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16章 海原女神の祭



地上に降りた天国……蒼と白に包まれた美麗なる町で起きた思わぬ再会は、衝撃的なものだった。
ラエティアの王城から脱出する際に囮役を自ら買って出て、行方知れずとなったヘクトル。
王女達を待っていたのは記憶を失った彼との再会。
ルミザ達はヘクトルや領主親子に事のいきさつを説明するが、3人とも困った顔をするばかり。
当のヘクトルが一番困った顔をしていて、話を聞き終わった後に溜め息を吐きながら口を開いた。


「……そんな事を話されてもなあ……。お前らは俺にどうして欲しい?」
「それは、私の旅に付いて来て貰えれば心強いのだけれど……。あなたが何も覚えていないのでは、連れて行けないわ」
「そもそもヘクトル、お前なんで自分の名前だけは覚えてたんだ?」


ロイの至極当然な疑問に、ヘクトルは懐から千切れたミサンガを出した。
これはヘクトルが昔からお守りにしている物で、やんちゃだった彼の行動で千切れてしまっている。
しかしそこには確かに、彼の名が記されていた。
他に身元の証明になるような物が無かった為、この文字を名前にしたとヘクトルは話してくれた。

どうやら3週間近く前、町から離れた平原に倒れていた所を通りすがった領主に救われたらしい。
3週間近く前ならば丁度ラエティアの王都が陥落した時期。
しかしロイの時と同じ疑問が浮かんでしまう。
どうやって助かったか、どうやって他国までやって来たのか。
すっかり黙り込んでしまったルミザ達の代わりにエフラムが口を開く。


「記憶が無いんじゃ、分かりようがないな……。しかし皆、彼を連れて行きたいんだろう」
「……どうしても、そうしたいのですか?」


ルミザ達の代わりに応えたのはアンジェリカ。
彼女は悲しげに眉を下げて、隣のヘクトルに寄り添っていた。


「ヘクトルは何も覚えていないのです。例え思い出したとしても、付いて行きたいと思うか……」
「ヘクトルだってルミザ様に忠誠を誓ったんだ。記憶さえ戻れば絶対にオレ達と一緒に行きたいって思うさ!」


ロイは絶対の自信を持って告げるが、当のヘクトルはやはり困ったような顔をしていた。
幼いころから慣れ親しんでいる彼が今は赤の他人のようになっているなど、ルミザとしてはとても信じたくない物である。


「困ったわね……」
「え?」


ルミザの隣に座っていたテティスまでもが、困ったような表情。
小さい呟きはルミザ以外には聞こえなかったようだが、一体何なのか。
考え込んで思い出したのが、ネブラでテティスが語ってくれたエスタースの話。
確かその中に、領主の娘が護衛に恋をしたとかいう話があったはず。
間違いなくアンジェリカの事で、それに恋をした護衛とは……まさか。
そんな、まさか、の思いを肯定するかのように、アンジェリカが俯いたまま悲痛な声を上げた。


「……どうかお願い致します、彼を連れて行かないで下さいませ……! たった3週間程度しか居なかったとは言え、大切な……従者なのです!」
「アンジェリカ、私も彼は惜しいが、こんな事情があっては……」
「お父様からもお願いして下さい! こんな別れ方なんて嫌ですわ!」


父の返答を待たずに立ち上がったアンジェリカは、走って退室する。
ヘクトルはちらりとルミザ達の方を見たが、すぐに領主と顔を合わせて頷くとアンジェリカを追い掛けて退室した。
震える声、俯いたまま上げない顔、きっとアンジェリカは泣いていた。
何だか悪い事をしてしまった気分になり、ルミザの心が静かに痛む。


「皆様、お見苦しい所をお見せしてしまい申し訳ありません。しかし娘は随分とヘクトルを慕っているようでして……。まだ滞在するのでしたら、心の整理がつくまで待って頂けませんか?」
「はい、領主様。こちらとしてもミカヤさんに会わねばなりませんし、当のヘクトルの記憶が無いのでは……」


無理に連れて行けません、と言いかけ、言葉に詰まり飲み込むルミザ。
幼なじみで親友で生死も知れなかった彼と再会できたのに、諦めるなどと軽々しく言えなかった。
領主と別れて宿に戻り、窓から水平線を眺めつつ溜め息を吐く。
かなり高い崖、見晴らしは最高なのにあまり気分を晴らしてくれない。


「……こんな仕打ちって、あんまりだろう?」
「エリウッド?」


ベッドの縁に腰掛けたまま俯くエリウッドが絞り出すように呟く。
そう言えば彼は領主の屋敷で、ヘクトルの記憶が無いと発覚してからずっと黙り込んでいた。
ラエティア幼なじみの中でも特にヘクトルとエリウッドは仲が良い。
同い年な上に、貴族の子息が通う学問所で彼らは二人で一人のようだった。
ようやく再会できたのに、まさか記憶喪失だなんて……冗談と思いたい。
ロイが複雑そうに眉を顰めて、明後日の方向を見つつ口を開く。


「ヘクトルの記憶って取り戻せないのかな、医者に診せて治るってもんでもないんだろ? まさか自然に戻るのを待つ事しかできなかったりする?」
「それしかないだろうが……記憶が一生戻らなかった例もある。あまり楽観もしない方がいい」


エフラムの返答に、エリウッドは益々気落ちした様子で小さく呻いた。
ルミザとしては、ヘクトルに惚れているらしいアンジェリカも気になる。
彼女はマテリア探しや邪神には何の関係も無い、無いからこそ純粋な恋心を向けている彼女に悲しい思いをさせたくない。
……だからと言って、再会できたヘクトルを諦めて旅立つのも無理だ。
同じく再会を心待ちにしていたエリウッドやロイにも、彼を諦めろだなんて言える訳がない。


「ヘクトル本人も困っていたわよね……彼が自主的に、私達に付いて来たいと思ってくれれば何の問題も無いのだけれど……」
「あーもう、まさかこんな事になるなんてな」


ロイが疲れたような声音と共に、背伸びして溜めた息を吐き出す。
エリウッドは相変わらず黙って俯いたまま。
いたたまれなくなって再び向けた水平線には真っ赤な太陽が沈んで行く。
崖に並ぶ真っ白な建物が淡い橙に染まり、幻想的な美しさが夢のよう。
だが折角の美麗な風景も、今のルミザ達にとっては無意味なものだった。


「……明日は海原女神を讃える祭りか。こんな時こそ奇跡でも起きて、ヘクトルの記憶が戻ってくれりゃいいのにな」
「そうだな、世間は一年で一番楽しい日だろうに……無情なものだ」


ロイとエフラムの会話をどこか遠くに感じながらルミザは窓から外をじっと見つめる。
真っ赤な太陽がまさに、水平線の彼方へ沈んで行くところだった。


++++++


その日の夜。
アンジェリカは一人こっそり屋敷を抜け出し、少し離れた高台を訪れた。
溜め息と共に考えるのはヘクトルの事で泣きそうになりながら空を見る。
我が儘を言ってはいけない事など分かっている。
記憶を失くし自己の存在に悩んでいたヘクトルに拠り所が見付かったのだから、彼を想う者としては快く送り出してあげるのが筋だろう。
実際ヘクトルも、ルミザ達が帰った後に考えたのか、アンジェリカの元を訪ねてこう告げた。

覚えていない過去を知る彼女達に付いて行きたい、不安定な自分が根を張れるかもしれない場所に賭けてみたい……と。

本当に好きなら相手の幸せを願うのが正しいのは分かっているのだが。


「……わたし、そうやって好きな人を笑顔で送り出せるほど、大人じゃありませんもの」
「悲しいわよねえ」


突然誰かの言葉が割り込んで来て、アンジェリカは驚き辺りを見回す。
ぱっと目を向けた背後には自分より年下に見える愛らしい少女が。
鮮やかな緑の髪と瞳の少女は、その美貌にそぐわぬ怪しげな笑みを浮かべて近づいてくる。
他に誰も居ないからかアンジェリカは警戒もせずに少女を見ていた。


「初恋かしら? 急に現れた女に憧れの人を奪われるなんて悲劇ね」
「仕方ありませんわ……。彼の本当の主人とご友人を、わたしが引き離すなんて」
「それって本当の事なのかしら?」


少女の言葉に、アンジェリカは息を詰まらせる。
確かに彼女達の証言以外に証拠など何一つ無い。
そう言えばヘクトルはこの3週間でかなりの働きをしてくれ、近隣地域では割と噂になっている。
もしルミザ達がヘクトルの噂を聞いて、引き抜きを画策していたら?
元々ヘクトルを渡したくなかった気持ちもあり、一度疑うと次々に疑惑が首をもたげてしまう。
アンジェリカに生まれた迷いを見逃さず、緑髪の少女は彼女の耳元で囁いた。


「ルミザとかいう女達さえいなければ、愛しの彼はきっとあなたの側を離れないでしょうね。もし私に協力してくれるなら、願いを叶えてあげるわよ」
「……」


その言葉は、悪魔の甘美な誘惑のように。
アンジェリカはもう頷く事しか出来なかった。


++++++


翌朝ざわめきで目覚めたルミザ達は、宿から出て下の海岸を見て驚いた。
大波が海岸を侵食しているかのような人混み。
海岸だけではない、家々の間を縫う白亜の道も多数の賑わいを見せている。
ヘクトルの事もあってすぐさま祭りへ駆け出す気にはなれなかったが、祭が終わるまで宿に引き篭もっているのも不健康だ。
行ってみようかと宿で朝食を取りながら話していると、テティスがやって来る。


「おっはよう皆さん! 祭りには行くのかしら?」
「お早うございますテティスさん、折角なので行ってみようかと」
「じゃあ私が案内してあげるわ。夕方にあるミカヤの踊りも特等席で見せちゃうわよ!」


ミカヤ……テティスの次に海原女神を讃える巫女の役目に就いた女性。
昨日の領主との会話で、占いが得意だという話が出ていたので、何か虹の巫女の手掛かりを得られるかもしれない。
……あわよくば、ヘクトルの記憶を取り戻す方法も一緒に……。
早いうちにミカヤがどんな女性か見ておくのも悪くはないだろう。
先に見たからと言って何がある訳でもないだろうが、祭りの終わりは2日後の事なのだそうだ。
取り敢えず今は、少しでも気を紛らわす為に何か行動していたい。

テティスに案内を頼んで、ルミザ達は海原女神を讃える祭りへ繰り出す。
人混みを縫いながら賑わいの中を歩いていると頭がくらくらしそうだが、年に一度のハレの日の楽しい雰囲気は、沈んだ気持ちを上げてくれた。

そんな中、前方にヘクトルの姿を発見する。
見ればテーブルの紙に何かを記入していて、近くの看板には“武術大会 受付”の文字。
それを見たロイは声を掛けるのを躊躇うルミザ達を見て、ここは自分が行かねばと決意する。


「よおっ、ヘクトル! お前まさかこの武術大会に出場すんのか?」
「ん……ああ、お前か」
「だよなあ、お前こういうの好きだもんな。オレも好きだけど!」


馴れ馴れしく話すロイに何か感じるものがあったのだろうか、ヘクトルが微笑んだのを見て安心したルミザ達は彼に歩み寄る。


「こんにちは、ヘクトル。アンジェリカさんはご一緒ではないの?」
「ああ、人と会うとかで俺は外すよう言われてな。ひょっとしてお前らも武術大会に出るのか?」
「私は無理だけれど……きっとロイ達は出たいんじゃないかしら」


ルミザの言葉に、オレも出るオレも出る! とぴょんぴょん飛び跳ねて申込用紙を手に取るロイ。
エフラムも、俺も腕試しと行くか、なんて嬉しそうに受付に近付いた。
そこでヘクトルが動かないエリウッドに気付き、近寄って声を掛ける。


「お前は……確かエリウッドだったか。武術大会には出ないのか?」
「ああ、うん。ルミザ様の護衛も必要だからね」
「そうか。まあ観戦ぐらいはするだろ、応援してくれよ」


まるで何事も無かったかのような会話。
ヘクトルの記憶が無いなど信じられなくて、エリウッドは多少複雑そうにしながらも笑顔を向けた。
そして更に、ヘクトルから嬉しい言葉が。


「そうだ、俺、お前らに付いて行く事にしたぜ」
「え……ヘクトル、それは本当か!?」
「ああ。まだ記憶は戻らないけど、俺の事を知ってるらしいお前らに賭けてみようかと思ってな」
「よっしゃあヘクトル、お前ならそう言ってくれると思ってたよ!」
「良かったわ……これで後は青の巫女を見付けてマテリアを授かれば、次の国へ行けるわね」


このまま全てが上手く行ってくれるような気がして、ルミザの顔も自然に綻び笑顔が浮かぶ。
そんな彼女を見たヘクトルの脳裏に、どこか懐かしい感覚が蘇った。
ルミザ達は記憶の無いヘクトルにとって会ったばかりの存在なのに、彼女達の言葉は無条件に信じたくなるし、こうして一緒に居るとそれが当たり前のような気がする。
そして何より自分自身が居心地良く感じて、ずっと一緒に居たくなる。
ひょっとしたら本当にルミザ達の傍が自分の居るべき場所なのではないかと、ヘクトルは考えた。

ロイとエフラムも武術大会に申し込みをして、ヘクトルとは一旦別れる。
やはり自分を拾って召し抱えてくれた領主の一族には恩があるのだろう、せめて祭りが終わるまでは領主に仕えると決めているようだ。
上から見たほど人混みの中は動き難くなく、不自由ながらも歩くのにはそこまで困らなかった。
出店には綺麗な土産物や小物、雑貨、美味しそうな郷土料理が並び、歩き回るだけで楽しい。


「おーっ、あっちで何か面白そうな事やってる! 行ってみようぜ!」
「こら、ロイ!」


駆け出すロイを、ヘクトルが付いて来てくれると分かって少しいつもの調子に戻ったエリウッドが追い掛けて行く。
それを微笑ましく見ているルミザに、エフラムが話しかけた。


「ルミザ王女、良かったな、友人が見つかって」
「はい。まだ記憶は戻っていないようだけど、付いて来てくれるのは心強いです」
「きっと、あなた達と彼の間にある絆の賜物なんだろう。記憶が無いながらも何か感じる物があったんじゃないのか? でなければ突然現れた初対面の者に付いて行こうなどとは、なかなか決断できないだろうし」


そうだ、今の彼にとって自分達は初対面。
同行を決断するのにはまだ材料が足りないとルミザも思っていた。
それなのに彼は同行を申し出てくれて……。
不安で、折角会えたのに別れなければならないのかと痛む心が解放されたような気分だった。
エフラムはそんなルミザの様子に安心したようだが、彼も少しだけ不安を滲ませる。


「羨ましいな、俺も早く祖国の仲間達と再会したい。……いや、果たして今も無事なんだろうか」
「エフラム王子……」
「父上も俺達を裏切らないで居てくれた臣下達も、きっと只では済んでいないだろう。早く祖国へ帰って無事を確認したいが」


生憎、次の目的地は北の雪国ロクイー王国だ。
ルミザとしても自分の都合しか考えていなかった事を反省させられる。
ロクイーとルネスは隣り合っていて、何にしてもロクイーの次に向かう事にはなるのだが。


「エフラム王子……」
「ルミザ王女、気は使わなくていい。何の策も無しにあなたを狙う我が国に向かう訳にはいかないんだ。邪神の事もあるし、あなたの安全がまず最優先なんだから」
「……ごめんなさい、エフラム王子。そして、有難うございます」


