汲んだ水に溺れた意識
「この国の砂は水のようですね」

 と言うと、クロコダイルさんは不機嫌を絵に描いたような表情を見せた。クロコダイルさんは砂自体で、悪魔の実はこの大男を砂漠の砂に変えてしまったと言う話だ。わたしはその恐ろしい姿を目にしたことは無いけれど、この海でクロコダイルさんの本性を知る人は少なくない。

「水汲みはなさいますか?」
「そんなことは俺の仕事じゃ無エ」
「それもそうです……高貴なイメージにそぐいません」

 葉巻を吸うその息遣いが、いつもよりずっと荒いのが分かる。
 商売の度に何度かお会いするうちに、それがクロコダイルさんの機嫌のバロメーターのようだと感じるようになった。値段交渉でわたしが折れた時や部下が何かの成功を伝えた時、葉巻はゆっくり灰になる。逆にわたしがつまらない話(例えば、いつも大量にお買い上げになる銀の用途を訊ねたとき)を持ちかけると今のようになる。それで分かったことは、この冷血に見える彼も、容姿を褒めると少しばかりか気を好くするということだ。
 わたしは砂漠にどんどん混ざっていく灰を眺めつつも、話を続けた。今日で商売は終わったから、いくら不機嫌にしたって不利益は被らない。

「小さい頃の話です。歯を磨いた後に、お父さんがコップを使わずに手で水を掬って、口を濯ぐ姿に憧れていました。試してみても自分の小さな手では、口を漱ぐほどの水すら運べないんです。指と指の隙間から、ぽたぽた、とか、さらさら、とか、水が零れてしまうんです」
「それと水汲みと、何の関係がある?」

 クロコダイルさんは二本目の葉巻に火を着けながら、わたしを怖い目で見下ろす。

「ああ、水汲みって、手で掬うんじゃありませんでしたね。アハハ、ただちょっと、この国の砂は水のようで、それを思い出したんです」
「下らん」
「素敵だと思いませんか?」

 しゃがみこんでクロコダイルさんの足元の砂を両手ですくう。

「何してやがる」
「足元掬われた気分になりません?」
「益々下らん!」
「アハハハ、そんな、お怒りにならないで。今まで商売をしてきた仲じゃありませんか」

 自分の手は随分大きくなった。目一杯すくって、指の間にはわざと隙間をつくった。全部がさらさらと風に乗って飛んでいく……予定だったのに、何かの塊が残る。先ほどまでクロコダイルさんが咥えてあった葉巻の残骸だと気付くのには時間が要った。だってクロコダイルさんったら、口内まで乾燥してらっしゃる!

「いつまでそうしているつもりだ」
「厭きるまで。わたし、クロコダイルさんとずっとお話がしたかったんです」
「俺はお前と違って暇じゃねエ」
「砂にだって溺れるんですよ」
「……耳がついてねえようだな」
「それと、砂が無いとわたしは生きていけないんです。ほら、水と砂ってこんなに共通点があります」

 耳がついていないなんてことは勿論無いのだけれど、聞かないフリを決め込んだ。どうしてもクロコダイルさんに言いたいことがある。
 恐る恐る立ち上がって、クロコダイルさんと向き合う。首を大きく上に向ける。太陽が高くて、光がいつもより眩しい。

「言いたいことはそれだけか?」
「いいえ、そうじゃなくて、わたしはクロコダイルさんに溺れてしまったようですって、そう言いたいんです」

 ただの商人として、この有名すぎる人に携わってきた。極秘のどうとか言って、いつも一人で抱えられるだけを運んだ。色とりどりの装飾を見ながら、どうして金や白金ではなく銀を買うのだろうとばかり考えていた。高級そうな厚着の上からも分かる葉巻を吸う深い肺の動きや、煌く左の鉤爪、不健康で冷たそうな肌色に浮かぶ痛々しい顔面の傷痕の一針一針をもっと、ずっと見ていたいと願っている自分の気持ちに気付いたのはたった今の話だ。見慣れた海には急に深くなっている場所があるが、そこにはまってしまったのとは違う。泳いでいるつもりがとうの昔に沖に流されていたのに、ふと気付いたときと同じ。知らないうちに、足が届かなくなっていた。
 もうどこにも戻れる気がしない。わたしは、クロコダイルさんをきっと愛している。このまま商船に帰って国に戻って、一体もう一度クロコダイルさんに会える保障がどこにあると言うのだろう。毎朝の新聞の外交欄に、英雄クロコダイルの文字だけを見る生活は、少し前なら当たり前だったけれど、こうなった今、それで満足できるはずが無い。

「要は俺の傍に置いて欲しいってことか? だとしたら気の毒だが、生憎、俺はお前みてえなただの商売人に興味は無エよ」
「そうですか。それは残念です……」
「聞き分けがいいな」

 息遣いが緩やかになったクロコダイルさんは、銀の入った袋を担ぎ上げると、盛大に笑いながら背中を向けようとした。その後姿を拝む前に、一番の決まり文句を横顔にぶつける。

「わたしの売った銀も、きっとあなたの一部である砂のように細やかな粒になるんでしょうね。ばら撒くときは、どうか、わたしに教えてくださいよ。ねエ、賢いクロコダイルさんのお返事を聞かせて?」

 クロコダイルさんの眉間に、ぐ、と皺が寄ったのを見て噴出しそうになった。不機嫌のバロメーターを振り切ったら、一体どんな速さで葉巻を消費してしまうんだろうかと考えていたのに、結果はこれだ。息が止まって眉間に皺が寄る。至極普通の反応と、想像上の非日常さのギャップが、わたしの頭の中で勝手に織り交ざって全てがお笑いに見えた。

「ただの商売人だなんて酷い。犯罪の片棒担がせてるくせに」

 クロコダイルさんは吸いかけの葉巻を投げて砂に埋めた。それから怖い顔のままわたしを睨んで、場都が悪そうに、来い、と放つと大股で歩き出す。ほら、わたしは不利益を被らない。このまま着いて行ったら、この人を悪事から救い出すことも非現実じゃないかもしれない。けれどそんな大それたことじゃなくて、溺れた自分を引き上げて欲しい一心がわたしを占める。
 歩く度に足が砂に埋まる。あの素っ気無い返事の、苛立ちの篭った声に、わたしは完全に溺れてしまったのだ。二度と岸には戻れない。このまま足から沈んでいくんだ。


3:58 2010/07/11
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