烈火の娘
▽ 12章 別離


ラウス領を目指して旅している最中。
早朝、早く休んだせいか早起きしたわたしは宿から外に出てみた。
辺りはすっかり明るいけれどまだ陽は昇っていなくて、適度な冷たさの空気が気持ちいい。

ふと、先の方にエリウッド様の姿を見つけた。
マントもコートも身につけていないラフな格好の彼は、わたしが近付いて行くと気付いてくれた。


「エリア……、……アカネ。おはよう」
「おはようございます、エリウッド様」


エリアーデ、と言いかけたのだろうけど、聞かなかった振りをする。
わたしをアカネ扱いして下さるエリウッド様だけれど、やっぱりわたしをエリアーデさんだと確信してるんだね。
何を言って良いか分からなくて隣に立ったまま無言で景色を見ていると、ふとエリウッド様が話し掛けて来る。


「アカネ。やはり君は僕の従妹のエリアーデだと思う。時間が経つにつれ、君がエリアーデにしか見えなくなってるんだ」
「……わたしの容姿ももう、アカネではなくなっているんですか?」
「いや、違う。容姿はアカネそのまま、黒い髪に黒い瞳だし、エリアーデとは全く違う。にもかかわらず君がエリアーデだとしか思えない」
「不思議ですね……」


容姿が全く違うなんて分かり易く別人である証明になる筈なのに、それを踏まえた上でわたしがエリアーデさんとしか思えないなんて。
わたしが戦闘で使っている魔法なんかより魔法だよ。

……でも、やっぱりわたしはアカネ。
アカネなのに。


「エリウッド様。わたし、消えたくありません」
「え……?」
「だってわたしがエリアーデさんなら、アカネという人物は居なくなってしまうでしょう!? わたしはわたしの故郷で14年過ごして、家族だって友達だって居るんです! わたしはアカネなんです……!」


少しだけ声を荒げてしまう。

とにかく怖かった。
あの手紙を信じるのであればわたしは、アカネは、エリアーデさんが正体を隠す為の隠れ蓑に過ぎない。
わたしがエリアーデさんに戻ったら、アカネは居なくなる。
両親は分かってくれるかもしれないけど、手紙に書かれていなかったお兄ちゃんは、学校の友達は、わたしを見ても分からなくなるかもしれない。

そんなのイヤだ……!

泣きそうになって俯いてしまうと、エリウッド様の寂しそうな声が降って来る。


「どうするのが最善なんだろう。君はもうエリアーデとは別の一個人という訳だろ? けれどやはり僕達にとって君はエリアーデで……」
「……」
「僕の、僕達のエリアーデを想う気持ちが、君を苦しめてしまうのか」


エリウッド様はエリアーデさんに会いたがっている。
それはきっと、わたしが両親やお兄ちゃんに会いたいのと変わらない気持ち。
それに思い至った瞬間、とんでもない罪悪感が襲って来た。
どうすればわたしがエリアーデさんに戻るのか分からないけど、わたしさえエリアーデさんに戻れば解決する話なんだ。

……だけど、自分勝手かもしれないけど、嫌だって思う。
消えたくない。まだ生きていたい。
こんな旅をしている以上は命の危険があるだろうけど、アカネとして死ぬのとアカネという存在が消えるのは、似ているようできっと違う。


「すまないアカネ。君を困らせるだけでなく、苦しめてしまうなんて……」
「いいえ……大切な人に会いたい気持ちはわたしも分かりますから」


わたしが消えたら、お父さんとお母さんは、お兄ちゃんは、友達の皆は、悲しんでくれるだろうな。
きっといつか決断しなければならない時が来てしまう。
エリアーデさんに戻るか、アカネのままで居るか。


「エリウッド様、このお話は一旦保留にしませんか。まずはエルバート様やわたしの家族を探し出すのに集中しましょう」
「……そうだね。そのうち良い解決法が見つかるかもしれない」


果たしてそんな物があるかは分からないけれど、わたしのキャパシティではそんなに色々と背負えない。
だから今は、重い決断から目を逸らしておこう。



リキア同盟国の中央に位置するラウス侯爵領。
ここの領主であるダーレンという人は、強欲で知られる人なんだって。
エルバート様の失踪やヘルマン様の死について関わってるのかな、なんだか恐い。

