虹の歳月/前





「イヴにボーイフレンド?」
「ああ。大事件だろうギャリーくん」
イヴの父親の目は、すわ銀行強盗か大災害かといわんばかりのものであった。折り畳まれた新聞に、陽気による居眠り運転多発注意、などと書かれる、春のことであった。
ギャリーは紅茶のカップを置くと、ううん、と考えるようなそぶりを見せた。
「…イヴももう16歳ですよ。健全なおつきあいならなんの問題もないでしょうし、賢い子なんだからおかしなふうに早まったりもしないでしょう」
「お、おかしな!?おかしなってどういうことだいギャリーくん!? おかしな!?!?」
あらあら、とギャリーは再び紅茶に口をつける。
珍しく父君からの呼び出しとあって、なにごとかとおもえば、イヴにボーイフレンド、って。
昼下がりの時間帯、オフィス街のオープンカフェはのんびりと緩やかだ。そこに、世界の終わりでも見たかのようなイヴの父と自分の姿はどう見えているのだか。
「イヴなら大丈夫ですよ。見守っててあげてください。ほらお父様、早く事務所に戻りませんと。休憩時間、そろそろ終わってしまいますよ」
「……ギャリーくんはそれでいいのかね」
「は?」
イヴの父親は、どこまでも善良で頼りがいのある、そんな表情をめずらしくうらめしげに、そして上目遣いにしてきた。見るからに大銀行だか大企業だかの役職者だか政治家だかといった風格を持ち合わせており、仕立てのよいスーツに身を包んでいる。その彼が、よく言うなら芸術家な身なりの青年にこんな顔をすると。
(愛人と話してると思われたりして)
そんな荒唐無稽なことまで考えてしまう。
しかしイヴの父親は、さらに荒唐無稽なことを言い出すのであった。
「……わたしは、イヴはギャリーくんをお嫁さんにもらうのだとずうっとおもっていたよ」


自分が変人、とは言わないまでも、模範的ではないという自覚は、まあ、ある。口調も髪も服装も、ある程度は他者の視線や評価を覚悟したうえで選択しているのだ。
でもそれでも。
「育ちがよすぎるというか……ほんとにほんものの良家って違うわぁ……天然とかいいひととかそういう領域よりも遙か上だわあ……」
半笑いでつぶやいて、ふうーっ、と紫煙をはきだす。
あれからまだなにか言いたげだったイヴの父親を、時間を理由に追いやった。
灰皿が近くに据えられた公園のベンチに座り、二本目を口にした。
イヴ。美術館で出会った不思議な子。
なんの運命かいっしょに不気味な美術館に迷い込み、そうして二人で力をあわせてなんとか生還した。
作りもののように美しく整った容姿もそうだけれど、どこか超然とした所作。
読めない文字があることをばつが悪そうにしていたが、とんでもない、9歳であれだけ読めるし、ギャリーが唸っていた謎解きもこなすし、階級による教育の賜だろう、とても賢かった。
いっしょにいたのが彼女でなければ、帰ってはこられなかった。なんとしてでもこの子を両親のもとに帰すのだ、その決意があのとき自分を動かしていた。
「…でもねえ…」
美術館の中にいたときから薄々感じていたが、異常事態のせいだろうと考えていたのだ。
ちょっと、天然すぎるというか、物事のとらえ方が、柔軟すぎるというか。いやだからこそあの場所で発狂しなかったのかもしれないが。
イヴに「わたしのおひめさま」と呼ばれていた時期もある。
はじめて「ギャリーはわたしのおひめさまだから!」と言われたあの日の衝撃は忘れない。
かわいい女の子に満面の笑みでぎゅうっと抱きつかれ、それを否定、訂正できる人間などいるわけがない。
「イヴ…えっとね、おひめさまってどういうこと…」
「だいすきってこと!」
否定、訂正など、できるわけがない。
だってずっと薄暗い美術館やらご両親といっしょだったりやらで、いつもほほえみすら遠慮がちだったイヴの、初めての全開の笑顔、百万本の薔薇よりすてきな笑顔。



