陸の上の人魚



※三人脱出エンド後
※ギャリメアが実の兄妹






彼の妹なんてまっぴらだ。
イヴの姉妹になりたかった、と、当時それはそれはぶんむくれて、おもての美術館、「深海の世」の絵の前で「リテイク!もっかい!リテイク!」と叫び、イヴとイヴの両親と学芸員、それに「兄」になったオネエを困らせたのは、何年も前のこと。
そうして結局、長く彼と兄妹として暮らしてきて、今もそう思うかどうか、なんて。そんなの。そんなもの。


「んもーーーー、起きてよギャリー!いくら休日だからってもう昼なんだけど!」
「んー…… んんん、まだ… まだだめよー……」
「だめじゃない!怠惰なオネエとか産業廃棄物ものだよ!オネエならオネエらしくもっときびきびこまめに生活してよ!」
窓の外は日差しがまぶしく、青い空のてっぺんあたりにおひさまが輝いている。
空き缶を鉢にした花たちは、乱雑な並びとその場当たりっぷりとは反対に生き生きと窓辺で輝いていた。よく世話をされている証だ。
その花たちのように、メアリーのたっぷりふわふわの金色の髪もおひさまにきらきらきらめいていた。
もぞもぞと長い手足を折り畳むように、ベッドの上でメアリーの「兄」、ギャリーはうめいている。昨夜珍しく深酒をして遅くに帰ってきたのは知っていた。二日酔いなのかもしれない。
ふだんならば放っておく。自分たちは、そんなべたべたした兄妹じゃない。けど、今日は、起きててくれないと困る。決意が鈍る。それに、あれから一年も経った。一日だってもう待てない。
「もうっ!ほら、さっさと食事にして!片づかないでしょっ」
オカンのようなせりふとともに、うわかけをばさりとはぎ取る。
「っ…!」
そうして、赤面した。
「だ…だから、何度言えば全裸で寝るのやめるのよこの…っ」
「……んー……」
まぶしげに、からだと視界を覆うものを奪われ、横向きにまどろんでいたいた彼は、すみれ色の髪の下の青い瞳でぼんやりとこちらを映した。
もう三十路に足をつっこもうというのに、彼の肉体は相変わらず見事な流線を維持したままで、「ほんとうの」父親が見たら主義を変えてでも彼を描きたがったはずだとメアリーは思っている。
うっかり画家の眼で観察を開始してしまったせいで、反応が遅れた。
長い腕がこちらへ伸びたと思ったら、視界が反転した。
一瞬にしてベッドにひきたおされ、おおいかぶさられた。
「へ?え、ちょっと、ギャリー?」
「…んー……」
まぶしい日差しがさしこむ中、ベッドで、パンツ一枚の兄に押し倒されている。
彼はとろんとしたまなざしで、じいっとこちらの目をのぞきこむようにみつめてくる。
「…ギャリー?」
「……好き」
「は」
「ごめん…こういうの、ほんと…フェアじゃないって、わかってる…」
「は、ま、待っ、」
大きな骨ばったゆびさきが、手のひらが、肩をつつみこむようにして、それから二の腕を肘にむけてぞろりと撫でた。背筋が粟立つ。
「あんたには、あのとき、アタシしかいなかったし…恋心…に、似たものを…持つのは、…当然だ、わ。そこに、いたのが…アタシで、なかったと、しても」
「…ギャリー」
「…アンタときたら、どんどん…きれいに、なるから…」
「ま…待って、待ってよ、これちょっとしゃれにならな」

「…好きなの…    イヴ」

「…… おい」
「好き!愛してる!イヴ!イヴ…!!!!!お願い、アタシの愛、受け止め」

穏やかな昼下がり。川辺ののどかなアパートに、石畳の通りに、オネエの悲鳴が響きわたった。
「オネエの声だったんですか?新種の化け物の鳴き声かなにかかと思いました」
該当の時間にたまたまランニングしていた男性は、そう語った。



「…っかしーわね、何にも思い出せないんだけど」
「ベッドから落ちて打ったんだよバカ兄貴」
「そうなのかしら…ベッドから落ちてなんであんなに股間に鈍痛がしてたのかしら、どう落ちたのかしら…」
「痛みのせいで前後の記憶を失ったか…」
「…なんか不穏なこといわなかった今」
「なんにも」
メアリーが用意したフレンチトーストとオレンジジュースを、それでもギャリーは食べている。メアリーの得意料理のひとつだ。もともとは兄のレシピだったが。
「昨日はずいぶん飲んだくれてたよね、珍しい」
「んー…うん、友達がね、結婚するっていうからね、独身最後の男同士の飲み会ってやつだったんだけど、…」
「…なんか考えちゃったんだ?」
「まあ、ね… この年になると、独身の同年代もどんどん減ってくから」
やたらセンチメンタルになっていたのは、帰宅時にもわかっていた。兄は、兄なりにいろいろ考えてはいるらしい。
口調と仕草で誤解されがちだが、性癖はストレートだそうだ。それなりにモテてもいる。しようと思えば結婚なんてすぐにできるだろう。思わないのは、つまりは。
「わたしのことはさ、気にしないでいいんだよ。一人暮らしだってできるよ。ギャリーがさんざん家事たたきこんでくれたんだから。
心配だっていうなら、ルームシェアの相手探したっていいんだしさ」
「……ばかね。単に、相手がいないだけよ」
「イヴは?」
ぴたりとフォークが止まった。ほんの一瞬だけ。
すぐに彼は穏やかな笑顔をはりつけてしまう。
「おかしなことを言うのね。イヴだって、あんたとおんなじ、アタシの大事な妹よ」
いまさらなにを言ってるんだか。
さっきあれだけ心情を吐露したくせに。よりにもよってわたしとイヴを間違えたくせに。
(どうせ結婚がらみで恋愛の話になって、それでイヴのことを思って、でもやっぱりとかなんとかそういうあれでよっぱらって帰ってきて、そんで夢にまで見たってとこでしょ。そんでわたしのこといいわけに使ってるんでしょ)
そういうのはもううんざりしているのだ。




深海の世、閉じた美術館から三人で外へ出た。
そこではメアリーはギャリーの妹だった。生まれたときからずうっとそうだった。
コーヒーに流し込まれるミルクのようにそれらの家族としての記憶を「思いだし」ながら、二人でただ呆然としていた。ふたりと美術館で出会ったイヴにはそれらは当然起こらず、不思議そうにそれを見ていた。

いろいろあって、メアリーは「兄」と二人暮らし。
「やだやだやだイヴの家の子になる!やだ!!」
「でもほら! メアリーもイヴもアタシの妹!つまりアタシたち、三姉妹ってことよ!これも素敵でしょ?どう?」
「姉妹じゃないよ!」
「メアリー。たしかに戸籍の上ではイヴは妹ではないわ、でもアタシはふたりともおなじように」
「いや、そういう意味じゃないよ!それもあるけどおもな問題はそっちじゃないよ!」
それでも結局は、あきらめた。どうにもならないことはわかっていたし、明るい世界の中で、ギャリーは、まあ悪くない兄だった。
三姉妹では無かったが、仲の良い三人ではあった。

「ギャリー、メアリー、行こ!」
よく笑うようになった(と彼女の両親が言っていた)イヴに手をひかれて、三人でいろんなところに出かけて、おいしいものを食べて、いろいろなものを見た。空を、木々を、街を、生き物を。
スケッチブックを何冊も何冊も使った。描きたいものがたくさんありすぎて。すべてがまばゆく美しく楽しくいとおしく、メアリーは、ただそれらを青い瞳から焼き付けて、紙へとうつしとった。
「ありがとう、ギャリー」
夢中になって花を描いているとき、イヴがそんなふうにギャリーに呼びかけているのが耳に入ってきた。めずらしいことだ。メアリーは、一度没頭すると完成するまで回りの声なんて聴こえない。
「きれいなもの、たくさん見せてくれて。あと、いっしょにいてくれて、うれしい」
「あたりまえじゃない。アタシたち、仲良し三人なんだから」
芝生の上に座るふたりは肩と肩をくっつけあって、そんなことを話している。背の高い彼と、10才にもなっていない彼女は、なぜかふしぎになじんで見えた。
(…あれ。なにこれ)
手が、動かせない。いつもメアリーは描きはじめたときには完成図が浮かんでいて、あとはそこに近づけるだけの作業となったら、止まらないのに。意識が耳に集まってしまう。
「ギャリー、わたしね、ギャリーのことだいすき」
「ま。ありがと、イヴ。アタシも大好きよ!」
はしゃいだギャリーが、イヴを抱きしめた。イヴは突然の抱擁に驚いた硝子玉のようになりながらも、すぐにふにゃりと笑った。
(あれ…… ほんと、なにこれ)
知らない、けれど、馴染みのあるちりつき。その時メアリーは、気のせいにして押し込めた。
何年もそのちりつきを抱えたままになるとも知らず。



