オペラ



「イヴ、何度も言っただろう?おとうさんの書斎にはいっちゃいけません。お仕事で使う大事な資料もたくさんあるんだから」
ごめんなさい、とイヴは言いました。
でも、たぶんやめない、とも思いました。
だってイヴが学校の図書室で借りてもいい本は、こどもの本ばかりなのです。
それじゃいつまでたってもおとなのことばを覚えることができません。そんなの困るのです。
「…言うことをきかなくなったのは、いいことでもあるのかもしれないが…どうして書斎の本を読みたいんだい?イヴ。読めない文字も多いし、難しいだろう?」
「……あのね、おとうさん… あのね、」


「いつもお世話になってるギャリーさんに、どうぞ」
そう言って、おかあさんが差し出したのは二枚のチケットです。
分厚くてざらざらしたぞうげ色の紙に金色の箔とばらのエンボスが押してある、使ってしまうのがもったいないようなとてもきれいなチケットです。
「まあ!お母様、これってば」
ほおに片手をそえて、ギャリーがうれしそうにそれを受け取りました。イヴにはそのチケットがなんなのかはわかりませんでしたが、ギャリーは、とてもゆうめいだけれどチケットを手にいれるのがうんとたいへんなお芝居であること、その「かんけいしゃせき」のチケットであることをきらきらした目とはしゃいだ声で教えてくれました。
ギャリーはいつもいろんなことを教えてくれます。
「んまー、お母様、主演女優のご学友なんですの?まあ…さすがといいますか…本当にいただいても?いえいえとんでもありません!ちゃんとしたオペラハウスなんてどれだけぶりか…」
オペラ。イヴはこっそり首をかたむけました。
目の前にあるこのケーキも「オペラ」という名前です。
ギャリーはいつもイヴのおうちでお茶をするときは、あまいおかしをもってきてくれます。
マカロンであることもあったし、甘く煮た桃がばらの花のように並んだタルトであったり、たくさんのナッツが乗ったパイだったりもしました。すてきなギャリーはすてきなものをたくさん知っていて、つぎつぎにイヴにそれを見せてくれるのでした。
このオペラというケーキは、ガナッシュやクリームやスポンジ、ビスキュイがかさなりあって切り口がしましまになっています。
「こうして縦に切って、ぜんぶの味を口に入れるのよ、ぜいたくなケーキでしょ?アタシこれも大好き!」
すてきなものをひとつずつ知るのも好きでしたが、教えるときのギャリーのおかおもイヴは好きです。仔猫の爪にあまくやわらかく心ぞうをひっかかれるようなその感覚を、イヴはギャリーといるときも、いないときもこっそりどこか奥のところからとりだしてはそっと撫でています。
「是非おともだちと行ってらしてくださいね」
「ええ、そうさせていただきますわ!ああ、誰を誘おうかしら…」
あれ?とイヴは思います。
しごとなかまやおともだちの名前を楽しげにぶつぶつとつぶやいているギャリーに、リボンタイのあたりがもやっとします。
とっても楽しみにしているっぽいのに、すてきな場所っぽいのに、どうしてわたしをさそわないの?
「……あら?なあにイヴ?」
はっ、とイヴは気づきます。
いつのまにかギャリーのおようふくをひっぱっていたのです。右手がイヴのかんがえることと関係なくうごいていたのです。びっくりです。
「あ… ご、ごめんね、ギャリー」
ギャリーといっしょにいると、こういうことがよくあります。こまらせてしまうとわかっているのにやめられないことがたくさんあるのです。
わたしはわるいこになっちゃったのかな、わがままなんてわるいこ。とちいさな胸をいためたこともありました。
でもギャリーとおとうさんはイヴがわるいこになるとすごくよろこびます。ちょっとこっちが引くくらいおおよろこびでイヴのわがままをかなえようとしてきます。それはそれでイヴの別のなやみになっています。
ほら、今も。
「……よーし! イヴ、アタシといっしょにオペラ観にいきましょ!ねっ」
こうしてひょいっと抱き上げて、おひざのうえに乗せて、ほっぺをくっつけてぎゅうっとしてくれます。イヴがいちばんほしかった言葉と腕をくれるのです。
「あら、イヴにはまだオペラは少し早いんじゃないかしら?」
「そんなことありませんわ、イヴは一流の芸術にふさわしい感性のレディですもの!ね、イヴ。アタシとオペラに行ってくれる?」
やさしい笑顔で、ぞうげ色のチケットを差し出すギャリーに、イヴは抱きつきました。
「うん!行く!ギャリーといっしょにいく!」
そんなわけで、イヴはオペラハウスに行くことになりました。


夜のおでかけなんて初めてかもしれません。
イヴはどきどきしながら、おとうさんに車のドアを開けてもらって、そっと降りました。
見上げたオペラハウスは、ライトアップされて、夢のなかの神殿のようでした。なんだかんだいって大きな建物に慣れているイヴも、ちょっとすごいなあと思いました。
今日のイヴは、髪をアップに結って、深紅のドレスと白いレースの手袋、パールのネックレス。ミニチュアのレディです。
おとうさんにエスコートされながら、劇場のロビーでギャリーを探します。今日はとってもおしゃれをしているから、ギャリーもびっくりするかもしれません。
ロビーは真っ赤なじゅうたんがしきつめられていて、たっぷりの花が飾られた花瓶がたくさんあります。
シャンデリアがきらきらとかがやいて、たくさんのお客さんたちを照らしていました。
「ギャリーくんはもう来てるかな?イヴ、どうだい」
「んー……」
モデルさんのような女の人もいます、とてもお金持ちそうな男の人もいます、こどもの姿もときどきありました。
誰も彼もお城のパーティーのように着飾っていて、オペラが始まる前からイヴはいろんな人を見て楽しみました。
ふと、柱のむこうをすいっと歩いていく男の人に目がすいつけられました。
深い夜の色のスーツの上下はすらりとした体によく合っていて、マネキンがそのまま動いていると言われても信じてしまいそうです。シャツのボタンは星のようにきらめく石で、銀色のふちがついています。青いタイには薔薇のもようが透かしてありました。
きらきらの金魚のむれのなかを泳ぐ紺色の魚のような男の人は、よく知っているはずなのに知らない人です。
男の人は、何かを探しているようでしたが、黒いドレスの女の人に呼び止められて、やはり何かを話し始めました。
そこでイヴはもうがまんできなくなって、呼びました。
「ギャリー!」
あまり大きな声にはならなかったけれど、ざわざわしているロビーだったけれど、ギャリーがイヴの声を聞きのがすはずがありません。
ギャリーはこちらを振り向いて、すみれ色の髪を揺らして「イヴ!」と、とてもうれしそうに笑いました。
そしてイヴは倒れました。

なぜイヴが倒れたのか。
それは、おさないからだのキャパシティをこえた、おさめきれるはずもない激しいリビドーの怒濤の洪水のせいでした。
もしもイヴがもうすこしお姉さんだったなら、
「うおおおおおおおおギャリーまじギャリー正装で正当派美青年とかマジ反則オネエのくせになんでそんないい体してんだこの野郎笑顔もかわいいじゃねえかこの野郎その無防備な細腰撫で回して「く…っ」とか言わせたい足長い性的マジ性的小尻もみたいああああくんかくんかさせろhshs!prpr!わっしょい!わっしょい!」
というように、一般的な年頃の女の子ならだれでもやっているような、ごくふつうの脳内祭りでどうにか自分をなだめたことができたでしょう。
けれど、イヴはまだ9才。一気に駆け抜けた衝動に、「はうっ」と小さな声をあげて、よろめいてしまいました。鼻血が出なくてよかったですね。
あわてて抱きとめたおとうさんと駆け寄ったギャリーに
「だいじょうぶ、あの、ちょっとたちくらみ、うん、だいじょうぶ」と返すのがせいいっぱいです。