ラウス領はとても自然が豊かで、あちこちに優しい色の緑が溢れ、美しい水の流れる川が点在してる。
お城へ向かう道すがらで見た町や村では、人々が忙しそうに働いていた。
畑仕事をしてる訳じゃない。
ヘクトル様が苦々しい顔で隣のエリウッド様に声を掛けた。


「領内を見る限り本当に戦の準備が進んでるようだな。ラウス侯め、何を企んでやがる?」
「……」
「城に行きたくないって顔だな」
「行って……真実を聞けば戦になるかもしれない。戦っている僕らは目の前の敵を倒す事だけ考えていれば良いけれど、家族を失う者や住処を荒らされる人々は?」
「エリウッド……」
「その事を思うと、戦など起こらずに済むよう願わずにはいられない」


沈んだエリウッド様の言葉が胸にずんと重くのし掛かる。
今はこうして戦う側になっているけれど、リン達と旅したあの日々より以前では、わたしも力が無くてひたすら奪われるしかない立場だった。
平和な平成の日本で暮らしていた身として、力無い一般人の気持ちは分かるつもり。

どうしてラウス侯は戦なんて始めようとしているの?
確か国内の別の領地が相手の可能性が高いって聞いたけど……。
それは正当な理由があるものなの?
力無い民の事を考えず、私利私欲で戦を始めようとしているなら、許せない。


「民を治める身でありながら何故そのような事が出来るのか、理解できませんわ」


……え?

い、今の、わたし、の、声? わたしの、言葉?

明らかにわたしと違う声と口調で、わたしの口から出た言葉。
自分の意識とは全く別の所から発せられたようで血の気が引いた。
前方では声が届いたらしいエリウッド様とヘクトル様が驚いた顔で振り返ってる。
そしてこちらへ少し慌てた様子で歩いて来た。


「アカネ……? 今のは……」
「え、あの、その……」
「おいエリウッド、今の明らかにエリアーデの声と口調だったよな」
「……」


どこか泣きそうにも見える真剣な顔が、わたしの瞳を真っ直ぐ見つめて来る。
ヘクトル様の方も同様の表情で……胸が一気に苦しくなった。

わたしの存在は望まれていない。
邪険にされている訳ではないけど、彼らが必要としているのは、エリアーデさんだ。

暫く三人で黙っていたら、偵察に出ていたマーカスさんが戻って来た。
どうやらお城から一騎で騎兵が出て来たらしい。
そしてそれはラウス侯爵の息子であるエリックという人。

……その名前を聞いた瞬間、ぞわ、と嫌な感じがした。
会見を求めているその人にエリウッド様は応じるけれど、ヘクトル様はその人が嫌いらしくって、見回りをして来ると言い立ち去ってしまう。
わたしはそこから動く事も出来ずに、向こうから馬がやって来るのを呆然と眺めていた。


「やあ! 久し振りだなエリウッド!」


……一見 朗らかに挨拶して来るけど、どうにも上辺だけっぽさが拭えてませんよ。
エリウッド様もむしろ警戒を強めてる。


「エリック……用件は何だ?」
「用件? どういう意味だい? 僕はただ、旧友の君がこのラウスに来ていると聞き、こうして挨拶に出向いたんじゃないか!」
「……」
「ところで、どのような用向きでこのラウスに? オスティアに向かう途中なのかな?」
「……どうしてそう思うんだ?」
「君は侯弟のヘクトルと仲が良かったからだよ。……僕の方は彼が苦手だったけどね。貴族だというのにあの下品な振る舞い、口の利き方……全く信じられないよ」


吐き捨てるように言ったその言葉に、心からムッとしてしまう。
ヘクトル様は確かに表面上はそうかもしれないけど、心根はとても素敵な人。
……まだ出会ってからあまり日が経っていないのにそう思えるのは、やっぱりエリアーデさんの経験があるからなのかな。
エリック公子は何も言わないエリウッド様に構わず話を続ける。


「ヘクトルとは今でも付き合いがあるんだろう? 一番最近に会ったのはいつだい? 連絡はどうやって……」
「……エリック。一体何を探りに来たんだ?」


普段の優しい声音からはあまり想像できない厳しい声。
わたしはエリウッド様の背後に居るから彼の顔は見えないけれど、きっと険しい顔をしているんだろうとは分かる。


「このラウスではどこを向いても戦の準備をしている! 君たち親子は一体何を企んでいるんだ!? はっきり答えてもらおう!」


珍しく声を張り上げて詰め寄るエリウッド様に、エリック公子がたじろいだ。
けれどすぐに立ち直って表面上だけの朗らかさを消してしまう。


「……オスティア侯と連絡を取ったかどうか、聞き出してからと思ったが……」
「なにっ!?」
「クックック……エリウッド! 僕は昔からお前も大嫌いだった! 僕の槍で、お前の善人面を苦渋に歪ませたいと……ずっと思っていた! やっと願いが叶う!」


エリック公子が隠し持っていた槍を突き出そうと構えた!
このままじゃ……!


