魔法より強く 2





「あー、これはパーツ取り寄せだねえ。割れちまってる」
靴屋の老人は小さな丸眼鏡を作業用手袋の指先で押し上げた。優美な赤い靴のヒールを表から裏から眺めている。
「上等な靴だからねえ、うちには替えを置いてないんだよ。悪いねお嬢さん。そうさな、早くて二週間……へたすりゃもとかかっちまうかねぇ」
「あ、いえ……」
「代わりの靴を貸すから、今日はそれでお帰り」
「ギャリーちゃん、救急箱持ってきたわよ」
「あら奥さんありがとー。さ、イヴ、足を出して?」
「い、いいよ、自分で手当てできるよ……」
「だめよ、アタシのせいなんだから」
「そ……そういうものなの?」

小さいながらも居心地のいい靴屋は、あるじである老夫婦の人柄をうつしているのだろう。革とクリームのにおいが心地よく漂っていた。試着用の椅子に腰掛け、靴と右足をそれぞれに治療されながら、イヴはうつむいている。何かをずっと考えているような、とくになにも考えていないような。
「それにしてもギャリーちゃん、あの丘の上からずっとイヴちゃんを抱えてきたの?よくへばらなかったわねえ」
「やあだ奥さんったら。惚れた女だっこしてへばる男なんているわけないわよぅ」
その、片手を口元にあてて片手の手首のスナップで何かをはたくような動作は完全におばちゃんのそれであったが、発言内容は間逆であり、聞いてしまったイヴはぎょっとして顔を上げた。
もちろん、聞かせるつもりで言ったので、にやりとギャリーは笑ってみせた。ぱっと髪を散らしてイヴは横を向いてしまう。
「あらー……あらあら……まあまあ……」
老婦人も口元に手をそえながら、何か「まあ、……そう……そういうことなのねえ」としきりにうなずいた。
「安心したわぁ、ギャリーちゃん。イヴちゃんとなら、ええ、いい夫婦になれるわよ」
「ちょっ、っ!!!!」
立ち上がったイヴは右足の痛みに涙目になってへなへなと座った。ギャリーは「あらー大丈夫?」としゃがみこみ、どさくさにまぎれて足首とついでにふくらはぎも撫でた。
「残念だけど奥さん、まだそこまでは了解してもらってないのよー」
そこまでもなにもそれ以前だって了解してない!とイヴが全身で訴えている。
「あらぁ、そうなの? まあ、若い二人ですものねえ」
なにがどう若い二人だからなのかはともかく、老夫婦はうんうんとうなずくばかりだ。
どういうつもりなの、とイヴはぷるぷるふるえながら涙目で訴えてきている。潤んだ瞳がルビー色。座る彼女に見下ろされている。悪くない。
「アンタも、この街に住んでたのね」
老夫婦はイヴと顔見知りのようだった。それも昨日今日のつきあいではなさそうだ。おそらくそれなりに長く住んでいるのだろうが、今まで出会えなかったことが悔やまれる。
(いえ、そうじゃないわ。今日出会えた、それでいいのよ)
突然話題が変わったことに彼女はいぶかしげな、また何かを警戒する表情になる。
上目遣いでこっそりと、彼女にだけ聞こえるようにささやいた。
「いいこと聞いたわ。奥さんがああして喜ぶってことは、アンタ、結婚してないし恋人もいないのね」
彼女の足がふるえてこわばった。表情は人形めいているのがまた違和感で、魅力的だ。
「じゃあ、アタシが口説いちゃっても問題ないわけだ?」

そう告げられた彼女の瞳を、ほんのわずかに寄せられた眉を、ギャリーは後に痛みとともに思い返した。けれどその時のギャリーは知るよしもなかったのだ。どれほど彼女を傷つけたのかなんて。