何度も振り返り振り返りイヴを心配していたおとうさんが帰ると、ギャリーがかたひざをついて目線を合わせてくれました。
いつもそうしてくれているのですが、今日のこの格好でそんなことをされると、なんだかとても。とても。
それだけで頬がぽうっと熱くなってしまいます。
「イヴ、今日もとってもすてきだわ。こんなにきれいなお嬢様とご一緒できるなんてアタシしあわせものね」
「ギャリー、ギャリーも今日、とってもかっこいい。
どうしようギャリー、びっくりしてるの今、わたし、ギャリーのことだいすき。えっと、すっごく好きになっちゃった」
「あらうれしい。惚れなおしたってとこ?」
「そ、それ、たぶん」
ぶんぶん首を縦にふると、うふふ、とギャリーは笑います。
それから片手をてのひらを上に差し出してきます。そっと手を重ねると、ギャリーは手の甲にキスをしました。おそろしいほどこんなしぐさが似合うギャリーです。
「それじゃあまいりましょう、お嬢様。そろそろ開幕だわ」
「……はいっ」


オペラははじめこそびっくりしましたが(なんでいきなり歌うの?踊るの?等)、こっそりおかあさんやギャリーが心配していたのとうらはらに、イヴはとても楽しみました。
舞台の上の物語は本で読むのとまるで違って、魔法のようにくるくると回る世界を、オペラをいっぺんで大好きになりました。
そうして、観客席で、「恋」という言葉をはじめて知りました。
今までだって本や話で聞いていたし知っていた言葉です。
けれど知っているのと自分のなかに落ちるのはまるで別でした。
たぶん、イヴはずっと恋をしていたのです。


「はー、すてきだったわ…お母様には感謝しないとね。
いいわねえ、あんな恋愛してみたいもんだわぁ」
ハンカチで目元をぬぐいながらうっとりとつぶやくギャリーが、今ヒロインとヒーローのどちらに感情移入しているのかはさておき、イヴはその手をとって両手でぎゅっと握りました。
「だいじょうぶ。今日のおしばいもとってもよかったけど、ギャリーはもっともっとすてきな恋、できるから」
「まあ!イヴったら!うれしいこと言ってくれるじゃない、ありがと!」
「うん、まかせて。わたしがんばる」
「? ええ、ありがと…?なんでイヴががんばるの?」

帰りはギャリーの車で送ってもらうことになっていました。
本当は出迎えもしてくれるはずだったのですけど、買い物があるとかで行きはおとうさんのエスコートでした。
ハンドルを握る横顔に、夜のいろんなライトが照らされて、ギャリーの髪をふしぎな色に染めていました。
「ところでイヴ、お父様に聞いたのだけど」
「うん?」
「『ことばがほしい』って」
「……う」

それはつい先日、何度もおとうさんの書斎にしのびこんだイヴがとうとう話してしまったことでした。
『あのね、わたし、もっとことばがほしいの。
もっとたくさんことばを持ってれば、ちょっとずつでもつたえられるのかなって、だから』
ほんとうはもっととぎれとぎれのかけらでしたが、おとうさんが少しずつ取り出してつなぎあわせたら、こんなような意味でした。
イヴはわからない言葉も文字もとにかく追いかけてつめこもうとしたのですが、それじゃだめなんだな、とオペラで知りました。
読めるからといってわかったことにはならない、でも、それならどうしたらいいのかもわかりません。

「アンタは感受性も洞察力も強いもんねえ…語彙が感情の複雑さに追いついてないのね」
「…うー?」
「イヴはすてきな女性になるんだろうなー、ってこと。
あ、着いたわ」

送ってもらって、玄関先でおわかれかと思ったのですが、「実はプレゼントがあるの」とギャリーは車のトランクを開いて、なにやら大きな荷物を片腕に抱えてやってきました。イヴの旅行用スーツケースくらいありそうです。
「もしかして、今日のお買い物って、それ?」
「あたり」
「え、でも、でも、わたしおたんじょうびでもないのにっ」
「じゃあイヴの9才のお誕生日プレゼントってことにしましょ」
「えええ???い、いいのかなあ…」
玄関先でなにげなくそれを受け取ったおとうさんが、「うおっ!?」と叫んでくずれおちました。すごく重かったようです。
「…アタシが部屋まで運びますね」
そういえばギャリーは、見た目のわりに力持ちなのです。
腰を押さえているおとうさんとさすってあげているおかあさんを玄関に置いて(ギャリーはふたりを気にしていましたがイヴはプレゼントのほうがきになっていたのです)、イヴのおへやで「それ」のラッピングをときました。

「……わあ」
きれいな装丁の本が10冊、これもやはりきれいな箱に入っていました。本はすべてが違う色でしたが、並ぶときれいなグラデーションです。こんなにきれいな、宝物のような本を見たのはイヴははじめてです。しかも、ギャリーが選んでプレゼントしてくれた、イヴのものなのです。
思わず一冊ぬきとってみました。表紙は布でおおわれて、品よく金色のタイトルが押されています。ページのふちがおそろいの金色に塗られて、とてもきれいです。めくってみると、教科書よりも少しだけ文字が多いけれど、がんばれば読めそうです。それにとてもきれいな挿し絵と、切り絵細工のしおりが入っています。
「…どうかしら? 「ことばがほしい」っていうあなたのリクエストに、かなってる?」
本に夢中になっていたイヴが顔を上げると、ギャリーが微笑んでいます。ギャリーの笑顔も泣き顔もおびえた顔も大好きなイヴですが、とくに大好きな顔です。
「ことばって、知ってるだけじゃ使えるものじゃないから。ちょっとずつ自分で覚えていくには、やっぱり物語がいちばんいいんじゃないかと思ったの。
この全集のお話は、どれもアタシがあなたくらいの年、か、ちょっと上のときに読んだだいすきなお話ばかりよ。
そのときは、こんないい装丁じゃなかったけど…どうかしらイヴ、気に入ってくれるかし」
最後までいえなかったのは、イヴがギャリーの腰に思いきり飛びついたからです。
ぎゅうぎゅうだきついてぐりぐり頭をこすりつけるイヴを、「あらあら」とギャリーが撫でてくれます。
まただ、とイヴは思います。
気持ちがのどのおくでふくらんでふくらんで、どうしようもなくなって、ぜんぶはきだしてしまいたいのにかけらだってでてこない、それはいつもギャリーといるときです。
ことばがほしい、つたえるものがほしいと強く思うのも、いつも。
うー、うー、と、けものの仔のようにうなって体を押しつけることしかできないイヴを、ギャリーはいつものように受け止めています。
ようやくいくらかおちついたところで、イヴはちょっとずつはなせるようになりました。
「あ…ありがとう… うれしい」
こんなことばじゃとても足りないのに。
「読んだら感想きかせてね?楽しみだわぁ、イヴとお話できるの」
イヴはこくりとうなずきました。

「恋」ということばひとつだって、知っていたのにわかったのはオペラを観たあとでした。
オペラ。金色の切り口はケーキのオペラのようです。
きっと、本をぜんぶ読んだら、イヴはいろんなクリームや、ガナッシュや、チョコレートをかさねるように、ことばをふやすことができるでしょう。
そうしたら、きもちのぜんぶを少しずつかさねてまぜあわせたことばを、ギャリーにつたえられるようになるのかもしれません。







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いわゆるキャプション芸的なあれがやってみたかった…んだけども…物量が足りなかった

2012/05/14
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