幼い頃から見ている同じ夢、どこまでも続きそうな濃紺の世界の夢。
海中のように見えるそこはカナヅチであるカナタにとって、恐怖を呼び起こすのに充分な世界だった。
やがて心地良い暖かさを感じて濃紺の世界から浮上したカナタ。
彼女の目に映ったのは知らない天井。
開いた窓から入る風が白いカーテンを揺らし、鮮やかな緑を思わせる香りを運ぶ。
「あら、気が付いた?」
「え……」
「おとうさーん、女の子が気付いたわよ!」
どうやらベッドに寝ていたらしいカナタの傍らには、一人の女性が座っていた。
部屋の扉へ声を掛け、やがて現れたのは ややふくよかな体格の中年男性。
傍らの女性と年代は同じようなので、“おとうさん”というのは“夫”という意味なのだろう。
つまり子供が居ると思われるが、この部屋には見当たらない。
男性は女性と同じ人の良さそうな笑みを浮かべ、嬉しそうに声を上げた。
「気が付いたかい、見たところ怪我もしてなさそうだが具合はどうだい?」
「え、え? いえ、その、別にどこも……異常ありません。大丈夫です」
「良かった! キミが草むらに倒れているのを見付けた時は肝が冷えたよ。何か必要なものは? 喉が渇いたりお腹が空いたりしていないかな?」
「え、あの、え、その、」
「おとうさん、女の子が困ってるわ」
苦笑するように女性がたしなめると、男性は照れ臭そうに笑う。
幸せが溢れ出て来るような夫婦の姿は、よく分からない状況に居るカナタさえ和ませてしまう程。
男性は一つ咳払いをし、カナタに名乗った。
「わたしの名前はオダマキ! でも皆からは“ポケモン博士”と呼ばれているよ」
「……ぽけもん?」
聞き慣れない単語に疑問符を浮かべるカナタ。
その疑問系の言葉にオダマキ博士と奥さんが驚いたように目を見開いた。
知っていないといけないような常識事項なのだろうかと、“ぽけもん”を知らないカナタは首を傾げるばかり。
「驚いた、まさかポケモンを知らないのかい?」
「はい……」
「もしかしてあなた、とても遠い所から来たのかしら」
オダマキ夫妻は、カナタに“ぽけもん”を説明してくれた。
ポケモン……“ポケットモンスター”の略称。
世界中あちこちに住んでいる動物で、世界中の人間が仲良く遊んだり、助け合って仕事をしたり、時には力を合わせて戦ったりしているという。
しかしまだまだポケモンには秘密が多く、オダマキ博士はそれを解き明かす為に研究を続けているそう。
そこまで聞いても、カナタには全く分からない。
世界中で……との事だが、見た覚えが無い所か名前さえ知らない。
オダマキ博士達も困り果ててしまった。
「ところで、キミの名前は?」
「あ、私はカナタといいます。……あの、私どうしてお宅にご厄介になっているんでしょうか」
「ここはミシロタウンという小さな町なんだが、キミはこの先にある101番道路に倒れていたんだよ。一体何があったのか教えてくれるかい?」
そんな事を言われても、カナタはただ自宅で寝ていただけだ。
ミシロタウンという町にも全く聞き覚えが無く、ただただ混乱するばかり。
ひょっとしてタチの悪い夢でも見ているのかもしれないと思ったが、にしては随分と感覚がハッキリしていて疑問が浮かぶ。
どう言っていいものか迷ったカナタは挙げ句、自分の身に起きた事をそのまま話してみた。
ただ自宅で寝ていただけ、気付いたらここに居たと。
幸いにもオダマキ夫妻は疑ったりする事なく信じてくれたが、現状が解決する訳ではない。
「カナタちゃん、まずはキミの住んでいた場所を突き止めようか。このマップに知っている場所はあるかい?」
オダマキ博士が近くの机から一枚の地図を取り出し、カナタに渡す。
しかしそれを見たカナタは驚きに目を見開いた。
「あの、オダマキ博士。これ横向きになってますよ」
「? それで合っているが……」
カナタが渡された地図、そこには九州を横倒しにしたような地形が描かれていた。
福岡や佐賀方面が西、鹿児島方面が東、大分や宮崎方面が北で長崎や熊本方面が南。
何の冗談かと思ったものの、オダマキ夫妻は真剣な顔をしていて。
しかも地図に都道府県名は書かれておらず、やはり知らない町や都市の名前だけ。
地図に書かれている地方名は“九州”ではなく、“ホウエン地方”だった。
自分の身に何が起こっているのか、ここがどこなのか、分からないカナタは混乱する事しか出来ない。
「し、知らない……どこも知りません。町の名前も、この、ホウエン地方というのも」
「じゃあここいらの出身じゃないのか……他の地方の地図はあったかな」
近くの机の引き出しを漁り、複数の地図を持ち出したオダマキ博士。
カントー地方、ジョウト地方、シンオウ地方……。
それぞれ関東、関西、北海道に似た地形をしているが、町の名は知らない。
更にイッシュやカロスという地域の地図を渡されたが、もう似た地形すら思い出す事が出来なかった。
ついにオダマキ博士は世界地図まで引っ張り出したが、カナタは戦慄する。
自分の知っている地球と、地形があまりにも違ったから。
「うそ……うそっ、どうして……!」
「困ったなあ、故郷が分からないなんて……」
「わ、私、嘘はついていません! 本当に知らない場所ばかりなんです!」
「落ち着いて! 疑ってなんかないわ、大丈夫よ」
奥さんが背中を優しく摩ってくれ、カナタの目から涙が零れる。
一体自分はどうしたのか、どうなってしまっているのか。
夢ならば一刻も早く覚めて欲しいのに、その気配は無い。
小刻みに震えながら涙を流すカナタを見かねたのか、オダマキ博士がすっくと立ち上がってカナタの肩に手を置き。
「カナタちゃん、行く当てが無いならウチに住めばいいよ」
「……えっ」
「故郷が分からないし、知り合いも居なさそうだ。こんな子を放っておけるわけないじゃないか。なあ」
「ええ、そうしましょ。うちには息子しかいないから女の子なんて新鮮だわ!」
カナタの返事も待たず、嬉しそうに会話する夫妻。
付いて行けないカナタはただ呆然とするばかり。
でも、とか、ご迷惑をお掛けする訳には、とか、色々と言ってやんわり拒否しようとするものの、夫妻はカナタを迎え入れる方向で盛り上がっており聞いていない。
良いのだろうか、と考え、そうするしかない事実に気付く。
知らない場所に居るのは事実で、家族や知り合いが居ないのも事実。
これから知らない土地を一人で旅し、どこかでバイトし家を見付けて住むなんて、それが無理なら野宿生活なんて、そんな行動力は今のカナタには無い。
また現状が夢でないとの証明も無い。
目が覚めるまでなら甘えに甘えても許されるのではないだろうか。
「……ご厄介になっても、いいですか……?」
「もちろんだよ。いつまでだって居てくれて良いさ」
本来なら、ここまで親切な人は疑ってかかるべきなのかもしれない。
しかしカナタはどうしても、どうしてもこの夫妻を疑う事が出来なかった。
ここまで心から人の良さを信じられるなんて信じられないが、それでもカナタの心も頭も疑いを拒否している。
こうしてオダマキ夫妻の家に厄介になる事となったカナタ。
夫妻には思った通り子供が居るらしく、挨拶に行ってみてはと言われ今はその子の部屋に向かっている最中である。
ドアをノックすると、中から「いいよー」と少年の軽い声。
恐らく両親だと思っているだろう所に見知らぬ者が入るのは気が引けるが、これから世話になるのだから挨拶を怠ってはいけない。
ドアを開くと、少年が入り口を見もせずに斜め掛けのリュックを背負い、真っ白い袋のような不思議な帽子を被っている所。
しかしすぐにカナタの方を見ると、驚いたように目を見開き寄って来た。
「お姉さん……誰?」
「初めまして、カナタと言います。実はちょっと事情があって、今日からこの家にお世話になる事になりました」
「へっ? 急だな、オレ聞いてないよ」
「ごめんなさい、私もいきなりの事で戸惑ってて……」
「ああ〜、父さんと母さんなら有り得るかな。半ば強引に決められたんじゃないか? オレはユウキ。まあ一緒に住む事になったんなら、これからよろしくな」
「ユウキ君ですね。よろしくお願いします」
「……カナタさん、だっけ。いくつ?」
「え? 18歳ですけど」
「ふーん、思ったより上なんだ。オレ13歳だし敬語なんか使わなくていいよ」
「あ、じゃあ……今日からよろしくね、ユウキ君」
13歳。本来なら難しい年頃の筈だが、なかなか素直で快活な少年のようで気が楽になる。
カナタがポケモンを持っていない事を知ると、捕まえて来てやろうか? と言い出すが、
カナタが遠慮する前にオダマキ博士の手伝いを思い出したらしく、慌てた様子で走り去ってしまった。
オダマキ夫妻の家で生活するに当たり、博士の手伝いをする事に決まったカナタ。
本来ならどこかで金でも稼いで生活費を入れるべきなのだろうが、どこか良い働き口は無いかと訊ねた所、生活費を入れるのは拒否されてしまった。
しかしいくら夫妻が優しいからと言って何もしないのは気が引ける。
お互いの折衷案として、こうして家のすぐそばにある研究所で手伝いをしている訳だ。
しかしカナタには、とある問題があった。
オダマキ博士はポケモンを研究しており、研究所にはポケモンも居る。
更に博士はフィールドワークをする事が多いらしく、本当なら一緒に行ってそれを手伝うべきなのだが。
「う〜ん、どうしても怖いかい?」
「……すみません」
動物が苦手なカナタは、ポケモンも同様に苦手だった。
見た事もない姿形をしているため最初は大丈夫かと思ったのだが、今まで見ていた動物たちと同じ反応をしてしまう。
とても可愛らしいし嫌いな訳ではない、けれどどうしても怖くて、自分に近付いて欲しくないのだ。
しゃがみ込んだ博士の前では、炎タイプのアチャモ、草タイプのキモリ、水タイプのミズゴロウという三匹のポケモンが興味津々にカナタを見ている。
初め、博士がカナタをポケモンに慣れさせようとこの三匹を出した時、いきなりキモリが飛び掛かって来た為カナタは悲鳴を上げて逃げた。
それを悲しそうに見上げるキモリに申し訳ない気持ちが湧き上がったが、苦手なものは苦手、なのである。
博士も何とかカナタを慣れさせようとするが成果は上がらない。
お世話になってから数日が経過しても、結局カナタは書類やデータ等の作成・整理、掃除などしかやる事ができない。
家では家事を手伝っているものの、どうにも中途半端だ。
そこで研究所の扉が開き、ユウキが中へ入って来た。
「ただいま! ……って、まだやってんの二人とも」
「お帰りユウキ。何とかカナタちゃんにもポケモンに慣れて欲しいんだけど、どうにも上手くいかなくてねえ」
「何が怖いんだろうな。ひょっとしてトラウマでもある?」
「分からない。元々、動物全般が本当に駄目で」
「嫌いな訳じゃないんだろ?」
「それは勿論。見ている分にはとても可愛いよ」
うーん、と親子が二人で唸り始め、こんな事で気を揉ませ時間を取らせる事が本当に申し訳ない。
落ち込んだカナタが俯こうとした瞬間、ユウキが何かを思い付いたように手を打った。
「嫌いじゃないんならさ、きっとポケモンの事をよく知らないから訳わからなくて怖く感じるんじゃないか? カナタさん、ちょっとポケモンのこと勉強してみろよ」
「そうだね、それも大きいかもしれない。何てったってカナタちゃんは今までポケモンを知らずに居たみたいだし」
「それほんと信じられないよな……。きっと少しでも知れば恐怖も薄れると思うんだ。幸い資料や本ならいくらでもあるから」
「え、でも、私はお手伝いが……」
「宿題だよカナタちゃん。ポケモンに慣れれば今以上に手伝いをお願い出来るから、勉強してくれたら凄く助かるなあ」
確かにその通りだ。
ここがポケモンを研究する研究所で、世話になっているのがここの博士である以上、手伝える事は多いに越した事は無い。
それからカナタは手伝いを家事程度にとどめ、借りた本や資料でポケモンの勉強を始めた。
タイプの事、相性の事、技の事、状態の事、能力の事……。
そういったデータ的な事だけでも知る事は山ほどある。
ポケモントレーナーになる予定は無い。
面倒を見切れる自信も責任を負う覚悟も無いのだから。
知っている事は多い方が良いだろうから、勉強はやめないが。
それにしても、こんなゲームのモンスターのような動物達を、こうもすんなり受け入れている自分にカナタは驚いていた。
もうこの町で何日も過ごしているので夢だと疑う段階は過ぎてしまっているものの、それでもポケモンに関しては信じられなくても仕方ない存在だ。
なのにカナタは疑う事が出来ない。
少なくともこの“世界”には存在して当たり前のもの、頭も心もそう受け入れていた。
“世界”……殆どが知らない地形であるここは、もう自分が元居た世界とは別の世界と思う他に無い。
何の冗談かと嘆いても現状は変わらないので、他の事を忘れ集中する為の勉強を与えられた今は気楽な状態だ。
そうして集中しているカナタの耳に届くノック音。
入れてみるとユウキで、傍らにはアチャモを連れている。
途端に喉を小さく鳴らして怯えるカナタ。
その様子に気付いたユウキは苦笑しつつも、カナタの傍へ近付いて座り込んだ。
「どうカナタさん、ポケモンのこと色々わかった?」
「う、うん……結構覚えられたよ」
「じゃあアチャモに触ってみなよ、大丈夫だから」
「う……」
「やれやれ。こんな小さいポケモンが怖いなら、進化なんてしたら卒倒しちゃうんじゃないか?」
「進化……成長すると姿が変わるんだったよね。でもそれって悲しくないかなあ?」
「悲しい? なんで?」
資料で目にした進化前と進化後では、別の生き物かと見紛う程に変わってしまうポケモンも居た。
慣れ親しんだ姿が変わってしまうのは、寂しい事じゃないのか。
カナタはそう言うが、ユウキは首を傾げるばかり。
「いいや、オレはアチャモが進化するの楽しみでしょうがないよ。カナタさんもポケモン持ってみたら分かるって」
「分かる……かな? やっぱり姿があんなに変わるなんて、悲しいと思う」
「進化させない人も居るし、そういう考え方もアリかもしれないけどさ。自分のポケモンが成長するのって凄く楽しいよ。それを知る為にもほら、ポケモンに慣れないと!」
ユウキがアチャモを抱き、カナタに近付ける。
見つめて来るつぶらな瞳は無邪気さしか感じないが、それでもカナタは近付かれたくなかった。
しかしいつまでもこれでは、一家の役に立てない。
恐る恐る手を伸ばし、アチャモの頭に触れてみる。
「……あ」
「触れたじゃん! ほら撫でて、早く早く!」
促され、震えながらもゆっくり頭を撫でてみた。
アチャモは気持ち良さそうに目を閉じていて、それを見たカナタの気持ちが少しずつ落ち着いた。
ユウキはこれなら大丈夫と判断したのか、抱いていたアチャモをカナタに渡そうとする。
が、そうした途端に腕を引っ込めてしまうカナタ。
「あれ。大丈夫だって、今撫でても平気だったろ?」
「誰かが抱いていれば触れるけど、自分だけで触るのはちょっと」
「ダメか。まあゆっくり慣れて行けば良いよ、案外何かのキッカケであっさり平気になるかもしれないしさ」
「ごめんねユウキ君。こんなに協力してくれてるのに……。アチャモもごめん、嫌いな訳じゃないよ」
落ち込んでしまったカナタにユウキが慌てて、気にしてないからと慰める。
年上の女性を泣かせてしまうのではと気が気でなかった。
幸いカナタは泣くまでには至っていないようだったが。
そんなこんなでカナタの日常は過ぎて行く。
段々と故郷の事が薄れて行く中、カナタを慰めたのは数々の自然だ。
まだミシロタウンから出た事は無いものの、家の外に出ると突き抜ける程に高く青い空が目に入る。
そよぐ風も草の匂いも太陽の暖かさも、全てが慣れ親しんだものと同じだ。
故郷と変わらない、それはカナタに勇気と希望を抱かせた。
「きっといつか帰れるよね。周りの自然がこんなにも私の故郷と同じなんだもん」
自分を納得させるように呟き、カナタは今日も家と研究所を往復する。
……その感覚が、今カナタの意図している“故郷への帰還”とは真逆のものをもたらすのだと知る由も無いまま。
そんな彼女の頭上では、真っ白な雲が筋を一つ伸ばしていた。
to be continued......
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