ずっと昔。遠い昔。
あの旅が終わってすぐの頃。
あたしはトン…と軽くひとつの手に背中を押された。
《ナマエさん…》
押された先にいたのはホープだった。彼はあたしを迎えるように、支えるように手を伸ばしてくれる。
でもその顔は少し戸惑った顔。いや、戸惑っているのはあたしも同じだった。
あたしは振り返る。
振り返った先にあったのはノエルの姿。
あたしを押したのはノエルだった。
彼は、あたしを押した手をゆっくり落とし、そしてホープにこう言った。
《ホープ。ナマエを守る役目、あんたに返すよ》
それは、ホープとノエルが初めて会った時に交わした約束だった。
ホープは言ってくれたのだ。自分は傍にいられないから、ノエルにあたしの事を守って欲しいと。
ノエルはその答えを、胸を叩いて了解してくれた。
あたしは傍のホープを見上げる。
ホープはじっとノエルを見つめていた。そしてあたしの肩に触れながら、その言葉を受け取る様に頷いた。
《…確かに》
《…ああ。じゃあ、色々話もあるだろ》
ノエルはそう言い残すと、あたしたちに背を向けてひとり何処かへ歩いて行った。
その背中は、酷く小さく見えたような…そんな印象を覚えてる。
《…ノエル…!》
それを見たらあたしは言葉に出来ない気持ちになった。
いてもたっても居られなくて、だから思わずノエルの背に手を伸ばしていた。
《ナマエさん…》
《…!》
だけどその手は届かなくて、代わりにあたしの腕がくんっと後ろに引かれた。
名前を呼ばれた声でわかる。ホープだった。あたしはホープに振り向いた。
《…ホープ》
《駄目ですよ…》
《え?》
あたしを止めたホープの顔は困ったようで、でも優しかった。
ホープの右手があたしの頬にそっと触れる。そのままゆっくり顔を上げられて、翡翠の瞳としっかり目があった。
《そんな顔で行っては駄目です。ナマエさん、ノエルくんと同じ顔してるの、気が付いてますか?》
《…え?》
小さく見えたノエルの背中。
眉を下げて、何かを堪える様に歪めていたノエルの顔。
あたしは今、それを同じ顔をしている…?
ホープは言う。
《今行っても、きっとふたりで自分たちを責めて…潰れてしまうから》
《……。》
すると、ホープの左手も頬に触れた。
両手で顔を包まれる。ホープは悲しそうに微笑んだ。
《それに、そんな顔した貴女を…僕は放っておけない》
ホープの手は、凄く温かかった。
じわじわと沁みる様に。生きている体温だった。
《はは…ホープの手、あったかいなあ…》
それを感じたら、あたしは俯いた。
頭の中で繰り返された。
手に掛かる重み…あたしとノエルの手の中で、ゆっくり力を失くしていくセラの身体。
そして…溢れんばかりの混沌に包まれていく世界の姿。
《泣いてる場合じゃ、ないんだけど…》
違う。こんな未来が欲しかったんじゃない。
なのに目の前にある現実は、冷たいほどに現実だ。
《ホープ…、…あたし…》
《……。》
《…あたし、セラを…世界…を…》
体が震えて、声も震えた。
あたしは瞼を手で覆って、膝をついて崩れ落ちた。
この旅の末、セラが死んだ。
世界が混沌に包まれた。
あたし…世界を壊した…。
《セラ…セラっ…セラ…!》
いくら叫んでももう声の返ってくることのない彼女の名前が止まらなくなった。
もう会えない、笑い合えない。
悲しみが溢れて、どうしようもないほどに。
多分、少しずつ実感が濃くなってきたのだ。
ゲートが閉じて旅が終わって、その後目まぐるしく世界が混沌に変わった。
本当に目まぐるしくて、混乱もあったんだろう。
だけど、頭で考えた。何が起きたか、どうなったか。
その意味がリアルに…巻きつくように、鮮明に理解出来始めたんだろう。
《ナマエさん》
そんな中で、傍に届いた声があった。
ホープの声だ。
《違いますよ、貴女のせいじゃない》
《…でも…っ》
《違う》
少し強めの声だった。
崩れ落ちたあたしの前に、ホープも共に膝をつく。
