっている。何も、世回りのお前に頼もうなんて考えてはいないさ。お前にはお前の為すべきことがある」
 落ち着いた声でそう言い、トゥールムは深く息を吸った。そしてそれをゆっくりと吐き出しながら、彼は海図の描かれた羊皮紙を元在った形へと丸めていく。先ほどまで肉食獣のように鋭かった眼光に、穏やかな光が宿りはじめた。
 平常、トゥールムは穏やかな人柄で、苛立ちや皮肉、ざらついた感情や滾った心を表に出すことはほとんどない。
 今のように自分の内心を鋭い眼光でばら撒く彼と、穏やかに部下に接する彼、そのどちらがレオンハルト=シバルリード・トゥールムの本性なのかと問われたら、しかし一番弟子のレースラインにもはっきりとは答えがたい。
 そもそも、自分の心すらよくは分からないのに、他人のことなど分かるはずもなかった。しかし、師が師であれば弟子もまた弟子である。その逆も然り。
 結局のところ、自分たちは似た者同士の師弟なのだろうと、レースラインはひとまず結論付けている。
 トゥールムは今一度丸めた海図へと視線をおくると、今度はそれをレースラインの目の前に差し出して微かに笑った。
「レン、お前はこれを夢だと言ったが、どうだろう少々目が悪くなったのではないか? これを夢と呼ぶ、その時期はとうに過ぎたのだ。これは最早目標に近い。ただ、夢を目標とするには己が進むべき道が必要だ。道は今、完全なる状態とは言いがたい。意志を抱く者を目指す地へと送り出すには、未だ不完全なのだ」
「は、申し訳ありません。失言でした」
 床に膝を突いたまま、そう言って頭を下げたレースラインを見て、トゥールムは小さく声を上げて笑った。
「また思ってもないことを!──つまり、だ……我々が果てを越えるのは、もうしばらく後になりそうだな、ということだよ。今は陸の方をなんとかしなければならない」
「は、魔獣の相手は我々世回りにお任せください」
「ああ、頼りにしている。……まあ、時折こうして、お前と海についての噂話をするのもいいだろう。その海図は原本の写しだ。せっかくだから今日の土産にするといい」
「有り難く頂戴致します、団長」
 レースラインは目の前に差し出されている海図を両手で受け取ると、立ち上がってはトゥールムへと騎士の一礼をした。
 それから彼女は執務室の扉へと向かい、しかしそこを出ていく直前にトゥールムに呼び止められる。
「ところで、レースライン」
 その声に彼女は振り返る。
「──お前は一体、何と戦うために騎士になった?」
 トゥールムの問いに、微かな沈黙が下りた。
 レースラインは睫毛を伏せるようにして微笑むと、耳に掛かった白の髪を片手で静かにかき上げ、それからトゥールムの獅子の瞳を見る。うるさいほどに静かな空気の中、彼女のその薄い唇が、しかし痛いほどにゆっくりと開かれた。
「先生ならば、とうにご存知かと思っておりました。いえ、それとも──私の意志が揺るぎないかどうか、それを試しておられるのですか? それでしたら、ご安心ください。今も昔も、私が戦うのはもちろん……」
 言いながら、レースラインは自らの白色を翻して、その細い指先を執務室の扉へと掛けた。それから顔だけでトゥールムを振り返っては、そうしてその勿忘草色の瞳を細めて柔らかく微笑み、彼女は音も立てずに部屋の外へと出ていく。
 窓掛けが引かれ、薄暗くなった部屋の中には、しかし去り際のレースラインが発した一つの言葉ばかりが、震えるほど静かに幾度も幾度も木霊していた。
「──黄昏と、ですよ」



20170722

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