小説 | ナノ
鏡の向こう

 マーサハウスの二階、廊下の一番奥にその部屋はある。
 物置部屋。
 採光源は小さな窓が一つだけ。サテライトの空は一年のほとんどがスモッグで曇われているため室内は常に薄暗く、いかにもな雰囲気を醸し出していた。人為的な明かりは設置されておらず、しっかり何かを探すのであれば手持ちのランプが必要なほどだ。
 子供たちの誰もが気味悪がって近寄りたがらないのは当然といえた。来るとするなら度胸だめしくらいか。しかしここ最近、一人だけその部屋に入り浸る子供がいた。

「ふっふっふー!」

 ギィイ…と扉が開く音すらおどろおどろしい。だがそんなことは意にも介さず、ひょっこりとイタズラっぽい顔で中を覗き見る強者は乙撫である。嬉しそうにきらきら輝くまん丸な双眸が、雑然とした室内を見渡す。
 ところ狭しとひしめきあうのは、古びたタンスやランプ、使い物にならなそうなテレビと雑貨類、積み重ねられた書籍、用途がわからない謎の物体エトセトラ。窓からわずかに差し込む薄い光が舞う埃を写し出して異様な雰囲気に拍車をかけていたが、乙撫はさして物怖じする様子もなく気軽に足を踏み入れる。
 古かびた匂いが充満する空間は、外とはどこか時間の流れが違っている。役目を終えたものたちが静かな眠りにつく場所。かつての記憶がひそやかに息づくようなその空気が、乙撫はたまらなく好きだった。
 まるで思い出を問いかけるように、仕舞い込まれた記憶を紐解くように、乙撫は物に触れる。どんな風に使われていたのだろうと過去に思いを馳せるのは存外に面白い。
 想像をかきたてられる一時に少女は夢中になる。
 隔離された土地と幼さ故に常識という枠に囚われない想像力は、どこまでも豊かだ。
 一人遊びに没頭していた乙撫はその日、物置の奥に追いやるようにされていたそれに気付いた。
 乙撫の身長より幾分も高い長方形の物体は、薄汚れた布を被され、壁に立て掛けられていた。

「なんだろ、これ」

 好奇心のまま乙撫は布をずるずると引っ張り、左端に寄せる。
 流れるぬばたまの黒髪、黒燿の瞳、白皙の肌、今様色の見慣れぬ衣服。
 目の前に表れたのは、見知らぬ――美しい女人だった。

 それは決して絵画ではなかった。女性が乙撫へにこりと笑いかける。乙撫は思わず手を伸ばすが、境界に阻まれてしまった。

「あなたは、だれ?」

 少女の口から零れた問いに女性は答えない。ただ、静かに、柔らかに笑うだけ。
 あり得ない状況。しかし乙撫は恐怖を感じていなかった。それが異様なことだと乙撫は気付かない。無心で女性を見上げるだけだ。
 ぺたりと見えない壁に当てられている小さな乙撫の手に、女性もまた手を伸ばした。




 乙撫の姿が見当たらないことに気付いたのはジャックだった。
 常ならば真っ先に気付くはずのクロウは、今はデュエルに白熱していてそれどころではないらしい。
 まあどうせあの物置部屋にいるのだろう。そう見当をつけたジャックは、なんとはなしに様子を見に行ってみることにした。

 「乙撫、ここにいるのか?」

 ノブをひねり物置部屋の扉を押し開けば、むわっとほこりっぽい匂いが鼻をついた。思わず顔をしかめながら、ジャックは足を踏み入れる。
 他の子供たち同様、ジャックもあまりこの部屋が好きではなかった。乙撫は何故こんな薄気味悪いところを気に入っているのだろう。考えたところであの少女の心中を推し量ることなど、出来るはずもないのだが。
 返事がないことに溜め息をつく。大方、また自分の世界に入り込んでいるのだろう。機械いじりの時もそうだが、そういう時の乙撫は周囲からの刺激にもっぱら疎くなっている。乙撫の悪い癖だ。
 雑然としたこの部屋でその小さな身体を見つけるのは地味に困難なのだが、予想に反して今日はすぐに見付けることが出来た。
 部屋の、一番奥。
 左端に布を引っ掻けた姿見の鏡。その前に乙撫はいた。

「……ッ!?」

 ジャックは硬直した。
 鏡面に本来映るべきは、当たり前だが物置部屋を背景にした乙撫の姿である。しかし映し出されていたのは、暗い場所にいる見知らぬ女性だった。

 綺麗な女性だった。しかし、口端に見えるあの赤はなんだ。

 首に、肩に、手首に、股に、足首に滲むあの赤は。

 そして鏡面に当てられた乙撫の手に、その女性もまた手を伸ばしていた。

 ありえない事態に頭が混乱する。あとほんのわずかで、二人の手が触れる。触れてしまう。阻止しなければ駄目だと思うのに、乙撫を引き離さなければと思うのに、身体は金縛りにあってしまったかのように言うことをきかない。

 ぐにゃり。

 不意に、女性の背後で闇が蠢いた。

 次の瞬間、ジャックの肌が一気に粟立った。何故なら、世にも恐ろしい光景を目にしてしまったからだ。

 それは、手だった。

 それもひとつではない。無数の手が、女性の背後の闇から現れた。
 それらが一斉に女性に襲いかかる。
 髪を、
 腕を、
 肩を、
 首を掴まれ、あっという間に女性は闇の中へと引きずり込まれてしまった。

「――っ!!」

 ジャックが息を呑む。
 どうして、どうして。
 どうしてどうシてどうしてどうしテどうしてドウシテどうしてどうしてドウしてどうしてどウシて

 込み上げるのは恐怖と、それを塗り潰すほどの憤り。
 そして――途方もない哀しみだった。

「――ぁ、あぁあああぁあ!!」

 ジャックはすぐそばに立て掛けてあった杖を掴み、鏡へと駆け寄った。叫び声に驚いてこちらを見ている乙撫を押し退け、得物を振りかぶる。
 そのままためらいもなく叩きつければ、ガシャン、と音を立て、鏡面にヒビが走った。
 それだけではおさまらず、狂ったように何度も何度も杖で殴り続ける。

「ジャック!?どしたの!?」
「うわぁああぁあ!!ぁあ、ッああぁああ!!」
「ジャック!!」

 錯乱するジャックをなんとか止めようと、乙撫が抱きつく。それが功を奏し、ジャックの動きがようやく止まった。

「ジャック、なかないで」

 言われて初めて、ジャックは自分が泣いてることに気付いた。そして涙は未だ溢れ、頬を伝って古びた床にいくつも染みを作っていく。

 直後、物音を聞き駆けつけたマーサや遊星、クロウ、他の子供たちは、尋常ではない中の様子に驚き、二人の話により物置部屋は前にも増して子供たちに恐れられることになる。



「……そんなこともあったな」

 マーサハウス。
 マーサから聞かされた思い出話に、ジャックが苦々しく呟く。ジャックとしてはあまり蒸し返されたくない話らしい。

「あの時のジャックはちょっと異常だったよなー。しばらくは乙撫が鏡に映るのめちゃくちゃ嫌がってよ」
「ああ。癇癪を起こして何枚か割っていたな」
「オレ、あれ結構怖かったんだぜ……」
「オレもだ」
「あたしもあれ以来、物置部屋が怖くってねぇ。未だに一人じゃ入れないよ」
「フン」

 遊星とクロウとマーサの会話に鼻を鳴らす。
 実のところ、あの時のことはよく覚えていない。あの場所で見たものは一体何だったのだろう。何故、自分はあんなにも錯乱したのだろう。

「……昔の話だ」

 そう言い捨てると、ジャックは窓の外へと目を向ける。

 そこには子供たちと元気に遊ぶ乙撫の姿があった。

20120814
修正:20150131
そこには、元気に走り回る乙撫の姿が…!
ちょっとホラーっぽいの書いてみたかってん…

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