悪夢

 目を覚ますと、ベランダの窓から暖かい日差しが差し込んでいた。寝起きのぼんやりとした意識のまま体を起こすと、いつの間にかかけてあったブランケットがずれ落ちる。幼い頃に見た覚えのある柄のそれは、長年使い込まれて少し毛羽だってはいたが、拾い上げると洗濯したての香りがふわりと広がった。いつの間にこんなものが――と、考えようとしたところで、レイの意識は違うところに向けられた。何か、物音がする。

 誰かいる?

 物音のする方に視線を向けると、キッチンに人影があった。レイは半分無意識のうちに立ち上がり、覚束ない足取りでその人物に近づいた。

 かつては見上げていたはずの目線は、いつの間にか同じくらいの高さになっていた。ひょっとすると、既にレイの方が追い抜いているかもしれない。

「母さん」

 最後にその名前を呼んだのは、いつのことだっただろう。対面式のカウンターの向こう側。焦げ目のない、綺麗な形の卵焼きが焼けている。それを皿に載せようとしていた手を止めて、その人は顔を上げた。後ろでまとめた髪が軽やかに揺れる。レイの、癖のある髪質は母親譲りだった。そのせいか、幼い頃はよく似ていると言われた。

「そろそろ時間だわ。レイ、はじめを起こしてきてくれる?」

 優しい笑顔は、記憶にあるものと変わらない。そう、これは記憶だ。現実じゃない。母さんはもういない。わかっているはずなのに、レイはそこにいるはずのない人の存在をごく自然に受け入れていた。わかったと返事をして、いつも弟の寝ている部屋に向かい、ドアを開けながら呼びかける。はじめ。朝だぞ。起きろって――それは特別なことは何もない、ありふれた一日の始まりだった。





「言っただろ、時間になったら起こせって」
「声はかけた。お前が起きなかったんだ」

 ハックモンは悪びれた様子もなく言う。事実目を覚まさなかった自分のことも腹立たしく、その上、妙な姿勢で居眠りをしていたせいで首が痛い。苛立ちまじりに体を起こすと、その上に載っていた何かが滑り落ちた。何かと思って掴み上げると、そこにあったのは幼い頃に家にあったブランケット――ではなく、普段着にしている黒の上着だった。

 一瞬、夢と現実の区別がつかなくなったことに自嘲する。いなくなった母親のことを忘れたわけではないが、時が経てばそれなりに痛みの記憶は風化していくものだ。それなのに、今更あんな夢を見るとは。夢の中が幸福であればあるほど、現実との落差が際立つ。魘されるよりよほど悪夢だ。いつの間にか、掴んだままの上着にしわが寄った。そこで、はたと気づく。

「これ、お前が?」

 レイは上着を持ちあげて示した。自分で布団がわりにした覚えはなかったから、可能性としてまずあり得るのはハックモンだ。しかし相棒がそんな甲斐甲斐しい世話めいたことをするとは思えず、尋ねる口調は疑いを含んだものになった。

「いや。月森ルカが来ていた」
「ああ、そう……」

 浅い眠りの淵で、触れた手の感覚を微かに思い出す。あれは記憶の中の、母親の面影ではなかったのだ。どうせならいつものように騒がしくして起こしてくれれば良かったのにと、レイは寝違えた首を押さえて嘆息した。

2023/12/12


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