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2章 旅立ちの時



違う。
私は……。


お前だ。お前のせいだ。
お前が死ななかったから。
お前が逃げたから。


私……逃げてなんか…。


ふと、妙な感触に振り返れば。
血まみれのロイが、ヘクトルが、
首の無い家族達の体が、
強く、ルミザに縋り付いていた…。


++++++


「姫……姫、しっかりして下さい」
「……!」


自分を軽く揺する感覚と聞き慣れた優しい声が、ルミザを悪夢の底から救い出した。
重い目蓋を開けると、心配そうなエリウッドの瞳と視線がぶつかる。

恐ろしい夢。
自分に縋り付く血まみれのロイとヘクトル、首の無い王族……家族達。
明らかにあの襲撃が糸を引いている。
ルミザがそれをエリウッドに話すと、彼は優しく手を握ってくれた。


「姫、それは夢です。ご家族の事は悔やまれますが、まだロイやヘクトルが死んだとは限りません」
「……そうね」


不安、恐怖、後悔、悲しみ。
それらは容赦なく襲い掛かって来るが、こんな所で立ち止まっていられないのは事実だ。

追っ手を振り払い王都からの脱出を果たした、ラエティア王国第4王女のルミザ。
エリウッドと馬に相乗りしたまま、司祭に言われた虹の巫女の元へ向かった。
ここは途中立ち寄った村の宿屋。
生贄にされる前に、最後の情けで美しく着飾っていたルミザの服装はよく目立ってしまう。
代わりの服を買う為にこの村に立ち寄り、昨日はそのままこの村に泊まったのだった。


「まだお休みになって下さい。焦るお気持ちは分かりますが、姫が倒れてしまえば意味がありません」
「……エリウッド、2人の時はいいけれど、人前では姫と呼ばないでね」」


いつ、あの軍隊が追って来るか分からない。
少なくともラエティア王女と言う身分を他人に知られるような事は避けたかった。

エリウッドはすぐに謝るが、困ったような顔をする。
今までずっと“姫”と呼んでいただけに、どう呼べばいいか分からない。
ルミザは名前だけを呼べばいい、敬語もやめてと言うが、やはり生真面目なエリウッドは、急に敬語をやめる事が難しい。


「僕はやはり、姫……あ、いえ、ルミザ様の臣下なのですから…」
「困ったわね……」


2人で色々考えた挙げ句、ルミザはずっと昔に没落した富豪の子孫で、エリウッドは、代々その富豪の家に仕えていた従者の一族の者、と言う事で丸く収まった。
取り敢えず、何も知らない人の前ではその設定で行動する。
何だか芝居の役者にでもなった気分で、どうにもくすぐったいような感じだ。

とにかくまだお休みになって下さいと、エリウッドは優しくルミザを寝かしつけようとする。
その心地良さに、ルミザは再び眠りへと落ちて行った。


++++++


やがて太陽が完全に顔を出した頃、ルミザは再びエリウッドに起こされて目を覚ました。
軽く朝食を取った後、出発する。

虹の巫女は、ここから更に東に行った草原に住んでいるらしい。
その情報にルミザは軽く驚く。
巫女と言うからには、荘厳な神殿等に居るイメージがあるのだが。
司祭の話では7人の巫女達は皆、個々の生活をしながらその傍らで巫女の務めを果たしているという事だった。
だから巫女達は皆、様々な生活をしていると。
どんな人物かは分からないが、会わなければ話は進まない。
2人は村を出ようと馬を進めた。

……その時、村人達の噂話が耳に入って来る。


「聞いた? 王都がどこかの軍隊に襲撃されて、制圧されたらしいわよ」
「そうなの!? 陛下達はどうされたのかしら…」
「……」


そろそろ噂になって来ているようだ。
やはり胸が痛んでしまう。
そんなルミザの胸中を知るはずもなく、噂話はなかなか止まらない。


「この国はどうなっちゃうのかしら。私、奴隷になんてなりたくないわよ」
「それにしても、どうしてあの堅牢な王都が、こんな簡単に落ちたの?」
「軍は何をやってたのよ、本当に」


そうだ。
国が落ちれば、国民には多大な迷惑がかかる。
ルミザは今すぐにでもあの噂話をしている者達の元へ行き、平身低頭に謝りたい気分だった。
本当にあの襲撃は防ぎようが無かったのだろうか?
……どうしても、後悔ばかりが先に浮かぶ。
そんなルミザの心情を察したのだろう、エリウッドが今にも飛び出しそうだったルミザを引き止める。


「今は、虹の巫女に会い、邪神を倒す方法を手に入れるべきです。悔やんで落ち込んでばかりでは、状況は悪くなる一方ですよ」
「……ええ」


エリウッドの言う通りだ。
今は国を捨てる覚悟を決めなければならない。

ただ逃げるのではない。
国を助ける為に必要な行動。
いつか必ず国を救う為に帰って来ましょう、と言うエリウッドにルミザも頷く。
未練や不安、恐怖が無い訳ではないが、気持ちをいくらか改め、今度こそ村から出発する。

……その瞬間、既に遠ざかっていた村人達の言葉がギリギリ聞こえて来た。


「そう言えば、うちの人がこっそり王都を見て来たんだけど、奇襲して来た軍隊ってルネス王国の軍だったらしいわよ」
「……!?」


ルミザは思わず振り返るが、もう声は聞こえない。
そんなルミザの動作に気付いてエリウッドは怪訝そうに声を掛けるが、彼女は何でもない、と笑って聞こえた話の内容は言わなかった。
今の最後の言葉はエリウッドには聞こえなかったらしい。
ホッとしたような、1人で抱え込む事になって苦しくなるような複雑な感情が、ルミザを支配する。

ルネス王国。
大陸の北西、つまりこのラエティア王国の北に位置する王国だ。
その国の王家の者達はどの王家よりも武術に通じていて、特に槍の名門だと聞いた事がある。
小さい頃、ルネスの国王と王子がラエティア王都に滞在した事があって、ルミザはルネス王子と交流を持った。
彼も槍使いを目指して修行に励んでいて、ルミザは、自分と殆ど変わらない歳の小さな男の子がそんな事をしていると知り、憧れさえ抱いたものだ。

ルネス王子の名前は、エフラム。

随分と仲良くなったので別れる時は思わず泣いてしまったし、あれから会った事は一度も無いが、ずっと文通を続けている。
しかし。
ふた月程前、生贄になる事が決まった後に別れの意味を込めて手紙を出したのだが、何故か返事が来なかった。
最期になるから返事が欲しかったのにと悲しくなったルミザだが、まさか、侵略する予定だったから返事をしなかったのだろうか?
もう10年以上も会わない友人を想い、ルミザは胸を痛めた。


++++++


ルミザとエリウッドを乗せた馬は村を出て森を抜け、やがて広々とした草原に辿り着いた。
開放感溢れる景色の端に、一件のこぢんまりとした家が目に入る。
あれがどうやら虹の巫女が住んでいる家らしい。
近付き、改めて見てもやはり普通の家だ。
作物が栽培されている畑や最低限の家畜を飼っている小屋が家の側にある。


「すみません、こちらに、虹の巫女がお住まいだと伺って来たのですが…」


エリウッドがドアをノックして言うと、少し間が空いた後に「どうぞ」と声が聞こえて来た。
遠慮がちにドアを開け家の中に入る。
正面のテーブルに座っていたのは、黄色の髪をした女性。
服装も普通で、一見どこにでも居そうな村娘のように見える。
しかし、その純朴さの中に清楚で澄み切った、どこかミステリアスで神秘的な雰囲気を感じ取りただ者ではないと悟った。


「初めましてルミザ王女、エリウッド公子。私は虹の巫女の1人、フラウム・アルクスと申します」


フラウムと名乗った女性は、席から立ち上がり軽く会釈をする。
ルミザ達も軽く会釈した後、促されて席へ着いた。
どうやら彼女は、大体の事情は知っているらしい。
邪神をどうにかしなければなりませんねと呟き、テーブルの上に乗っていた箱から、黄色いガラスで出来たような球体を取り出した。
一切の濁りが無く、心を吸い取られてしまいそうなほどの美しさだ。


「それは……?」
「これは、私達巫女が一人一つずつ持っている、“マテリア”と呼ばれるものです。これらを全て集め、虹の巫女の中で最も高い地位を持つ巫女に渡せば、邪神を倒せる力が得られるらしいのです」
「……“らしい”、ですか?」


何だかやけに曖昧な言葉。
不安になったエリウッドがフラウムに尋ねると、彼女は申し訳無さそうに首を縦に振った。

彼女は虹の巫女だが他の巫女には会った事が無く、この虹の巫女と言う役割が何を意味しているのかさえ分からないらしい。
意外な言葉。
てっきり全てを知っているものと思っていただけに、ルミザ達は拍子抜けしてしまう。
ふとルミザはある事が気になり、フラウムに尋ねてみた。


「あの、フラウムさん。貴女は何故、虹の巫女になったのですか?」
「……私は、元々この家で、両親と普通の暮らしをしていました。畑仕事をして家畜の世話をし、平凡ながらも幸せでした…」


しかしある日、フラウムは夢で何者かに語りかけられた。
選択権は無かったと言う。
虹の巫女についての簡単な説明と、マテリアを託された後に目が覚めたのだが、もう頭の中には巫女にならなければならないと言う責任感がいっぱいにあった。
普通の暮らしをする傍ら、時折、知りもしない筈の祈りの言葉を使って祈りを捧げるようになる。
更に、空や、行った事など無いどこか遠くと繋がっている気がして、瞑想する事が多くなった。

両親はそんな彼女を見て、彼女の気が狂ってしまったと思い込んだらしい。
父は耐えきれずに、母の教育が悪いからだと母を毎日のように責め立てた。
普段から仲の良い両親だっただけに、フラウムのショックは大きかった。
気が狂った訳ではないといくら言っても聞き入れて貰えない。
やがて母は、毎日責め立てられる内に本当に自分のせいだと思うようになり、自分が精神を病んでしまい自ら命を絶った。
母が死に、父は母を責めた事を後悔してどんどんふさぎ込むようになり、それから父も自ら命を絶ってしまったという。

ルミザとエリウッドは、彼女の境遇にいたたまれない気持ちになる。
巫女に選ばれた事で、彼女の人生は狂ってしまったのだ。


「……後悔していないのですか? 巫女になった事」
「出来ないんです。夢で誰かに語りかけられたあの日から、私は巫女であるべきだと、頭にはそんな考えばかり浮かんで…」


自分で自分の思考をコントロール出来ない。
まるで、何か大きな力によって操られているようだ。

フラウムは黄色いマテリアをルミザに差し出して微笑む。


「このマテリアをお持ち下さい、ルミザ王女。私は、これは貴女に渡すべきだと判断しました。……尤も、それも知らない間に誰かから受けた使命なのでしょうが……」


それはそうだ。
ついさっき会ったばかり。
なのに彼女は会う前から、ルミザになら会っていい、つまりはマテリアを渡していいと判断したのだ。
彼女が巫女になった時と同様に、何か大きな力によって思考を操られていると思われる。

何にしても、邪神を倒せる唯一の希望だ。
ルミザはしっかりと、マテリアを受け取った。
直後、エリウッドがある事を質問する。


「フラウムさん、他の巫女がどこに居るかは分からないんですか? こうも手掛かりが無いのでは……」


確かに、この大陸を闇雲に動き回っても、かなりの時間がかかってしまう。
フラウムは少しだけ考え込み、やがて遠慮がちに口を開いた。


「他の巫女達がどこに住んでいるのか、どんな暮らしをしているのかは分かりませんが…」


フラウムの話によると、巫女は大陸の1つの国に1人ずつ居るらしい。
そして、名前だけなら分かると。


「私達虹の巫女は、名前が決まっているのです。虹の七色……。巫女になった瞬間に、その七色のうちマテリアと同じ色の名前を授かります」
「では、貴女のフラウムと言う名前は……」
「本名ではありません。……本名は、巫女になった瞬間に馴染まなくなり、呼んでくれる両親が居なくなってからは、完全に忘れてしまいました」


フラウムとは、黄色。
だから彼女は黄の巫女。
フラウム・アルクスのアルクスという名は虹の巫女全員に付いていて、それは虹の神……虹を指す古代の言葉だとか。
彼女が自分の本名を忘れた事も、両親が、彼女の精神が病んでしまったと思い込んだ原因の1つだ。
辛い事なのに彼女はそれを微塵も感じさせない。
彼女が強いのか、また何か大きな力による干渉なのかは分からないが。

そして、他の巫女達の住む国と、名前。



【緑の巫女、ウィリデ・アルクス】
大陸の中央に位置する、カネレ王国に住む。

【青の巫女、レウム・アルクス】
大陸の南に位置する、リデーレ王国に住む。

【赤の巫女、ルブルム・アルクス】
大陸の北西に位置する、ルネス王国に住む。

【橙の巫女、マールム・アルクス】
大陸の東に位置する、ドルミーレ王国に住む。

【紫の巫女、ウィオラ・アルクス】
大陸の北に位置する、ロクイー王国に住む。

【青紫の巫女、レオラ・アルクス】
行方は知れない。



「青紫の巫女だけが、行方知れずなんですね?」
「はい…。何故か彼女の事だけが分からないのです」


分からないのなら仕方がない。
とにかく、マテリアを手に入れる為に動かなければ。
どこから行くべきか……近場は北のルネスか南のリデーレ、東のカネレだが。

友好のあるルネス王国に出向いて、ルネス王に協力を要請しようかと提案するエリウッド。
それを聞いたルミザの表情が曇る。
出来ればそうしたいのは山々なのだが、先程の村人達の噂を聞いたからにはルネスへ行くのが躊躇われた。
言いたくない、聞きたくない。
自分の国を侵略したのが、エフラムの国かもしれないなんて……。
ルミザが黙り込んだ事を訝しんだエリウッドが声を掛ける前に、フラウムが口を開く。


「ルネス王国は…、暫くは行かない方がよろしいかと思います」
「どうしてですか?」
「ラエティア王都を侵略したのは、ルネス王国です」
「!? まさか…! ルネスはラエティアと友好国なんですよ!?」
「残念ながら、事実です」


やっぱり、そうだった。
ルミザが落胆に沈む。
もう10年も前とは言えエフラムとは仲のいい友人だと言えた。
今までずっと文通も欠かさなかった。
しかし個人同士が仲が良くても国としてはどうだっただろうか。
自分達の事にばかりかまけて、国際情勢を甘く見ていたのかもしれない。

とにかくルネスに行くのは危険だ。
いずれ行かなければならない事には変わりがないが、時期を見た方がいいだろう。
フラウムが、大陸中央のカネレ王国に行ってはどうかと提案する。
ルネスとは隣接しているが険しい山で隔てられているし、南のリデーレには今、大嵐が来ているらしい。
その勧めに従い大陸中央のカネレを目指す事に。

これから先、何が待ち受けているのか分からない。
どうしても不安になる。
そんなルミザの心情を悟ったのか、フラウムは笑顔である言葉を捧げた。


「Petite et accipietis, Pulsate et aperietur vobis.」
「え?」
「ペティテ・エト・アッキピエーテシス,プルサーテ・エト・アペリエートゥル・ウォービス」

“求めよ、そうすればあなたがたは(求めたものを)受け取るでしょう。叩け、そうすれば(叩いた扉が)あなたがたのために開かれるでしょう”

「大丈夫です。行動すればきっと、求めたものはあなた達に応えてくれます」


にっこり微笑むフラウムを見ていると、心が落ち着くのを感じる。
それはエリウッドも同じようだった。

失敗する事や失う事を怖がって何も求めようとしない、それは愚かな行動に他ならない。
ましてルミザ達のような祖国を救わねばならない責任ある立場とあっては。
フラウムはそのプレッシャーを軽減しようと励ましてくれたのだ。
全力を掛けて求めればきっと授けられる、行動すれば次なる扉が開いてくれる。

ルミザは例を言い、フラウムはホッと息を吐く。
2人は微笑んで互いに手を取り合った。


++++++


そして、翌日。
フラウムの家に泊めて貰ったルミザ達は、日が登り切った直後に出発の準備を終えた。


「フラウムさん、お世話になりました」
「はい。くれぐれも、ルネスに見つからないようご注意下さいね」
「貴女は大丈夫ですか?」


そろそろ、ルネスも王都から国中に侵略の手を伸ばしているかもしれない。
ルミザが狙いならば、必ず彼女の足取りを追おうとするだろう。
そうなればフラウムの元にやって来る可能性もある。


「大丈夫です。ご心配なさらずとも、私には虹の神が付いております。ルミザ王女とエリウッド様は、マテリア集めに集中して下さい」
「……分かりました。でも、気を付けて下さいね」


もう一度フラウムに別れを告げると、2人は乗った馬を走らせて出発した。
ついにこの国を出る事になる彼ら。
どうしても不安になってしまう事は避けられない。
しかし、自分達がやるしかないのだ。
自分を気遣ってくれるエリウッドに、ルミザは笑顔で応える。


「私は大丈夫よ。エリウッドも付いてくれているのだから」
「姫……」


忠誠を誓う相手に信頼されるのは、臣下にとって喜びに他ならない。
今はエリウッドしか縋る相手が居ないから、そう言ってしまえばそれまでかもしれないが、ルミザは確かにエリウッドを信頼し切っていた。
エリウッドは嬉しそうに微笑んだ後、真剣な表情で自分の前に座るルミザに力強い支えを送る。


「僕は貴女に出逢った時から貴女と運命を共にする覚悟は出来ていました。ご安心下さい、ずっとルミザ様に仕えると心に決めていますから」
「……そうだったの。有難うね、エリウッド」


エリウッドの方に振り返ってお礼を言った後、ルミザは更に後方を見て祖国に想いを馳せる。

奪われてしまった故郷。
明日をも知れない民達。
亡くしてしまった家族。
生死の知れない友人達。

未練は山のようにある。
しかし、もう後戻りなんて出来ない。

カネレ王国を、次の巫女、ウィリデを目指して、ルミザとエリウッドを乗せた馬は、大地を力強く駆けて行く。





−続く−



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