恋の生まれるところ









それはまだ、イヴがギャリーのおひざのうえで本を呼んでもらったり、だっこしてもらったり、お話したり、そんなことが許されていたちいさな頃のこと。

何かのきっかけで、「愛と恋の好きってどう違うの?」なんて、こどもらしい質問を大人に無邪気に投げかけた。
「うーん…そうねえ、人によるんでしょうけど、アタシの場合は…そうねえ…」
イヴは大人にあまり質問をしない子供だった。イヴの質問は何故かたいてい大人を困らせてしまうし、困った大人は適当な答えを言うし、イヴにもその適当さがわかってしまうのだ。
けれどギャリーはいつも真剣に答えてくれて、わからないときは一緒に考えたり調べたりしてくれる。ギャリーはイヴの特別だった。
今もたくさん悩ませてしまったけれど、だいすき、がんばって、の気持ちを込めて頭を撫でてあげた。おひざのうえは、こういうことがすぐにできてとてもいい。頭をなでるのだって、ギャリーだけだ。あんまりたくさんなでてくれるから、ある時おそるおそるなでてみたらとても喜んでくれたのだ。
「あ、わかった。わかったわ、イヴ」
にっこり笑ったギャリーが、頭をなでていたイヴの手をとる。イヴもうれしくなって笑う。
ギャリーはイヴのちいさな手を自分の胸に当てた。薄い布越しに、肌の感じがする。
「あのね、愛は心なのよ、イヴ。心の奥から湧いてきたり、心どうしが触れあったりしたときの好き、が、愛なの」
こころ。あるとは言うけれど、体のどこにあるのかイヴが知らないところだ。知っていれば、ギャリーの心にさわったり、イヴの心にさわってもらったり、触れあわせたり、できるのだろうか。
「…わたしもギャリーの心、さわりたい」
「ま、イヴったら! イヴはいつでもアタシの心わしづかみにしてるわよー!」
なぜかテンションのあがったオネエはぎゅうぎゅうとイヴを抱きしめてきた。わしづかみにしているのだろうか。覚えが無い。でも確かに、今のイヴも、体だけでないどこかもギャリーに抱きしめられているような、苦しいのにうれしいかんじがする。そういうことだと思うことにした。
ギャリーはいろんなことを教えてくれる。
「ねえギャリー…じゃあ、恋は? 恋の好きは、心じゃなくて、なに?」
ぱたぱたと腕をたたいて続きをねだれば、彼は目を細めた。
「そうね。恋の「好き」が生まれるのはね、イヴ」




蝶よ花よと育てられた彼女の指先は、生きるための雑事や労働とは無縁だった。
バイオリンやピアノを奏で、薔薇を育て、絵筆を取り、ダンスで紳士の手をとる。そういった、いわば嗜好品に類する、生きる上では必須ではないことに紡がれてきた。大人になったってそうなるはずだった。
だからこうしてキッチンナイフやレードルがイヴの指に触れることは、彼と出会わなければ一生無かったかもしれない。

「……イヴー」
甘えたような声に振り向けば、キッチンの入り口にギャリーが立っている。「いいからリビングでゆっくりしてて」と言ったのは今日だけで何度目か。
もう14才、まだ14才。イヴを置いて今日またひとつ年をかさねるギャリーは、まだまだ過保護だ。




出会った頃からきれいな顔の男の人だとは思っていた。
それでも、あの深海の夢を思い出すときには彼の顔よりも手の印象が強い。
今だってだいぶ開いたままの身長差は当時はもっと大きくて、そのうえくっついて手をつないで歩いていたものだから、ずっと見上げてはいたもののその手のほうがイメージとして焼き付いた。
暗い美術館の中の、白い、長い指。
指は騒がしい彼の声と同じくらい雄弁で、なにか話すときにはたいてい派手に動いた。そしてその手はひらひらと蝶のように舞っては行く手を示し、道を開き、イヴの手をひいた。
父親の手に似ているけれど、それよりも白くて少し冷たくて骨ばっていた。つないだまま指先でなぞると「イヴの手はふにゃふにゃしてやわらかくてくすぐったいわ」と楽しげに笑う。うれしくて、ずっとこうしていたいと思った。
思ったのに、美術館から出ても続いたつきあいを重ねるうち、手をつないで歩くことはできなくなった。
それでも時折、そっと指が指に触れることがある。髪をすくうことが、頬に触れることがある。
もっと触ってもらうにはどうしたらいいんだろうとこのごろのイヴは考えている。



「わたしだってもう14才なんだよ。たくさん練習もしたし、先生してくれたうちの料理人さんだって、お嬢様は飲み込みが早いですねって合格出してくれたんだから。一人で夕食作れるよ、まかせて」
「アタシだってあんたが器用で頭いいのは知ってるわよ。作れるんでしょうよ。でもね、あなたのおうちとアタシんちじゃ広さも設備も違うでしょう?万一うちでケガなんてしたらご両親になんて言ったらいいか」
じゃあそのときは責任とってくれる?
とは、言えなかった。軽く言える自信が無かった。無邪気ではいられず、大人ぶることもできない半端な時期だった。
「……大丈夫だよ。だから、ごはんくらい、わたしに作らせて?」
ギャリーは何か考え込んだあげく、やけに決意を秘めた表情でうなずいた。それは「イヴを信じよう」だったのか、「どれだけまずくても完食しよう」だったのか、「ケガをしたら責任をとろう」だったのか知る由は無かったが、とにかくそうして、彼は誕生日の昼下がりに、自宅のキッチンを友人に明け渡した。

明け渡しながらもそれから「道具の場所わかる?」「ちょっと手伝う?」「見ててもいい?」などとちょこまかと大きな体で鬱陶しい、いや、過保護な様子を見せたものの、「い い か ら 座 って て」とゆっくり言ったらようやく引き下がった。ちょうどキッチンナイフを右手に持っていたことと関係あるかもしれないしないかもしれない。
だというのにしょうこりもなくまたキッチンの入り口に現れている。イヴは鍋の火をぎりぎりまで弱くして、腰に手をあてて怒ったふりをした。

「もー。だいたい終わっちゃったんだからね。あとは夕方まで煮込むの」
「ええ、いいにおいがしてきたから気になっちゃって。トマトと、ハーブの」
せまいキッチンで彼が鍋に近寄ってくれば、その前にいるイヴとは自然と肩が軽く触れる。蓋を開けると、トマトと肉の脂とハーブの香りがあたりにいっそう強くあふれた。
「ブーケガルニね」
「それは「先生」がおすすめのを作ってくれたの。…ほんとは、全部自分で作ってみたかったけど…」
料理なんてほとんど初めてだし、なによりギャリーのバースデーディナーだ。ちゃんとおいしいものを食べてほしい。それを言うならどこかのレストランの予約なりケータリングなりをするほうがいいのだが、そこはなんというか乙女心だ。
頭に、髪が覚えている指先の感触。ギャリーが頭を撫でてくれている。
「ありがと、イヴ。イヴの初めての手料理をごちそうになれるなんて、とってもすてきな誕生日よ」
(……ギャリーなら全部わかってくれるとは思ってたけど、ほんとにわかってくれるし、甘えちゃってるなあ)
プロのレシピをきっちりなぞっただけのこれを手料理と言っていいのか悩むイヴである。ギャリーの料理はいつも手順も材料も即興に見えるし、それなのにとてもおいしい。
(ああいうの、わたしにもできるようになればいいのに)
そうしたら、ギャリーが疲れて帰ってきてもすぐに「冷蔵庫の中のものだけで作ったんだけど」なんて言いながらさっと夕食を用意して、「おいしいわイヴ!さすがアタシのお嫁さんね、大好き!愛してる!」なんて、
「って結婚してる!?」
「え!?なにイヴどうしたの!?」
トリップからいきなり自主帰還を果たしたイヴに、頭を撫でていたギャリーがびくりと手を引っ込めた。
「だいたいそれじゃごはんで懐かせてるみたいじゃない!」
「イヴ、なに、なんの話!?」
「あ、でも、それでもいい… ごはんで懐いてくれるんでもいい…」
「い…犬かなにか…?」
「ああ…… だけど……こんなんじゃまだぜんぜんレベルが……」
「……よくわかんないけどがんばって?」
再びおずおずと延ばされた手に頭を撫でられながら、イヴはこくりとうなずいた。
道は遠いが不可能ではない。いつかはほんとに自分の手でごはんを作ってあげたり、世話をやいたりしてあげたい。
決意するイヴをよそに、ギャリーはシンクをざっと見回した。特に悪戦苦闘したわけではないという痕跡を見てとったようで、安堵の息をついた。
「ね、イヴ」
「うん?」
「どこも、ケガしてないわよね?」
その指が最後の確認とばかりにイヴの手をとる。
無骨なくせに華奢な印象のある、うつくしい蜘蛛に似た指先が、イヴのちいさなつくりものめいた手に複雑に絡んだ。すこし固い皮膚が柔らかな肌をなぞって、指先を一本ずつ、子細に傷は無いかと確認してゆく。
(うわ)
くすぐったい、ような。それとも違うような。
気をぬいたら変な声が出てしまいそうで、イヴはおなかにぎゅっと力を込めた。
「……うん、どこもケガしてないわね。きれいな指だわ」
確認を終えて離れていこうとした指先を、思わずぎゅっと握ってしまった。
「え?」
「あ、…えっと」
片方だけ見えて見えている目が驚いているので、何か言わなければとあわてる。
「え…えと、お誕生日、おめでとう」
「…ありがとう?」
今日何度も言ったし、このタイミングで言うようなことではない。
何か言わなければ、は、なにかをごまかさなきゃ、と同義語なのだが、イヴの指は頭が考えごとをしはじめたすきにギャリーの手を引き寄せて両手でぎゅっとつつみこんでしまった。
「あの、…あの、ね、恋人と、」
「恋人と?」
「ごめ、そうじゃなくて」
今年も恋人と過ごさないんだね、なんて、いくつかある「触れてはいけないこと」のなかでも上位に君臨する言葉だ。それらは尋ねればきっと答えてくれる。知られたくないと彼が思っていても。だから触れないことにしていた。
ギャリーには知り合った頃から恋人がいたし、友人も多い。それらはとりたててイヴに語られることはなかったが、共に過ごす時間が多ければ自然と伝わる。隠そうとしているのか言うことではないと思っているのかまではわからない。
なぜ誕生日に彼ら彼女らと過ごさないのか、そしてなぜイヴは許されているのか。何度目かの彼の誕生日を迎えた今日も、やはり訊けそうにない。
だから、こんなふうにしか言えない。
「今日、わたしといてくれて、ありがとう」
イヴの両手のなか、閉じこめられたふりの蜘蛛が震えた。離したくなくて、伝えたくて、ぎゅっと握り込んだ。
ギャリーの手は、少しのあいだそこから逃れようとする動きを見せたが、結局は落ち着いた。
「……変なイヴ。お礼を言うのはアタシのほうよ。
今日、アタシといてくれて、ありがとう」
額にキスをされて、うれしい。うれしいけれど、たりない。



このごろイヴは考える。幼いころから描いていた淡い恋の輪郭がはっきりと形になってきたことと、愛と、恋について。
愛されている。それは知っている。けれどイヴは恋も欲しい。愛だけでは与えられない指が欲しい。


ギャリーの膝の上を定位置にしていたおさない頃に尋ねた。
愛と恋の好きって、どう違うの?と。
彼は答えた。
愛は心。心の奥から湧いてきたり、心どうしが触れあったときに生まれる好きのこと、と。
「ねえギャリー…じゃあ、恋は? 恋の好きは、心じゃなくて、なに?」
「そうね。恋の「好き」が生まれるのはね、イヴ」
それから一瞬、彼はどこか遠くを、イヴの知らない河を見た。
「……指、かしら」
はにかみながらそう言った。
きっと河のむこうの恋のまぼろしをながめながら。


ちっちゃい子供相手なんだからもう少しごまかして適当な返事をしたってよかったんじゃないかと今のイヴは思う。
口調や仕草で軽薄に見られがちなギャリーだが、実のところはひどくきまじめなのだ。
引き寄せた手に指を絡めれば、ギャリーは困惑した様子を隠さないが止めもしない。
「…ちっちゃな手だったのにね。もう、料理だって作れるようになったのね」
「まだおおきくなるよ」
「ええ、そうね。……そうね」

愛は心、恋は指先。
真意を問いただせる無邪気な時期は過ぎてしまった。
それならばせめて、もっと進みたい。

この指で恋を灯してしまいたい。
彼がそうしてきたように。










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虹の歳月、イヴ14才。

2012/07/30
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