薔薇色と人生 4



久しぶりにやってきたギャリーの住むアパートは、見上げただけで高揚した。
雨の中で、建物が彼女を歓迎しているようだった。錯覚だとわかっていても。

階段を三つ登った突き当たりのドアの向こうが彼の部屋。雫を垂らす赤い傘をたずさえて、彼女は歩く。
一度のチャイムで反応が無かったが、なぜかこの中に彼はいると確信していた。

三度目でようやくのろのろとドアが開いた。

一言で言えば、やつれてくたびれきっている。
飢えてぎらつくところを通りこし、衰弱した犬の風貌だ。服はよれているし、髪はぼさぼさだし、クマもひどいし数日間はヒゲも剃っていないであろうことが伺えた。
正直にいっておっさんだ。だがイヴはときめいた。おっさんな彼もいいと思った。彼がどう変わっていようと彼であるだけで大好きだったし、めちゃくちゃに優しくしてやりたいという欲求が沸き上がっていた。

「来ちゃった」
はにかみながら言えば、彼は幽霊でも見たかのように表情の抜け落ちた顔で呆然とイヴを凝視した。
らしくもなくにこにこと笑顔をたたえるイヴに、おそるおそる手を伸ばす。自身でそうしておきながら、指先がその頬にふれたことにびくりと怯えて引っ込めて、自分の指と彼女を交互に見た。
「…………イヴ?」
「はい」
にこにこ笑うイヴに、まるで表情の現れないギャリーといういつもと反対の二人だった。
数分は経過したがいつまでもギャリーが動かないので、「入るね」と彼の横をすり抜けて部屋にあがった。機械仕掛けのように、ギャリーの視線がただイヴを追う。

長いこと訪れなかった彼の部屋は、どこか投げやりな気配に満ちていてイヴの胸は痛んだ。部屋を観察する。
とりわけ汚れていたり散らかったりはしていないが、服や本がそこはかとなく乱雑に扱われている。チェストの上には枯れた赤薔薇が一輪、散る花弁もそのままに花瓶に挿してあった。

「アタシ…とうとう壊れたのかしら」
乾いた声が響く。
「ずっと… ずっと、イヴに会いたくて、それだけしか考えられなくて、でも、結婚するって、それってもう、イヴは」
部屋はバランスを欠いていた。同棲していた彼女が持っていったものの補充が終わっていないのだろう。けれど開きっぱなしの寝室のドアの奥のベッドには、いつか見た青いシーツがかけられていた。
「イヴがここに来るわけない…来るわけがないわ、アタシ、また幻覚を見てる。だってこんなのアタシに都合がよすぎる」
ぼろぼろと涙が彼の頬を伝い、部屋の中にまで雨が降る。
イヴはギャリーのところまでゆっくりと歩いて戻り、ハンカチを当ててやった。涙は拭っても拭っても流れて、レースをすっかり濡らしてしまった。
泣き続ける無精ひげのおっさんなど、日頃ギャリーにはしゃぐ女性たちには見るに耐えないものだろう。だがもちろん、イヴにとっては世界でいちばんかわいい人だ。

「どんなふうに都合がいいの?」
「だ、だって。うちにいるし」
「うん」
「あのワンピース、着てるし」
「着てるね」
「アタシに、笑ってくれるし」
「そうだね」
「……ああ、でも」
長くふしの大きな指を持つ手が、イヴの左手をとった。指輪がきらめいている。あ、はずすのわすれた、と、イヴはそのときようやく気づいた。着替えて会いにいくことしか考えていなかった。
「これは、いらない。どうせ幻覚なら、全部アタシの思い通りになって」

はずしてしまった。ひどくあっさり、彼女をこの数週間の間縛り続けていたものを。
こんな物体初めて見る、いったいなんの用途のものだろうというような目で、彼は指先でつまんだそれをいろいろな角度からまじまじと観察した。
それから彼女を置いて長い脚ですたすたと窓辺へ歩み寄り、窓を開け、イヴが「まさか」と思ったのと同時に、おもいっきり。