そして再び彼の手はあたしの頬に触れた。指でそっと涙を拭われる。
彼は眉を下げ、あたしに悲しげに微笑んでいた。
《わかってます。…気にするな、と言っても…流石にそれは無理ですよね》
《……。》
《でも…だったら、その苦しみを僕に吐き出してください》
《……ホープ》
《その痛み、僕に分けて》
自分に痛みを分けて。ホープはそう言って目を閉じた。
そして、とん…と優しくあたしの額に自分の額をくっつけた。
《貴女はひとりじゃない。僕が貴女をひとりにしない。貴女の悩みは、僕も一緒に抱える。一緒に考える》
《………。》
《それに、まだ何もかも終わったわけじゃない。これから出来ることだって山程ある。僕はそれを探しますよ。だからナマエさんも、僕を助けてくれませんか》
その言葉を聞いて、あたしは思い出していた。
ディアボロスを初めて召喚した時のこと。
あの時もホープは、こうして傍に寄り添ってくれた。
自分があたしに出来ることがあれば、何でもしたい。
悩みがあれば聞くことは出来る。一緒に考えたいとも思う。
小さな彼は、遠い昔にそう言った。
多分ホープも、あの時のことを思い出していたのかもしれない。
どうして彼は、こんなにもあたたかいのだろう。
落ち着かせるように抱きしめられて、ホープの心音が聞こえて、あたしは目を閉じてそれを聞いた。
昔からそう。思い返せばいくつあるのだろう。
ホープの存在は、本当にあたしの中で大きかった。
泣き腫らして、前を向いた。
ホープがいてくれたから、あたしは混沌の世界でもちゃんと立っているという感覚を得られたんだと思う。
だけど…じゃあ、ノエルは…?
『女神エトロへの誓いを示せ』
『今宵、慈悲深き混沌の女神に捧げる数は…』
ルクセリオの暗黒街でライトとまみえたノエル。
解放者が目覚めた今、彼は闇の狩人としてこの地にあった。
女神の信徒たちが自分たちを導く者と崇める存在…。
ライトは信徒たちの儀式に忍び込むために、集めた数字を電話に告げた。
『…いいだろう。無名の門をくぐれ』
集めた数字は正しかった。
昨夜、信徒たちが潜っていった門が開かれていく。
成功だ。
「いよいよですね」
『ああ。呪われた儀式は今日で終わらせる』
ライトは門の奥へと走り出した。
薄暗い夜の闇の中、信徒たちは何を行っているのだろう。
門の中には墓地があり、気味の悪さが余計に際立った。
そんな中をライトは駆け抜けた。
もうこれ以上、死者を出すわけにはいかないから。
そしてその奥に、真白い衣に身を包む信徒たちの集団を見つけた。
『約束の時は至れり!』
『『『約束の時は至れり!』』』
『呪われし破滅の遣いよ!』
『『『呪われし破滅の遣いよ!』』』
『母なる混沌に還れ!』
『『『母なる混沌に還れ!』』』
儀式は既に始まっていた。
信徒たちはひとりの女性を吊し上げ、呪文のように言葉を叫んでいた。
女性に意識は無い。そして彼女の髪色は…薔薇色だ。
彼女が解放者として殺される、今宵の犠牲…。
信徒の男が、彼女の前に鉈の様なものを構えた。
『時は満ちた。忌まわしき解放者を女神エトロの御許へ!』
『『『解放者に死を!』』』
その声と共に、振り下ろされる刃。
しかしそれは食い止められた。
ガンッ…と刃同士のぶつかる音がし、男は弾き飛ばされた。
マントが揺れる。
弾き飛ばしたのは、解放者。
『お前たちは知っているはずだ。私は何者だ?』
ライトは尋ねた。
そんな彼女の姿に信徒たちは目を見開き、ざわめきが走った。
『遂に見つけたぞ!真の解放者だ!』
『殺せ!討ち果たせー!』
信徒たちの殺意が、一気にライトへと集まった。
武器を構え、一斉にライトに向かってくる。
でもその直後、大きな竜巻が信徒たちに襲い掛かった。
魔法だ。
そしてあたしは、その魔法に見覚えがあった。
『遅かったな、狩人』
そう声を掛けたライト。彼女の視線の先に静かに現れたのは…ノエル。