そう、美術館で再会した後、あらためてイヴに会った。
場所は街でいちばん高級なホテルのレストラン、自分のようなものは金銭的にも身分的にも、ちょっと縁がなさそうな場所。
ディナータイムはランプやキャンドルのあかりできらめいて、高級ではありつつも品の良い空間だった。
イヴは深紅のモスリンであつらえたワンピースとリボンでおめかししており、整った造作とあまり感情を出さない様子に、遠目では人形のようだった。
それが、ギャリーをみつけたとたんに、ぱっと笑った。

彼女の両親の職業やらなにやらは美術館の探索中に聞いており、そこから身元を推察することは簡単だった。やっぱり良家のお嬢さんだったか、と思いつつ手紙を送った。
数日で、赤い薔薇の花束と一緒に、イヴと、そして父親の手紙が一緒に送られてきた。
イヴからの手紙はギャリーからの連絡を喜ぶもの、父親からの手紙は娘の命の恩人へお礼をしたいから後日なじみのレストランにて会食を、というものだった。
イヴの父親の言う「なじみのレストラン」の店名には正直驚いたが、そこのいちばんいい席で、父親と、イヴと、ギャリーの三人でディナー。
(あたしのこと、どういう奴だと思ってるのかしら、お父さんは)
手紙からすれば悪感情は見えないが、いやいや。9歳の娘と、「理由は言えない」関係なのだ。イヴもそのあたりは一切口にしていないようだ。行ったら警察が待ちかまえていてそのまま事情聴取、の流れになってもまったく不思議ではない。どうしたものか、どんないいわけを用意すべきか。約束の日までぐるぐると考に考え続けた。
で、結論。
「……ま、なるようにしかならないか」
そうして、イヴの父親が手配したハイヤーに乗ってレストランへ向かったのだった。


「…びっくりした。ギャリー、かっこよくて。あのコートで来るかなって、おもってた」
きちんとしたナイフとフォークの扱いは、まさにレディ。子供用チェアであることすら些細な問題、そんな姿のイヴは、アンティパストを切り分けながら小さくほほえんだ。
「そ…う、かい? …あた…僕こそ驚いたよ、薔薇の花の妖精かと思った」
こちらはにっこりと笑うと、イヴはすっかり照れてしまったのか、うつむいて、とっくに切れているテリーヌをひたすら切り続けた。
「ギャリーさん、そう堅くならなくて結構ですよ。もっとリラックスして」
そう言ってほほえむイヴの父は、まるで自宅にいるかのようである。なじみの店と言っていたし、慣れているのだろう。
しかしそんなことを言われても、表むきはどうにかとりつくろっていようとこんなランクのレストランでリラックスなんてしづらいし、口調を維持するのもしんどいし、店を出たら警察、の可能性も捨てきれないし。
「ギャリー…」
心配そうな声に、はっと我に帰る。
「…お料理、おいしくない? それとも、どこか痛い?」
しゅんとしおれてこちらを心配する姿に、思い出す。
あの美術館で、自分だってずっと怖くてつらいだろうに、ギャリーを気にかけつづけていてくれた優しいイヴ。
そう、まだどういう流れなのかはわからないけれど、イヴは自分に会いたいと思ってくれたのだ。そして、自分だってイヴに会いたかった。
「…ごめんね、ちょっと緊張しちゃったわ。こんなすてきなレストランにくるの初めてなんだもの。ありがとうイヴ。イヴにまた会えて、あたしうれしい」
だから、思ったままの素直な気持ちを伝えた。正面に座る小さなレディ、世界でいちばんきれいな薔薇は、ふんわりと笑った。
「うんうん、よかったねイヴ」
びくり、とギャリーの肩がふるえる。
(いっけない!いまあたしイヴパパの存在すっかり忘れてた!い、いまのどう?アウト?どう?ていうか完全に素でしゃべっちゃったわよどうしようどうしよう)
パトランプが脳裏をぐるぐる駆け巡る、ついでに運転手はメアリーだったりする、そんなパニックにいたギャリーだが。
イヴの父親の思いのほか優しげな笑顔に、ふ、と悪い想像(留置場の中で花占い)が止まった。
「……よかった。イヴがあんなふうに誰かの話をするのは、初めてだったから」
そっと目を伏せると、どこかイヴに似ている。
「なにがあったのかは、イヴは話してくれないし、きっとあなたもそうでしょう。でも、あなたがイヴを守ってくれたのは、本当なのでしょう。この子はあなたが大好きらしい。
だから今度は、マカロンのおいしいお店に、この子を連れてってやってくださいね」
「……お父様」
じっ、とイヴがこちらを見ている。ギャリーはにっこりと笑い帰した。
「ええ、もちろん! いっしょに行きましょうね、イヴ!」
「……うん!ありがとうギャリー!」
「ははっ、さすがイヴのおひめさまだ」
「まあいやですわお父様ったらウフフ、おひめさまだなん… …おひめさま?」
「?なにかおかしなことをいったかな?」
「いやおかしいでしょうよ」
「あ、もうパパー、ないしょにしてっていったのに!」
「おっと失礼、ははは」
「ちょ… え?あの、え?」
イヴとイヴの父親は、同じ表情でにこにこ笑っている。あー、イヴってママ似かと思ってたけどパパ似かあ、そっかー、と逃避しながら。
「…おひめさま?」
「うん! …ギャリー、いや?」
「とんでもないわ!」
即答してしまった。おそるべし上目遣い。おそるべしイヴ。
(ま、いっか…よくわからないけど今だけだろうし)
という考えが甘かったことに気づくのは、実に長い年月を要することになるのだが。


