瞼を押し上げると、目に映ったのは見知らぬ天井の梁だった。
 アインベルはその剥き出しの梁をぼんやりと見つめ、それからゆっくりと自身の視線を彷徨わせる。
「──あ、起きた!」
 ふと、驚いた声が耳に飛び込んできて、少年は勢いよく寝台から飛び起きた。
「えっ……? 此処は──僕は、一体……?」
 呟きながらアインベルは寝台の上から辺りを見渡した。
 それなりに広さのある部屋の中に、寝台が自分のものも含め、手前の壁際に五つ、背後の壁際にも五つずつ並んでいる。町の宿屋だろうか。に、しては自分が町を出る前に泊まっていた場所と様子が違うようだった。樹海≠ノ近い町の宿屋は、自分が知る限り一軒だったはず。
「や、少年。だいじょうぶ?」
 きょろきょろと辺りに視線をやっているアインベルに、柘榴色の髪をした一人の女性が、片手を上げてそう声をかけた。
 アインベルはその声にはっとして声のした方を振り返り、その柘榴色を自身の視界の中に認める。女はアインベルの顔を見ると、一瞬ほっとしたような表情をその日焼けした顔に浮かべて、それからにっと快活そうに笑った。
「此処、〈語る塔〉の五階よ。旅人向けの素泊まり所」
 アインベルが身を起こしている寝台の、その隣の寝台に腰掛けて彼女は軽く手のひらをひらひらさせた。
「きみ、樹海の前で過呼吸になってたの。覚えてない?」
「え……」
「一応、お医者さまにも見せたから大事ないと思うけどね。きみ、どっか身体の中でおかしいなってとこは?」
「えっと……いや……だいじょうぶ、だと思います……」
 アインベルは言いながら、視線を自分の身体に掛かった毛布の辺りへと彷徨わせた。
(そうか、樹海の前で……)
 その記憶はおぼろげだが、樹海の前で動けなくなっていたという自分の話を聞いて、緩やかな落胆と或る種の諦めのようなものが首をもたげた。アインベルは小さく息を吐く。
 ……結局、自分には過去と向き合う勇気もなければ、現実を見据える勇気もないのかもしれない。いいや、ないのだろう。自分の失せ物も探し出せないで、何が失せ物探しなのか。
 或いは、自分の失せ物を探すのが怖いから、人の失せ物を探しているのかもしれなかった。独りよがりの、罪滅ぼしとして。
 やはり、今日を境にもう二度とこの辺りには近付かないようにしようと、アインベルが心の中でそう決めかけたとき、しかし扉を開けて誰かが部屋の中へと入ってきた。
「あ、キト。この子、起きたよ。顔色もそんなに悪くないみたい」
「……お前が騒がしいから、とっくの昔に気付いてたよ」
「ちょっとちょっと、そんなに騒がしくしてないってば」
 部屋の中に入ってきたのは、柘榴色の髪の彼女と同じくらいの年に見える、孔雀緑の髪をした男だった。
 男は顔の右半分から鼻頭にかけて引きずったような傷痕があり、部屋に入ってきた彼の顔を見たアインベルは、他の者がはじめ皆そうするように、多少ぎょっとした。それから少し、以前出会った騎士レースラインの身体の傷痕を思い出して、喉の辺りが息苦しくなる。
 アインベルは、それを振り払うようにして今度は柘榴色の方を見た。そういえば柘榴色の方も、孔雀緑の方も、髪が毛先の方へと向かうにつれて青っぽい紫色に変色している。
 血の繋がりのある兄妹か、或いは同郷か。兄妹にしては顔つきが似ていないような気もする。柘榴色の方の暖かな瞳に対して、孔雀緑の方はどこか影を感じさせる瞳をしていた。そういえば、二人は目の色も全く違う。柘榴色はあかがね色の瞳に、孔雀緑の方はこがね色の瞳をしていた。
 一見して二人が似ているところと言えば、毛先に向かうにつれて紫色に変色していく髪の毛、そして、その身に纏う髪や瞳の色の鮮やかさだった。
 けれどもその鮮やかさは、自分の姉がもつまばゆいばかりの鮮やかさと言うよりは、鮮やかだった色が、一度退色して褪せてしまったときのそれに似ているように思える。それは黄昏の色だと、アインベルは思った。
「……ん、飲めるか」
 ぼんやりと二人のことを見つめていたアインベルの鼻先に、陶器の杯が突き出される。
 いきなり目の前に飛び出してきたそれにアインベルはちょっとびっくりしながら、しかしそこから立ち上る甘く柔らかい香りにつられて、その陶器杯の取っ手を孔雀緑から受け取っていた。
「あ、ありがと……」
「ホットミルク。向こうで作ってたのを貰ってきた。蜂蜜入れたけど、だいじょうぶか」
「うん、蜂蜜は好きです。あの、いただきます」
「ああ」
 杯に顔を近付けると、優しい香りが鼻を抜けていった。白い縁に口を付けて、こくりと一口だけ飲み込む。
 喉を通り過ぎていくそれは熱を帯びていたが、それでもひどく熱いということはなく、ちょうどいいくらいの温度だった。蜂蜜の少し癖のある甘さが舌の上に留まり、それを暖められた牛乳が優しく包んでは喉の奥へと流れていく。ふわりと浮かんでいく湯気が、アインベルの睫毛を微かに湿らせた。
 温かなホットミルクを口にして、ぐるぐると混乱していた心が少しばかり落ち着いたような気がする。アインベルは、改めて目の前の二人組を見た。
「あの、助けてもらって、ありがとうございました」
 アインベルがそう言うと、柘榴色は顔の前で軽く両の手のひらを振る。
「え? ああ、いいよいいよ。そんな気にしなくて。それより身体はもうだいじょうぶなのね?」
「はい。どこも悪くないです」
「……ならいいが、なんでお前はあんな処で一人でいたんだ?」
 孔雀緑が訊きながら、柘榴色の隣に腰を下ろした。アインベルに渡したとき、逆の手に持っていたもう一つの陶器杯を隣の柘榴色に手渡して、彼は軽く息を吐く。
「俺はキト。こっちはメラグラーナだ。話したくないなら、べつに話さなくてもいい」
「ちなみに、あたしのことはメグでいいよ。きみは?」
「あ──アインベル……」
 アインベルは膝に掛かっていた毛布を押しやると、身体をキトとメグの方の座っている寝台の方へと向ける。それからホットミルクの入った杯を両手で包み、膝の上に乗せてその水面の揺らめきに視線を落とした。
「──樹海の向こうに、故郷が在るんです」
 そう告げると、メグは声に出してえっと驚き、キトの方は声こそ発しなかったものの瞳が微かに動き、少しは驚いた様子だった。メグはアインベルの方へと身を乗り出す。
 少年の抱えているものは、見ず知らずの相手への方が打ち明け易いものだったかもしれない。
「えっと、じゃあアインベルくん、きみは海の中で塩を掘る……」
「はい。白の民≠ナす──元、ですけど」
「元?」
「うん。僕は故郷を捨てて、逃げてきたから」
 アインベルのその言葉を聞いて、キトとメグが顔を見合わせた。
 その間、微かな沈黙が下り、少年は何かまずいことを言っただろうかと二人の顔色を覗き見ながら、しかし視線を落として両手の中に在る白い揺らめきを見つめていた。
「──じゃ、おそろい」
「えっ?」
 唐突に沈黙はメグの明るい声で破られ、アインベルは彼女の発した言葉の真意が読み取れず、暗がりに在ったその顔を思わず上げた。
「おんなじよ、アインベルくん」
「……ああ。俺たちも自分の故郷を捨てて、これまで生き延びてきたよ」
 明るく言うメグに反し、そう静かに言ったキトの色褪せた黄金の瞳を見やって、アインベルは微かに震える声で言葉を発する。
「……そうして今日まで、生きてきた……?」
「そうだな。のうのうと」
「それなりに楽しくね」
「そっか……」
 二人の言葉を聞くとアインベルはそう呟き、少しばかりぬるくなってしまったホットミルクを口に運んだ。それからもう一度、そっか、と呟き、二人の方を見やってどこか力なく笑う。
 少年のそんな表情を見たキトは、少しだけ考え込むような仕草を見せてから、しかしすぐに目線を上げてアインベルの方を見た。
「……故郷を離れたら、お前はもう白の民じゃなくなるのか?」
「えっ? でも、僕は故郷を捨てて……みんなを置き去りにして逃げてきたんだよ」
「すべてをそこに置き去りにしてしまったら、お前は白の民じゃなくなるのか?」
「でも、だって……そうだろ」
「……そうか」
 そう呟いたキトはほんの少しばかり寂しげな瞳をしていた。
 そんなキトの隣で、メグが盛大な溜め息を吐く。彼女は手にしたホットミルクを一口飲んで、彼の背をぱしぱしと軽く叩いた。
「……ちゃんと言わないとね、伝わんないわよ、キト」
 その言葉に、キトが緩く隣を振り返った。
 彼はそのこがね色の瞳に、やれやれと呆れたような笑みを浮かべているメグのあかがね色を映すと、それから少しばかり困ったように自身の首の後ろを軽く掻く。
