宵紅のことを教えて欲しい。
そうあたしが言うと、宵里は目を輝かせた。

「兄さまのこと!?何でも!」

とりあえず二人して席について、侍女の子にお茶を注いでもらう。

「麗月姉さまから良い香りがするわ!もしかして薔薇の香油?」

「あ、ええ…お風呂上がりに塗ってもらったわ」

「あれは私もよく使うの!他にもね、いろんな香りがあるのよっ。茉莉花でしょ、蓮でしょ、あとは牡丹に鈴蘭…。持ってくるから麗月姉さまも使ってみて」

「ええ、ありがとう」

お茶を注いだあと、侍女の子がぺこりと一礼して下がるのを見届けてからあたしは再度切り出した。

「ずっと気になっていたのよ…あなた達兄妹の…いえ、司家の中で、宵紅だけが随分雰囲気が違うんだなって。それは一体どうしてなんだろうって…」

それまで笑顔だった宵里の顔が曇った。

「それは...…フェイ兄さま、左目に眼帯をしていらっしゃるでしょう?」

「え、ええ…」

「あれはね…昔、事故で怪我をして。それが原因で失明してしまったの」

「事故って、どんな…?」

あたしがそう聞くと、宵里はその時のことを思い出しているのかーー軽く目を閉じる。

「あれからもう十年は経つかしら。麗月姉さま、昔はフェイ兄さまってね、今よりもずっと明るかったのよ。それからすごく頑張り屋さん。私はちっともだけど、いつも武術に勉学にと励んでいらして。4つ上のジン兄さまが優秀なものだから、負けないようにって必死だったみたい。あの日も、剣術の鍛錬に出かけていた…」

宵里の話はこう続く。
初夏の陽射しが眩しく地面を照らす。とても暑い日だった。
宵紅に剣術を教えていた武官は、その日もいつものように宵紅と対峙して稽古をつけていた。
二人は途中途中で流れる汗を拭う。
稽古が終盤へと差し掛かった頃、ふいに宵紅がふらついた。強い陽射しにやられていたのかもしれない。

「兄さまが転びかけたその時、剣術の先生が振り上げた剣が、フェイ兄さまの左目を…」

うずくまった宵紅の足元には大量の血が流れていたそうだ。聞いているだけでも痛々しい。

「物凄い騒ぎになったのを覚えているわ。それで兄さまは怪我の手当ての為に療養していたんだけど…」

そこから先をなかなか宵里は言おうとしなかった。
一度深く呼吸をしてから、やっと続きを始めた。

「後日、私は一人で兄さまのお見舞いに行ったの。その時は兄さま、丁度お顔に巻いた包帯を取り替えるところだったのね。お怪我の具合が気になって私は兄さまのお顔を覗き込んだの。そしたら、突然兄さまの顔色が変わって。見るな、って怒鳴られたわ。そして私、突き飛ばされたの」

「え…」

「…きっと兄さまは、私にお顔の傷を見られるのが嫌だったんだと思うの。だから思わず、突き飛ばした。その勢いで私は座っていた椅子ごと後ろに倒れてしまって…、驚いて私は泣いちゃった…。そしたら騒ぎを聞いて皆が集まってきた。私は泣いて上手く事情を説明出来なくって…兄さまが悪者みたくなって。」

その後、宵紅は剣術の鍛錬に顔を出さなくなった。
それどころか、自室から出るのすら嫌がるようになったのだと言う。

「一生懸命だった剣術…槍術や馬術もだけど…怪我のせいでますますジン兄さまに差をつけられるからって、全てどうでもよくなっちゃったみたい。ずっとお部屋に閉じこもるようになって、誰のことも避けるようになった。…私のことも…」

いつの間にか宵里が涙ぐんでいた。

「何度も謝りに行こうとした。だけど兄さま、お部屋の扉すら開けてくださらなくて…。そのまま。…私とのことがきっかけで、…家族にすら手を上げる暴力者!だなんて、デタラメな噂まで流れて、…全部私のせいなの…」

時折嗚咽を漏らしながら宵里は告白してくれた。
あたしは宵里の肩を撫でる。

「そうだったんだ。あたしも皆も、あの人のことをひどく誤解していたのね」

「…でも、兄さまはけして私を責めるようなことなさらなかった。兄さまに怪我を負わせてしまった先生のこともね。…その先生、責任を感じて今は故郷に帰ってしまったんだけど…」

「そう」

「…私はちゃんと兄さまに謝りたいし、兄さまに対する皆の誤解も解きたい。何より昔の兄さまに戻って欲しい…」

だからね、と宵里は続けた。

「これは本当に、私の勝手なお願い。それは承知しているわ。だけど今は麗月姉さまにお願いするしかないの。どうかフェイ兄さまのこと誤解しないでほしい。そして…フェイ兄さまの心を溶かしてあげてほしいの」

「あたしが…」

…妻になるとはいえ、あたしにそんな事が出来るのだろうか。いつにもなく不安になってきた。

でもきっと宵紅は今も苦しんでいるのだ。
ずっと一人で。
周りの人間が自分を否定する辛さ。それはあたしにも痛いほど分かる。
リッザオに居た頃、あたしはずっとここから消えてしまいたいと思っていた。
宵紅も同じなのだろうか…。

「……あたしに何が出来るのか、何をすればいいのか分からないけど、考えても仕方ないよね。やってみるわ、宵里。まずはあの人と会話することから」

「麗月姉さま!」

宵里があたしに抱き着いてきた。

「麗月姉さま、ごめんなさい…。本当は私が一番しなくちゃいけない事なのに。どうか、どうか、フェイ兄さまのこと、お願いします」

あたしはぽんぽんと宵里の背中を軽く撫でた。
なんだか小さい子をあやしてるみたいだ。

「宵里が責任をそんなに感じなくったっていいのよ。あとはあたしに任せて。せっかく夫婦になるんだし、好きになってもらえるよう頑張ってみる」

「ぐすっ。ありがとう…麗月姉さま…」

宵紅と初めて顔合わせをした時の、彼があたしを見た時のあの睨み方を思い出す。好きになってもらうだなんて随分ハードルは高そうだけど…。こんな風にお願いされたら断る訳にはいかないわよね。

何より…
これは、もしかしたらあたしのすごく勝手な、独りよがりな考え方かもしれないけど。
育った境遇は違えど、あたしなら.....宵紅の気持ちに寄り添えるのかも、と。そう感じてしまったのだ。

「…宵里、もう泣かないで。お茶が冷めちゃうからいただきましょう?」

「うん、そうね。私ね、お菓子を持ってきたのよ。麗月姉さま、甘いものは好き?」

甘いものだなんて、リッザオじゃ贅沢品だった。
あたしも李花も、おやつには木の実を食べてたくらいだったし…。

「これは月餅。中には餡が入ってるのよ」

花の模様が描かれた生地の中には、たっぷりと餡が入ってる。

「美味しい!ねえ宵里。これ、宵紅にも持って行って一緒に…」

「だめよ姉さま!それだけはだめ!フェイ兄さまは甘いものが大の苦手なの!お菓子なんて、見ただけで不機嫌になってしまわれるわ」

宵里のあまりにも必死な口振りからすると本当に嫌いなのだろう。

「そ、そっか。じゃあ宵紅は何が好きなの?」

「辛いものと…それからお酒かしら?いくら飲んでも酔わないのよ、兄さま」

あたしもお酒は結構好きだ。
一緒に嗜む…なんてこともいつかは出来たりするだろうか?

「ねえ、フェイ兄さまのこともいいけれど、麗月姉さまのことも教えて?」

「あたしの?」

「例えばそのお耳とかあ、尻尾。どんな触り心地なのかしら!」

「きゃっ!ちょっと待って宵里、触られるのはくすぐったいのよ!」

「やーん、ふわふわだわあ!気持ちいい!」

さっきまでのしおらしい宵里はどこへやら。
すっかり元気を取り戻したようだ。それはそれで安心したけれど、あたしは逃げに徹する。

「姉さま、お待ちになって〜!」

「もー、宵里やめて!…ていうか宵里、あたしのこの耳と尻尾、気味悪いと思わないの?」

「え?どうしてよう、とってもかわいいわ」

「あたしの故郷じゃ、魔物と人間の子なんて随分気味悪がられたものよ」

「あら。別にそんなの珍しい話でもないのに?」

そうか…。やっぱりリッザオって他国に比べて閉鎖的というか、考え方が遅れているのね。

「実はあたし割と心配していたのよね。皇帝一族に他国の...いえ、魔物の血が入るなんて、疎ましがられないかしら…って」

「お父さまもお母さまも、私たちも、全くそんなこと気にしないわ?姉さま。勿論フェイ兄さまもね」

「そうだったらいいんだけど」

「大丈夫よう!あ、長居してごめんなさい…明日のために早めにお休みになりたかったわよね」

「いいえ、宵里が来てくれてすごく嬉しかったわ、宵紅のことも聞けたし。ありがとね」

「姉さまが困った時はいつでも言ってね。私に出来ることがあればなんだってするから」

「ありがとう」

宵里が、迎えに来たルアンに連れられて部屋に帰っていくのを見届けてから、あたしは寝台に腰掛けて息をついた。
窓の外を見れば、雲の隙間から月が見えた。
その柔らかな光は優しく夜の世界を照らしている。

大丈夫、きっと上手くいくわ。
明日からのことを思い、あたしは胸の中でそんな風に何度も繰り返した。
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