雛逃げ




いけずな娘よ、何処へ逃げようとも拙者の所有物だというのに」

男の笑い声が聞こえた気がして、女は耳を塞ぎ蹲った。真夜中の空気は冷え切り、女の体温を奪っていく。体は震えるが、何時までも足を止めてはいられない。ゆっくりと立ち上がり、女は再び走り出した。

物心ついたときには、男の微笑が側にあった。毎日何をするでもなく、男の隣にいることが決められていた。男が女から離れるのは精々厠のときくらいで、就寝も入浴さえも共にすることを当たり前とされていた。
女の記憶が正しければ、十のとき。男を訪ねて来た客人と、二人きりで会話をした。「君、おいくつかなあ?」「十です」「ごめんね、君がいるって知ってれば何かお土産買ってきたのになあ。何が好き?」「何、とは」「えーと、戦隊物とか美少女戦士とか…アンパンマン、は何か違うか?」「…申し訳ありません、一つも存じ上げないのです」「え!?まったく箱入り娘だねえ、五ェ門先生ったらもう」「…あの」「外は楽しいよ、ここから出たことないんでしょう」「はい」「外は楽しいよ、小雪ちゃん、君の知らないことばかりだ」何かを企んだ様な、ニタリとした客人の笑みが脳裏に焼き付いている。男がやってきたためそれ以上客人と言葉を交わすことは無かったが、客人の言葉は、その生活が当たり前だった女に確かに影響を与えたのだ。



の裏からちくちくとした痛みが伝わり、女は顔を歪める。見つかるまいと焦って抜け出したため、素足の侭なのだ。枝や石粒を踏み続けた足は血を滲ませていた。月明かりだけが頼りな深夜、鈴虫の音に混じり、時折、梟の鳴き声がする。女は前を見据えたが、広がるのは闇に包まれた竹藪のみ。
一度、ぶるりと体が震えた。寒さのせいでもあるし、もうすぐ自由を知ることができる歓喜からかも知れないし、はたまた別の理由かも知れない。果たして本当に逃げ切ることができるのか、捕まってしまったとき自分はどうなるのか。あの男がそうそう自分を手放さないだろうことを、女は分かっていた。

「小雪」

自分を呼ぶ声が聞こえ、今度は本当に恐怖から体を震わせた。目を見開き振り向けど、女の視界に男の姿は無い。追っ手はまだ遠いのだろう、そう判断し、逃げやすい様にと着物の裾を捲くり上げた。露になった素足に鞭を打ち、走り出した。



く走った。息を弾ませ、後ろを気にしながら、女は走り続けた。足の痛みはすっかり麻痺してしまっている。今にも飛んでしまいそうな意識を、唇を噛み締めることでどうにか繋ぎ止めていた。
莫迦らしい程広い敷地内を、どれだけ女は走ったのか。明け方が近いのか、生い茂る葉の隙間から覗く空は明るみ始めていた。
光が自らを照らすことで、女は理由の無い安心感に包まれた。速度を緩め、ズル、ズル、足を引き摺って進む。ふと、俯いていた女の顔が上がった。その目に映るのは、自分の生きてきた世界と外の世界を隔てる、白い壁。男の支配地の終わり。女から、喜びと安堵の笑みが零れた。もうすぐ自由が手に入る。
「外は楽しいよ」あの客人の言葉が脳内で響く。逃げ切れた。ほんの僅かの、最後の力を振り絞り、壁へと駆けた、瞬間。

「捕らえたぞ」

女の伸ばした手が壁に触れることはなかった。背後から絡め捕られた腕に、嫌と言うほど見覚えのある白い指が絡み付いていた。ひっ、女が息を詰まらせるのを見て、男は高らかに、愉快だと言わんばかりに笑った。
随分と遊んだものだ。女が逃げる様をすぐ後ろで、気配を殺して見詰めていた男。最初から逃がすつもりなど、微塵も。女が只、気付いていないだけだった。
小刻みに震えだす女の体を、男がその胸中とは裏腹に優しく抱き締めた。恐怖からだろう、嗚咽を漏らす女の唇をやんわりと撫でる。

「愛い、愛い雛よ」
「ッあ」
「お前は羽ばたかずとも良い、生涯を此処で拙者と共にするのだ」

涙する女を見て、男は何を思ったのか。力無く項垂れた女の体を抱き上げて、ゆっくりと竹藪へ引き返して消えた。



雛逃げ







(某曲より)
20101009




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