後日、父親から手紙が届いた。
あまり感情を表に出さない子だったのに、ギャリーの話は生き生きと楽しそうに語ること、どれだけ大事な人なのかということ、言えないけれど、何度も助けてくれたのだと強く彼女が話すこと。
「あの子は、ああみえて警戒心が強いんです。学校でも、そうでない場所でも…近づこうとする相手からそれとなく距離をとろうとする。それでも近づくと逃げてしまう。そうして、逃げられてしまった相手の心には傷が残る。ただそばに行きたかったのに、と」
薔薇の花、とギャリーは思う。彼女の気高さは周りの人間を引きつける。近づかずにいられず、けれど棘に刺されてしまう。そんな状態をありありと思い描くことができた。
「娘をだましているのではないかとわたしが思っている、とあなたが思っている、ことは気づいています。
距離をとるのがお互いのためなのかもしれません。けれど、あの子とこれからも会ってやってはくれないでしょうか。命の恩人だからというのではなく、わたしは、なぜかそうしてほしいと思うのです」
紫煙をくゆらせ、考えた。考えたけれど、そんなもの、結果は決まっていた。
もちろんそうしたい、という旨の返事を書いた。そうして、最後の便せんに書いた文章は、少し見返してから捨てた。そこにはこんなことが書かれていた。
「命の恩人というならば私でなくイヴです。一緒にいたのがあの子でなければ、きっとあきらめていた。あの美術館で彼女に出会って、」
そこで文章は途切れている。


それからも逢瀬は続いた。父親同伴であったこともあるし、二人で会ったこともあった。なぜ母親はいないのかは少し気になったが、父親にああ言ってもらってもやはりどこかうしろめたい思いのある自分から言い出すのは気がひけた。
9歳、10歳、11歳。成人男性のギャリーは三年ではたいして容姿の変化はなかったけれど、イヴは違った。
まだまだ子供ではあったが、確実に「愛らしい少女」から「美しい女性」へと変化している、それを感じさせるようになっていった。
そのころには「誰にも言えない経験を共有するものどうし」でなく、ギャリー自身がただイヴに会いたくて逢瀬が続いており、美術館の話題はほとんど出ないし、表向きには忘れたとすら感じられる状態だった。