「ごめん、メアリー。あんたが欲しかった「おとうさん」と「おかあさん」ができなかったのは、アタシのせい。
できるかぎりのことをしてあげたいと思ってはいるんだけど、こればっかりはね」
いつだったか、金色の髪を複雑に編みあげながら兄がそんなふうにつぶやいたことがある。イヴの両親の話がきっかけだった。メアリーは単に世間話として語っていたのだが、彼はそう捉えなかったらしい。
「…べつに。いいよ」
「家族になったのがアタシでなければ、あんたにも両親がいたのにね」
「いいってば。…両親はいないけど、ギャリーがいるじゃん」
そっけない言い方になったが、本心だった。この頃にはもう、気づいていた。学校にも通っていろんな家のこどもや親の話を見たり聞いたりして、彼が、兄が、得難い存在であることに。
さすがにイヴと同じ学校には行けなかったがそれでも通学させてくれているし、画塾にも通わせてくれた。
いつも彼は妹を大切にしていたし、メアリーもそのことを認めざるをえなかった。
女性的なところも多分にあった「兄」は、静かに、誠実に、妹を育み、守った。唐突に押し付けられることになった存在を、父と母のぶんまで。
「メアリー」
「ああもう!この話おしまい!さっさと髪結って!」
「終わったわ」
「終わってたなら言ってよ! ってうわ、なんで泣いてんのよ!」
「だって、だって…メアリーが…」
「もーーーー! ほんっと、ギャリーって泣き虫なんだから!」


外の世界でもほかの楽しみを見つけても、メアリーは、絵を描いた。見えるもの感じたものをスケッチブックに、カンバスに描いた。もはや食事のような本能的なものとしてそれは彼女とともにあった。
彼女が消費する画材は安くはなかったが、高名な美術家にその絵を評価されるようになるのも援助を受けるようになるのもすぐのことだった。
(お父様はなかなか理解されなかったのにね)
それなりにパトロンの受けがよさそうな絵も描いた。
適度に美化してやった依頼主の肖像、動きだしそうな風景、感想文がわりの抽象画、日記代わりのエチュード、本物よりも本物のような写実画。
天才美少女という自身のブランド力だってフルに使ってやった。
そもそも自分の描くものを芸術だとも思っていなかったし、余った絵の具をカンバスになすりつけて意味ありげなタイトルをつけたものが学費を払ってもまだあまる稼ぎになったときは、いっそ笑った。
生活費は大事。ほかのものならもっている。ゲルテナは晩年にそれで苦労していたし、なにより、兄の重荷にはなりたくなかった。


親友を好んで描いたのは、もちろん被写体がメアリーの好きなものであればあるほどやる気がでるからだし、カンバスにむかって絵筆をかまえてイヴを見つめれば、ただそばにいるときとは比べものにならないほど彼女のことがわかったから。親友の絵は売り物にしなかったので、どんどんたまっていった。
「アタシのことももっと描いてよーメアリー」
「やだよ。ギャリーすぐ脱ぎたがるんだもん」
「アートってそういうもんじゃないの?」
「わたしの描いてるものはアートじゃないしアートなめんな」
「メアリーのためなら…アタシ、ヌードにだってなるのに…」
「そんなにパレットナイフで刺されたい? …まあ、年に一度くらいなら、描いてやってもいいけど」
「やった」
「タイトルは「忘れられた肖像」とかどう?」
「初耳の言葉だし詩的なのに全力で回避したいのはなぜかしら」

