(色々と無視した最早パラレル) 深く沈んだ身体がふうわり浮かぶように。 たゆたう意識を掬い上げるように。 少年はふ、と目をさました。 肌を照らす朝日と鳥たちの囀りに、朝の訪れを知る。 布団の中で何度か目を瞬かせて、ふわ、ひとつ欠伸をこぼしながら身を起こす。 纏っているのはその年齢にしては珍しい薄墨色の浴衣。寝乱れ、袷(あわせ)がずれたままだったが、少年は頓着せず未だに覚醒しきれていない様子で頭をゆらゆらさせている。 トン、トントン、 特徴のあるノック音に、少年が寝起き特有の掠れた声で入室を促す。 許可を得た襖をそっと開いて姿を見せたのは、長い黒髪の男だ。 少年よりは年上だが、それでもまだ若い部類の男は、紺の着流しをきちんと着こなし立っていた。 「おはようございます、夏目君」 「…はようございます…まとばさん…」 まだ眠そうですね、と笑んで、まとばと呼ばれた男は部屋の隅に配された箪笥に足を向ける。 引き出しを開けて黒い布を取り出し、男は少年―夏目の傍に膝を付いた。 夏目も慣れたように、布団の上で男に向き合う。 男が、夏目の右頬にかかる少し長めの髪をそっと掻きあげる。 男の目の前に無防備に晒された夏目の右の顔面部は、酷い傷痕を残していた。 夏目が的場一門に身を寄せたのは、もう二年前のことだ。 高校を卒業後、藤原夫妻の厚意により、夏目は大学で民俗学を専攻していた。 昔から関わってきた妖を学問として学べれば、また新しい視点や関わりかたが分かるかもしれない。また、祓い屋を営む名取や的場の仕事について役に立てれば(それは必ずしも『祓い屋』として役に立つというわけでは無かったが)(やはり夏目には、妖を悪意のみで見ることなどできなかった)とも考えていて、実際時間に融通のきく大学生という肩書きを武器に、頻繁に彼らの仕事に同伴させてもらっていた。 的場のやり方にはやはり全面的な賛同には至らないものの、的場には的場の、名取には名取のやり方がある。人のためという点においてはやはり尊敬に値する力量の持ち主であることを、夏目は幾度か行動を共にして理解した。 的場から夏目へ電話がかかってきたのは、そんな風に少しずつ祓い屋を生業とする彼らへの偏見を無くしてきた、そんな秋の夜だった。 少々やっかいな依頼でしてね、電話口の向こうで露ほども困っていなさそうな声音で話を切り出した的場の話に、夏目は大学の予定や友人との約束などを確認し、お役に立てるなら、と了解の旨を伝えた。 しとしと降る秋の長雨が、窓をぼんやり曇らせていたのを、夏目は覚えている。 しゅる、と傷痕を隠すように眼帯で夏目の顔を覆い、後頭部で留める。 夏目の白い肌と色素の薄い髪の中、黒い眼帯がくっきりとその存在を主張する。 的場はつけ終えた眼帯をそうっとなぞり、硝子細工に触れるようにやわらかく唇を落とす。 もう二年前からずっと、この儀式めいた行いは繰り返されてきた。 夏目は、まるで神に赦しを乞うような的場の行為に、ただ見える方の左目を伏せるだけだ。 依頼内容自体は特筆するほどの難しさではなかった。 ただ、封印を依頼された妖が、的場当主の右目を狙う妖のごく近い立場の上位種であったことが、的場に「やっかい」と言わせる理由だった。 念入りな下準備の後、夏目は的場と二人、件の妖のいるという山へ足を踏み入れた。 霧の立ち込める中、夏目は周囲を警戒しつつ前を歩く的場の背を追う。 動きやすさを重視したパーカーの背で跳ねる黒髪を見つめ、男の人には勿体ないくらい綺麗な髪だよなぁ、洗うの大変だろうなぁ、ととりとめのないことを考えていた夏目は、急に的場に名を呼ばれ細身の肩を揺らした。 「っ、はい?」 「いえ、ぼんやりしていたようですので声をかけただけです」 「大丈夫です、っていうかなんで分かったんですか…」 「ふふ、何故でしょう?」 