 先ほどまで二人の関係性はまるで兄妹のようだったのに、アインベルには、急に二人が今度は姉弟のように見えてきた。
「……アインベル」
「え? あ、うん……?」
 キトの静かな声に、アインベルは彼の方を見た。
「お前は──」
 床下で人が動き回る喧騒、近くの扉の開閉音、塔の階段を行き交う人々の声、天井からは歩く人の足音がアインベルの耳には届く。
 キトの声は決して大きくはない。むしろ、普通の男性と比べるといくらか小さめと言えるものだった。けれども彼の声にはどこかほの寂しさがあり、どんな騒音の中に在っても耳を傾けずにはいられない。
 アインベルは、これから彼が発する言葉の先をなんとなく予想し、ほんの少しばかり身構えた。
「お前は、それで納得してるのか」
「え……」
「俺には──そうは見えない。……俺の目が、おかしいのかもしれないけど」
「キトさん……そんなこと……」
 キトはちら、とアインベルの瞳を見た後、自身の右腕にはめた真鍮の腕輪へと視線を向ける。
「俺は──自分の生まれ育った村を捨ててから、もう長いこと、あそこへは戻ってない」
「正しくは俺たち、ね」
「メグ……ああ、そうだな。なあ、アインベル。俺たちの故郷はもう、俺たちの故郷じゃないのか? 俺たちはもう、あの村の人間じゃないのか? 捨ててしまったから、もうだめなのか?」
 静かで、しかし微かな不安の混じった声。
 おそらくそれは、キトの純粋な問いかけだった。たぶん、誰へ向けたものでもない問いかけだった。
 けれどその問いに何故だかじりじりと胸が痛んで、アインベルはキトの金色の瞳から視線を逸らす。しかし逸らした瞳の中に映ったのは、キトの頬に残された痛ましい傷痕ばかりだった。
「……捨てたものは、もう拾うことができないのか?」
 キトが、そう小さく口を開く。
 その言葉に、がたりと音が立った。
「──そんなことない!」
 思わず寝台から立ち上がってアインベルは声を上げた。
 片手に持った陶器杯の水面が、その白い縁のぎりぎりで揺らめき、少年の腰で鈴の杖がしゃん、と音を鳴らす。アインベルのそんな様子に、キトもメグも少しばかり驚いたようだった。
「……アインベル」
「そんなこと……ないはずなんだ……」
「ごめん、おかしなことを訊いた。けど、アインベル、俺は思うんだが……」
 キトはちらりとメグの方を見やってから、再びアインベルの方を見た。
「俺も……メグも、故郷を捨ててから、自分の家にも──家が在った場所にも、戻ったことはない。だけど、それでも自分があの村で生まれたってことは変わらないし、今でも自分はあの村の人間だと思ってる。……捨てたくて、捨てたわけじゃなかった」
「……うん、僕もだ。捨てたくなんて、なかった」
「……そうか」
 キトは苦しげに眉根を寄せた少年の顔を見て、しかしほんの少しばかり微笑んだ。
「なら──だから、お前のふるさとは、お前のふるさとのままだよ、アインベル。お前がそうでいたいって思うなら、お前はずっと、白の民だ。何処にいたって、何をしてたって、きっとそうなんだよ」
 それは変わらず静かな声だったが、他の誰にも聴き取れないとしても、アインベルにはキトのその声の中に、ひどく優しげな響きが滲んでいるのを聴き取ることができた。それはもちろん、彼の隣に座っているメグにもだった。
 メグは顔をキトの方へ向けると、ちょっとからかうような笑みを浮かべて彼の肩を叩く。
「何よ、キトのくせに、ちょっと優しいこと言うじゃないの」
「あのな、どういう意味だよ……。べつに、ちょっと、弟のことを想い出しただけだ。大きくなってたら、たぶんアインベルと同じくらいだから──だから、それだけだよ」
「ああ素直じゃないなあ。かわいくないわよ、キト」
「うるさいな、かわいくなんてなくていい」
「あっ、かわいくない!」
「はいはい……」
 突っかかってくるメグを手のひらで軽くあしらいながら、キトは忘れてくれと言わんばかりに肩をすくめてアインベルの方を見上げた。
 そんなキトの様子にアインベルはちょっと笑いを零しながら、固かった表情を少しだけ緩めて、もう一度寝台の上に腰を下ろす。
「キトさん、弟がいるの?」
「ああ、故郷を離れるときに亡くしたけど」
 言葉に何も滲ませないようにするかのよう、キトは平たくそう言って、それからどこか呆れたような目で隣のメグをちらりと見やった。
「……誰から影響を受けたんだか、手の付けられない悪戯好きでな──よくどっか行っちまうし、木には登るわ、畑の野菜は盗むわで……あの頃はほんと、参るくらいに手を焼いた」
「ちょっと、なんでこっち見ながら言うのよ」
「はは、僕もおんなじだ」
「お前も?」
「……ねえキト、聞いてる?」
「まあ今じゃ……いなくなったらいなくなったで、寂しいような気もするけどな。それはそれでさ」
 眉間に皺を寄せてはすごい形相で睨んでくるメグの言葉を、キトはもう慣れたというように、少しばかり笑いを口元で堪えながら聞こえないふりを決め込んでいた。
 なんとなく事情を察したアインベルもなんとか笑いを洩らさないように、気を抜けば緩くなりそうな口元を引き結ぶ。けれども、彼の目はもう笑っていた。
「あっ、アインベルくんまで……ああはいはい、分かりましたよ、わたくしが悪うございました、ええそうですとも……」
 肩をすくめてかぶりを振り、渋々といった様子でメグは言った。それから自身もちょっとだけ笑いそうになりながら目を細め、アインベルの方を見る。
「それで、アインベルくんにも弟がいるんだって?」
「あ、僕の方は妹です。それがもう、小さいのにひどいお転婆で。今じゃ生きてるかも、分からないんだけど……」
「え、どういうこと?」
「塩掘りの最中に、僕ら家族は渦潮≠ノ遭って──それで、それが……僕が故郷を捨てることになった理由で……」
 渦潮≠ニいう言葉を聞いて、キトとメグの顔つきが変わった。
 二人は一瞬だけ視線を交わし合うと、少しばかり難しい表情でアインベルの方を見る。
「渦潮……人類が海を越えられない、いちばん大きな原因だと云われているな……」
「空を飛ぶ飛空艇、塩を漕ぐ砂航船、地を歩く人間──そのどれもにとっての、目の上のたんこぶってやつね。たんこぶなんてかわいらしいものじゃあないけど。あたしら冒険家も、海へ繰り出してまで地図を引く人間は少ないわよ。ほら……渦潮って、危険で謎だらけだし」
「國のギルドの方でも渦潮についてはいろいろと調べてはいるんだが……それでも分かっていることは少ない。渦潮は古くから海で観測されている現象だが、未だに謎が多いんだ。ただ……いずれにしても、この謎を解明してあれをなんとかしない限り、俺たち人類が海を越えることは不可能に近いだろうな」
 キトが右手の腕輪をちらと見やり、それからアインベルの目を見た。そうして彼は浅くかぶりを振ると、小さな溜め息を一つ吐く。
「こんなことをお前に訊くのは申し訳ないんだが──」
「分かります。その腕輪……キトさん、國のギルドのガーディアン──お役人さん、なんでしょう。僕の話が何かの役に立つなら、なんでも訊いてください。僕なら平気ですから」
「……悪い。じゃあ率直に訊くが、アインベル、お前は渦潮の姿を見たか?」
 アインベルは想い起こすかのように視線を上の方へと持ち上げた。
 反射的にそうしてしまっただけで、実際のところ、少年にはそうする必要もなかった。キトに訊かれる前から、あの日の渦潮の姿がアインベルの中にはちらついていたのだ。
「……渦潮が起こりはじめたときの姿なら。白の民には、渦潮に遭ったら振り返らずに走れっていう教えが在ったから、それが渦潮だって分かった後はもう、ただ一心不乱に逃げたよ。僕は……一度も振り返らなかった」
「振り返るな、か……。それは白の民の、古い教えなのか?」
「うん、そう聞いてるよ。歌も在るくらいなんだ」
 そう言うと、アインベルは頭の中で記憶の頁を遡っていった。
 それから、静かな声で一語一語確認するかのように、伝え歌の詩を己の外へと出していく。

  魂(たま)在る者よ その逆鱗に踏み込むなかれ
  竜(たつ)の眠りを醒ませしは 意志在る者の魂ばかり
  白(はく)の大地は 竜の眠る地
  我らその眠り 揺り起こすを赦されじ
  魂在る者よ その逆鱗に踏み込むなかれ
  我らその眠り 揺り起こすを赦されじ
  竜の瞳が開くならば 白の大地は竜の身に
  巻き起こりては 魂喰らう
  竜の姿を見ることなかれ 相見えることなかれ
  我ら民 白く白く 魂白く
  竜 喰らえんほどに白く在り
  竜の目 届かんほどに遠く駆け
  白く白く 白く在れ
  魂在る者よ その逆鱗に踏み込むなかれ
  竜の眠りを醒ませしは 意志在る者の魂ばかり
  白の大地は 竜の眠る地
  我らその眠り 揺り起こすを赦されじ……

「……竜」
 アインベルが諳んじた、白の民に伝わる歌を一通り聴いたキトが、詩の中に度々出てくる竜≠ニいう言葉に目を付けた。
「そういえば、渦潮に遭った人たちの中で、一瞬でも渦潮を見た人間は皆、口を揃えて言うらしいな……」
「──竜のようだった=Aだろ」
 アインベルがキトの言葉を引き継ぐ。キトが思案顔をして、片手の親指を自身の唇の辺りに押し付けていた。
「お前もそう思ったか?」
「いや……よく分からない。あれが渦潮だと分かった瞬間に僕は逃げ出したから。けど……ただ潮風が吹き荒れて海が荒れる時化とは、ぜんぜん違うものだと思った」
 アインベルは、少しばかり苦しげに言葉を繋いだ。
「……押し返す風の中に、引き寄せる風のようなものを感じたんだ。それは時間が経つにつれてどんどん引く力が強くなっていってた。立ち止って振り返れば、引き寄せられて潰されて、喰われるんだと思った。だから、振り返らずに走った。……渦潮の中には、引き波がある……それは、確かだと思う」
「……ありがとう。辛いことを話させた」
「いや……こんなのでいいなら、いくらでも」
 小さく笑って、アインベルはすっかり冷たくなってしまったホットミルクを一気に飲み干した。
 それから空になった陶器の杯を、寝台の近くに在る袖机に置いて、ふと思い当たったようにアインベルは小首を傾げた。
「そういえば……なんで竜なんだろうね? 竜って、遠い昔に絶滅したから、誰も見たことなんてないはずなのに」
 確かにアインベルの言う通りであった。
 竜≠ニいう、かつて自然界の頂点に立っていたという強大な種は、前時代かわたれの時代≠謔閧燉yか昔に、地上に降り注いだ星の雨によって滅びたと云われている。
 陸や海で稀に見かける、あまりに大きな骨々は、かつての竜の亡骸だと云われ、その骨の前で人々は、果てても尚威光を放つ竜という存在に畏怖の念を抱かずにはいられない。
 その竜を小型化したような姿をした、蜥蜴から成る魔獣ならば未だこの國に存在はするが、しかしそれは竜と呼ばれても、かの古き竜≠ナはない。
 ……そう、確かに、人々は、肉付いた真の竜を見たことがなかった。
 キトの隣でメグが、ううんと唸ったのちに顔を上げた。
「ほら、でも、有名どころのさ、大昔の文献にはけっこう載ってるじゃない? 前時代に書かれた本の挿絵とかに、竜の絵がわりかし……」
「まあ、それも想像図だけどな」
「それでも! そうでなくてもタペストリーの図柄とかによく竜は使われるし、他にもいろいろ……案外、いろんな処で竜は見かけるわよ。……それに、あたしたちの故郷を襲った魔獣の中にも、小さい竜みたいなのがいたでしょ」
「だから、渦潮を表現するのにも勝手が良かったってことか?」
「たぶん。だって、竜ってなんかちょっと……言葉だけでもおっかなく感じるし、竜巻って言葉も在るくらいだもの。口を突いて竜って出ちゃうのも分かる気がする。ただ……竜巻は薙ぎ払う感じって聞くよね。アインベルくんの話だと、渦潮はどっちかって言うと吸い込む感じなんでしょ?」
 アインベルが頷くと、メグの隣でキトがまた小難しい顔つきになった。
「なあ、メグ。竜巻っていうのは、神出鬼没だよな。いつ、何処で起こるか分からない」
「え? うん、そうだと思うよ。渦潮も同じじゃないの?」
「数十年前からここ最近までの資料をギルド連中が参照していたときに、みんながみんな、ちょっと引っかかったことがあったんだ。俺も引っかかった」
「ええ? 何?」
「渦潮は……」
 キトがメグの目を見、それからアインベルの目を見た。
 床下で人が動き回る喧騒、近くの扉の開閉音、塔の階段を行き交う人々の声、天井からは歩く人の足音は、もう少年の耳には届かない。
 扉の近くの燭台に、見回りの人間が火を灯したことすら、もう誰も気が付かなかった。
「──渦潮は、生きているかもしれない」
 そう言うこがね色が、鈍く光っていた。



20170720

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