カウンターが七つ、それでもういっぱいになってしまう狭いバーだった。
花の形をした真鍮の蓄音機が甘だるいジャズで店内を満たしている。
壁一面のボトルは目にもあでやかだ。マスターの趣味で収集されたそれらは、花よりも女よりも客をもてなした。
ギャリーは一人腰掛けて、ふふ、と時折何かを思い出し笑いしながらグラスを傾けている。ローズリキュールと紅茶のカクテルがふわりと香った。
店内には、ギャリーと、ほかには客がひとりだけ。少し離れたところに座った男は、店のインテリアなのか私物なのか、チェス盤とピースをぼんやりともてあそんでいた。
グラスを磨きながらマスターはギャリーに声をかける。
「ご機嫌ですな」
「ええ。わかる?」
「それはもう。なにかすてきなことが?」
すてきなことが?と問われ、彼は朝に部屋を出たときのことを思い出した。
虹を見上げた。いいことがありそうだという予感があった。
いいことは、あった。イヴだ。
「……ふふふ。あのねえマスター、アタシ、とうとう長い独り身生活も終わりそうなの。いえ、終わらせてみせるわ」
「ほう。春が来たのですか」
「ええ、春よ。春の女神よ。まさか運命の出会いなんてものがアタシの人生に起きるなんてねえ」
「運命の出会い、ですか……それで、あなたの天使は何と言っているのです?」
「え?」
カラン、とドアベルが響いた。身なりのよい壮年の男性がひとつ席をあけてギャリーの隣に座る。
あなたの天使、の意味を重ねて問おうとしたが、男がギムレットをオーダーしたことで続きを問いそびれた。耳慣れない慣用句かなにかだろう。
ふわふわと気分がいい。アルコールのせいだけではない。
(イヴ。……イヴ、かあ)
剣弁型の深紅の薔薇のように、繊細で、古典的で、豪奢な容姿のくせにどこか無機質。芯は強そうだがどこか憂いを持つ瞳。
雨雲は、雨と嵐を連れ去って、そうして光がやってきた。
澄み渡る青空を前にギャリーは予感にくすくすと笑った。
チェスピースをいじっていた男が彼を気にしないふりをしながら全力で気にしている気配がするものの、ギャリーはかまわずに二杯目をオーダーした。
甘い酒で酔いたい夜だった。





「お待たせ、イヴ。アタシも早く来たつもりだったけど、ずいぶん早くに来てたのね」
「うん……ちゃんと時間通り来られるか、わからなくて。だから早めに」
「ありがと。じゃ、行きましょ?」
「っ……」
「ほら」
「……うん」
イヴは強引にとられた手をほどかなかった。だからそのまま、二人は緩く手をつないで歩いていった。

石畳を歩きながらとりとめのない話をする。今日は買い物デートというやつである。靴屋の前を通り過ぎたころ、なにげないふうにギャリーは切り出した。
「ところでイヴ、そろそろ携帯の番号とメアド教えてほしいんだけど」
「……(ふるふると首を横に振る)」
「ああそう、まだだめなのね……」
(デートに応じるし手もつながせてくれるのに、なんでそこはかたくななのかしら……この子の線引きどこにあるのかしら……)
イヴとのデートは順調に数を重ねている。
今まで、特に何かを間違えているつもりはないのだけれど。


水のない橋の上で出会い、追いかけっこをして、靴屋まで彼女を運んだあの日。彼はぬかりなくそのままイヴを連れて裏手の喫茶店まで彼女を連れていった。
手当てされたので歩くことができるようになった彼女であったが、少し足をひきずりゆっくりと進む姿は痛々しい。
手や肩を貸していたが、背の高さに差があるためそれも上手くいかなず、かえって歩きにくくしているようだった。
(……うーん)
手に肩に触れても、足首やふくらはぎに触れても嫌悪はされていなかった、と思う。話し方と雰囲気で、異性に嫌悪されにくい(一部同性には猛烈にされるが)ことに自信はある。
「イヴ、お姫様だっこはだめなのよね?」
高速でうなずかれた。拒絶ではなく照れているのだと言い聞かせることにする。
「じゃ、こうしましょ」
「!?」
ぐい、と腰を引き寄せる。とっさにイヴはギャリーにしがみついた。
(うっわ腰ほっそ、これ二人分でもアタシの腕あまるんじゃないの)
思うよりもさらに薄い手応えにぞくぞくした。その下の柔らかい膨らみも撫で回して感触を確かめたい衝動を根性で抑えこむ。体の側面どうしがべったりと密着する。暖かくて柔らかい、肋骨のラインが布越しに伝わった。
「ほら、アタシのことは杖だと思って。ね?」
「な…… な、」
髪と髪が触れそうなほどに顔を近づけて微笑めば、イヴは真っ赤になって口をぱくぱくさせた。
はたから見ればギャリーは余裕たっぷりに見えただろうが、彼の心臓だって彼女と同じくらいかそれ以上にばくばくと暴れていた。
(大丈夫大丈夫よねいやがってはいないわよねっていうか今日が初対面なのにアタシさわりすぎじゃね?アタシこんなやつだったかしら?ああでもだってこんなの初めてだし
知らないアタシが出てきても仕方ないわよねうわーすごい柔らかいかわいいもっとさわりたいっていうか剥きたい何回くらいデートしたら剥いてもいいのかしら)
完璧なほどの「優しい笑顔」の裏でギャリーが死闘を繰り広げる間に、イヴは何かを伝えようとするのを、あきらめ、うつむいて、それから。
くたりと脱力して彼に身を預けてきた。
(っ……!)
追いかけっこのあとの諦めとは違う、ギャリーを信じた行動だ。正確に言えば行動ではなく防御をやめただけともいえるが、何故か涙がにじみそうになった。そしてこの感覚を、彼は知っている。
(……セックスのあとの征服感……)
そう、それに酷似している。しかしたちの悪いことに、今彼女に与えられたこれは、彼の知るそれよりもずっと強く骨を貫いた。
(……剥くのをいつにするかは、あとで考えよう。今は、彼女を)
あとで考えるらしかった。


道すがら、互いのことを話した。ほとんどは一方的にギャリーが話して、イヴは問われたことに答えるだけだったが。
「へえ、この街で育ったの?アタシ、ここに住んで10年くらい経つけどあんたみたいな子にまるで会わなかったなんて変な話ね。どこかですれ違ってもよさそうだし、そうしたら絶対忘れないのに」
「そう、かな…… この街、大きいから」
「ところであんなところでなにしてたの?街を見てたみたいだけど」
「うん…… 街を見てた」
「お散歩?」
「そうじゃなくて、この街を出て……修道院に入ろうかって……」
「!?」
「あ、でも、それは…… ええと、たぶん、無し……?」
「ど、どういうこと!?なんで!?」
困ったように笑うので、それはいずれ聞きだそう、とギャリーは決意した。若い娘が修道院に入るだなんて、よほどのことだ。おそらくとてもプライベートなことだろうから、いきなりは話せないかもしれない。
(でも理由を聞き出して、きちんと阻止しなきゃ。そうしないとアタシが困る)
やはり一筋縄ではいきそうにない女性だ。なにか、わけありの気配がする。
いつもの彼ならば少しでも面倒そうな女性はその時点で笑顔でシャットアウトだが、燃えてきた。
(よし、がんばっちゃおう)
がんばるらしかった。


その後二人で食べたミートパイはいつもどおり美味しかった。いつも以上だ。というか。
「料理長からのサービスですぅ」とやはり顔なじみのウェイトレスが出してきたそれは、ふたりぶんより少し大きなハート型をしていた。
いつもなら切り分けられたピースにサラダが品よく添えられて出てくる。その日は料理長が気を利かせたらしい。
そういえば店に入ったときにちょっとした騒ぎになった。おもにウェイトレスが。
右足首を痛めたイヴとその杖がわりになったギャリーだったが、あれはもうべったりくっついた恋人どうしにしか見えなかっただろう。そしてそれは間違いではない。
(今はそうじゃないけど最終的にそうなるんだもの、つまり誤差ってことよ)
ハート型パイが出てきて絶句してるイヴもかわいいわーと思いつつ首をめぐらせれば、厨房の奥から料理長がぐっと親指を立てていい笑顔をしてきた。
「ま、食べましょうかイヴ」
「う……ん」
容量を超えすぎてくらくらしてきた、といったようすのイヴにパイを切り分けてやる。
「あなた、ここは来たことある?どれも美味しいけど、ミートパイとハーブティの組み合わせが一番好きなの」
「うん……来たこと、ある」
「あらそうなの。いいわよね、ちょっと見つけにくいとこにあるけど。アタシ隠れ家系のお店探すの趣味でね、この街はそういうのたくさんあっていいわよね」
「そうだね……」
「それでね、イヴ。急な話で悪いんだけど、アタシの恋人になってほしいの」
ちょうどカップを口に運んだところで言ったせいか、イヴの気管の奥にハーブティが入り込んでしまったようだった。
「かは、っ、げほっ、っ、っ……!」
「あらあらごめんなさい」
素早く対面の席から隣に移動して背中をさすってやる。
(あ、ブラだわこれ。ていうかほんとよくさわるわねアタシ)
本能には逆らえないということだろうか。少し奥まった席なのをいいことに、そのまま椅子をひっぱってきて隣に座ってしまった。
「な…… なに?え?どういう……え??」
「そのままの意味よ?」
「そ、んな、急な」
「確かに出会ったばかりだけど、こういうのって時間は問題じゃないと思うのよ。お互い子供じゃないうえフリーなんだからさぐり合う時間とか作ってもしかたないし」
背中に置いた手をそのままに話す。イヴは目を伏せて何か考えているようだった。長いまつげに、むせたときの涙がまとわりついている。
ハーブティーが冷めてしまいそうなほどたっぷり沈黙してから、小さな声で彼女はつぶやいた。
「どうして……私を?」
当然の疑問だろう。
「一目惚れ、って言ったら信じる?」
信じられない、と目が語っている。これだけ美人なら容姿に言い寄る男だって多かっただろうに。
彼女には、どこか自己評価が低いところがある。容姿だけでなく知性も高いことは少しの会話でだって伺える。なのに何故だろう、「わたしなんか」という雰囲気が薄く彼女を覆っている。
「でも、あんた、アタシのこと、嫌いじゃないでしょ?」
背に触れていたてのひらで、指先で、つうっとブラジャーの輪郭をなぞってやった。「あ」と小さな声を上げて背中を丸めてしまう。反射的な防御だ。それだと背中がよりさわりやすくなるのだが。
「……も、……信じらんない……」
どのせりふと行動にかかっているのかわからない言葉をささやいて、はあっ、と大きく呼吸した。
にっこりと笑って見せると、イヴは目を泳がせた。
「……ええと……」
「ええ」
「えっと」
「うん?」
「そ、その」
「なあに」
「わ、わたしのこと、す、き、なの?」
「そうよ」
「……はじめて、あった、ばかり、なのに?」
「ええ」
「そ…… そう、なんだ……」
涙の膜、赤い瞳。
(うさぎさんみたい)
うさぎさんは一生懸命考えているので、ギャリーは待った。きちんと待つつもりだった。5分程度は。
そして5分にとどこうかというところで、イヴはギャリーを上目遣いに見上げて、おずおずと言った。
「おと、おともだち、から、とかじゃ……だめ?」
噴き出すところだった。なんだこのかわいい成人女性は。
それでも彼女は真摯な顔だったので、こちらも真顔を作る。だが、押さえるところはきっちりと。
「それって、一生ずうっとお友達、って意味のお友達?」
にこりと笑う。
「もしそうならアタシここで暴れるけど」
「脅迫……!?」
「こたえて」
「え、ええと、ええと」
ぐるぐると考えているイヴもかわいらしい。こどもが一生懸命なぞなぞを解こうとしているようだ。
それから観念したようで、真っ赤になってうつむいた。
「その……いきなりは、心の準備っていうか……そういうの、ある、から……
でも、一生ずうっとお友達、とか、そういうのは……無しのほうが、いいな」
もしもハートマークが物理化するものであれば、一瞬にしてこの店は残骸と化していただろう。
ギャリーは加減も忘れて細い体をぎゅうぎゅう抱きしめた。言葉が出てこない。言葉なんかじゃこの愛しさに足りない。抱きつぶされそうになったイヴがぱたぱたと背中をたたくことでようやく腕の力をほんの少しだけ抜いた。
「だ、めだよギャリー……まだ、おともだちなんだから……」
ぐいぐいと胸を手で押してくるが、その力のまるで入っていないのに笑えてしまう。大声で笑いたい。
いずれ恋人になるつもりで始めるお友達、なんて、それはお友達といえるのだろうか。
(やだもうかわいい!ほんっとこの子かわいい!)
どこにいるかそもそもいるのかもわからない神的な何かに猛烈に感謝した。
それから、温かさを残した大きなハートをわけあって食べた。ナイフを入れればトマトと肉がどろりと溢れ、いつも通り、いつも以上に、美味だった。

(オトモダチ、ですって。それもいいわね。少しくらいはね)
そういうことをしちゃいけない関係でしか味わえない感覚もあるだろう。
にやにやと笑うギャリーと火照った頬をおさえるイヴは、獣と獲物だった。
ハートはやがて、二人のおなかに飲まれて消えた。






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2012/09/10
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