何も出来ない自分が歯痒くて仕方がない。
だからこそ彼らに報うような行動をしなければならないのだ。

どこかへ駆けて行ったロイとエリウッドを探して祭りの主要会場である海岸を歩き回る……が、人の流れが激しくてなかなか見付からない。
方向は間違ってない筈なので、まさか行き過ぎたのかと不安になる。


「ロイとエリウッド、どこへ行ったのかしら。ねえエフラ……」


エフラム王子、と言おうとしながら振り向いた瞬間、さっきまで彼が居た位置に全く知らない人が居て悲鳴を上げそうになってしまったルミザ。
一緒に居たはずのテティスの姿も無く、ドキリとして辺りを見回すが、知り合いは誰も居ない。
まさかのまさか、どうやらはぐれて迷子になってしまったようだ……。

近辺には居ないようで、流れに合わせて歩きながら捜しても見付からない。
いざという時は宿に戻ればいいだけの話なので完全に焦ってはいないが、不安は増すばかりだ。
彼らを探しながら歩き回るルミザだが、ふっと周りを見回し逸らしていた視線を前方に戻した時、立ち止まった人が急に眼前へ迫っていて、その背中にぶつかってしまった。


「あっ……! ご、ごめんなさい!」
「ああ?」


振り返ったのはかなりガラの悪そうな男で、ルミザは息を飲む。
正直、こんな人混みの中で端にも避けず、ど真ん中で立ち止まられてはぶつかっても仕方ない。
しかし自分も余所見をしていたのは確かだし、何よりこの手の者には下手に出た方が騒ぎを起こさずに済むと思い、ただ謝るだけにしておいた。
あとは男が、気を付けろと怒鳴って話を終わらせてくれれば助かるが。
運の悪い事にそれだけで済む相手ではなかったようだ……。


「おいネエちゃん、なに人に思いっ切り衝突してくれてんだよ?」
「あ……、ごめんなさい。私の不注意でした」
「その通り、確かにアンタの不注意だよ今のは。つまり俺は被害者だ、そうだよな?」
「え、あ、はい……」


返事しない方が良かったのかもしれないが、この状況で無視なども出来なかった。
かなりタチの悪い者にぶつかってしまったらしい。
途方に暮れても引き下がってくれそうにない男に対し、ここは勇気を出して反論するべきかとルミザが決意した瞬間。


「待てよ、今のは明らかにあんたも悪いだろ」


途切れる事の無いざわめきの中、凛と響く声。
ルミザや男、周りで見ていた観衆が目を向けた先には、暗い緑色の長髪を一つの三つ編みに束ね、鮮やかな青の見慣れぬ衣装を纏った少年が。
荷物入れ一つと、手には一本の剣を携えている。
少年は真っ直ぐな瞳で臆する事なく男を睨み付け、毅然と言葉を続けた。


「人混みのど真ん中で突っ立ってる方も悪いだろ。そっちの女は謝ったんだから、後はあんたが謝れば済む話じゃないか」
「何だとガキ……。俺は被害者だってこっちのネエちゃんも認めたんだ、部外者はスッ込んでな!」
「そんなか細い女があんたみたいな男に詰め寄られたら恐くて当然だ。被害者だと認めたって、無理やり言わされたようなもんだろ、卑怯だな」
「……どうやら命が惜しくねえらしいな、ガキが出しゃばってもロクな事にならないって教えてやるぜ」
「あ、あの……!」


ルミザが止める暇もなく、男は少年へ向かう。
少年は男を見据えたまま剣を抜き放つと、鋭い速さで一閃させる。
薄く斬られた男が逆上した隙を逃さず相手の横をすり抜けると、思い切り峰打ちをかました。

男が気を失った後に少しだけ訪れた静寂。
唖然としていたルミザも周りが、良くやった坊主! 格好いい! 
などとはやし立てた事で我に返り、礼を言う為に少年へ歩み寄ろうとしたが……。


「えっ!?」
「あ……!」


急にがくん、とルミザの体が止まり、左の足首に違和感と強い痛み。
見れば気を失ったと思われていた男がルミザの足首を強く掴んでいる。
起き上がってルミザを引き寄せ、短刀を手にした。
騒ぎに気付いたのか、周りを囲む人々の間からエリウッド達や警備兵などが出て来るが、ルミザを人質にされ動けない。


