■ 愛と呼ぶには不確定


「おはようございます。早く起きて、百之助」

耳に届いた声で意識が浮上する。腹部に掛かる圧力に息苦しさを感じて覚醒しきっていない頭で元凶の人物の顔を思い浮かべた。舌を打って苛立ちを隠すこともなく起き抜けの掠れている声で小さく呻き声を上げた。窓から刺さる日差しの眩しさで痛む瞼を持ち上げ薄ら目を開きながら自身の上に乗っている女に抗議の言葉を投げた。

「オイ、重いんだよデブ」
「…デブ…やっぱり最近食べすぎでしょうか」

息苦しさの元凶である女、なまえは尾形の腹に跨ったまま落ち込んだように声を落とした。尾形の暴言はもはや挨拶のようなものでそれに深い意味はない。彼女も十分に理解してはいるが時折こうして真に受けた振りをするようになった。
外に立っているだけで汗が滲むような暑さが続いていたあの季節に出会ったなまえは今では一般的な人間としての知識を吸収していき培養液で育てられていた使い捨て人形ではなくすっかり一人の人間として自我を確立出来ている。かといって不安要素が無くなった訳では無いが、この女は人並みに落ち込んだり喜んだりといった人間らしい感情を手に入れて日々成長しているのだ。

「百之助、ごはん食べる?」
「…いらん」
「いつもそう言いますね。朝ごはんは一日の原動力ですよ」
「今度は何の受け売りだ?」
「一般常識?」
「ははっ」

クローン人間が一般常識を説くのか、と口には出さずに笑い声に意を込める。のそりとベッドから起き上がり寝室を出るなまえに続いてリビングへ向かうと出汁の匂いが鼻をくすぐった。長年の習慣のせいで朝は食欲が湧かないため断りを入れたのだが匂いに脳が刺激され空っぽの胃が鳴った。テーブルに並ぶそれらを視界に入れて尾形は前言を撤回した。
共同生活を始めてから日々成長を見せている彼女が著しく頭角を現したのは料理の腕である。

あの日初めて食べたファミレスのハンバーグが美味しかったのだと控えめに口にした彼女は再び店に連れていけと強請るわけでもなく尾形の端末を何やら真剣な顔で暫く操作していたかと思うと徐に立ち上がって口を開くとマネーカードを貸してくれと言った。投げるように渡すと部屋を飛び出して数十分、いかにも重たそうなビニール袋を両手に提げて帰ってきた。まっすぐキッチンに向かって行き冷蔵庫の開閉音が聞こえる。ソファに腰掛けたまま振り向く。もたもたと手を動かしている背中が見え、近づいて手元を覗きこむとパックから挽肉を出して捏ねていた。手際は悪いが尾形の家にあった数少ない調理器具を何とか駆使して時間をかけて作り上げたそれは初めて作ったにしてはそれなりのものだった。自身の料理の出来に何度か首を縦に振りながら顔を綻ばせていたが、しかしこの家には足りない物が多すぎる、と不満げに口にした彼女の表情を昨日の事のように思い出す。そうして日毎に尾形宅のキッチンには調味料や調理器具が増えていったのだ。
なまえに出会うまではコンビニの弁当や冷凍食品を買ったり飲食店で食事をする事が多かった尾形だったが最近では彼女の手料理の方が比率は上がってきた。朝はコーヒーで済ませていた尾形が朝食を口にすることが増え、心做しか顔色が良くなって朝のうちから行動することができているのもなまえのおかげである。

「おいしい、ですか?」
「…まぁまぁ」
「よかった」

柔らかな笑みを浮かべたなまえは満足した様子で箸を手に取った。
絆されている自覚は、ある。暖かな陽だまりのような平和な日常を送っているが、時々尾形はどうしようもなくやるせない気持ちに頭を支配される。そうしてふとした拍子にあの夏の自分が耳元で囁くのだ。俺にはこんな世界は相応しくないのだと、あの女を殺せば惨めな気持ちに侵されることもないのだと、このままぬるま湯に浸かっていては駄目になるのだ、尾形もなまえも、この街では弱味を見せれば取り込まれてしまう。腹の底には化け物がいる。
暗く重くなる思考を散らすように目の前の食事に集中していると彼女が口を開いた。

「今日はどこかに行かれますか?」
「…お前の家を、」
「え?」
「住む所探すか」
「…私は邪魔?」

尾形は答えなかった。黙って箸を動かすとなまえは静かに立ち上がった。
元より期限など決めていなかったのだ。気まぐれに突き動かされて自身の中にも眠っているであろう人間らしさや慈しみをあの女を通して垣間見えることが出来たなら自分の中で何かが変わるかもしれないと、ただ漠然とそう思っていただけで、それを見つけた所でどうするでもない。ただ、この女を背負って歩いたあの日に抱いた気持ちが何なのか知りたかっただけなのだ。そう思ってズルズルと数ヶ月、いつの間にか尾形の隣にはなまえが居るのが当たり前になっていたし、なまえも必ず尾形の元に戻ってきた。まるで決まり事のように自然な流れでそうなっていた。
邪魔になった訳ではない、むしろその逆で尾形にはなまえが必要なのである。しかしそれを口に出すなんてことは到底出来ない事なのだ。誤算だった。共に過した数ヶ月で彼女は尾形の弱味になってしまっていた。奴らに知られてしまえば彼女は奪われ、再びあの残虐な実験に参加させられてしまう、漸く普通の女としての生活を送れているというのに、そんな事が許されていい訳がないという一心で本意ではない言葉を吐き出していた。
気配が近付いて音もなく隣に立ったなまえを見上げると切ない表情で下唇を噛んでいた。

「貴方が私を邪魔だと言うなら私は出ていきます」
「…そうか」
「でも、私は百之助と生きたいと思ったの。だから、そんな辛そうな顔をしないでください」
「辛そう、に見えるのか…」
「とても」
「俺にはお前の方が辛そうに見えるがな」
「それは、貴方と離れたくないからですよ」

大粒の涙がなまえの頬を伝う。尾形は頬に手を伸ばして流れ落ちる滴を無骨な指で拭った。背中に手を回しそっと抱き寄せると応えるようになまえも尾形の背に腕を回した。
触れた所から伝わってくる熱に言葉は無くとも互いが大切だと十分に理解できる。今更この温もりも与えられる優しさも手放してやれるほど尾形は孤独に強い人間ではなかった。頭上から柔らかな声が掛けられる。

「百之助、私は貴方を置いて行ったりしないから、貴方も私を離さないでね」
「…なまえが嫌だって言っても離してやらねぇぞ」
「言いません。貴方とじゃないと意味がありません」
「地獄に行くのは俺一人で十分なんだがな」
「百之助と一緒なら地獄の底までだって着いていくよ」

そう言って一層腕に力を込めて強く抱きしめるなまえに自身の守るべきものを再認識して尾形は彼女の胸に擦り寄った。なまえの温かさと匂いに包まれて今はもう思い出せない程遠い記憶の中にいる自身の母親の面影を感じてこれが愛なのだと言われたような気がした。

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