「エリウッド様っ!!」


気が付いたら咄嗟に飛び出していた。
わたしに面食らったエリック公子がぎりぎりで槍を止めた為に刺さらなかったけれど、彼は正面に躍り出たわたしを目を見開いて見ている。


「……エリアーデ、か?」
「え……」
「何だエリアーデじゃないか! 行方不明になったと聞いたが見付かったのか!」
「待て、彼女は……」


エリウッド様がわたしの側に来ようと歩を進めたみたい。
けれどわたしはその前にエリック公子に腕を掴まれ、馬上に引き上げられてしまう。
飛び降りようにも背後からがっちり掴まれていて出来ない。


「い、いや! 放して下さい!」
「アカネを放せエリック、彼女はエリアーデではない!」
「馬鹿にするな! お前は昔から僕がエリアーデに近付くのが気に入らなかったようだが、そんな見え透いた嘘に引っ掛かると思っているのか!」
「エリウッド!」


突然割り込んで来た声にそちらを見ると、ヘクトル様が向かって来ている。
馬上、わたしのすぐ背後に居るエリック公子が驚愕に声を張り上げた。


「お、おまえっ! ヘクトル! まさかもうオスティアと連絡を取ったのか!?」
「さぁ、どうだろうな? そんな事よりアカネを放しやがれ!」
「お前もそうやって僕を馬鹿にするんだな! 揃いも揃って……!」


この人、わたしの事がエリアーデさんにしか見えていないみたい。
今朝エリウッド様が言ったように容姿そのものは黒目黒髪のわたしなんだろうけれど、それでもエリアーデさんだとしか思えないって事なんだろう。

ヘクトル様が言うには、あちこちにかなりの数のラウス兵がふせられているらしい。
やっぱりエリック公子は最初から戦うつもりだったんだ……!


「お前達がいくら必死になっても逃げられはせん! なにしろ数が違う! それも我がラウスが誇る精鋭の騎馬部隊の攻撃だ。何分生きていられるかなあ!?」
「お願い、下ろしてっ!」


叫びも虚しく、エリック公子はわたしを乗せたまま城まで退却する。
馬から振り落とされるかもしれないと思うと暴れる事も出来ず、わたしの名を叫ぶエリウッド様とヘクトル様が遠ざかって行くのを見送るしか出来なかった。



お城に連れて来られ、馬から下ろされた瞬間に暴れようとした。
けれど力には歴然とした差があって、すぐ腕を掴まれ止められてしまう。


「お願い、帰してください! どうしてわたしを……!」
「つれないなエリアーデ。散々奴らにされて来た妨害が、ようやく無くなるというのに」
「だから違うんです、わたしはエリアーデなんて人じゃありません!」


言った瞬間に甲高い音がして、少ししてから頬を叩かれたのだと気付いた。
口の中が少し切れて血が出る程の力で、叩かれた頬はきっと赤く腫れているだろう。


「お、お、お前まで僕を馬鹿にするのか!」
「ち、違います! わたしは本当に……!」
「誰か! こいつを牢に入れておけ! 見ていろ、すぐエリウッド達の首を持って来てやる。そうすれば僕に従うしか無いと分かる筈だ!」


エリック公子に呼ばれた兵士達に両脇を固められ、引っ立てられて行く。
待って下さい、話を聞いて下さいと必死で訴えても逆上した相手には効果が無い。
わたしは城の地下牢に入れられた。
檻に縋って声を掛けても、去って行く兵士達は振り向きもしない。

誰か居ないかと暫く声を上げ続けていたけれど、やがて諦めて座り込んだ。
石造りの牢屋は床も壁もひんやりとしていて冷たい。
お兄ちゃんの失踪やエリアーデさんの事があった上でこの仕打ち。
何だか久し振りに心が折れそうになってしまった。