流れる時間が、メアリーの画材をクレヨンから色鉛筆に、水彩に、油彩に変えていったように。
メアリーとイヴもまた、少しずつ、いとけない落書きから豊かな色彩の絵画へと変化してゆく。
抱く感情も複雑になった。イヴのそれがギャリーへむかうのは、当然のなりゆきだったといえるだろう。
三人でいても、ギャリーとイヴが遠慮しあうことが増えた。そうしてふたりとも、ごまかすように、本当に触れたいものは違うくせに、メアリーに構うようになる。
変化していったともいえるし、はじめからそうだったともいえた。
イヴはギャリーを一人の男性として慕っていた。
そうして、すっかり美しくなった彼女をまた、彼も。
けれど「兄のような」「妹のような」から抜け出すすべをしらず、彼らはすこしずつ、確実に、ぎこちなくなっていった。
三人組でのおでかけは少しずつ数を減らしていった。メアリーはどちらともよくいっしょにいたが、ふたりはメアリーをはさんでしか会わないようだった。



イヴと距離を置くようになって、ギャリーは恋人のようなものを作るようになった。イヴが成長したということはメアリーもまたそうだということで、いくらか保護者の責任を肩から降ろしたことも原因のひとつではあった、かも、しれない。
たいていは、あちらから口説いてくるという。
「…そのくせになんで毎回ふられてんの」
「うるさいわよぅ、しょーがないでしょ! …なんか、理想と違ったりとか、したんじゃないの」
なんて。メアリーは知っている。逃避のための恋愛ごっこにつきあう人間なんて、いるわけがないのだ。彼を愛しているならなおさら、近くに居続けることなんてできるわけがない。
「あんまさあ、ふしだらなつきあいしてると」
「ふしだらじゃないわよ、これでも一応毎回真剣に」
「イヴに嫌われちゃうよ?」
ぐっ、と彼は何かを飲み込んだようだった。それから、片方しか見えていない目を伏せる。
「…いいのよ。これがアタシだもん、もとからまともな男じゃないのよ」
その言い方は嫌だな、とメアリーは思う。
でも、これは自分が口を出すことでもないのだろうとも思っていた。
それがいけなかった。

突然ギャリーとイヴの交流が断絶した。
ある日、ひどく精気を失った、粉々になったガラスをただ見るような暗いまなざしの兄が帰宅した。
なにも声をかけることができずに自室へひきこもってしまった兄を見送り、イヴとなにかがあったのだと察した。その日は珍しく彼女が彼を呼びだしていたからだ。
薔薇の影は色濃くなり、季節がひとつ巡り、二つ巡っても、二人は一切の連絡をとっていないようだった。
そのくせどちらもメアリーを通してたがいの近況を知りたがっていた。

二人も、そしてメアリーも動き出すことができないままに、とうとう一年が経とうという頃、ついに兄に尋ねた。イヴとなにがあったの、わたしの親友になにをしたの、と。
「…なにかなんて、できるわけないじゃない。やっぱりアタシがまともじゃなかったって、そう思い知らされただけよ」
いつも饒舌な兄がそれだけを言うと、あとは口をつぐんでそのことには一切触れなかった。
メアリーとしては我慢が効かなくなった兄が襲いかかりでもしたのだろうと半ば確信していたから、肩すかしだった。
(しょうがない…イヴに聞くか… やだなあ、傷口えぐらないといいんだけど)