「ルミザ様!」
「恥かかせやがって……動くんじゃねえぞテメエら! おいガキ、武器を捨ててこっちに来い!」
「くっ……!」
「来ては駄目です、早く逃げて下さい!」


悔しげに歯軋りした少年が言われた通りに武器を捨て、ルミザ達の方へ歩いて行く。
ルミザは自分の現状も忘れて青ざめ、こちらに来るなと主張するが……。

その時、ルミザの背後が少しざわついた。
男に掴まれているため振り返れないルミザがそれに気付いた直後、突然男が呻いて倒れた。
ルミザもそのまま一緒に倒れそうになったが、角度が行き過ぎる前に誰かに抱えられ脱する。
てっきりエリウッド達の誰かかと思ったが、視界の端に映る服は黒っぽい物で見覚えが無い。
隣を見上げると黒い帽子を目深に被った男が。
服も帽子も黒っぽい中、鮮やかな朱の長髪が嫌でも目を引いてしまう。
男は少年の方へ軽い笑みを向け軽い調子で口を開いた。


「詰めが甘かったな坊主、峰打ちで動きを完全に封じたいなら確実に急所を突かないと意味が無い。特にこういう体格の良い奴が相手ならな」
「わ……分かってるよ! ちょっと、失敗したけど……」
「それで賭けるのが自分の命だけなら良いんだが。その少しの失敗が今、他人の命を左右する場面だったんだ。肝に銘じておけ」
「……」


赤い長髪の男は剣を携えており、軽そうな雰囲気の奥にどこか鋭さを感じ取れるような気がする。
すぐにエリウッド達が駆け寄って来たので、俺の役目はここまでだな、と赤髪の男がルミザを離した。
立ち去りかける男の背中に慌てて声を掛ける。


「あ、あの、待って下さい! 助けて下さって有難うございます」
「ああ、まあ武術大会の準備運動みたいなもんだから気にするな。……そうだあんた、礼だと思って、表か裏か、どっちか言ってくれ」
「え? えっと、じゃあ表で……」


一体何の事か気になったが、礼だと言われてしまっては拒否し難い。
答えると男は懐から一枚のコインを取り出し、ピン、と心地良い音を立てて上空へ弾いた。
くるくる舞い上がるコインは太陽の光を浴びて一瞬強く煌めき、男の手の中へと綺麗に戻って行く。


「……表か、あんたとはまた縁がありそうだな。俺の名はヨシュアだ、次会った時に名前でも教えてくれよ」
「あ、……はい」


それ以上の言葉を遮るように立ち去った男……ヨシュアを呆然と見送る。
だがすぐに我に返ると、心配するエリウッド達に大丈夫よと返事をし、悔しげに立っている少年へ歩み寄って行く。


「あなたも、助けて下さって有難うございます」
「え……? ああいや、だってあんなの横暴だろ、許せなかったんだよ」


少し照れ臭そうに言う少年が微笑ましくて、ルミザはクスリと笑う。
少年が手放した剣と荷物を拾って渡すと、一枚の紙が落ちて来た。
それは武術大会の申し込み用紙で、出場者の名前欄には、『ギィ』の文字。


「ギィ君、ですか? 私はルミザと申します。見慣れない服装ですが、どこか遠くからいらっしゃったのですか?」
「ああ。大陸からずっと東の海上にある島から、腕試しに来たんだ。じゃあ気を付けろよ、あんたみたいなかわ……。……か、か細い女は色々と狙われ易いだろうしっ!」


言葉の途中で急に顔を赤くして、少年ギィはさっさと走り去ってしまった。
そちらを先程のように呆然と見ながら、今日はまた色々あるなあと考えていると、エリウッド達が来て謝り始める。
取り敢えず周りの邪魔になるので道の端に避けた。


