烈火の娘
▽ 5章 強いもの、脆いもの


もう家族を全て失ったはずのわたしを待っていたのは、死んだと思っていたお兄ちゃんとの再会だった。
今までどこで何してたの、と訊いても、俺にも色々あったんだよとだけ言われ肝心の答えを濁される。
ひょっとしたら話す事も憚られるような目に遭ったのかもしれないし、それ以上は訊けなかった。
お前は大丈夫だったかと質問され、リンという女の子に助けられて2ヶ月一緒に暮らした事、今は彼女の故郷へ旅をしていると教える。


「そうか、助けてくれる人が居たなら良かった。お前が一人でこの世界に飛ばされてたらって思うと、この3ヶ月ずっと心配だったよ」
「……お兄ちゃんは、誰かと一緒に居られた?」
「ああ、心配するな。俺も一人じゃなかった」


その返答にホッとしたわたしは、お兄ちゃんの言葉を反芻して妙な単語がある事に気付いてしまった。

“この世界”に飛ばされ……って、どういう事?

まるで別世界に来たとでも言いたそうな言葉。
確かに文化から考え方から何もかも違って、別世界って言いたくなるけど。
それについて訊ねるとお兄ちゃんは言い難そうに視線を逸らした後、また真っ直ぐにわたしを見て言った。


「いいか、アカネ、落ち着いてよく聞け。ここはな、日本じゃないんだ」
「外国だって事ぐらいならわたしも分かるよ。誰もが日本語を使ってるのは、ちょっと気になるけど」
「……言い方が悪かった。いいか、ここは地球でもない。それどころか俺達が住んでいた宇宙でもない。次元も何もかも違う、完全な異世界なんだ」


お兄ちゃんが何を言ってるのか全然分からない。
異世界? ……って、そんな夢みたいな話ある訳ないのに。
わたしは3ヶ月も過ごしたんだから、サカやベルン、リキアの国々が夢じゃない事はちゃんと分かってる。

……そう思った瞬間、自分が抱えている魔道書の存在を思い出して蒼白した。
そうだ、魔法。こればかりは夢でもないと説明できない。
だけど日々を過ごしたわたしは、夢じゃない事を分かっていて……。
足下が、音も立てずに崩れたような気がした。
奈落のように底の見えない崖の上にわたしは立っていて、いや、浮いていて、認めた瞬間に落下してしまいそうで。


「……違う」
「アカネ」
「違う……なに言ってるのお兄ちゃん、そんな馬鹿な話ある訳ないじゃん、ゲームのやりすぎだよ!」


考えてみれば、魔法に限らずおかしな事ばかりだ。
どう見ても日本人じゃない人々が、揃いも揃って日本語を使ってるのはなぜ?
勉強してもいない知らない文字が読めるのはなぜ?
ペガサスだとかドラゴンだとか、そんなものが当たり前に存在するのはなぜ?
ドラゴンはまだ見た事が無いけれど、ベルンには竜騎士というものがあるって聞いたし……。

分からない。
これらが何なのか。
……分かっては、いけない。


「違う、違うっ! じゃあやっぱり夢なんだよ、現実なんかじゃない!」
「落ち着けアカネ、夢じゃない事は何ヵ月も過ごしたお前なら分かるだろ、ここは異世界なんだっ!!」


足下が崩れた。
認めたくない言葉を再び言われて、脳が完全に認めてしまったらしい。
でもわたしは落ちなかった。
お兄ちゃんが抱き締めてくれたから、落ちなかった。
わたしはお兄ちゃんと再会した時とは違い、今度は声も上げずにただ泣いた。
ゆっくり、ゆっくり受け入れると逆に冷静になれる。


「……帰れるの?」
「分からない。手掛かりが何も無いからな。俺もアカネの仲間に同行させて欲しいんだけど、いいか?」
「わたしに訊かれても……だけどリンなら絶対にOKしてくれるよ、わたしもお兄ちゃんが居てくれたら心強いし」


取り敢えず、異世界から来た事は黙っておく事に。
信じて貰えるまで時間が掛かるだろうし、万が一嘘つきのレッテルを貼られたら大変な事になる。
そう言えばニルスのお姉さん、と思って、お兄ちゃんと二人で砦へ入る。
ちょっと道に迷いながら奥の広間へ辿り着くと、リンが慌てて駆けて来た。


「アカネ、どこに行ってたのよ! 心配したんだから……!」
「ごめんね、ニルスのお姉さん見付かった?」
「ええ。エリウッドっていう人が助けてくれてて。来る時に会わなかった?」
「ううん。ちょっと迷ってたから行き違ったのかもしれないね」


リンの傍を見ると、ニルスと一人の少女が居た。
水色の髪を長く伸ばし、似た色をした足を覆い隠すほど長い衣装が神秘的だ。
儚げな表情も相まって、神秘的すぎるあまり人間じゃないように見える。


「アカネさま、ですか? ニニアンと申します。助けて頂いて、本当に有難うございました……」
「いえいえ、無事で良かった。ニルス、お姉さんと会えて良かったね」
「うん、アカネさんも有難うね。……ところで、あのひとは誰なの?」


ニルスが示した先、いつの間にか遠まいていたお兄ちゃんがこっちを見てた。
こっちおいでよと手招きして、主にリンに対してお兄ちゃんを紹介する。


「あのね、さっきお兄ちゃんと偶然再会できたの!」
「あ、ども。兄の朱蓮です。妹がかなりお世話になりましたー」
「お兄さんが生きてたの!? 良かったじゃないアカネ、元気そうで!」
「うん。……でもさ、まだ一緒に行動したいんだけど、お兄ちゃんも一緒に。良いかな……?」
「良いに決まってるでしょ、またよろしくね」


同行を認めて貰えて、お兄ちゃんもホッとしたみたい。
ニルスとニニアンは、二人で笛や踊りなどの芸でお金を稼いで旅をしていたけど、ニニアンが足をくじいてしまった為に二人だけの旅が難しくなった事でリンに付いて行く事になった。
もちろんリンは危険だからと拒否したけれど、二人には自分達に降り掛かる危険を少し前に感じる事の出来る特別な力があるらしくて、それで恩返しがしたいと一緒に行く事になったらしい。
こんなか弱そうな二人、置いて行く方が危険だしね。
出発しようとしたら、ニニアンが小さく声を上げた。


「……あ」
「? ニニアン?」
「指輪が無くなっているわ。ニニスの守護が……」
「そ、そんな! 奴らに持っていかれたの、母さんの形見なのに……!」


くそぉっ、と悔しそうに床を踏むニルス。
母さんの形見、という言葉にリンを見ると、彼女も気になるみたい。
リンはすぐにケントさんとセインさんを呼んで相談を始めてしまった。
ニルスとニニアンは、奴らを追って行くのは危険だから諦めると言うけれど、わたしだって放っておけない。

わたしは、お母さんやお父さんの形見となる物を何も持っていなかった。
燃え盛る家、“化け物”の牙に引っ掛かっていたお母さんのエプロン……。
あの光景が鮮明に思い出されて身震いすると、お兄ちゃんが手を握ってくれた。
お兄ちゃんも襲われて、いつの間にかこの世界に来ていたんだろうか。
お兄ちゃんが無事だったから、ひょっとしたらお父さんとお母さんも無事なんじゃないかと希望が湧いた。
でもわたしがそれをお兄ちゃんに訊ねる前に、歩み出たお兄ちゃんがリンに話し掛ける。


「えっと、リンだっけ。さっきアカネと再会する前に、南西へ走り去る変な集団を見掛けたんだ。ひょっとしたらそいつらが……」
「南西へ? ……そうかもしれない。ケント、セイン、奴らの消息を追って。南西の可能性が高いわ!」
「はっ!」


リンが命じ、ケントさん達が砦を出て行く。
わたしは不安そうにしているニルスとニニアンに近寄り、安心させようと笑顔を見せた。
……でも二人とも、一層不安そうになってしまった。
あれ? 逆効果?