「ところでなんで「おひめさま」? いやまあたしかにちょっと情けないところさらしたとは思うけど」
「情けなくないよ。
ギャリーはとってもかっこよかった、だからパパとママには「おうじさま」って言おうとおもったんだけど、男の人扱いされるのいやかなって…だからおひめさまって」
「謎の気遣いね…」
「おひめさまじゃだめ?」
「んー。そうねえ。どっちかというと、イヴがあたしのおひめさまかしらね」
「…じゃあ、おうじさまになってくれる?」
「ふふ。いいわよ、かわいいイヴ」


アフタヌーンティーのおいしいお店でのデートの間のことである(ふたりはもちろんおつきあいなどはしていなかったが、どちらかが「デート」と言いだし、それがお互いに気に入って二人で会うときはその単語を使うようになった)。
いつになく思いつめた様子のイヴに、ギャリーは困惑していた。
今までだって学校や習い事、家庭での小さな悩みを相談してきたことはあったが、いつもは会うとすぐにその話を切りだしてきた。こんなふうに、言いたいけれど言えない、苦しい、といった表情をするのは初めてだった。
(思春期にさしかかる頃だし、女の子特有の悩みが出てくるのかしらねえ)
そうなるとあんまり相談にも乗れなくなるのかしら、と寂しく思う。
「イヴ… 今日はもう、帰る?」
そっと呼びかけると、彼女ははっと顔を上げた。赤い瞳は小さなころと変わらずに美しい。映す感情が、このごろ複雑になってきたけれど。
「う、ううん、やだ、帰りたくない!」
「そう。じゃ、お話してくれる? あたしのかわいいイヴを悩ませていることはなあに?」
どんなことであろうともあたしがなんとかする、してみせる、そんな気持ちをこめてにっこりと笑うと、イヴは目線だけを横にずらした。小さく「ずるい」と言った気もする。
そうして、らしくもなくぼそぼそと語りだした。
「…この前ね、学校が半日で終わったから」
「うん」
「ギャリーがお仕事してるところの近く、行ったの」
「あら」
それは知らなかった。気づきもしなかった。近くに来たなら声をかけてくれればよかったのに。
「そしたら、ギャリー… 女の人と話してて」
「…?」
「えっと、仲良さそうだった。…黒い髪を結ってる、きれいな…」
「…あー。ああ、うん。彼女ね。うん。それで?」
「……それで? って」
「?」
きょとん、とこちらをみあげるものだから、こちらもそういう顔で返してしまった。
話が見えない。何気なくカップを口へ運ぶ。
「ギャリー、あの人」
「ええ」
「実は男の人?」
ごふ、と口とカップの中で紅茶が逆流した。
「……なんでそうなるの」
「だって、ギャリー。前言ってた。「女は怖い」って」
言ったっけそんなこと、と記憶をさらう。
(あー…あれかな?「美術館」で絵の女たちにおっかけまわされたとき、一度となくそんなこといってたような)
しかし今思えば無神経だったかもしれない、イヴだって女性なのだ。というか今思うことこそが無神経だ。
もしやずっと気にしていたのだろうか。
「あのねイヴ… あたしたしかに「女は怖い」って思うけど、全部怖いってわけじゃないのよ。あとあの人は女性よ」
「そうなの…? じゃあどういう女性が怖いの?」
「……んー」
自分の中でも、言葉になりそうでならない、というか。それをまとめるためにも、たどたどしく口に出し始めた。
「女の子も女性も、嫌いじゃないわよ。ていうかおしゃべりするのは楽しいなって思うし。女の子のお友達も多いのよ、彼女もその一人。でも、なんていうか…「女」がね、それが、自分に向かうと、怖いって思っちゃうの。だからこんな話し方になったのかしらね…」
言ってから、11歳に何を言ってるのか、と我に返る。まさにこれから「女」になろうとしている子に言うような話では絶対にない。
「な、なーんてね、よくわかんないわよねこんなの!ごめんなさいねイヴ」
「わかるよ」
「え」
「…………わかるよ」
思わずゆっくりとまばたきをしてしまったのは、瞳に紅茶を映す少女の色が、「女」だったから。
(…いやまさか、だってまだ11よ)
まばたきすれば、いつもどおりの、凛としているはずだがどこかぼんやりしているようにも見えるイヴだ。あの不穏な気配は無い。
「ごめんね、ギャリー。わたし誤解してた」
「え。な、なに」
「ずっと彼女いないし、だから、女の人は怖いのかなっておもってて。だからギャリーをママには会わせないようにしてたの」
「……あ。そ、そういうことだったの?」
思わず大きな声が出た。確かに、相手が「女嫌い」であるなら、成人女性であるイヴの母親には会わせまいとするだろう。しかも確か、イヴの母親はかなりの美人だ。「女性らしい女性」が苦手な人物ならば、長く同席したら失神するかもしれない。
「でも、違うなら大丈夫だよね? ママ、ずっとギャリーに会いたがってたの! ねえ、今度はおうちに来てくれる?」
「……ええ。もちろんよ」
「やったぁ! じゃあね、ママのお料理とってもおいしいの、食べていってね」
輝く笑顔は出会ったときのまま。けれどどこか、何かが変わってしまいそうな予感を感じた。