「からだだけでもいいからって言ったの」
アトリエで、メアリーのイーゼルの前、モチーフ用の椅子に座ったイヴがおもむろに言った。
テレピン油のにおいととろけた日差しだけがそこにあふれていた。「今日は晴れてるね」「花が咲いてるね」というのと同じようにあまりに静かに言ったそれを聞いたときの心情は、メアリーにはとても言葉にできない。絵になら、できたかもしれない。いや、やはりできる気がしない。
パレットナイフをとりおとさなかった自分がひっそりと誇らしくなるくらいには、なにを言ったのかわからなかった。
「……そのとき、ギャリー、怒った?」
「怒らなかった。泣きもしなかった。すごく傷ついたみたいだけど」
それは、そうだろう。あれで乙女な彼だから。いや、わりとひどいつきあいを「恋人」たちとはしているけれど、イヴにだけはそんなことは言われたくなかっただろう。
「なんでそんなこと言ったのイヴ」
「重荷になりたくなかったの」
見に覚えのある言葉だ。
同じだと思って、やはり違うと思い直した。
確かに彼はあえて軽い相手を選んでいたふしがあるし(それでも結局本気になってしまうのだが)、イヴの本気なら受け止めたかというとやはり一歩引いていた、気もする。
与えることを惜しまない彼は、受け取ることに臆病だ。恋人のようなものを作り続けているのだって、イヴが大きなものを与えようとしている予感からだ。
「ギャリーにとって、ひたすら都合のいいものになりたかった」
赤くもえる薔薇はそれでも気高く輝いている。
瞳にきらめくのは、恋の焔だ。
「でも、だめだった…
わたし、ギャリーにならなにをされてもどう扱われてもいいけれど。
そういうこと、絶対できない人だから好きになったのにね」
一年経とうというのに、イヴのこころの時間は止まってしまったかのようだった。ギャリーと諍いを起こしたのが、つい昨日のことであるように鮮やかに彼を想っている。
(イヴってこんなきれいだったっけ)
洞窟の奥で輝くルビーのような、つよくかなしい秘密の輝きは、人を魅了している。誰になんと愛を告げられても、誰にもうなずかないイヴを知っている。いや、ひとりだけだ。ただひとりだけがそこにたどりつける。けれど彼は動かない。
彼女はただ絵筆を走らせ、その焔の瞳をカンバスへうつした。


メアリーの絵筆は何でも描いた。目に見えるもの、見えないもの、風も音も、モチーフの心も、メアリーの心も。

だからあんなものを見ることになった。

猫だって眠る深夜にふと目が覚めた。妙に喉が乾いていたメアリーはキッチンへむかおうとして、物置にしている部屋からなにかの気配を感じた。
そこにあるのはメアリーの画材や彼女が描いた様々な絵画たちだ。ちいさなころから描きためたスケッチブックやエスキスも保存されていて、彼女専用の倉庫部屋ともいえた。
そのなかに、誰かいる。ほんの少しひらいたドアを見ただけでメアリーは確信した。
(おばけとかだったらどうしよう)
自分こそ絵画による怪奇現象出身だというのに、メアリーはそんなことを思う。思いながらも、忍び足でドアの隙間からなかをのぞきこんだ。
はたして部屋の中にいたのはギャリーだった。当然だ、この家にいるのは二人だけだ。
安心したものの、なんでこんな時間に倉庫に?という疑問は残る。だからそのまま見守った。

大きな窓からは満月が青白い光を届けている。
彼は一枚の大きな絵の前に立っていた。その横顔からは、なんの絵を見ているのかもわからない。
長い指がのびて、画布を撫でた。
メアリーの背中が粟立った。
ひどくいやらしい、秘め事を見てしまったかのような感覚。
ゆびさきはいとおしげに何度かカンバスを撫でた。
燃える焔を宿す瞳で。こいびとに触れるように。
「イヴ」
ただ一言が月夜に重く甘く響いた。
恋情を、愛を、両手いっぱいの薔薇の花束を、赤く燃える星の光をすべて集めてしぼりとった一滴のように、ほのおの熱をうつした一言。


なんでも描けるメアリーだが、恋というものはうまく描けない。「これが恋」という概念なんてなくて、それは人の数だけ別の形で存在するし、その人の中でだってくるくると変わってしまう。
メアリーだって恋をしたことはある。
胸を焦がす熱は心臓からからだの酸素を奪い、呼吸もできないほどだった。
欲しい欲しいと叫ぶこころは、自分という迷路にあのひとを閉じこめてしまいたいと泣いた。
そうして恋の迷路を抜けた先にあったとてもシンプルなものを、あのふたりも見つけられればいいと、そう、思った。
だから決めた。
メアリーは一度決めたら行動力もあるし執念深いのだ。


「いつまでも部屋着でいないで、早くそれに着替えて」
フレンチトーストを食べ終えた兄のところに、クローゼットから抱えてきた服とブーツを投げた。
黒のVネックとカーキのパンツ、銀色の金具のベルト、軍靴のようなごついブーツ。兄は自分の容姿に無頓着といってよく、とくにいろいろと隠すようなものを好んで着るし、メアリーが見立てて買わせるものに異をとなえることもない。地味で落ち着くとすら言っていた。
ただの白いシャツ、ただの黒いスーツ、そういったシンプルなものが最大限に彼の魅力を引き出し、地味どころか夜に咲く花のような色を添えることを、彼は全く気づいていない。
「んもー、いいじゃないおやすみなんだから」
「いいからはやく」
「もー、しょうがない妹ねえ…」
「こ こ で ぬ ぐ な」
わかったわ、といいつつ兄は着替えを続行している。
(こいつ自分の見た目に自信ないくせになんでこんなに脱ぎたがるんだろう…)
ためいきをひとつついて、外出用のバッグとコートを手にとった。
「あらでかけるの」
「うん。ちょっと用事いろいろすませてくる。あ、今日の三時のおやつはマカロンだから。紅茶用意しといて」
「買ってきてくれるの?ありがと」
「ちゃんと服着て、家にいてね」
「わかったわ」
いまだ半裸である。
「…あー。あとね」
玄関ドアの前で、兄に背をむけたままで続ける。狭い家だというのにわざわざ玄関まで見送りにきた兄の気配がすぐ後ろにある。
「イヴのことさ、そろそろ許してあげてよ。
あの子も怖がってただけなんだから。ギャリーだってバカなことしてたんだから、お互い様でしょ」
おかしな沈黙が流れた。
いつもならここで根負けしたメアリーが話題をそらすのだが、今日は譲るつもりはない。
フレンチトーストが両面焼けてしまいそうな沈黙のあと、低いささやきがかえってきた。
「…許すだなんて、そんなふうには思ってないわよ」
ふたりの間でイヴの話をするのは久しぶりだった。禁句のようになっていた。メアリーとイヴがいつも会っていることを察しも知ってもいた兄は、それでもなにも言わなかった。
「ギャリーが悪いんだよ。ギャリーがバカなことしてたから、イヴもバカなこと言ったんだよ。最初から「俺の女になれ!」とか言ってればよかったのに」
「誰よそれ。……いえるわけないでしょ。だってアタシ、まともな男じゃないんだから」
「…そうかなあ」
「そうよ」
家族として過ごしてきた思い出のほかに、彼には「メアリーのいなかった人生」があり、それをときおり、遠い昔にどこかで観た映画のように思い出すという。
やたらに自身をまともじゃないと言うのは、そこに何かがあるのかもしれない。兄と妹として過ごしてきた時間だって、平穏だったわけでもないけれど。だからこうしてふたりきり。
「わたしがお金のための絵を描くの、ギャリー、いやがってたよね」
突然変わった話題にギャリーは少しとまどったかもしれない。いつもどおり別の話に流れると思っただろうか。
「…今だっていやよ。ゲルテナの娘がそんなことに耐えられるわけがない…あんたがそうしてる以上、売るのを止めることもできないけど」
やっぱり優しいなあ、と思う。彼自身がひどいことをされているかのような声。
けれどメアリーはそんなふうに思ったことはない。ゲルテナと違い、自分の絵がお金になることに感謝さえした。
「耐えてなんかないよ。全然へいきなの。なんでだとおもう?」
問いかけにこたえはない。そうだろう。これは彼女にしかわからないことかもしれない。だから教えてやった。

「ゲルテナは誰にも愛されてなかった。だから作品への評価をそのまま彼という人格への評価として受け止めて、観る側への注文も多かったし、意固地になったし、結局それをこじらせて死んじゃった。
でもわたしはそうじゃなかったから。だからなんともなかったの」
「…あなたはゲルテナと何が違ったの」
メアリーは少しためらった。恥ずかしい。
今から言おうとしてることは、とても、恥ずかしい。
でも、ここで言うのが、きっといちばん誰にとってもいいことだから。それに嘘なんてひとつもまざっていないから。

「ギャリーが、わたしを愛していてくれたから、だよ」
やばい、声が震えた。
ああでも背中むけててよかった。なんか涙でそう。
メアリーはバッグをきつくにぎりしめて、そんなことを思う。
「だから、わたしの絵は、ただの絵なの。…ただの絵なんだよ」
目の奥が熱くなってきた。でも、まだ終わってない。

「すきだよギャリー。あいしてる。わたしがあなたをあいしてる。
だからもう、まともじゃないなんて言わないで」

いたかもしれない父と母をあわせたよりもっと大きな愛は、いつも彼女のそばにあった。
深海であきらめていた唯一は、どうやら外の世界でだってそう簡単に得られるものではないらしかった。
けれどメアリーは、ずっとずっと、それを与えられ続けた。
見て感じて、心動かされたものはすべて絵にした。だからいつかは、カンバスに絵を描くように、織り上げたものを返したいと考えていた。
そしてそれが今だった。
ずっとおびえてそこから動けず、手のとどく範囲でしかひとに触れようとしない、どこかゲルテナに似た彼の、はじめの一歩の光になればいい。
メアリーのいない人生でついた傷を、メアリーが消してやれたなら、それがいい。
たったふたりの兄妹なのだから。

「メアリー」
背後から腕が回ってきたとおもったら、そのまま抱きしめられた。
(あー…今になって叶うとか…もう)
とうとう涙が一粒、彼の手の甲に落ちた。
でも、もう、これで充分かもしれない。
あいしてる。そこに、嘘は無い。恋の迷路の果てのもの。

「…ギャリー」
「ええ」
「イヴを、許してあげて… それと、ちゃんと、ギャリーの気持ちも、伝えて」
そこに話が戻ってくるとは思っていなかったらしい彼の腕がこわばった。
「でないとわたしが描いたイヴの絵でギャリーが夜な夜な変なことしてるってばらす」
「!!!!???? へ、へんなことってなによ!?」
あはは、と笑って、メアリーはするりとその腕から抜け出した。
それからきっぱりと笑顔を向ける。
薔薇っていうよりヒマワリみたい、とかつて兄がたとえた笑顔を。
「じゃ、そろそろ行くから。服、ほんとにちゃんと着といてよ?」
「え? あ、うん、着とくわ」
「じゃーね、いってきます。兄さん」
ドアを閉める。その細い隙間から、
「メアリー、今」
そんな声が聞こえたけれど、きっちりドアを閉めて走り出した。
彼をまともに兄と呼んだのは、流し込まれた「記憶」にある、ほんの小さなころだけだ。
つまり、はじめてだということだ。



家からいくらか離れたところで電話をかけた。相手はもちろん親友だ。
「もしもし、イヴ? うん、今ひま?よければ久々にうち来ない?倉庫にたまった絵も見てほしいんだ。そうそう。
ギャリー?ああ、ギャリーなら今日は一日うちにいないし大丈夫だよ。すっごいいないし大丈夫だよ。死ぬほどいないよ。
手みやげ? そうだなー…じゃあ、マカロン買ってきて。そう、あの角のお店の。よく合う紅茶、用意してるから。うん、待ってる。
…あー、あとねー、イヴ。ギャリーのことだけど。
ちゃんと告白するのが怖かったのはわかるよ。すっごいわかる。そこ拒絶されたら散っちゃうもんね。
だから軽い関係でもいいなんて言い出したんだよね。それなら傷つかないから。
でもさあ、やっぱだめだよそれ。ちゃんと告白して、一生重荷になるくらいの気持ちを伝えて、それでようやく、なんていうか、あれだよ。
…そうだね、電話でする話じゃないかな。じゃあ、続きはうちでがっつりしようね。
逃げないでね、イヴ。約束だよ」



アトリエのにおいは故郷のにおいだ。
ここが落ち着くという絵描き仲間はいるけれど、彼らとメアリーが感じるそれは、少し意味が違っただろう。
それなりに出入りがある場所だが、特別に鍵をわたされていたメアリーだけが今ここにいる。
(今日は何時くらいに帰るのがいいかなー…夕飯どっかのデリで買って帰ってあげよっかな、三人分)
隅にある棚はメアリー専用で、まだ画布に届く前のエスキス、習作、アイデアスケッチ、クロッキー、そんなものがつまっている。
そのファイルを全部とりだし、奥にかくしていたカルトンを引き出した。いや、出そうとして、長いこと奥におしこんでいたために、うまくとりだせずにひっかかったので、片足を棚にかけて引っ張った。
「わ、うわ」
突然カルトンが抜けて、メアリーはひっくり返った。
宙を跳んだカルトンが開いて、中からたくさんの紙が飛び出した。雨のように花のようにそれらは舞う。
何枚も、何枚もの素描。表情に始まり、腕、肩、背中、足首、指先、あらゆるパーツが納められたそれらは、すべて同じ人物を描いていた。
顔のそばにひらひらと落ちてきた一枚を、何気なく手にとる。
「…あはは」
つい、笑ってしまった。
絵は描き手の心を映す。メアリーは対象の感情や存在を写し取ることもできたが、この素描はどれもこれもメアリーの心ばかりが焼き付いていて、その熱烈さといったら、今見ると笑うしかない。
少しでも絵心があるものが見たなら、いや、そうでなくても、これを見れば一目で見抜くだろう。描き手が、この青年へ心臓を燃やす恋慕をむけていることに。
(照れるなあ、これ… 誰にも見せらんないけど、捨てられもしなかったんだよねー)
観なくたっていくらでも描けた。画家の眼は、恋の瞳は、彼の、見えるすべて記憶した。ていうかしょっちゅう脱いでた。ゲルテナすら魅了したであろう手足を、整った顔立ちを、よく変わる表情を、恋に揺れる瞳さえ。一番近くで一番長く見てきた。イヴよりも。

メアリーは座り込んだまま、散らばる一枚一枚を、いとおしむように、懐かしむようになぞり、手に取り、ふれていった。どれもこれも、むせかえるような熱を彼女に伝えてくる。
恋をしていた。実の兄に。実の兄になった男に。

あの深海から脱出したあと、「ギャリーなんかじゃなくてイヴがよかった!イヴと家族になりたかった!」とさんざん騒いだ。思えば非道いことを言っていた。
おどけたように「失礼ねあんた!」なんて彼は言っていたけれど、その実は、たぶん深く傷つけていた。
いや、傷つけたどころか、海の底では彼を葬り去るつもりでさえいた。
だからこれはその罪への罰なのかもしれないと泣いた夜もあった。
実の兄だ。戸籍も記憶も持っている、血のつながりのある本当の兄。
でも、ほんとうのほんとうは、違うのだ。彼は、兄ではない。彼女自身がそれを知っているかぎり。
メアリーはそのことを、女へと変わる季節に思い知らされた。

妹になんて、なりたくなかった。
おさないころとは違う意味で、この世のことわりを呪った。

「ふたりともアタシのだいじな妹」と言って彼は笑った。
だが「妹」と「妹のような」には天地ほどの違いがある。兄と親友が魅かれあっていくのを、彼女はただ見ていることしかできなかった。
だからふたりが断絶したとき、心の底ではわずかによろこんだ。どちらも失わず、どちらも自分のものにできるのだと。 
(でも結局こんなことまでした…それはやっぱり、結局、ギャリーのせい)
彼に育てられた自分が、彼の目を足を奪うことなどできるわけがなかった。

今頃二人はマカロンと紅茶をはさんで向い合っているだろう。彼はまた泣くのだろうか。きちんと話はできているだろうか。していないかもしれない。そこで帰るイヴでも追い出すギャリーでもないはずだが、もしもろくに話もせずにいたなら何度でも似たようなことを目論んでやる。


イヴとともだちになりたいと強く願った。その願いは聞き届けられた。
姉妹になりたいと願えば、海のなかでも彼を思っていれば、違った結果があったのだろうか。
たとえば、彼と、恋仲に?
ちらりと考えてしまっただけで、心臓が煮えた。
(…だめだ、まだ割り切れてない)
あのころの想いをぶつけた紙の山に囲まれているせいかもしれない。こんなに苦しいのは、ひさしぶりだ。一時は寝ても覚めてもこの感覚にとらわれていた。
指先で絵の中の輪郭をなぞる。いつか彼がしていたように。

焦がれるほどになにかをほしがるなんて、二度と無いと信じた幼い日。兄ができた日。
海の上にはなんでもあって、願いはすべて、叶うはずだった。

きっとこの燃え殻を一生抱えて生きてゆく。

(それでもたぶん、わたしはしあわせ)
手に入らずとも愛は消えないと知ったから。


メアリーには、兄がいる。








「陸の上の人魚」 おわり。


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陸は「おか」と読んでほしい系
メアリーは人魚。



2012/05/31
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