「あの……アカネさん。ほんとに取り返しに行くの?」
「うん、行くよ」
「でも、きっと奴らのアジトへ行く事になるよ、さっき戦った奴らより、もっともっと強い奴がたくさんいるよ、きっと!」
「……指輪の事はもういいのです。どうか、リンさまを止めて下さい」
「ニニアンまで……。大丈夫、みんなすっごく強いんだから安心して。リンを守るべきケントさんやセインさんも了承したんだから、きっと勝算はあるよ!」


……だと信じたい、なんて、わたしが感じている少しの不安を出さないように努めたの……バレてないといいな。


+++++++


ニルスとニニアンを狙っていた一団の残党達は、南西の……カートレー領のはずれにある古城に逃げ込んで行ったらしい。
日が暮れてしまう前にと急いでいると、リンがわたしの隣に居たお兄ちゃんへ声を掛ける。


「そう言えばあなた、シュレンだったかしら。剣を持っているけど強いの?」
「んー、まあそこそこ。足手纏いにならない強さはあると思うけど」
「剣……? お兄ちゃんいつの間に? そんなの扱えるなんて知らなかった」
「なに言ってんだよ、お前だって魔法なんか使いやがって羨ましい。あーあ、俺も素質あったらなあ」


確かに、夢中で気付かなかったけどお兄ちゃんは一振りの剣を携えてた。
この世界に来て3ヶ月あまり、お兄ちゃんも戦えなきゃ生きられない生活をしていたのかもしれない。
いつか、この旅の苦労や恐怖を笑って話せる日が来ればいいな。
そこにはお兄ちゃんだけでなく、お父さんとお母さんも居て欲しい。

……人殺しになったわたしが元の世界で、平成の日本で果たして受け入れられるのか不安だけど、ね。



やがて辿り着いた古城。
偵察から戻ったセインさん達の報告によると中は思ったより数が多いみたい。
敵が待ち構えてるところに攻め込むんだから、かなり慎重にいかないと。
中は狭い通路や小部屋があって、わたし達は何人かに分かれる事になった。
壁となる前衛の後ろから、後衛となる魔法使いや弓使いが攻撃を加える。
リンはわたしを傍に置きたがったけど、わたしの魔力がなかなか高いという事で戦力分配のため、他の人と行動を共にする事に。


「ごめんねアカネ、私が守ってあげたかったのに」
「リン、リンはちょっと色々と背負いすぎだよ。命を狙われてるんだからもっと自分の事にかまけて。わたしも戦い慣れて来たし、お兄ちゃんも居るから」
「……なんか、今まで私がアカネを守ってたのに、取られた気分だわ。ちょっとヤキモチ焼きそう」
「なーに言ってんだよ、俺がアカネの兄貴なんだからアカネを守るのは俺の役目! 先に取ってったのはそっちだろ」


いきなり割り込んだお兄ちゃんに、リンにはお世話になったんだから張り合わないでよと抗議する。
だけどお兄ちゃんは謝る気も無いらしくて、役目は譲らねぇぞー、て笑ってる。
さっきまで少し遠慮してた風だったのに、もう慣れちゃったんだから……。
調子に乗ったお兄ちゃんにムッとしたリンが言い返す前に、主君を下に見られ密かに腹を立てたらしいケントさんが、爆弾を投下した。


「シュレン、君もアカネとは別行動だぞ」
「」
「我々と行動を共にするからには従ってもらう」
「」


言葉を失っているお兄ちゃんにリンが小さく、いい気味ねー、なんて笑ったのが、お兄ちゃんに届いていませんように……。



本来なら人気が無いはずの古城に、たくさんの声が響いては吸い込まれて行く。
戦闘を開始したわたし達は三手に分かれて突入し、今まさに交戦中。
そんなに大きなお城じゃなかったらしく、中は砦のようで通路も狭かった。

わたしはドルカスさん、ラスさん、マシューさんと一緒に左の方へ。
ドルカスさんを先頭に、後ろにはわたしとラスさん、その後ろにマシューさん。
マシューさんは盗賊だから戦闘向きじゃないと言っていたけど、ドルカスさんとラスさんは場慣れしていて安心できる……けど。


「……」
「……」
「……」


し、静かだ……!
戦場でべらべら喋ってる方がおかしいんだろうからこれが正しいと思うんだけど、にしたって静か!
敵を斬ったり射ったり燃やしたりしてるのに、心なしか何もしてないより静かな気がする……。
明らかに自分がおかしい気まずさを抱えていると、後ろのマシューさんにちょんちょん肩をつつかれた。
ドルカスさんやラスさんの邪魔にならないよう、あくまで小声で応える。


「何ですか?」
「いや、寡黙な男に辟易してるんじゃないかと思ってちょっかい出してみた」
「……戦場ではこれが普通だと思いますけど。用が無いならこんな時にふざけないで下さいよー」


もう、と呆れて前に向き直れば、ごめんごめんと笑いながらもう一度、今度は普通に肩を掴まれた。
いい加減にして下さいとわたしが怒鳴る前に、マシューさんは前方右側の壁を指差す。


「あの壁、かなりヒビが入ってるから壊れるぞ。中からお宝のニオイがする」
「ニオイって……て言うかお宝目当てですか」
「何を言ってんだよ、オレ達がいま探してるのは指輪じゃねぇか。違っても役立つ物かもしれない、利用できるモンはしようぜ」


ニヤリと笑ったマシューさんに、盗賊稼業したいだけなんじゃないかと思った。
けど確かにわたし達が探してるのは指輪だし、違ってもお金になる物なら旅の助けになってくれるはず。
通路の先が行き止まりだったので、マシューさんが示した壁を壊してみる事に。

ドルカスさんが斧を振りかぶり、ラスさんがすぐ突入できるように馬を構えさせ弓と矢をつがえる。
敵と戦うと考えるならいつもの事なのに、先が見えないだけでかなり不安だ。
わたしも魔道書を構えていつでも魔法が使えるように魔力を含蓄した。

斧が振り下ろされる。
長い年月放置されていたらしい壁は予想外に広い範囲が壊れ、わたし達の前には待機していたらしい数人の敵。
槍使いのソルジャーと傭兵が数人、ソルジャーは手槍を持ってないから……間接攻撃が出来る敵は居ないね。
真っ先に向かって来たソルジャーにラスさんが弓を放ち、ドルカスさんが突っ込んで傭兵を仕留める。
わたしが炎魔法を放って一人を倒すと瓦礫だらけの部屋に土煙が巻き起こり、それに乗じたマシューさんが傭兵の背後に回って息の根を止めた次の瞬間、再び放たれたラスさんの矢がもう一人、命を奪った。

我ながら見事と思える連係プレーで部屋の中に居た敵は倒してしまい、嬉々として宝箱を開けるマシューさん。
っていうか宝箱あったの、気付かなかったよ……。
開けると頑丈な鎧を纏った敵に効果的なハンマーの武器があって、なんだハンマーかとつまらなさそうに呟いたマシューさんは、ドルカスさんにそれを渡した。
この辺りの敵は大体片付いたみたい。
わたしは何となく隣に居たラスさんに、思い切って声を掛けてみる。


「みんな、敵を倒してしまったでしょうか。大丈夫だと良いんですけど」
「……喧騒が先程よりずっと小さく少ない。心配しなくても勝っているだろう」


……会話して貰えた。
いや、ラスさんは普段が無口なだけで、決して無視するような人じゃないっていうのは分かってたけど。
それでも妙に感動したわたしが浮かれて、進んで皆と合流しましょうと言った瞬間、寒気が走る。
え、と思って、どこからか放たれるその寒気の元を探して視線を動かした。
他に何か無いか探るマシューさん、次いでこちらに体を向けているドルカスさんが見え、瞬間、彼の背後にある部屋の出入り口に、魔道書を持った敵を発見する。

手に集まる暗黒……闇使いのシャーマンだ!
狙いは出入り口に背を向けているドルカスさん……!


「ドルカスさんっ!」


言葉より先に体が動いて、わたしは咄嗟にドルカスさんを突き飛ばす。
わたしの力では体格の良いドルカスさんを動かせなかったけど、面食らった彼がその場から二、三歩引いてくれて助かった。
ドルカスさんが居た位置にわたしの体が収まり、全身を闇に包まれる。

苦しい。
体が押し潰されそうな、逆に引き伸ばされそうな、よく分からない感覚。
ただ苦しく、外傷も付かないのに全身が痛むのを感じる……
けど、何とか踏みとどまり倒れずに済んだ。
ハッと気付くとシャーマンは矢が突き刺さり死んでいて、三人が心配そうにわたしを取り囲んでいた。

あ、助かったんだ。
そう思うと安心して笑みが浮かんでしまう。


「ドルカスさん、大丈夫ですか? 怪我は……」
「こっちの台詞だ。何故そんな無茶を……」
「仲間ですし、それにナタリーさんへ恩もあるから尚更、死なせられません」
「ナタリーに?」
「はい。わたしは臆病で、戦いから逃げてたんです。そうしたらナタリーさんに励まされて、諭されて。お陰様で役立たずから脱却できたし、恩人の旦那さんを死なせられません」


ドルカスさんと出会ったあの日の事だ。
あのナタリーさんの言葉が無ければきっと、わたしは今も役立たずで逃げてばかりで、そんなダメ人間のままだった。


「だからナタリーさんの為にも、絶対に生きてくださいね」
「……お前もな。兄と再会できたんだろう」
「もちろん、死にたくなんかないですから」


言い合って、敵が居ないのを確認して先へ進む。
どうやら他の二組は先に行ってしまったみたい。
わたし達が奥の部屋へ駆け込んだ時には、敵の将らしき男がリン達に囲まれ膝をついていた。


「リン、敵は……」
「大丈夫、倒したわ。さあ、指輪を返しなさい。それからニルスとニニアンにはもう手を出さないと約束して! そうすれば命だけは助けて……」


リンが言いかけた瞬間、男の体が不自然に傾いだ。
ひょっとして不意を突くつもりかと身構えたら、そのまま倒れてしまう。

……倒れる瞬間、
「失敗には死を」
……と、言い残して。

一歩踏み出そうとするリンを制して、ケントさんが倒れた男に近付く。
どうやら完全に死んでいるみたいで、歯か何かに毒を仕込んでいたみたい。
リンがケントさんの隣に寄り、男を見下ろして苦い顔で口を開く。


「……毒? 自分から命を断つなんて……」
「この者達はただの賊ではありませんね。かなり訓練された組織の一員でしょう」
「それが、どうしてニルス達を狙うの?」


リンの疑問に不安げな顔をするニルスとニニアン。
別に不審を抱いた訳ではないリンは二人に笑顔を向け、大丈夫、私達と一緒に居れば安全よと励ます。
ニルスもニニアンも元気が出たとまではいかないけど、少し落ち着いたみたい。
凄いな、さっき私が二人を安心させようとしたら逆に不安がらせちゃったのに。
リンの強さと人柄かな。

男が持っていた指輪を取り返し、ニニアンに渡す。
もう用は無いのでみんな立ち去るけど、リンに続いて部屋を後にしようとしたわたしは、最後にお兄ちゃんが残っているのに気付いた。
死んだ男を見下ろし……
背を向けているから表情は分からない。
どうしたのかと思って近寄ると、お兄ちゃんの小さな呟きが聞こえた。


「……黒い牙、か」
「お兄ちゃん?」


背後のわたしに気付かなかったのか、お兄ちゃんが勢い良く振り向いた。
その顔が憎しみに満ちていたように見えて硬直したわたしに気付いたのか、すぐ柔らかい笑みを見せる。


「悪い悪い、ニルスやニニアンみたいなか弱い奴を狙った下衆野郎だと思うとつい、な。行こうか、皆を待たせちゃ悪い」


確かに今、“黒い牙”って言ったよね……ブルガルで私を襲った奴ら。
まさかニルスとニニアンを狙ったあいつらは、黒い牙っていう組織……?
怖くなってしまったわたしはそれ以上、何も質問する事が出来なかった。


++++++


アラフェン領とカートレー領を抜けたわたし達は、ついにキアラン領へ入った。
でも今のキアランは、既に侯弟ラングレンの支配下にあるに違いない。
わたし達は急ぎ足でキアラン領を進んでいる。
ふと振り返れば、サカを出てからずっと麓付近を通っていた山脈は随分と遠い。
リンも同じ事に着目したらしくて、感慨深そうにしてる。


「見て、アカネ。山があんなに遠くよ! ……随分、遠くまで来たのね」
「ほんと……サカで暮らしてた頃には想像できなかったよ」
「リンディス様、アカネさん! ここまで来たら、急げば二日ほどで城まで辿り着けますよ!」


セインさんがリンを励まそうと、嬉しげに言う。
リンはそれを慮って嬉しそうな顔を向けたけど、すぐに俯いて悔しそうに、急いでも二日……と呟いた。
リンのお爺さんは病気だって噂が流れてる。
しかも、情報が錯綜して危篤だなんて噂もあるから気が気じゃない。
わたしは家族を全て失ってしまった筈だったのに、お兄ちゃんと再会できた。
なら同じく家族を全て失ってしまった筈だったリンにも、家族と再会してほしい。

ふと、わたしのやや後ろを歩いていたニニアンが、地面の凹凸に足を取られて転んでしまった。
一番近くに居たので慌てて駆け寄り、立たせてあげようと手を差し出す。


「ニニアン、大丈夫?」
「あ、はい。すみませんアカネさま……」


一瞬。
ニニアンの手に触れたほんの一瞬、指先から凄まじい冷たさが襲って来た。
冷たっ、と声を上げて思わず手を弾いてしまい、はっとしてニニアンを見る。
彼女は驚いた顔で弾かれた手を押さえていた。


「わー! ごめんねニニアン、なんか冷たくて……。ひょっとして具合悪いんじゃないの、大丈夫?」
「あ、いえ、大丈夫です。……アカネさまこそ、熱があるのではないですか?」
「え?」
「……手が。すごく、熱いです」


言われて、自分の手を触ってみるけど何ともない。
って、自分で触っても他人との体温の違いなんて分かんないか。
具合も悪くないし、特に熱くなる要素は無い。
もう一度、恐る恐るニニアンと手を合わせてみても、今度は何ともなかった。
ウィルさんと辺りを楽しげに見物していたニルスも戻って来たので、ニニアンを立たせてニルスに任せる。

……その瞬間、ニルスとニニアンがハッとして辺りを見回した。
そしてリンの方へ駆けて行き、慌てて声を掛ける。


「リンさま、大変だ! なにか危険が……!」
「何ですって!?」
「……っと言っても、今のところ何も見えませんが」


顔色を変えるリンと、特に普段通りのセインさん。
周りの皆も辺りを警戒するけど敵の影も無い。
でも強く感じます、と呟くように言ったニニアンは目を瞑り、集中してる。
次の瞬間、ニニアンが珍しく大声を上げた。


「リンさま、動かないで!」
「え?」


逆に反射的に動きそうになるのをこらえ、その場にとどまるリン。
すぐさま空から、弓で射るには大きいと思われる矢が飛んで来て、リンの進行方向の地面に刺さる。
すぐケントさんがリンを庇うように前に出て、セインさんが背後を確認する。


「な、何なの、これは一体……!?」
「シューターです! 離れた敵を攻撃できる武器で、空に向かって放つ巨大な弓矢のような武器です」


弓矢のような武器という言葉に、フロリーナがびくりと震える。
そう言えばペガサスナイトやドラゴンナイトみたいな空を飛ぶ兵は、弓矢が弱点なんだっけ。
先の方へ進んでいたお兄ちゃんが足早に戻って来てわたしの隣に並び、近くのフロリーナに、お前は対策が取られるまで危ないから飛ぶなよ、と釘を刺す。

有効な戦略は、体力のある人が傷薬などで回復しながら囮になって矢を撃ち尽くさせるか、一気に突っ込んで使用者を倒すか。
使用者を倒せば、逆に利用して形勢を一気に逆転させられるかもしれない。
弓を操る歩兵のウィルさんなら使えるだろうって。
ラスさんは馬に乗りながら弓を使うので、歩兵とは弓の構造が少し違うみたい。
どちらの手で行こうかとリン達が相談していると、お兄ちゃんが進み出る。


「俺が一人で突っ込んで奪って来る。何か合図を出せる物って無いか?」
「なに言ってるのお兄ちゃん、無茶だよ!」


いきなりの主張。あまりに無謀すぎるよそれ……!
わたしだけでなく、リン達も無茶だと止める。
だけどお兄ちゃんは剣を担いで不遜な態度を見せていて、主張を変える気は無いらしい。


「ケント、シューターの射程はハッキリ分かるか?」
「おおよその飛距離は分かるが風などの条件で変わるし、固体によっても差異があるから断言は出来ない」
「ほら、矢だって何本あるか分からないし、撃ち尽くされるまで待ってちゃ時間が無駄になる。撃ち尽くしたと見せ掛けてまだ残ってる、みたいな罠もあるかもしれないしな」
「そうだけど無茶よ、シュレン一人なんて! もしもの事があったらアカネはどうなるのよ!」
「リン、俺は勝算があるから言ってるんだ。アカネを守る役目をお前から奪い返さなきゃいけないのに易々と死ぬかよ。それにお前の爺さん、病気だって噂があるらしいじゃねぇか。急ぐ必要があるだろ」


祖父の話題を出されたリンが押し黙った。
そうだ、リンのお爺さんは危険な状態かもしれないんだ、あまり猶予は無い。
お兄ちゃんはわたしの頭をポンポン叩いて、大丈夫だと笑顔で示した。
わたしは困った様子のリンに頷いて、お兄ちゃんを行かせてあげてと告げる。
リンはやっぱり迷っていたけど、一番の気掛かりだったわたしが了承した事で心を決めたのか、お兄ちゃんに特攻をお願いした。

ケントさんが持っていた狼煙を受け取り、これが見えたらウィルを連れて来てくれとフロリーナに頼んで、シューターがある南の高台へ向かうお兄ちゃん。
わたし達はお兄ちゃんの無事を祈り、ただひたすらに待つしか出来ない……。
と思っていたら、20分も掛からないぐらいの短時間で、南の高台から狼煙が上がる。
あまりの早さに仲間達からどよめきが上がった。


「まさか、もう……!? フロリーナ、ウィルを連れて狼煙の場所へ向かって。くれぐれも気を付けてね」
「分かったわ、リン」


ちょっと男性恐怖症気味だったフロリーナも、この旅でマシになって来たみたい。
フロリーナがウィルさんを連れて飛び去った後、わたし達も南へ進軍する。
やがて向かって来た敵の頭上にシューターの矢が降って行き、ウィルさんが撃っている事が分かった。
味方だと思っていたシューターから攻撃を受けた事で敵軍に混乱が走り、指揮系統が乱れ始める。
そうなると、旅で強くなっているリン達の敵じゃなかった。
あらかた敵を片付けたところで、シューターの所に居たお兄ちゃんとウィルさん、フロリーナと再会。


「お兄ちゃん、大丈夫!?」
「おー心配すんなアカネ、この通りピンピンしてるよ」
「シュレンは大丈夫そうね、フロリーナとウィルは何ともない?」
「うん、大丈夫……」
「いやー、シュレンがマジで凄いっすよ! シューターを奪い返そうと敵が向かって来たんですけど、ぜーんぶ一人で返り討ちにしたんです。しかも無傷って凄すぎでしょ!」


興奮気味に話すウィルさんの言葉に、誰もが驚いてお兄ちゃんを見る。
わたしだってびっくりした。お兄ちゃんがそんなに強いだなんて聞いてない。
たった3ヶ月ぐらいでそんなに強くなるなんて、お兄ちゃんはこの世界に来てからどんな暮らしをしたんだろう……。
平和な平成の日本で過ごしていた平凡な高校生であるお兄ちゃんを、こんなに鍛え上げた人が居るはず。
一体どんな人なんだろう、いつか会えるかな?


「どうだリン、俺の強さ。お前より俺の方がアカネを守るのに相応しいぞ、さっさと諦めろ!」
「う……。で、でもそんなに強いなら単独で敵を撹乱して欲しいわね。私はアカネと一緒に行動するから」
「そう来たかこの野郎!」


……ところでリンとお兄ちゃんは何で私を守るポジションについて張り合ってんの、恥ずかしいんだけど。

気を取り直し、敵将が構えている更に南の砦へ皆で進軍した。
お兄ちゃんみたいな強い人が居ると知って士気が上がったのか、勢いづいたわたし達は敵将とその側近を難なく撃破する。
キアランまでの距離が近付いたのに、ケントさんとセインさんが浮かない顔をしていて、気付いたリンがどうしたのか訊ねると。


「戦っていて気付いたのですが、今の者達はキアランの正規兵です。中には我らの顔見知りもおりました。だが何の躊躇いも無く襲い掛かって来るとは……」
「大方、ラングレン殿に寝返ったんだとは思いますがね、薄情な奴らだ。城に着けばさすがのラングレン殿も手が出せませんよ」
「残念だけど、そう簡単には行かないみたいですよ」


突然そこに割り込んで来たのはマシューさん。
そう言えば姿が見えなかった。どうやら町で情報収集して来たみたい。
……けれど、彼が持って来た情報は、わたし達に絶望を与えるもの。

まず、リンのお爺さんであるキアラン侯の病気は本当で、もう何ヵ月も寝込んでいるんだとか。
そして噂の域を出ない情報だけど、侯爵の病気はリンの命を狙う侯弟ラングレンが毒を盛っているから。
それを証言できそうなキアラン侯爵を慕う側近は、口封じで殺されたらしい事。
ここまででも最悪の事態だと言えるのに、マシューさんの悪い話は止まらない。
下には下があった。


「最悪なのはここからです。“キアラン侯爵の孫娘を名乗る偽物が現れた”と、ラングレンが領地中に触れ回ったそうです。裏切り者のケント、セインの両騎士が偽物の公女を立てて城の乗っ取りを狙ってると」
「な、何だと!?」


ケントさんもセインさんも絶句してしまう。
リンは公女だと証明できるものは何も持っていなくて、こうなるとキアラン侯に会うしか証明する手立てが無い。
でも、いきなり城を攻めても、近くの領地から援軍が来て厄介な事になりそう。
世間的にはこっちが悪者なんだから……。
そうなれば、孤立したわたし達に勝ち目は無い。
そこでリンが何かを思い付いたらしく、やや俯けていた顔を上げた。
そして、目を輝かせて。


「そうだわ、エリウッド! 彼なら話を聞いてくれるかもしれない。今ならまだ、カートレーに居る筈よ」


リンの提案に皆が賛成し、ニルスやニニアンと出会った辺りまで戻る事に。
わたしはまだ会ってないな、そのエリウッドって人。
リンが言うにはリキア貴族らしいけど、リンが頼るって事は他の貴族と違ってサカに偏見なんか無い人なんだろう。

もはや一刻の猶予すら無い。
わたし達は最後の希望を賭けて、カートレー領へ引き返し始めた。





−続く−


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