手をつないで歩いた。それは年齢差もあったし、「美術館」の名残でもあった。
ふたりきりの世界ではぐれないように離れないように、そこに守るべきものがいるのだと覚えていられるように。
場合によってはギャリーがイヴを抱えて走ったりしたし、休憩するときはぴったりくっついていた。
体温には、理屈でない力があった。
再会してからも、イヴはスキンシップの多めなこどもだった。人なつこい子供のふつうくらいの可能性もあったが、感情表現は激しくなかったために目立ったのかもしれない。
歩くときは手をつないだし、隣に座ればくっついてきたし、だっこしてやればきゅっと抱きしめてきた。
これは誰にも言えないが、イヴに抱きしめられるのがとても気に入っていたので、10歳になるまではなにかと理由をつけて抱き上げていた。

「ねえイヴ、うちのクラスのみんなで勉強会やるからさ、来てよ」
「え…と」
「イヴと友達になりたい子、多いんだから」
「…ありがとう」
「その笑顔がね…」
「?」
「そしてそのじっと見るくせがね… 罪深い男子を増やしてしまうのよね…」
「…???」
「でもイヴは、あのかっこいいお兄さんがいるんだもんねえ」
「お兄さん」
「違うの?ご両親ともいっしょに4人でいるとことか、よく見るけど」


イヴの家に招かれることも増えた。それまでは母親への誤解があったわけで、それがなくなってからは母親もギャリーを気に入ったようだった。
外へ行くのと同じくらい、イヴの家でも過ごした。夕食を一緒にとることもあったし、勉強を教えてあげたりもした。絵を描いたり、ボードゲームであそんだり。
イヴの母親は確かに料理上手で、品がよいながらもきちんと家庭料理の味だった。ギャリーも多少は腕前に自信があったが、よくも悪くも自分の料理は男の料理なのだと知ったものだ。
すっかりイヴの家にもなじんでしまったころ、イヴは言った。