今のは魔法は、ノエルが放ったものだった。
『おお、狩人よ。予言の通り、遂に参られた!』
『解放者を討ち果たし、予言の成就を。我らの願いを叶えて…!』
待ちわびた闇の狩人の姿に、女神の信徒たちは歓喜の声を上げた。
だけど、ノエルがその歓喜に応えることは無い。
『無意味に人を殺しておいて、何が願いだ!』
ノエルは信徒たちの言葉を一蹴した。
『何故だ、闇の狩人よ。貴方こそ我らを導くお方ではないのか』
解放者を討ち果たす闇の狩人…。
突き放された信徒たちは戸惑い、動揺し始める。
『仲間割れか?』
『見損なうな。こんな奴ら、仲間でもなんでもない。血に飢えた人殺しどもだ!』
尋ねたライトにそう言い切ったノエル。
彼は信徒たちに向かい剣を構えた。
その様子に信徒たちはまたも動揺し、でもその動揺は一気にノエルへの殺意へとも変わる。
信徒たちはライトとノエルに襲い掛かってくる。
ふたりは信徒たちを迎え撃った。
『女神の信徒たちは予言された英雄、闇の狩人を待ち続けていた。けれど狩人は、いつまでも現れない。焦った信徒たちは暴走し、解放者に似たものを殺し始めた』
『ああ、そうだ!もっと早く決着をつけておけば、こんな事件は…起こらなかった』
ノエル…。
最後の方…ノエルの声は苦しく、後悔に満ちて聞こえた。
ああ…やっぱり変わっていないじゃん。
ノエルは、いつだって素直で真っ直ぐだ。
あたしは純粋に、そんな彼の姿を嬉しく思った。
そして同時に、懐かしさと安心を感じた。
でも…500年の年月は…。
その長すぎる日々は、その真っ直ぐな気持ちを…歪ませるには充分すぎた。
『改めて聞く。決着をつけるとは?』
信徒たちを片付け、ライトはノエルに尋ねた。
ノエルはライトに振り返る。そして彼女に剣を突き付けた。
あたしはその姿に心臓が痛くなるくらいに飛び上がったのを感じた。
『あんたを殺して、予言された未来を実現する』
ライトを殺す。
ノエルの口から出た、ありえない、いや…聞きたくも無い言葉。
予言された未来の実現…。
ライトを殺すこと…。それがノエルの言う決着。
『予言は現実となる。ならば私は、お前に殺される宿命か。宿命に抗うのは慣れている。未来を縛る予言など、断ち切るだけだ』
ライトはそう言って、彼女もまたノエルに剣を向けた。
その姿にまた苦しくなる。
だって、そうだ。
ふたりは…ふたりともあたしにとって大切な仲間だ。
未来を守ろうって、同じ目的を持ってた仲間。
宿命に抗う…。
確かに…ルシの時は散々、宿命に抗い続けてた。
だけど…ふたりが剣を交えるのは、どうしても避けられないことなのだろうか。
あたしは、避けられるなら避けたい。
だからライトに叫んだ。
「ちょっと待ってライト…!本当にノエルと戦うの!?」
呼びかけても、ライトは答えなかった。
ノエルには、声を届けることは出来ない…。
ふたりの間に、戦いの緊張が走る。
だけどその時、何か大勢の人の声が近づいてくるのが聞こえた。
「ライトさん、救世院の部隊です!」
いち早くそれを察知したホープはライトにそう伝えた。
声を聞いたノエルもその声が何なのかすぐに察したらしい。
ノエルは剣を引き、ライトに背を向け、そして言った。
『追ってこい。あんたに相応しい死に場所へ導いてやる』
ノエルはそう言い残し、駆け出して行った。
向かった方向は…恐らく暗黒街。
ライトはその背を何も言わずに見つめていた。
モニター越しのその光景。
あたしは、蹲って頭を抱えた。
「はあ…なんで、こんなことに…ライト、本当に戦うの…?」
「…そんなの見たくない?」
「当たり前!」
ホープに聞かれ、ため息をついた。
ライトもノエルも、あたしにとって大切な仲間だ。
ふたりとも、あたしは大好きだ。どうしてそのふたりが殺しわなければならないのか。
「…ノエル、そんなことしたいように見えないのに」
モニターの中、もう見えなくなったノエルが消えた方をあたしは見つめる。
ノエルの言葉の節々には、葛藤が見られる気がした。
そもそも、ノエルが誰かを殺めたいなんて…思うはずがないのだ。
少なくとも、あたしの知っているノエルは…。
ううん、今のノエルだって、きっとそう。
「ホープ…。ノエル、どうしてさっさと決着をつけなかったんだと思う?それってライトを殺したくなかったからでしょ?だから、予言を知りつつ行動に移さなかった。ノエルは誰より人の命の重さを知ってるはずだから…」
「…流石だね。ノエルの事、よくわかってる」
ホープにそう言われ、あたしはモニターからホープに視線を向けた。
カタン、と椅子に深く腰掛け背を預けるホープ。彼は小さく笑っていた。
「あの時と同じ。いや、ずっと…。きっと、ノエルの気持ちに一番近しいものを持っているのは…ナマエなんだろうね」
「……。」
ホープの言うあの時とは、世界が混沌に包まれてまだ間もない頃の話だ。
旅の末に世界が混沌に包まれた。セラが死んだ。
その結末に導いてしまったのは…あたしと、ノエル。
…とんでもない罪を犯した。
きっと、一生消えない後悔。
もっと何か出来たんじゃないか、ああすればこうすれば…考え出したら、止まる事なんかない。
でも、それでも立っていられたのは…立ち向かおうと思えたのは、ホープがいてくれたからだ。
ホープが手を握って、傍に居てくれたから。
遠い、過去の記憶が蘇る…。
《あたしはいいよ…ホープがいるから。でも…》
《ノエルくんやスノウ…ですか?》
《……うん》
スノウは…セラを失った。最愛の婚約者を。
ノエルは…ユールにカイアス。そして…あたしが感じている痛みをまた、彼もきっと同じように。
守ると言ってくれた手を、ホープに返したノエル。
あの時のノエルの顔は…あたしの脳裏にずっと残っている。
悔やんで悔やんでたまらない、苦しみと耐える…そんな顔。
《…ホープ。あたし…》
《…確かにふたりにしか分かり合えない部分は、あるんでしょうね》
《……。》
セラを失った。世界に混沌を招いた。
あたしたちが辿った…旅の末に起きた出来事。
ノエルは言った。俺が女神を殺した、と…己の手を見て呟いていた。
あの言葉は、あれは殆どカイアスの自害だったけれど…ノエルの手に握られた短剣が、女神の心臓を貫いたことを言っていった。
ノエルが女神を殺したわけじゃない。
あたしだって、ノエルにはそう言った。
でも…あたしだって、強い自責の念に囚われた。
自分の歩いた道の先に起きたのは事実で。
自分が一端である事には、やっぱり変わりないと思ったから。
共に旅して、共に失ったあの感覚はきっと…この世界でノエルとあたしがきっと、一番近しい後悔を抱いているはずだった。
『ナマエ』
その時、ライトの声が聞こえた。
あたしはパッとモニターに顔を上げた。
「ライト?」
『…ノエルは私を殺すと言った。戦闘は避けられないだろうな』
「……。」
ノエルとの戦闘は、恐らく避けられない。
そう言うライトにあたしは何も言えなかった。
だけど、彼女の言葉はそれで終わりでは無かった。
『でも、ノエルの魂を解放することは約束しよう。それは、私の使命だからな』
「ライト…」
戦いは避けられない。だけど、救う。
そう言った彼女の声音は、柔らかいものだった気がする。
それを聞いたらなんだかホッとした。
ライトは言葉を続ける。
『それにお前も、手伝ってくれるんだろう?』
また、柔らかい声だった。
彼女の問いに、あたしは大きく頷いた。
「…もちろん!」
ノエルはライトを殺したいなんて、絶対思っていないと思う。
じゃあ…何か彼の心を縛るものがある?それはいったい何なのだろう。
『行くぞ』
ライトは駆け出した。
ノエルの言った、彼女の死に場所へ。
いや、彼を魂を解き放つ場所へ。
To be continued
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