「ギャリー!?」

投げた。強肩で。重いマネキンの頭部を離れた壁までたたきつけるほどの脚力に比例する肩で、全力で。指輪を。
そういえばけっこう短気な性格でもあった。

「な… い、いくらなんでも…それは…!」
急いで窓に駆け寄って雨の降る外を見ても、もちろん指輪が見えるわけがないし、どのあたりに飛んだのかすらわからない。
不要になったとはいえ、きちんとした形で青年の家へ返すべきものだった。それに、かなり、わりと、とても、高価だ。
どうしようといくらか青ざめていると、強い力で抱きしめられた。
「どうだっていいじゃない、あんなもの」
「そ、 … それは、まあ、そうなんだけど」
ギャリーがここにいることに比べれば、たいていのことは、そうなるのだけれど。
「ここにいてよ、イヴ」
「いるよ」
珈琲色の髪に鼻を寄せて、涙声で彼が言う。骨がきしみそうなほどに強くかたく抱きしめられて、それは、いつもイヴを苛んだ恋の茨の感触にとてもよく似ていた。けれど、もっと生々しい。血のかよったもの。
「結婚なんて、しちゃ、やだ」
顔が見たくなった。背中を軽く叩くと、ほんの少しだけ腕がゆるんだので、顔を上げて彼の両頬を手のひらでつつんだ。ヒゲの感触でざらついている。青い瞳は、また潤みはじめて、熱い雫を落とす。

「アタシ…アタシ、なんでもするから」
ハンカチは床の上だし、そうしたかったので、背伸びして頬にキスをした。ずっとしてきたおともだちのキスを、まるでちがう気持ちを込めて。
「言葉遣いや仕草を男らしくしてほしいなら、そうする。煙草がのにおいが嫌いなら、吸わない」
反対の頬にもキスを。やはり、しょっぱい。
「甘いお菓子を食べてるのが恥ずかしいなら、もう二度と食べない。珈琲に砂糖とミルクを入れるのがイメージに合わないっていうなら、それもしない」
歴代彼女たちはほんとに馬鹿揃いだったんだなあ、とイヴは目元に唇を寄せた。あふれる涙を吸うように。
「ベビードールやワンピースだってもう知らない、イヴが選んだ服だけ着るから、だから行かないで。アタシのイヴになってよ」
長い指が。
美術館でおさない彼女の手を引き、導き、日の当たる場所へ連れ戻し、それからもずっとそばにあった、指輪をはずして放り投げた手が。
イヴの顎をとらえた。ゆっくり顔を傾けて近づいてくる距離、おともだちのキスと酷似しているが決定的に違うもの、それはもちろん初めてだったが、心よりもっと深いところのルールに従ってイヴは自然に目を閉じた。

唇で感じる唇は、涙より熱くて柔らかくて、そのままとろけてしまいそうだった。
雨は強く降り続いていたが、その音さえも忘れた。今はギャリーがイヴの感覚のすべてだった。
角度を変えて、何度も唇を食むように口づけられた。イヴは実のところ甘いものが苦手で、彼の好物のマカロンだってあまりおいしいとは感じていなかったのだが、これはとても甘くておいしい、彼といっしょにあじわえる、すごくいいものかもしれないと思った。
舌が入ってきたときにはさすがに(え、いきなりそんな)と少しだけ身じろぎしたが、それだってもちろんいやなわけではなくただの戸惑いだ。
「ん……ぅ、はぁっ、……あ、っ、んく、」
「イヴ…… ん、む…… ふ」

どれだけそうしていたのかはわからない。とても長かったような気もするし、ほんの少しだったような気もする。
舌と唇から解放されたイヴは、くたりと彼の腕の中で力をうしなった。
体中に熱い湯をかけられたように、全身の肉が煮えて骨はとろけている。酸素をたくさんとりもどそうと、浅くはふはふと呼吸を繰り返す。ぐずぐずに崩れ落ちそうな体を両腕で抱きとめているギャリーは、やはり息があがってはいるが、困惑した声で彼女に尋ねた。

「ねえ…イヴ」
「ん… な、に?ぎゃり…」
腕の中から見上げれば、彼は恐ろしいほどの真顔だった。
「もしかして、なんだけどね、イヴ」
「うん…?」

「あんた…… もしかして、…………本物…………?」

腰が抜けていなければ全力で平手打ちをしていたところだ。



「婚約の話がなしになるから、っていうのは、間接的なきっかけなんだけど」
本当のところ、きっぱりふられるつもりで来たのだ。
10年分積もりに積もった想いをすべてなげだして押しつける。きっとかわされるだろうけれどもう彼の都合なんて知らない、似合うとか似合わないとか釣り合いだとかなんだとか、欲しいの前にはすべて些細なこと。
手に入れるまで押しに押しまくってやる、その予定だったのだ。

シャワーを浴びて髭も剃り、イヴがその間に買ってきてやった食事ですっかり血色もよくなったギャリーは、それを聞いて真っ赤になった。
「あ、ありが…と… あと、ごめんね? 今まで、いろいろ、いっぱい…」

ほんとかわいいなあ、とイヴは思う。彼のせいで何年もつらい想いをしてきたのは確かに事実だが、半分はイヴのせいでもあるし、そんなものはこの顔で全部帳消しにしておつりが来るくらいだ。ベビードールはまだこの家にあるのだろうか。是非着てほしい。
「なのに、アタシったら。最低だわ」
「最低?」
どれのことだろう、とイヴは思う。わりと心当たりがたくさんある。言いよどむ彼に、「全部言ったんだからギャリーも言って」と押し付ける自分は、ずいぶんわがままになったと思う。
それでも根が生真面目で誠実なギャリーは話してしまう。そんな義務はひとつもないというのに。
「結婚するイヴをアタシのものにするには、どうしたらいいんだろうってずっと考えてた。
それでたどりついた結論が、その、……すごく、ひどいし、最低なこと、だった、のよ」
「……それは」
なんだろう?と考えて、よくわからなくて、彼の顔を観察して、それで気づいてしまった彼女はうつむいた。
正直に言って、ギャリーがそれを実行できたとは思えない。結局はぎりぎりで思いとどまるだろう。そういう人だ。ただ、ほかならぬ彼がそうしようと考えた、それだけで、イヴは。
少し、いや、わりと、かなり。
嬉しかった。湯気をたてるお茶より熱い頬を冷やしたくて、ぺたりとガラステーブルに頬をつけて、テーブルの下でちいさなこどものように足をばたばたさせるくらいには。

「ギャリー…でも…それって、今は、ひどいことじゃないよ」
今、という単語の含む意味はとても多いとイヴは感じた。
「…今」
「そう、今」

彼がカップを置く音は、いつもどおり丁寧だったがひどく大きく響いた。
カップを置いたのは手を伸ばすためだ。
想いを伝えあったその日のうちにということへのためらいが無いわけではなかったが、彼も彼女も、それまでずいぶん遠回りをしたのだ。




シャワーを借りた後に自宅へ外泊の連絡をすると、母が電話口に出た。
『ギャリーさんちにお泊まりかあ。ふふ、まかせて。お母さんがうまく言っておいてあげるわ』
「……ありがと」
『今ねえ、ちょっとおもしろいことになってるんだけど、その話すっごくしたいんだけど、でも、明日帰ってきてからにしましょうね。今夜はほかに集中することがあるだろうし』
「しゅ、集中って、お母さん!」
『うふふ、それじゃあねー』
通話の切れた受話器を持って頭を抱えたい気持ちをこらえていると、背後から延びた長い腕が彼女を抱き寄せた。

「電話、お母様?」
「ん… うん」
ベッドサイドに受話器を置いて、彼にもたれかかる。青いシーツ。まさか自分がここで、……そんな、そういうことになるとは、考えもしなかった。
「なんか、大変なことになってるっぽいんだけど…電話のむこうでお父さんの叫び声とかなんか割れる音とか聞こえたし。…彼、どんな風に言ったんだろ…」
「…今は、こっち。ね?」
うなじに頬がすり寄った。両腕が抱きしめるだけでなく、手のひらが彼に借りた薄いシャツ越しに肌へ触れる。ぞくぞくと背中を駆け抜けたものに、思わず吐息が漏れた。

「あ…っ、待って、ギャリー」
「なに?」
「その… ベビードールとか、着なくていいの?」
彼は手をとめ、ほんの少しだけ考えたようだった。
それから、にっこりと笑う。

「確かに素敵ね。是非、と言いたいけど、それはまた今度にしましょ」
「……うん、えへへ、楽しみ」
「イヴったら。…ねえ、先のことは先に考えて…」
「あ、や、ギャリー、いきなりそんな」

二人の考えは噛み合っていなかった。
ほんのかけらの言葉だけでわかりあえたイヴと青年とは比べものにならない意思のすれ違いっぷりであったが、つまり、それも恋の醍醐味と言えた。




翌日イヴが自宅へ戻ると大騒ぎだった。
なんでも、彼女の婚約者であった青年が「僕はやっぱりこの人と生きていきたいんです!」と、何年もつきあってきた恋人を彼の両親の前に連れてきたのだという。
イヴの父親は激怒したり泣きだしたり鳴りやまない電話に対応しつづけたり、反対に電話をかけたり、一晩で何年分も老け込んだようだった。イヴになんといって謝ればいいかわからないといって泣いていたが、「大丈夫。ぜんぜん気にしてないから」と晴れやかに笑えばとうとう号泣した。

「…本心だったんだけどなあ」
庭にあつらえられた、蔓草模様の白いテーブルセットで紅茶とマカロンを口にしながらイヴが苦笑すれば、母親は「聞きようによってはお父さんをめちゃくちゃつきはなした発言だったわよ」と晴れ晴れと笑った。
庭師が丹誠込めて育て上げた庭は、雨上がりできらきらと輝いている。その庭師の鋏の音が近くでしたので、イヴはマカロンの皿を持ってそちらへ向かう。

「これ、おひとつどうぞ」
「ありがとうございますお嬢様。ほう、かわいいお菓子ですな」
「ギャリーの好物なの。手みやげにって持たせてくれたんですよ」
「ほう、ほう… それは、ようございました」
「はい」
「…綺麗に咲いたものです」
目をほそめる老人に、イヴは彼女が背にした薔薇の花壇のことかと振り返る。
「いえ、お嬢様がですよ」
「……ええと」
つかえがとれてふっきれた、恋が成就した、そのことを言っているのだと、信じたい。
昨夜なにをしたのかがいくら年の功があるとはいえいきなりばれたのだなんて、そんなことまさか。

ひきつった照れ笑いでその場を離れてテーブルに戻ると、「つまりみんなおさまるべきところにおさまったってことよ」と母親が二つ目のマカロンを選んだところだった。

「お母さんは、彼に恋人がいるって知ってたの?」
「ええ、あちらのお母様と話をしながら、なんとなく、ね。彼女もイヴにそういう人がいるのは気づいたでしょうし、イヴも、知ってたんでしょう?」
「……うん」
みんな幸せになるといいなあ、とイヴは思う。甘いマカロンも、なんだかいつもよりおいしく感じる気がする。

彼にもイヴにも、片づけなければならない問題はいくつか残っている。
けれどやっぱり、自分の人生だ。
回りのためにあきらめることなんてなくていいし、ふさわしいとかふさわしくないとか、合うとか合わないとか、誰かのためとか、そんなものはあとでいいのだ。
覚悟を決めて本当の望みに挑んだならば、わかってくれる人はわかってくれるし、なるようになるだろう。
それで充分だ。それだけで。




結婚披露のパーティーをしていなかったことだけはかろうじて救いではあったが、それでも巻き込んだ大人はたくさんいたので両親たちはいろいろなところへ謝罪に奔走したようだった。