「ねえ、うちのパパとママは、とっても仲良しなんだよ」
「ええ、知ってるわよ」
イヴがはじめて作ったプティングをごちそうになり、機嫌よくお茶を入れ直していたギャリーが答える。もちろんイヴの家のキッチンだが、紅茶を入れるのはギャリーの役目だった。暖かな昼下がり、庭には薔薇の花が瑞々しく、三色揃って咲いている。
(しかし娘と成人男性を家に二人で置いとくなんてねえ、あたしが悪い人だったらどうするのよー)
ここまで信用されていると逆にそんな気にはまったくなれないわけだが。
ディナーのときはいつもイヴの両親がそろっていた。善人どうしの夫婦仲はとても穏やかで信頼関係と優しさに満ちていた。理想の夫婦だと思う。
「だからね、ギャリー。こわくないこともあるんだよ」
「へ?」
やかんに火をかけたところで、肩越しに振り返る。
イヴはカップを両手でつつむようにして、こちらをじっと見ている。
「…ママが、パパのことを好きなみたいに。女の人が男の人を好きでも、怖くないことも、あるんだよ」
(……そっか。そういうことか)
やたらにママと自分を引き合わせようとしていたのは。もう一年は前になる、「女」が怖い、というギャリーのためだったのだ。仲むつまじい夫婦の姿は確かに癒される。
「イーヴ」
なんだかむしょうにそうしたくなって、彼女の座る背後に回ると、イスごときゅっと抱きしめた。ひゃ、と小さな声があがる。
「ありがと。イヴのおかげで、怖くなくなったわ」
「ほんとっ?」
ぱっ、と顔を上げたイヴが、思いがけず距離が近かったことに驚いたのか、なんだかあうあういいながらうつむいてしまった。
それでも離れたりはせずに、体ごとこちらに寄せてきて、ぎゅっと彼の袖をつかむ。
「ほんとほんと。あんなに仲良しの二人が、怖いわけないじゃないの」
わりとそれとこれとは別問題だったりするが、そこは言わない。自身へむけられる恋情へのいとわしさは全く緩和された気はしないが、ただ、イヴの気遣いだけがうれしい。
なんていい子、やさしい子。かわいいイヴ。
「……よかった」
ほうっ、と息を吐いて、こちらにもたれかかってくるイヴの、白い首筋にぎくりとする。
(…… この子もいつかは恋をするのね)
そうして結婚もして、イヴの両親のような夫婦になるのだろう。それでも今は。
「あたしのために、ありがとう。かわいいイヴ。大好き」
すっかり忘れられた紅茶のにおいが、甘いプディングの残り香にまざって流れた。
「…あたしも、ギャリーのことがすき」
「ん。ありがとね」
笑ってみせると、イヴはこちらを見上げてそっと微笑んだ。



14歳の誕生日会は、まねかれたもののさすがに家族水入らずで、と辞退した。それでも三人がかりでの引き留めが激しく、やむを得ず出張など入れたりした。もちろんイヤなわけじゃないし、家族三人が歓迎してくれていることもわかっている。それでも、なんというかけじめはつけたかった。なんのけじめかと言われるとうまく説明できないのだが。
そのかわりにお気に入りのカフェでささやかな祝福と、プレゼントを贈った。二人で夕食をともにすることはあったけれど、ちょっと大人びた、雰囲気のある店に誘うのはこれがはじめてだった。例年通りの花束と、今年ははじめての、アクセサリー。ぬいぐるみや文具だった今までとは違う。
イヴはしあわせそうに笑って、せまいソファのとなりから、きゅっとギャリーを抱きしめた。
「これ、実は好きでしょ」なんて、いたずらっこのように言いながら。
(まったくもう、今年はレディらしい演出にしてあげたのに…まだまだ子供ね)

「やだあお母さん、このビーフキャセロールあいかわらずおいしー!さすがイヴママはお料理上手!」
「うふふ、ギャリーちゃん、それイヴが作ったのよ」
「え、そうなの!? びっくりしたわ、とってもおいしいわこれ」
「イヴ、がんばったものねー?ギャリーちゃんが一番お気に入りの料理だから」
「…う、うん」
「まあ…そうなのイヴ、うれしいわ。すっかり大きくなって…こんな手のこんだお料理も作れるようになったのねえ…」
「だってイヴ、お嫁にいったら自分で作れるようになりたいんだもんねー?」
「ちょ、マ、ママ」
「ああもうほんとおいしー、そうねえイヴならいいお嫁さんになれるわぁ、旦那さんがうらやましいわ!」
「……」
「……」
「えっなにその目こわい、赤い目四つこわい」

