さよなら





「寒い」

真っ黒なオープンカーの助手席、長い睫を伏せながら不二子は誰にともなく呟いた。背凭れ越し、後ろ手にきつく縛られた両腕はもう感覚がない。深夜のトンネル、彼女の隣でハンドルを握る女は走り出したときから黙っていた。
他に車は見当たらなかった。当然と言えば当然。こんな真夜中、意味もなくこんな崖っぷちを走る人間は恐らくいない。頬を撫でる風は冷たく、不二子は体を震わせた。

「小雪」

隣の女を呼ぶ自分の声の、そのあまりの抑揚の無さに不二子は少し眉を顰めた。普段なら無意識に猫撫で声を出すその声帯は、もうその役目を果たしてはやれないらしい。
返事は無い。小さく溜め息を吐いて、不二子は目の前の暗闇を見詰めた。

女は冷静だった。不二子を攫い、ここまでくる過程、ずっと。
長い間、決して叶わないだろう想いを、女は不二子に抱いていた。否、今も抱いている。容姿端麗な彼女が射止めるのは何も男心だけではなかった。
とは言え相手は不二子、求愛されることなど日常茶飯事。絞れるだけ搾り取られては捨てられる男を、女は見てきた。それも、不二子の隣で。「あなたは優秀なパートナーだわ」女が気絶させた男の頭を踏み越えて、不二子は女の胸元に縋る。そんなことが繰り返される内、女は学んだ。都合の良い立場でいた方が、彼女は自分を必要としてくれることを。そうあれば、自分が不二子の一番、最も頼りとする人間になれると信じた。
だからこそ、許せなかった。自分と不二子、二人の世界にいとも容易く侵入した鮮明な赤。飄々としたそれは、彼女の腰を抱いてモーテル街へと消えた。「ボディーガードちゃんは待っててね」人懐っこい笑みとそんな台詞を残して。女にとって、不二子を攫う理由には十分過ぎる程だった。

女が何も言わなかったとはいえ、頭の良い不二子のこと、女の胸中は理解していた。こんなことになるのなら弁解すれば良かったんだと、冷え切った脳がしきりに叫んだ。決してあのとき、あのとき以外も、その男に抱かれたことは無いと。
女の感情は察していたのだ。自分に向けられる女の視線は、ただの仕事仲間を見るそれではなかった。そして自分の中の不思議な喜びと、ほんの僅かの利己心。天秤が上がった方を選んでしまった所為で、女の怒りを買うことになってしまった。

二人の考えは一致しなかった。今この状況に至るまでの理由、原因。女を上手く利用してしまったからだと考える不二子、その隣で嫉妬に身を焦がす女。

「小雪」

再び呼ばれた名前には、女は反応した。「まだ寒い?」気遣う言葉とは裏腹に、無表情で運転を続ける。不二子はその形のいい唇を薄く開き、何か言おうとして、止めた。
女がハンドルから片手を離した。たっぷりとした不二子の髪を撫で、ぽつり、零した。「愛してるよ」はと、不二子が目を見開く。胸元に染み渡る様な、甘い感覚に、自らを嘲笑った。

「…今更気付いたって、遅いのよね」

あの不思議な喜びが一体何だったのか。今更。
俯く不二子の腕を、女は解放してやった。真白い肌に濃く残った縄の跡に優しく口付ける。「不二子」顔を上げた、その瞳は涙で潤んでいた。両手で頬を包むと、不二子の手が女の背に回る。無人のハンドルは動かず、二人を乗せた黒が向かうのは、白いガードレール。その先の崖の下、真っ青な海。




「さよなら」






20101010




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -