─────痛い。
と、ただ漠然と、まるで他人事のように呟いた。
「シリウス、いくら何でもやり過ぎだ」
シリウス先輩周りにいた人達が、私に駆け寄って何かを言っている。見知らぬ男の人達の声は、私の頭の上をゆっくりと通り過ぎる。何事かと一瞬だけ足を止めたカラフルなネクタイ達が、また再び動き出した。
───痛い。ホグワーツの壁は、私の頭では到底太刀打ち出来ないほど堅く、冷たいものだった。
(あ…)
声は、出ない。ズキズキと鈍い痛みを発する自分の頭を強く握る。私はただ、いつも通りシリウス先輩に抱きついただけ。いつもだったらシリウス先輩が嫌そうにため息をついて、私を勢いよく引き剥がして、鋭い目付きで私を一睨みして、いつもだったら、それで終わりだったはずだ。
シリウス先輩にまとわりついているギスギスとしたオーラは、周りにいる人達が彼に何かを言えば言うほど、鋭さを増していた。
(…何かあったんだ)
ならば、好きなのにその事に気付けなかった自分が悪い。生理的に溢れる涙でぼんやりとする視界でシリウス先輩を見れば、いつも以上に皺のよった眉間が見えた。
「シリウス!彼女に謝るんだ」
「…煩いぞ、リーマス」
「煩いじゃないだろう。何度も言うけど、他人に自分のイライラをぶつけるのは君の悪いクセだ」
「ぶつけてなんていないじゃないか!俺はただ、こいつが余りにもしつこかったんで“少し”腕を振っただけだ。そしたらこいつが勝手に壁に向かっていったんだよ」
「シリウス!」
完全に見えなくなった視界を腕で拭う。隣で交わされる声を、どこか遠くで聞きながらふと前を見れば、シリウス先輩の後ろには先ほどまで会話を交わしていた青年が立っていた。シリウス先輩には近づかないように、小さく口を動かす。それは、私を心配する言葉だった。ええ、大丈夫です、と首を振る。それを確認すると、レギュラスさんはどこか悲しそうに笑って、踵を返した。
「だから!いい加減迷惑なんだよ!こいつの何もかもが!!」
シリウス先輩から紡がれる悪口雑言の数々は、私の頭の中に上手く入っていかずにどこかへ消えた。自分の笑った顔が胡散臭いのは重々承知の上です。シリウス先輩に抱きつくのは、貴方に抱きつきたいから。顔を真っ赤にして息を荒げながら叫ぶシリウス先輩を、呆気に取られて見ている3人の顔が何だか面白くて思わず頬が緩んだ。
「…何が可笑しい」
「……いえ、別に」
シリウス先輩の周りにあったイライラとしたオーラが、深みを増したのが分かる。どうも私は空気が読めない人間らしい。シリウス先輩の後ろで震えていた金髪の人が、そのせいでもっと震えた。リーマス、と呼ばれていた人は、シリウス先輩を睨みながら必死に彼を止めようとしていて、眼鏡をかけた人にいたっては何もせずにただ傍観しているだけ。読まなくてはいけないことは分かっているが、ちぐはぐな四人がとても面白い。
その時、遠くのほうで授業開始のチャイムが鳴った。
「何を企んでるかは知らないがな」
そんな私を見て、シリウス先輩がリーマスさんの制止に抵抗しながらがるると吠えた。
「俺は、お前との婚約なんて認めない」
それまで表情を一切変えずに傍観していた眼鏡の人が、私を試すような目でこちらを向く。何を試されているのかは知らない。どうして彼に試されなくてはいけないのかも分からない。ただ、彼の目を見つめ返すだけ。
リーマスさんと金髪の人が丸い目で私とシリウス先輩の二人を交互に見た。その様子からして、眼鏡の人はその話を聞いていたのだろう。親同士が勝手に決めた、私とシリウス先輩の婚約の話。純血主義の輪から外れた厄介者。それでも、その血を絶やすことに比べたらと、両親が苦肉の策で出した案。家の名を汚したもの同士、結婚させれば良い。そんな考えが両親の書いた文字から滲み出ていた。
「…私だって、こんな形で」
地面は冷たい。付いた手の持つ熱は、コンクリートが全て奪い去ってしまった。誰に聞かせることなく呟いた台詞は、恐らく誰にも届いてはいない。いつまでも座り込んでいたって仕方がないと、砂を払いながらゆっくりと立ち上がった。
「私は、この話に関して一切口を出していません。文句があるのでしたら、私の両親かシリウス先輩のご両親にどうぞ」
「……ああ、そうだな。お前みたいな能なしに言ったって無駄だった」
そう言って、リーマスさんの腕を振り払う。リーマスさんが、またシリウス先輩の名前を強く呼んだ。授業の真っ最中のこの廊下に、大きな舌打ちが響く。「結婚なんて、死んでも御免だ」と、シリウス先輩が私に聞かせるようにはき捨てた。
「純血主義のお前となんて」
誰かがシリウス先輩の名前を呼ぶ。
その台詞に、私が今まで積み上げてきた何かが崩れた音を聞いた。
(20130830加筆)
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