咲きかけの薔薇のつぼみが朝露を受けるように、イヴの娘らしい輝きはいっそう強くなった。イヴももうハイスクールに通っている。棘は相変わらずのようだったものの、それもだいぶ柔らかくはなっている。
相変わらず、二人で会うことは多かったけれど、ある時、仕事のついでにイヴと同じ高校に通う子供たちを見た。
若く健全な子供たちはまぶしくて見ていられないほどだった。当然すぎるほど、自分とはまるで違う。
高校生の知り合いなんてイヴくらいしかいなくて、彼女と過ごすのがあまりに心地よいから気づかなかった。
(…そろそろ潮時なのかしら)

ゲルテナ展へ誘ったとき、イヴはやはりというか、考え込んだ。
もちろん無理に誘うつもりもなかったが、出会ってちょうど七年目に再びこの街へやってきた美術館へ二人で行く、というのは、区切りとしてちょうどいいかもしれないと考えたのだ。
「……手を、ずっと、つないでてくれるなら……」
遠慮がちな提案に、当然うなずいた。

七年前と同じ美術館での、同じワイズ・ゲルテナ展。
展示作品は当時とはいくらか違ったものの、見覚えのあるものたちも当然あった。
案外懐かしくなる絵画もあった。さんざん追いかけ回されたマネキンや赤い服の女の絵の前では無言で早足になったものの、やはり一人の精神世界をきりとった作品たちであり、切なくなるもの、優しい気持ちになるもの、いろいろなことを考えてしまうものも多かった。
時間が経って見てみれば、あの美術館はメアリーによって歪められていただけで、ゲルテナ自身は少し臆病なだけの人物だったのではと思えてきた。作品を愛でることすらできた自分に少し驚いた。そういえば、助けてくれた絵画だっていたのだ。
イヴも同じようで、小さな声で感想や解釈を語り合いながら歩いた。
あのときはタイトルも読めなかった、絵も少し離れなければ見られなかったようなちいさな女の子が、隣に並んで歩いて、ときにギャリーがはっとするような考えをみせた。
すっかり対等、と言い切れるものでもないけれど、意見を交わしあうことすらできるようになった。
このごろは、イヴが自分の愚痴や悩みを聞いてくれることだってあった。あまり言わないように心がけてはいたのだけれど、あの赤い瞳がいけない。
並んで歩いていると、視線を横にやれば近くに彼女の顔があって、理由もなく抱きしめてしまいたくなることが増えた。
出会ったころなら、抱きしめてかわいいかわいいと愛でればそれで満足していたが、最近は、少し怖い。もちろん、イヴでなく、自分がだ。
「精神の赤い薔薇」と名付けられた彫刻の前では、寄り添って長い間見つめていた。
恐ろしい女ばかりの世界と、女への怯えが見られるゲルテナの絵画だが、そうではない女性もいると信じたかったのではないだろうか。
薔薇のような心をもつ女性もいるはずだと、だからメアリーの絵には薔薇が描かれていたし、赤い薔薇の象徴としてイヴが呼ばれたのではないだろうか。
帰還後にずっとこの薔薇を見ていたのは、イヴのことを思っていたからだ。存在も思い出せないのに会いたくてたまらない少女の面影を、この薔薇に見ていた。
「この像の前でギャリーを見つけたときのわたしの気持ちが最近わかるようになったの」
「へえ?どんな気持ち?」
「言葉にするの、むずかしいんだけど…簡単にいうと」
イヴはつないだ手を強く握った。
「あなたと、ずうっと、いっしょにいたい」
淡く染まった耳のふち。
決心が揺らぎそうになる。まだ大丈夫ではないかと思えてしまう。意識をそらすために薔薇の像を見れば、床に落ちた花びら。
いや、やはり、もうタイムリミットは、きっととうにすぎている。

美術館を出たあと、来てよかった、と言ってくれて、心底ほっとした。
「たくさん歩いたわね。いつものお店でお茶にしましょう」
「うん。わたし、今日はアップルパイが食べたいな」
「いいわね。…あとね、大事な話があるの」
「だいじなはなし?」
その赤い瞳が、期待にきらめいている。
ああ、ごめんなさいイヴ。きっと、あなたが思っているのと反対のことよ。