この人なら頭の後ろに目があっても驚かないぞ、と心の中で呟いた夏目の耳が異音を捉えたのはその時だ。 耳鳴りのような歪んだ高音に、つぅ、と思わず呻いた夏目の異変に的場は即座に神経を研ぎ澄ませる。 「どこです」 「方向までは…耳鳴りみたいな感じで今…」 夏目自身左右に妖の気配を探しながら答えると、的場がゆっくりと矢羽に手をかける。 臨戦態勢の的場に反応するかのように、明らかに自然現象とは異なる霧が二人の逃げ場を塞ぐように覆っていく様子に、夏目は意識を集中させる。 近くにいるはずだ、 どこにいる… ヒュウ、風を切る音が微かに聞こえたのと、夏目が鋭く叫ぶのはほぼ同時だった。 「的場さんっ右、2時の方向!」 的場も当たりをつけていたのだろう、夏目の声より一呼吸早く弓を引き絞り、鋭く放つ。 矢が空気を裂いて霧に吸い込まれるが、手応えは感じられない。 不気味なほど静まり返る周囲に息を詰め、夏目は的場の邪魔にならない範囲までじりじりと後退する。近すぎては彼の攻撃範囲を侵してしまう。かといって離れすぎても、的場に余計な気を使わせることになる。 そろり、後ろ手に触れた木の幹に身体を寄り添わせようと半歩下がる。 いや、下がろうとした。 瞬間、背筋を冷たいもので撫でられたような寒気に全身が粟立つ。 そのあとのことは、コマ送りのようにしか覚えていない。 ──その右目、頂くぞ 低い声が頭に響いた。 ──なつめくん!! 的場さんが振り返り、見たことないような表情でこちらに向かって手を伸ばす。 あ、と思う間もなく、視界が真っ暗になった。 それから五日ほど、夏目は怪我と妖の毒気に当てられ寝込むことになる。 妖に襲われ、夏目は酷い傷を負った。 右目は辛うじて残ったものの、額から右の頬にかけて妖の爪痕が踊る。 また頭を強く打ったのか、視力が著しく低下した。 目覚めた夏目に、的場は「妖が、私と夏目くんを間違えたようです」といっそ簡潔に説明したあと深く頭を下げた。 ──君が傷を負ったのは、私の責です。謝って償えるものではありませんが── そして、「妖に受けた傷は、その妖を殺せば綺麗に消えます。視力も恐らく戻るでしょう」と言った後、的場一門にその身を預からせてほしい、と提案された。 視力は低下し隻眼になった夏目は、だからといって妖が見えなくなったわけではない。 むしろ、妖に傷を負わされたことが何かのきっかけだったのか、以前よりはっきりとそれが分かるようになっていた。 その分いざ妖に襲われたとき、今まで以上に自衛手段を持たない夏目を事情を知らぬ夫妻の元に返してしまっては、夏目の身の危険と同時に夫妻にも危険が及ぶ可能性がある。 それを夏目が良しと思わないことを見越した上でのその申し出に、夏目は断る理由が無かった。 そして、様々な根回しを行い違和のないよう手筈を整え、夏目は的場一門の門扉をくぐったのだ。 「さ、朝食の準備が出来ています」 手を延べられ、細くもしっかりとした的場の手に支えられて夏目は立ち上がる。 いい加減片目での生活にも慣れたのだが、的場は時間の許す限り夏目の世話をあれこれと焼いているように思う。 傷を負わせた負い目なのか義務感か、もしくは…。 ちらりと横に立つ的場を見上げると、その黒耀の瞳が細められどうしました?と無言で促される。 夏目はゆるりと頭を振って、今日の朝ごはんはなんでしょう?と尋ねた。 今朝は焼き鮭だそうですよ。そうですか、おなかすいたなぁ。おや珍しい。 そんな他愛もない会話をしながら、二人は部屋をあとにした。 本当は、違うのだろう。 夏目の頭の中に、熱に魘され寝込んでいたあの日、的場がちいさく呟いた言葉がじわりと侵食する。 夏目くん、 愛してます これで君はわたしのものだ もう君をにがさない |