何より、青年の父親への非難は相当なものであった。
彼は知っていたのだ。青年の恋人の存在を。だがなんとしてでも認めない、会社をつぶして親族や社員を路頭に迷わせるつもりか、男同士でなんて世間様に顔向けできるか、と恫喝したのだ。

そう、青年の恋人とは、同じ性を持つ男性だった。

大学で出会った学友だという。
イヴの父親はそれを聞いたときに卒倒したし、彼女もそこまでは想像していなかったのでさすがに驚いた。だが納得もした。

一度は父親に従い、彼はイヴとデートを重ねた。相手が男でなくとも、彼ほどの身分ともなれば結婚相手が意のままにならないのはよくあることだ。
だが彼は、他ならぬイヴの言葉で恋人と生きていくことを決意した。


イヴは「一方的に婚約破棄された可哀想な令嬢」だったのでいろいろな騒ぎからは隔離され、大人たちからは哀れみの目で見られたが、もちろんそんなものこれっぽっちだって彼女の幸福をかげらせはしなかった。
想いが通じたばかりの恋人と、隠していたものを見せ合ったり、ときどきはやっぱり隠してみたり、探してみたり、そういうことに忙しかったのだ。

「ギャリーさんのことはもう少し落ち着いてからお父さんに話しましょうか」
という母親の提言は至極最もで、「少し落ち着いた」と母娘が感じたタイミングでの父親への暴露でまた家庭内は大騒動になったが(主に父親だけが)、まあ、すべてはだいたい、おおむね、収まるべきところに収まった。再び庭先に現れるようになったギャリーに庭師は喜んだ。
結婚式ではぜひうちの花を使ってやってくださいよという庭師へ「もちろんよ」と応じた彼に、イヴは感極まって飛びついた。




待ち合わせに向かうイヴは、懐かしい人を見つけて呼び止めた。
「…わあ!久しぶり、イヴ!」
「うん、うん。元気だっ… でした?」
手を取り合ってはしゃいでいる二人が、もともとは親の決めた婚約者どうしであると感じる人は皆無であっただろう。よくて兄妹、あるいは友人にしか見えない二人だ。
「いいよ、言葉遣いなんてもう。幸せそうだね、イヴ」
「うん、あなたも。
…よかった。幸せなんだね。あのときは、本当にありがとう」

いろいろな話をイヴも聞いてはいたが、瞳の輝きは、彼が何一つあきらめていないことを示していた。
青年による父親との和解までの道はその後数年に及ぶことになるが、彼の母の力添えとイヴに背中を押された彼女の父親により、恋人たちは父親に結婚(法的にはできなかったので事実婚ではあったが)を認められることになる。
彼の父親が思うほどには世間は厳しくもなく、事業にもそれほど影響は出ず、むしろ逆境の愛を貫いたということで美談扱いするところすら出現した。
とはいえ、この時は親族をはじめとした関係者だけでなく人権団体やら出版社やらをも巻き込んだ大戦争の真っ最中であった。

「お礼を言われると変なかんじだなあ。婚約破棄したのは事実だし」
「ぜんぜん気にしてないよ」
「まあね、婚約指輪を投げ捨てるくらいだしね」
さすがに驚いてイヴは目を見張った。婚約指輪をどうしたのかは混乱の中でうやむやになったし、ギャリーが投げたことは母親にだって言っていないのに。

「あの雨の日にね、僕は彼に会いに行った。一緒に生きていこう、もう一度父さんに話して、それでもだめなら駆け落ちしよう、って」
「……うん」
「そしたら彼、そんなのだめだ、君はお父さんをあんなに尊敬しているし感謝している、仕事だって好きじゃないか、きちんと精算していこうって…まずは指輪を返してもらってこいって言ったんだよね」
「素敵な人だね」
会わずともわかる。彼が恋しく思う人ならば、きっと優しい人なのだ。そして彼を愛し、彼の愛するものも愛そうとする人だ。
「うん、ありがとう。それでね、…そしたら、」
青年はこらえきれない様子で笑いだした。婚約者として過ごしたあいだの穏やかな微笑とはまるで違う、けれどずっと好ましい様子で。