「……お兄ちゃん」


ほぼ無意識に名を呼んだ瞬間、涙が瞳に溢れて来た。
こういう時お兄ちゃんが居てくれたらどれだけ心強いだろう。
あの優しくて温かい腕に包まれたい。
大丈夫だって笑って頭を撫でて欲しい。

じっと黙っていると今まで起きた事を取り留めも無く考えてしまう。
特にさっき、わたしの口から出たわたしの声ではない言葉。
ヘクトル様はエリアーデさんの声と口調だと言っていた。
だけど少しだけキアラン領に入ったあの日。
仲良く談笑しているエリウッド様とヘクトル様を見た時に頭に浮かんだ言葉と、
だいぶ口調が違うような……。

……まさか、あの時はまだわたしが混ざっていたけど、さっきの言葉はわたしが少しも出ず完全にエリアーデさんになっていたとか……?


「……いやだ。お願いエリアーデさん、許して。わたし、消えたくないっ……!」


本気で怖くなってついつい涙声になる。
声に出して少しでも発散しないと耐えられそうになかった。
体操座りで壁に寄り掛かり、蹲るようにしていると体が芯から冷えるけど、お兄ちゃんの優しい笑顔を思い出しながらじっとしていると、だんだん眠くなって来る。
こんな所で寝ちゃ風邪引いちゃうかな……。
だけど自分でも知らないうちに疲れてたのか、眠気が止まらない。


「(ちょっとだけ、寝よう)」


今エリウッド様達が戦っているだろうに暢気だけれど、きっと彼らなら負けないと信じてる。
そもそも魔道書が取り上げられてしまったし、ここから出る事は叶わない。
ゆっくり船を漕ぎ始めたわたしは、間もなく眠りに落ちてしまった。


++++++


「アカネ、おい、アカネ!」
「ふぇ……?」


突然 誰かに名前を呼ばれ間抜けな声で反応してしまった。
瞬間、今の声が誰のものか思い出して一気に覚醒する。
牢屋の檻の外にはわたしが会いたくて堪らなかった人。
弾かれたように駆け寄って、彼がしているのと同じように檻に縋る。


「お兄ちゃんっ!!」
「外で戦ってたフェレ公子とは合流してるんだろ? 良かった……」


フレイエルと戦う為に残ったお兄ちゃん。
やっぱり負けてなかったんだ!
安心したら泣きたくなったのか涙が溢れ、それをお兄ちゃんは檻の隙間から手を入れて優しく拭ってくれた。


「フレイエルに勝てたんだね……!」
「いや、悪い。勝てた訳じゃないんだ」
「え、じゃあ逃げて来たの? でもあいつを倒せなかったからって悪いとか思わないで。お兄ちゃんが生きてる方がよっぽど大事だよ!」
「アカネ……」
「わたし、お兄ちゃんに言いたかった事があるの」


これを言えなかったばかりに、わたしはお兄ちゃんと別れてからずっと後悔していた。
エリアーデさんの事ばかり考えてて忘れていたけど、例えわたしとエリアーデさん両方が消えずに済む方法が見付かっても、それだけじゃ駄目。
わたしの目標は、お父さんとお母さんとお兄ちゃんと、無事に揃って一緒に日本へ帰る事。


「逃亡生活になったって良いの。お兄ちゃんが死んじゃうよりずっとマシ。無茶しないで、お願いだから生きてよお兄ちゃん……」
「……」


心から声を搾り出すように言うと、お兄ちゃんは黙ってしまう。
嫌だよ、黙らせない。
分かったって言うまで何度でも言うんだから。


「黙らないでよお兄ちゃん。死なないで、一緒に生きて!」
「アカネ。俺はお前に別れを言いに来たんだ」
「……え?」


予想だにしなかった言葉に、脳が理解を拒否する。
お兄ちゃん今、わたしにお別れを言いに来たって……言った、よね?

その言葉が脳に浸透してしまうと、喉の奥から嗚咽がこみ上げて来た。
泣く直前の動作に目頭が熱くなって声が震える。


「な、んで、……どういう、こと?」
「お前の兄貴で居られる時間がもう残ってない」
「……?」


お兄ちゃんが何を言っているのか理解できない。
わたしの兄で居るのにどうして制限時間があるの?


「俺は確かに日本で、お前の兄として14年間を過ごした。だけどなアカネ……本当はお前に、兄なんて居ない」


その言葉に、いつかフレイエルに言われた言葉が蘇る。


『お前に兄なんか居ない。下らない夢見てんなよ』


「なに、それ……詳しく教えてよ」
「あのフェレ公子達はきっと勝つから暫くここで待て。城の近辺は騎兵だらけだからな、馬も居ないお前が逃げられるとは思えない」
「質問に答えて! あなたはわたしのお兄ちゃんでしょ!?」


いつの間にかわたしの目からは涙が溢れていた。
牢の檻に必死で縋って、隙間から手を出してお兄ちゃんの手を握ると、お兄ちゃんの方も優しく握り返してくれる。


「やだ……お別れなんてやだよ……どこにも行かないでよ!」
「ごめんなアカネ。……俺だってお前と一緒に居たい。でも俺の意思じゃないんだ、どうしようもない!」


お兄ちゃんの方も、声が今にも泣きそうに震えてる。
自分の意思じゃないけど離れなくちゃいけないの? どうして?
誰かに命令されているとか脅されている可能性を訊ねたけど、そうではないらしい。


「……アカネ。この15年、本当に楽しかった。幸せだったよ。どうしようもない自己中で大馬鹿だった俺に、温かくて優しい時間をくれた」
「お、兄、ちゃん……」
「生きろ。絶対に生き延びて幸せになってくれ。それが俺の最後の願いだ」


お兄ちゃんは後ろに退いて、檻越しに握っていたわたしの手を放す。
もうわたしとは二度と交わらない事を示すかのように。

お兄ちゃんは瞳に涙を溜めながら、優しく、とても優しく微笑んだ。


「本当はお前の兄じゃないけど……それでも俺はいつまでもお前の兄貴だ」
「待って……お願い、待って……」
「世界で一番、お前を愛してる」


お兄ちゃんは体を覆うように纏っていた無地のシンプルなマントを取り、檻の隙間から取れるような近くに置いた。
そして笑顔を浮かべたままわたしを見て、すぐ踵を返して走り去る。


「待って行かないで! お兄ちゃんっ!!」


わたしの叫び声にも振り向く事すらしない。
残されたわたしは呆然と檻に縋ったまま、お兄ちゃんが去った方を見るだけ。
何で、どうしてと頭の中ではぐるぐる疑問が回っているけど、口に出してしまうと途端に泣いてしまいそうで何も喋れない。

わたしは足下に目をやり、お兄ちゃんが置いて行ったマントを見た。
愛用していたのか少し色がくすんで、端が多少破けていたりする。
体を包み込むようなマントは わたしには大きい。
檻の隙間から拾って体を包み、奥の壁に寄り掛かって座り込むと温かかった。

何をする気も起きなくて暫くじっと座り込んでいると、やがて誰かの足音が聞こえて来る。
石の階段の方からランプの灯りが見え、現れたのはエリウッド様とヘクトル様。
マーカスさんとマシューさんも一緒だ。
彼らは牢の一つに入れられているわたしを見付けて駆け寄って来る。


「アカネ、無事かい!?」
「……エリウッド様」
「エリックの野郎フザケた事してくれやがる! もうちっとボコっとけば良かったぜ!」
「ヘクトル様……」


マシューさんが鍵を開けてくれたので立ち上がって扉の方に行くと、なぜか彼がぎょっとしたような顔でわたしを見た。
疑問符を浮かべていると、恐る恐るといった風に話し掛けて来る。


「アカネ、お前……大丈夫か?」
「え……?」
「何か今にも死にそうな顔してるぞ。顔色も悪い」
「……」


牢は少し寒かったけれど、お兄ちゃんのマントで体を覆っていたから大丈夫だ。
……あ、そうだ、お兄ちゃん……。

マシューさんが牢から離れたのでわたしも出る。
側まで寄るとわたしの様子が分かったのか、エリウッド様達までぎょっとする。
ヘクトル様が鬼のような形相で詰め寄って来た。


「まさかエリックの野郎に何かされたのか!?」
「……いいえ、何もされてませんよ。大丈夫です」
「何もされてないとしても大丈夫じゃねえだろ! エリウッド、早く休ませるぞ」
「ああ。アカネ、歩ける?」
「……はい」


ヘクトル様を見ているとお兄ちゃんが浮かんで来る。
急激に目頭が熱くなって、次の瞬間には涙をぼろぼろ零してしまっていた。


「アカネ!?」
「……あ……うあっ……お兄ちゃん……」


涙を止め処なく流しながら体がガクガク震えて、足に力が入らない。
がくん、と膝から崩れてしまったわたしをヘクトル様が横抱きに抱え上げる。


「マシュー、先に戻ってどっかの部屋を確保しとけ!」
「了解です!」


マシューさんが素早く階段を駆け上がって行くのを、首を傾けてぼんやりとした視界で見た。
ヘクトル様は出来るだけ揺らさないよう歩いて下さっているのか速度は早足程度だ。
隣に並んだエリウッド様が心配そうに声を掛けて来る。


「アカネ、君のお兄さんに何かあったのか?」
「……お兄ちゃんが、牢に来たんです。わたしにお別れを言いに来たって。自分の意思じゃないのにもう、わたしの兄では居られないって……!」


ヘクトル様に抱きかかえられ仰向けのまま、零れる涙を拭いながら話す。
きっと何を言っているのか分からないと思う。
わたしだって何が起きているのか分からないんだから。
それでもエリウッド様達は、黙って話を聞いて下さった。


「やだ……何でお別れなのお兄ちゃん……。わたしの兄で居られる時間が残ってないってどういう事なの……」
「妹をこんな泣かせるとか、とんでもない兄貴だぜ。これは探し出してきちんと弁明して貰わねえとな、アカネ」


いたずらっぽく微笑んで言うヘクトル様に、心が少し楽になる。
わざと軽めに言って下さったんだと思うと、その気遣いに照れ臭くなって小さな笑いが漏れた。

マシューさんが確保してくれた部屋に入り、ベッドに寝かされる。
その時にヘクトル様がマントを取って下さったけど、どこかに置こうとしていたのを貰っておいた。
今は少しでもお兄ちゃんの名残を身近に感じていたかったから。
呼ばれたらしいセーラが来てくれて、エリウッド様達は部屋を後にする。
捕らえたエリック公子から聞き出さなければならない事が山ほどあるって。

エリック公子に取り上げられた荷物も返して貰えた事だし、わたしは今の感覚を少しでも誰かに共有して欲しくて、お兄ちゃんの事をセーラに話してみた。


「はあ? シュレンがそんなこと言ったの? 意味わかんないわね」
「うん。どうしてわたしの兄じゃ居られなくなるんだろう……」
「さあねえ。それにしても“本当は兄じゃない”か。もし血の繋がりが無いんだとしたら、あの溺愛とベタベタっぷりはかなり怪しい感じになるわ」
「へ?」
「あいつアンタの事、女として意識してたんじゃないの?」
「……!?」


予想だにしなかった事を言われて更に混乱する。
だってお兄ちゃんだよ、わたしの……。

……でもセーラの言う通り、もし本当は血が繋がってないんだとしたら。
あの言動を家族じゃない年頃の男性にされたと思うと、急激に恥ずかしくなる。
散々大事にされて守られたよね?
世界で一番愛してるとか、言われたよね?
いやでもあれは兄として妹を大事にしてるっていう家族愛だろうし。


「血が繋がってないんだったら問題ないでしょ」
「……だけど、お兄ちゃんだし……」
「……ちょっとシュレンが哀れになって来たわ」
「ま、まだ確定じゃないよ、色々と」


お兄ちゃんがわたしを女として意識しているのか、そもそも血が繋がっていないのか。
まだ判断するには材料が少な過ぎると思うんだけど。

黙ってしまったわたしに軽い溜め息を吐いたセーラが話題を変えて来た。


「そう言えばエルクがまた一緒に旅する事になったわよ」
「え、エルク!? エトルリアに住んでるんじゃなかったの?」
「新しい雇い主が旅してて、その護衛をしてたんだって。アカネのこと話したら気にしてたから、後で来るよう言っとくわ」
「うん、お願い」


1年振りの仲間にまた会えるんだ!
エルクと言えば例の読めない魔道書の事が気になるんだよね。
彼の師匠だっていうエトルリア王国の魔道軍将に話しておいてくれるって。
何か情報を得られるかもしれない。
上手く行けば、あの荷物の持ち主が分かるかも。

そろそろ寝なさいよ、なんてセーラに言われてお言葉に甘える。
お兄ちゃんの事を共有できる彼女に話せた上に、エルクにもまた会えるんだって思うと心がだいぶ楽になった。
これなら何とか寝られそうだな……。

本当は心の奥底でじくじく広がる痛みを出来るだけ無視して、わたしは柔らかな温かいベッドでゆっくりと眠りに落ちた。





−続く−


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