「ルミザ姫、申し訳ありません……! まさかこんな事になるなんて」
「オレもごめん、ルミザ様。うっかり忘れてハシャいじゃった」
「エリウッドもロイも、もういいわ。私も周りを注意していなかったし」
「取り敢えず何事も無くて良かった、さっきの二人には感謝だな」


エフラムがヨシュアとギィの去った方を見ながら、楽しそうに言う。
そう言えば二人とも武術大会の出場者らしかった。
きっとエフラムは、あの二人と戦うところを想像しているのだろう。

やがてテティスが呼びに行ってくれていたらしい警備兵がやって来て、倒れた男を連れて行く。
一時はどうなる事かと思ったが、何事も無くて良かった。
テティスも嬉しそうにホッと息を吐く。


「ルミザ様が無事で良かったわ。悪い事があったらきっと良い事もあるわよ、そっちのナイトさん達もあんまり気を落とさないで」
「テティスさんの言う通りよ、折角だから祭りを楽しみましょう」


ルミザの言葉に、エリウッドとロイも気を取り直してくれたようだ。
折角の祭り、楽しみたい。
明日にはリデーレ王国の王もやって来るらしく、益々活気付くだろう。
ルミザ達は改めて祭りの会場を進んだ。



やがて日が傾き、人々の流れが明らかに変わる。
どうやら海原女神のマレを讃える踊りがもうすぐ始まるようで、そちらに向かう人が増えたらしい。
特等席に連れて行ってあげるからと言われテティスに付いて行くと、そこは簡易な門の上だった。
踊りがあるらしいステージの前には人が大勢居るが、中央はずっと後方か周りより一段高い道が作られていてそこを巫女が踊りながら通るらしい。
簡易な門はその前方に作られており、ステージをやや下に見る事が出来た。


「何だか少し恥ずかしいですね、テティスさん」
「大丈夫よ、踊りが始まったら皆ミカヤの方に注目するから誰も見ないわ。今だって通路の最後尾の方を見ているし。さ、そろそろ始まる時間ね」


テティスが言うが早いか、楽団の中から大きなドラの音が辺りに響いた。
それに合わせて人々のざわめきが静まって行き、そしてすぐに感嘆の声があちこちから漏れる。

一段高い通路の最後尾を見ると、そこには人が一人だけ立っていた。
何故だか分からないが、きらきらと光っているようにも見えてしまう。
演奏が始まるとそれに合わせて踊り始め、大きなベールを巧みに操る。
ゆったりと、時折素早く、時折激しく、遠目にもそれは美しく映った。

やがて巫女……ミカヤが近付いて来て、容姿がハッキリ見えた。
そこでルミザ達は、夕陽に煌めく美しい銀色の長髪を見て息を飲む。


「きれい……」


踊りと彼女の美しさが相まって、それ以外の感想がまるで出て来ない。
どんな誉め言葉も不粋な物にしか感じられず、一番相応しいのがその言葉のような気がする。
やがて踊りながら進んだミカヤはステージに辿り着き、軽やかに跳ねてその壇上に飛び乗った。
お転婆さを連想させる動作も、白鳥が優美に飛び立つようにしか見えない。
ルミザも仲間達もすっかり魅せられて、以後は言葉が全く出なかった。

やがて曲が終盤に差し掛かり、音楽や踊り、雰囲気などが哀愁を帯びる。
酷く残念に思えてもっと見たいと思っていたルミザだが、そんな折、ふとステージ中央で停止したミカヤと目が合った。
すると突然、彼女が微笑んだままルミザに手を差し出して来る。
人々の視線が一気に集まり、顔から火が出そうになるルミザ。


「ほらルミザ様、選ばれたみたいよ! 一緒に踊って来たら?」
「えっ!? で、でもテティスさん、私、どうやって踊ればいいか……」
「社交ダンスの経験はあるわよね? 終盤は観客と踊れるようにその動きを取り入れているの。
 だいじょうぶ、心配しなくてもミカヤがリードしてくれるわ」


野外で注目されつつ踊るなんて恥ずかしかったが、このまま踊りを止めている訳にもいかない。
それに心の奥では、あの美麗な踊りを間近で見たいとも思っていた。
確認の意味を込めてエリウッド達を見ると、笑顔で頷いてくれる。
ルミザは門の上から一段高い通路へ下り、そこからステージへ上がった。
間近で見るミカヤは遠目のイメージより幼い顔をしていて、自分と同年代ではないかとも思える。
穏やかに輝く金色の瞳に見つめられ、また見入る。

ミカヤは微笑んでルミザの手を取り、ゆったりと踊り始める。
確かに社交ダンスと似たような動きだったが、ミカヤがルミザに合わせて踊っているようだ。
相手がどんな動きをしても対応できるよう練習したのかもしれない。
それはルミザにとって夢のような時間だった。
心地良い音楽、楽園のような景色、そこで銀髪の美しい少女と優美に踊る。

やがて5分程度の踊りが終わりミカヤと一緒に礼をすると、観客から盛大な拍手が沸き起こった。
それを受けながら二人で舞台裏に退場する。
そこでようやく、ルミザはミカヤと会話できた。


「ああ、緊張した……! これって一体……?」
「毎年、巫女の踊りの最後には観客の一人と踊る事になっているんです。それを狙って踊りの特訓をする人も多いんですよ」
「私、変な失敗をしなかったでしょうか?」
「大丈夫です、わたしが勝手にルミザ様をお呼びしたのだし、まさか恥をかかせる訳にいきませんもの。しっかりエスコートさせて頂きました」
「え……名前……」
「あ、失礼しました。わたしはミカヤ、新しい名はレウム・アルクス。青を司る虹の巫女です」


笑顔のまま彼女が告げた名前に、思わずぽかんとしてしまうルミザ。
観客の方にはざわめきが戻っているが、それでも辺りが静まり返っているように感じる。
何を言って良いか倦ねていると、ステージの向こうからテティスに伴われてエリウッド達が来た。


「姫、お疲れ様でした。素晴らしかったですよ」
「なんかルミザ様と巫女の場所だけ異世界みたいに綺麗だったぜ! 思わず見とれちゃった!」
「さすがルミザ王女、動作も美しかった。俺はどうもダンスが苦手でな、見習いたいものだ」
「え、えっと、みんな有難うございます」


口々に褒められて、どうにも照れくさい。
俯いて恥ずかしそうに礼を言う様がおかしくないかと思い、また照れる。
ミカヤは先輩巫女のテティスに誉められ、彼女もまた恥ずかしそうに微笑んでいた。

すると奥から、また新たな人物が現れた。
濃い緑の短髪に薄い黄緑の瞳をした青年。
ルミザ達には一瞥もくれず一直線にミカヤへ向かい、笑みを浮かべる。


「ミカヤ、お疲れ。その……綺麗だった」
「ありがとうサザ。あなたが練習に付き合ってくれたお陰で上手く行ったわ」
「別にミカヤの頼みならどうって事は無い。……ところでこの人達は?」


サザという青年はようやくルミザ達を見た。
どうやら気にならなかった訳ではなく、何より早くミカヤに声を掛けたかっただけらしい。


「テティスさんは知っているわよね。そちらの女性はルミザ様。わたしが神から巫女の啓示を受けた時に存在を知らされた、ラエティアの王女様よ」
「……! じゃあこの人達が、ミカヤがマテリアを渡すべき人達なのか」
「マテリアって、まさかミカヤさんは虹の巫女なのですか……!?」


ミカヤとサザの会話にエリウッドが驚愕する。
ロイもエフラムも唖然と言葉を失くし、テティスは、良かったじゃないルミザ様、と嬉しそうだ。

まさかネブラで大賢者がエスタースへ行けと言ったのは、彼女が居る事を見越していたからか。
それに行方知れずだったヘクトルも見つかり、本当にいい事ずくめだ。
何だか全てが順調に行くような気がして、ルミザの顔が自然と綻ぶ。

この後に来る、とある暗雲を知る由も無く……。





−続く‐



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