「彼の頭に、どっからか飛んできた小石がぶつかったんだよね。「いってえ!なんなんだよこの大事な時に!」って彼はすごく怒ったけど、転がったものを見て、僕、心臓が止まるかと思ったよ。何だったと思う?
小石なんかじゃなくってね、それ、」
「……まさか」
「うん」
「え、うそ、まさか」
「そうそう」
「ほんとに!?」
「そう!そうなんだよ!」
涙を流して笑い会う二人を、怪訝な目で通行人が見ていくが、当人たちは心から幸福に、にぎやかに、笑い合う。

指輪の行方は、ずっとひっかかってはいたのだ。
まさか本人のところへかえっていたとは!

「や、やだおなか痛い… こんなに笑ったの生まれてはじめてかも、わたし…」
「奇遇、だね… 僕もだよ… あー、笑いすぎて疲れることってほんとにあるんだなあ…」
「…あ、そうだ、指輪投げたの、わたしじゃないからね。彼が窓から投げたの。四階の部屋から」
「うわ、そうなんだ。よく怪我しなかったなあ、けっこう危ないとこだったんだね。
…イヴの彼って、どんな人?」
どんな人?と言われて、答えにつまる。狼の見た目と兎の心を持っていて、男らしいのに女らしくて、イヴの騎士でありお姫様。らしいところもらしくないところも、
変わるところも変わらないところもすべて愛している、彼女のただ一輪の薔薇。

「説明が、難しいんだけど…」
「うん」

「ベビードールを着たいらしいよ」

さすがに青年は、目を丸くした。
「…ジョーク?」
「ううん」
「イヴの恋人も同性なのかい?」
「男性だよ、一応」
「…へえ」
「うん」
二人はまた、笑い合った。

「やっぱり僕たち、結婚したらうまくいったんだろうなあ!」
「本当。とっても残念」
「これから予定ある?」
「彼とお買い物。来月からいっしょに住むの。赤い屋根のかわいい一軒家でね、煉瓦と蔦がすごくいい雰囲気で…週末には一緒に塀のペンキを塗るのよ」
「そっか。僕もこれからデートだけどね」
「ねえ、また会えるよね。よければ二人でうちにきてよ」
「もちろん。僕ら絶対、」
「ええ、絶対。いいお友達になれるはずだもの!」




珍しく非番の日が友人と重なった彼女は、とあるハイブランドショップで店員をしている彼女と待ち合わせて買い物に出ていた。
素敵な出会いが欲しいわよねー、うちの彼氏ったらさー、またメイド服使ってみたら?なんておしゃべりしながらオープンテラスでアイスティーなど飲んでいると、見覚えのある男女を道路の反対側に見つけた。
すみれ色の髪をした背の高い男性と、珈琲色の髪にルビーのような瞳が印象的な女性のカップルだ。

いつだか、彼女のバイト先で見たことがある。二人で家具やいろいろな小物、一点ものだった深い青のシーツを買って行った。少しくせのある色なので展示品として扱ったあとは在庫処分になりそうだと入荷時に思ったものだが、あの二人にとても似合うと感じたことを覚えている。

彼女の視線に気づいた友人も、そちらを見て「あ」と声をあげる。
「あの二人、うちのバイト先に来たことあるわ。ワンピース買ってった」
「へー、そうなんだ」
そう言ったきり、なにを付け加えるでもなく、むこうがわの二人をなんとなく見守った。

二人の空気は、誰が見たって恋人どうしだ。腕を組んでいなくても、手をつないでいなくても、どこも触れていなくたって一目でわかる。
微笑みを交わし合う彼らは、以前見かけたときとはどこか雰囲気が違うような気もしたが、たぶんそれもいい変化なのだろう。今の姿を見るかぎり。


「ねえ、あの二人ってさあ」
「あ、やっぱあんたもそう思う?」
「うん」
ふたりの声が重なった。



「「お似合いだよねえ」」










「薔薇色と人生」おわり。



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薔薇色と人生の話

2012/06/23
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