ふたりが使う頻度の高いカフェで、出会ってから初めて、イヴが怖い顔でギャリーをにらみつけている。
「イヴ、かわいい顔がだいなしよ」
「かわいくないもん」
「かわいいわよ」
「かわいくないもん! かわいかったらギャリー、そんなこといわないもん!」
すっかり常連の二人が声を荒げている姿は、どうしたって目立つ。
「イヴ、ちょっと落ち着いて」
「落ち着けるわけないよ!」
「イヴ」
意図して低い声で名前だけをささやけば、彼女は奥歯を食いしばった。そうしてテーブルの上で堅く握りしめていた拳をほどいた。
「…恋人ができたからもう会えない、って…なにそれ、ギャリー」
「言葉どおりよ」
煙草が吸いたい。7年前には辞めようとしていた煙草。少しずつ減らすために、キャンディなんて持ち歩いていたのだ。それがあの出来事のせいですっかり辞めそびれた。
時折思い出すフラッシュバックからの鎮静効果も高かったし、何より、ライターを肌身はなさず持ち歩く喫煙者でなかったら今頃は…
「ギャリーのばか! わたしの気持ち、ほんとは知ってるくせに!」
涙を散らしながら、赤い瞳をうるませてこちらを糾弾する姿。これこそが、ずっといとわしく思っていた、自身にむけられる「女」だ。それなのに。
(涙を拭いて抱きしめてあげたい、と思うのは)
さて、どちらの理由だろうか。実のところ、わからない。
腕をのばさずにいるのは大変な精神力を要した。煙草がほしい。でもイヴの前では吸わない。
「わたし…わたし、ギャリーもわかってくれてるんだと思ってた。だから、大人になるまで待つつもりだった。ずっとそばにいてくれたし、これからもそうだって…」
ぱたぱたと音をたてて涙がテーブルを叩く。
「ごめんね、イヴ」
びくりと肩が震える。
そう、知っていた。イヴが寄せる感情が、いつからか思慕になってしまっていたことは、ずっと知っていた。
「でも…やっぱり、だめよ。イヴにはもっと年の近い人といろいろな話や経験をしてほしいの。ボーイフレンドってのも、甘酸っぱくていいものだとおもうわよ?」
「そんなの… だってわたし、ギャリーといるのがしあわせなのに」
「よくないわ。ほんとにごめんね。もっと早くこうしなきゃいけなかったんだけど」
このきれいな薔薇は、きっと自分という存在に呪われてしまったのだろう。潤んだルビーは、世界のすべてを壊しても守ってあげたいほどにいとおしい。だけど、もう。
「……ギャリー」
「なあに?」
「こいびとができた、って……ほんと?」
答えずにいると、イヴは自分でハンカチを取り出して目元をぬぐった。いつかギャリーがプレゼントしたものだ。
「わかった。ギャリーが決めたなら、しょうがないね」
にっこりと笑うその笑顔は、鮮やかすぎてむしろイヴらしくない。手早く彼女は手荷物をまとめはじめた。
「ごめんね、わたし、用事あるの。だからもう行かなきゃ」
「ええ」
そんなのあるわけない。いつも彼女は自分と会う日は、他の予定をほとんど入れていない。たまにあっても、一緒にいこうと言ってくるようなものだ。
「うん、ごめん…ごめんね、ギャリー… …じゃあね」
そうして、薔薇の天使は彼のもとから立ち去った。
嘘らしい嘘は、今まで二人のあいだに無かった。けれど最後の最後は、互いの嘘で終わった。
足音が完全に消えてから、ギャリーはぐったりとイスに延びた。長い足を投げ出す。
「……これでよかったのよ。これで」
遠慮がちに、いつもの給仕がお茶のおかわりを尋ねてきた。けだるげに手を振ることでいらないと示し、かわりに灰皿を頼んだ。
目の前には、半分だけ残されたケーキ。イヴのおきにいり、好物のケーキ。
煙草に火をつけ、大きく吐き出した。



-------------


next「虹の歳月 後」→



2012/05/11
戻る


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -